倉永 辰治(ときはる)

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倉永 辰治(ときはる)

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1189

倉永辰治は明治21年7月13日、立野の袋武辰(たけとき)の次男として生まれた。(袋正美の実弟)与賀高等小学校から佐賀中学校に学び更に陸軍士官学校から陸軍大学と進んだ英才である。陸軍中尉時代に厳父の実家馬術指南の倉永勝太郎の跡を嗣いだもので、少年時代から乗馬が巧みであった。小学校へは4歳で入学したので、学校から帰ると母堂の乳房にすがっていたという。また親思いで中学時代は暇を見ては母堂の繭の糸紡ぎの手助けをよくしたものである。
大正13年1月、青年将校の辰治は、複葉の陸軍機で空からの郷土訪問をして、低空で立野上空を旋回した。村人は総出で空を仰ぎ迎えた印象を今も語り彼を偲んでいる。
陸大卒業後、第五十九連隊の中隊長、第二十師団、第十一師団参謀や陸軍歩兵学校の教官を経て、昭和10年歩兵大佐に昇任、翌11年歩兵第六連隊隊長となり牡丹江に駐留している。いったん名古屋に帰還したが、戦火は拡大して中支に及び、倉永は部隊長となって、決死の上海敵前上陸を敢行、昭和12年8月22日、大成功をおさめた。しかし敵の真ただ中であり、8月29日は昨夜来の大夜襲を反撃につぐ反撃でこれを撃退したが、敵砲兵陣地からの砲撃は猛烈を極め、間近に落下した1弾に胸部貫通の重傷を負った。部隊長はなおもひるまず軍刀を杖に指揮をとり前進したが、遂に壮烈無比の戦死を遂げた。非常に厳格な一面、軍服を脱ぐと無邪気で部下思いの部隊長だったが、部下と枕を並べて戦死した。小学時代「君の将来は」と恩師に問われ、言下に「軍人になる」と答えた辰治少年は父祖伝来の葉隠魂に生きた人物である。部隊長重傷の報に銃後では全快を祈る間もなく、遂に江南の土と消えた。軍人の本懐とは言え、なお惜しまれてならない。英魂の安からんことをお祈りする。葬儀は佐賀市葬で行われ、実家の袋家には弔問の客が後をたたなかった。

出典:東与賀町史p1250