西久保 進

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西久保 進

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1197

西久保進は西久保孫八の長男として、明治42年1月20日、大字田中(作出)に生まれた。子どもの頃からひときわ目立って可愛らしく、才気あふれて男らしさがあったと小学校の恩師袋イワ先生は述べている。千金に価する笑顔をもち相当の悪ふざけもするが、誰からも憎まれない天性の人柄の持主であった。佐賀商業学校へ進学し明治大学商学部を昭和5年卒業した。同年10月富士中央保険会社に入社し、おおいに持味の敏腕を振い、認められ同社の札幌支店長、仙台支店長そして大阪支店長ととんとん拍子に要職を歴任した。しかし終戦を迎え世道人心の頽廃(たいはい)を座して見るにしのびず、21年退社し帰郷、慣れぬ鋤鍬(すきくわ)を手にし農村の復興を同志と共に語り合った。昭和24年には大授搦耕地整理組合長に推され、また農地委員としても難問にあたりよく処理した。
県内産業の振興と新しい郷土づくりの情熱は、昭和26年4月選挙に立候補して若冠42歳をもって佐賀県会議員に見事当選を果たした。県会では少壮議員として、また新政クラブの総務として県政に新風を吹き込み、農村の福利増進に貢献した。
昭和28年、東与賀村農協長となって、農村の根を培う教養と、情報伝達の農村有線放送に着手して農民の知性を耕し、新佐賀段階の米麦増産に力を尽くした。特に酪農については昭和31年、グリコ乳業を設立し、乳業資本と農村資本の組み合わせに成功し農村酪農は飛躍的に伸び、また安定した。翌32年佐賀県酪農連合会を組織し初代会長に就任、集荷の一元化を図り県酪農史に不滅の金字塔をとどめた。水利面では八田江淡水導入土地改良区を設定して代表監事となり、用水確保を完全に成し遂げたのである。

出典:東与賀町史p1259