搦の寺子屋

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搦の寺子屋

■所在地佐賀市東与賀町搦
■年代近世
■登録ID1132

搦の村落にも寺子屋があった。場所は現在の田中氏宅の西隣りで、海苔の乾燥小屋、これが昔の塾であった。教師はその当時仁戸田(にえだ)勝次(享)先生で、教えを受けたのは田中惣三郎・田中和吉等である。主に漢字や片仮名の書き方を習い、慶応時代(1865〜1868)が一番盛んであったらしい。
この塾のお蔭で村落内は勿論東与賀村内の子供たちは仲間意識が強くかつ親密であった。当時八田江を挟んで搦と川向こうの広江の子ども同志は、年間を通してよく喧嘩をした。両軍は堤防に陣取って、初めは口げんかからやり出しついには瓦や石ころ・泥等を投げ合っての銃撃戦ともなるのである。
初めは少人数のせり合いであるが、両陣営ともに応援隊を狩り集め、東与賀では中割の故村山健次(元村会議長)が総大将となり、川副組では広江の故原田栄一が総指揮官となって、何十、何百人に近い学童達がはでな喧嘩をやったという。これも物の投げ合いから後には濁流を乗り越えて、素裸のままに投げ合いなぐり合って決着をつけたらしい。今日の児童・生徒のじめじめした少年非行とは異なって、勇敢な男性的な運動遊戯とも言えるのである。

出典:東与賀町史P1183