碇 善夫

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碇 善夫

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1190

碇善夫は明治21年10月、辨吉とテイの長男として大野に誕生した。少年時代から軍人を志望し県立佐賀中学校・陸軍士官学校を卒業して、明治42年には早くも歩兵少尉に任官した。直ちに第七十二連隊付となったが、その頃から日支・日露の風雲が急となり青島や浦塩港等の警備にあたった。それらの功績により大正9年11月には勲五等双光旭日章の栄に叙せられた。
彼は寡黙・謹厳の真面目一辺倒であり、責任感も極めて旺盛で祖国のために滅私奉公の誠を貫くという、正に典型的な軍人であった。かくて大正15年には歩兵少佐に昇進し、昭和7年2月混成第二十四師団歩兵第二十四連隊第一大隊編成の下令によって、その大隊長を命ぜられた。この頃上海郊外の廟行鎮で鉄条網を爆破するという工兵隊「肉弾三勇士」の忠烈悲壮なる戦死があった。昭和12年には大佐に昇格した。
その後久留米連隊区司令部員となって帰還したが、戦局の拡大にともなって再び同16年10月には臨時召集を受け、香港・タイ国・シンガポール・スマトラ等の軍事施設整備隊司令官となった。ところが同17年6月ミッドウェーの大海戦後は主導権を米海軍にとられ、ガダルカナル島をはじめ南太平洋の島々での激戦で、漸次敗北へと追い込まれた。遂に同20年8月敗戦となり、彼は召集解除され故郷の大野に帰省し、間もなく佐賀市へ住居を移した。その後病床に伏していたが、27年2月8日死去し日本軍人として輝かしい全生涯の幕を閉じたのである。

出典:東与賀町史p1251