嘉村 達次郎

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嘉村 達次郎

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1184

明治12年11月6日、父卯七母トメの長男として下飯盛に誕生した。軍人を志望して陸軍士官学校へ進学し、同35年には歩兵少尉歩兵第二十四連隊に配属され、同44年には大尉に進級し熊本陸軍幼年学校の生徒監となった。大正11年には仙台の陸軍幼年学校長に補せられ、同13年金沢連隊区司令官、昭和5年8月には早くも少将歩兵第三十九旅団長(朝鮮平壌)に昇進した。
この頃奉天の柳条溝で満洲鉄道の爆破事件が発生し、日中両国軍が衝突して遂に満州事変が勃発した。
つまり当時中国東北辺防軍司令の張学良とわが国関東軍との戦いであるが、その頃の事変記録に「昭和6年12月嘉村達次郎少将の指揮する混成第三十九旅団は30日打虎山に入り、翌日には溝帮子に着き多門中将の率いる第二師団と合流した。翌7年1月1日関東軍参謀は『錦州占領』の命令を出したが、張学良はなぜか自発的に撤退したので、ほとんど戦うことなく錦州を占領した」とある。
彼は昭和9年には年齢57歳にして除隊となり、輝かしい軍功を残して退任した。性格は厳格で端正・沈着で寡言その鋭い眼差しと頑健な体躯は、典型的な武将の風貌であった。しかも颯爽たる軍服の胸中には優しさと温情味が溢れ、弱きを助け部下をいたわる武士の情がこもっていた。柔和な白い髭がほころぶと小さい幼児もなついて彼の膝へもたれ遊んだという。
終戦後佐賀市多布施小路に新居を構え、妻のただと共に悠々自適の余生を送っていたが、昭和38年2月胃病を患い83歳の高齢で静かにこの世を去った。

出典:東与賀町史p1244