山田 八郎

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山田 八郎

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1183

明治11年1月29日山田清八・ワキの長男坊として、中割に産声をあげた。陸軍要塞砲兵射撃学校を卒業したが、除隊後の大正5年11月には本村の助役に就任し2期を勤めた。その直後森川仁四郎村長の後を受けて、大正13年10月第9代村長の座につき、自来5期20年の長きにわたって、本村の政治・産業・教育等の進展向上に一身を捧げた。
彼は勤勉誠実・元気潑剌で、竹を割ったような気性と誰にも負けぬという気魄を持っていた。頭脳も極めて明敏で緻密、村民に対しては公平無私と清廉潔白で貫き、自治行政の首長として実に得がたい人物であった。彼の村長時代は大正末期から昭和前期の頃で、いわゆる「明治」から「昭和」へのかけ橋ともいうべき期間であった。つまり明治文明の開花以来日本の近代化がひた押しに押して来た時代、農業立国から工業国への前進と、陸海空軍の軍備増強へ方向づけられる時代であった。当時関東地方は大地震の惨害に襲われて昭和の金融恐慌を招き、普通選挙法・治安維持法・婦人参政権等で国内は騒然としており、一方外では蘆溝橋で日中両国軍の衝突から不幸にも全面戦争へ突入していったのである。この最も困難苦労の時代に、彼は本村の自治行政を担当して誠実に強力に押し進めたのであった。その主なる業績を列挙したい。
1.本村歴史以来の大事業である「大授搦」の干拓を完成した。これには原作一翁の発願達成の努力と功績もあったが、山田村長は彼と全く同心一体となり、調査研究・情報提供や関係方面にも働きかけ、第1工区・第2工区・第3工区と昭和6年12月までに総面積合計300ヘクタール余を見事に完成したのである。しかもこの大授搦に欠くことのできない水利問題に関しても、既に当時より「北山ダム」建設を佐賀郡本庄村長江副九郎等と話題にし計画を立てていたという。その着眼と識見を高く評価するとともに先見の明を忘れてならない。
2.教育環境づくりに専念した。
昭和5年7月暴風雨のために、小学校校舎・中央廊下・農具舎等倒壊した。同時に家事室より火災を起こし、3教室を焼失したが、速刻に村議会を開き復旧工事案を協議可決し、翌年には焼失校舎の再築はもとより新たに立派な武道場をも新築した。
当時学校には奉安殿が無かったので、中野辰男(中野実の長男)に働きかけ、その寄贈により現在の忠魂碑付近に新築した。更に講堂(198坪)と校舎6教室・廊下・便所等をも新築して、学校規模の拡大と内容充実に努力した。
3.特に産業振興と銃後の護りに挺身した。戦争の拡大と共に政府は大政翼賛会や銃後奉公会を作り、精神作興週間や経済更生運動を呼びかけた。彼は当時農協専務の増田嘉一と協力提携して、米麦の増産は勿論副業としての藁細工・叺織り等全村を挙げて奨励した。昭和12年国民精神総動員法が実施されるや、婦人会・青年団・小中学校生徒まで一丸となって、遺家族慰問・共同炊事・貯蓄運動等にも精出した。更に戦争の激化に従って、食糧管理法や衣料切符制となり、砂糖・米・みそ・木炭・マッチまでも配給制度となったが、この非常事態に即しただ困苦欠乏に耐えつつも銃後の護りを堅くした。これらの功績により昭和13年自治功労・勲六等瑞宝章を受け、愛国婦人会三等有功章・県産業組合中央会や村社会事業・郡農会・日本赤十字社等数えるにいとまなきほどの表彰の栄誉に輝いたのである。

出典:東与賀町史p1242