原 作一

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原 作一

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近世
■登録ID1179

原作一は慶応3年(1867)3月3日、藤蔵・とめの長男として作出に誕生した。当時原家では水田3ヘクタールを自作していたが、他の農家は1ヘクタール程度の小経営が多く、米麦依存の営農で生産はあがらず、その価額も不安定のために農民の生活は貧困にあえいでいた。特に大正10年頃は電気灌漑の導入による余剰力の問題と、二・三男の分家による経営農地の零細化問題で、どうしても農家の経営する耕地を拡大せねばならぬという、つまり干拓事業の必要性が考えられる時期であった。
原が干拓を思いたったのは遠く明治26、7年頃で、先ず自費で干拓構想図を作製し、それにもとづいて「潟ソリ」に乗り調査するとともに、潟土を自宅に持ち帰って研究を続けた。また床屋・役場・学校等村内で人の集合する場所には隈なく出席して、干拓の重要性を説明したり訴えて協力を求めた。最初は問題にされず「干拓狂」と冷笑されたり、精神異常あつかいを受けたりした。併し順々と村の現状を憂え干拓後の未来を説く原の熱情は次第に人を動かし、ついには山田八郎村長が動いて大正14年に設計を終わり、公有水面埋め立ての許可を得、組合員735名をもって「大授搦耕地整理組合」を設立した。かくて翌15年5月10日当村小学校講堂で盛大な起工式を挙げ、いよいよ大授搦干拓工事が槌音高く鳴りひびきその第1歩を踏みだしたのである。
工事は3期に分けて実施されたが、先ず第1工区は昭和3年11月に、第2工区は同5年11月に、第3工区は同6年12月に陸地となり、大授搦干拓の大事業は見事に完成した。総面積は合計313.7ヘクタール、総工費は160万5.000余円に達したのである。干拓地は初め頃ワタ作りをやったが塩分が強くて成績が悪く、その後西瓜の栽培を始めたところ甘味満点で意外な収益となり、潮止めから5年後は成績も順調で、背後地の普通田と同様な実績を挙げるようになった。
原は、干拓事業の着工と同時に家業を顧みるひまもなく、そのため家計も不如意がちで、親類縁者はもちろん近隣知己も心配して「干拓も必要だろうが家庭も大切じゃないか」と忠告された。併し反対に「俺は5ヘクタールほどの耕作田があるから、家族は十分生活もできる。それができないなら妻の資格がない」と言って、夫人と顔見合わせて微笑したという。また干拓地完成後の田地の配分についても、功労者として優遇の措置を組合員全員が申し出たが、原は厳として受けなかった。「自分が干拓を思いたった動機は、現在の農民生活を考え将来の農業を予想して、各農家の耕地を拡大することだ。決して自分のためにやったのではない。だから組合員が皆んなで公平に分配すべきである」と強調したらしい。こうして全部の土地は持ち分の出資口数によって公平に配分され、世間によくある利欲にからんだ紛争もなく、和気あいあいのうちに処理配当されたのである。現在子孫が農業を継いでいるが、大授搦に10アールの耕作田もないことは、前述の事情を物語るもので、いかに彼が欲得利害に迷わず、清廉潔白な人であったかが立証される。
この大授搦干拓は、着工から竣工まで約5年7か月の間順調に進行し、1回の失敗もなく工事に関係した幹部も人夫も人の和が最高度に発揮された事業であった。広びろとした干拓地は春の緑り秋は黄金の穂波が延々と輝いて、まさに東与賀町きっての穀倉の大宝庫である。

出典:東与賀町史p1236