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[旧佐賀市][勧興校区]は149件登録されています。
旧佐賀市 勧興校区
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鏡圓寺
唐人町の鏡圓寺(浄土宗)は、唐人町の始祖、李宗歓一族及び鍋島更紗の創始者、九山道清の菩提寺である。 李宗歓は、天正15年(1587)郷里(現朝鮮民主主義人民共和国)の海岸で舟遊びに興じていた折、突然の旋風により船が破損し、日本(現北九州市)に流れ着いた。天正19年(1591)、大宰府にて鍋島藩家臣龍造寺家晴と成富兵庫茂安と出会い、これをきっかけに佐賀城下へ赴いたところ、藩主鍋島直茂にその才を見込まれ、重用されることとなった。『葉隠聞書』や『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』によると、朝鮮遠征に同行した帰途、宗歓は主君の命を受けて陶工を6~8人連れ帰り、陶器の製造に着手した。直茂公は慶長4年(1599)、宗歓が連れ帰った高麗人などを佐賀城下の十間堀川以北、愛敬嶋村に住まわせ、唐人(異国人)の住む町「唐人町」と名づけた。宗歓は、唐物の繊維品、陶器類、金物類、海産物、荒物など日本にない珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人が集まって、今日の唐人町の基礎を形成していった。 九山道清は、『更紗秘伝書』ならびに『江頭家系図』によれば、慶長3年(1598)、直茂公が朝鮮遠征より帰国する際に連れ帰った高麗人13人のうちの1人である。道清は漢方医の家柄の出であることから、製薬の技法にも優れていた。漢方薬の原料となる薬草は染料となる植物としばしば同一のものであり、それらの高価な材料が、宗歓の海外貿易により比較的容易に入手できたことが、鍋島更紗の創始、発展に重要な役割を果たした。 『鏡圓寺縁起』によれば、唐人町に居住していた数十人の高麗人について、帰依する仏寺が必要になった(島原の乱以降は、宗門改めが特に厳しくなった)ため、寛永3年(1626)、鍋島勝茂公の姫付老女、秀島源右衛門の母の願いにより、鏡圓寺が創建されたとのことである。 左側の写真は李宗歓の墓碑である。
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旧嬉野家の武家屋敷の門(薬医門1棟)
重要文化財
杵島・藤津地方を中心に勢力を持っていた一族で、古くは白石氏を名乗った。同氏が歴史の表舞台に現れたのは13世紀の蒙古襲来の時であり、肥後の御家人竹崎季長を助けて奮戦、その様子を描いた『蒙古襲来絵詞』にも白石六郎通泰の名で描かれている。 佐賀藩政期になると家臣団に組み込まれ、正保や慶安の御城下絵図では、片田江竪小路1番(現在の松原神社門前)に嬉野与右衛門の名が見受けられる。明和8年(1771)の「屋敷御帳控」によると、初出は文化6年(1809)正月で、嬉野与右衛門が南御堀端小路13番に屋敷地を得て文政2年(1819)5月まで居住した後、天保3年(1832)6月に現在地である松原小路4番に移っている。 屋敷地は、約30間四方と広大であり、西側は北堀端に移転拡張する前の最初の藩校弘道館敷地に隣接する。小路沿いの南面に門を構え、主屋は屋敷地の中央よりやや北側に配置されていた。この門はかつて「中門」と呼ばれ、さらに東方に配置された長屋門が屋敷の正門であったと伝えられている。 この武家門の形式は薬医門で、三間一戸、切妻造、本瓦葺である。本柱に冠木を載せ、女梁を載せ、男梁を支えて、控え柱と繋ぐ。小屋組みは束を建てて貫で固め、棟木、桁を載せて垂木を配る。中央に一間の両開きの板戸をいれ、両脇は板壁としている。中央一間の柱の見込みは薄く、背面に一筋の鴨居が残され、元は引き分けの引戸であったことが判る。妻飾りは拝み懸魚が付き、屋根本瓦葺きの鬼瓦には「水」の字が入る鬼瓦を載せている。女梁先は簡単な渦目の絵様とする。 この武家屋敷の門の正確な建築年代は判明していないものの、門の内法高が低く古い形式を呈しており、城下町佐賀における貴重な建築遺産といえる。
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徴古館
登録有形文化財
徴古館は、県内では初期の本格的な鉄筋コンクリートの2階建て洋風建築物で、昭和2年(1927)に竣工しました。場所は、佐賀城の北堀端、藩校弘道館跡地にあたります。徴古館一帯は、大正2年(1913)に鍋島直正と古川松根の銅像が建立されて「銅像園」と呼ばれ、また園内北西には佐賀図書館が建てられ、文教振興の象徴として大切にされてきました。 徴古館外観の特徴である正面ファサードは、ギリシャ復古主義の列柱様式をとり、車寄せの列柱は、2本1組のふき寄せで、わずかにエンタシス(胴張り)を持っています。 徴古館は、鍋島家の意志に基づき、同家所蔵資料を中心に展示公開する博物館として建てられたもので、佐賀における最初の博物館施設として先駆的な役割を担った建物でもあります。昭和15年(1940)以降、その運営は鍋島家により設立された財団法人鍋島報效会に移されました。その後、昭和20年(1945)の佐賀連隊区司令部による接収などを経て、昭和30年(1955)から佐賀県に建物と資料を貸与して佐賀県文化館として再開しましたが、昭和45年(1970)には展示公開を休止しました。 平成9年(1997)、徴古館は国の登録有形文化財に登録され、以後、郷土を代表する歴史博物館として市民に親しまれています。令和3年(2021)には、地域を象徴する貴重な建造物として、「22世紀に残す佐賀県遺産」に認定されました。 (写真:公益財団法人鍋島報效会提供)
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紙本墨書東遊歌神楽歌 一巻
重要文化財
東遊歌(あずまあそびうた)とは関東から東海道の一部を含めた地方の風俗歌で、「三代実録(さんだいじつろく)」の貞観(じょうがん)3年(861)3月14日の条に倭舞と東舞の記述があるが、大和地方の倭舞とならんで祭礼で一定の方式で奉納されるようになった。 この本の東遊歌に続いて記されている神楽歌(かぐらうた)は、もともと神前で奉納する楽舞であるが、その中でも宮中で奏される特定形式の神事歌謡を集めたものである。宮中向きに歌詞や曲調の構成に工夫したものであり、この宮神楽は宮中の清暑堂で奏されたが、長保4年(1002)からは内侍所(賢所)の前庭において奏されるようになった。当日夜になって篝(かがり)火をたいて、神をお迎えする歌舞から始まり、ついで神をなぐさめ、人も楽しむ歌舞が主要部で、最後に神を天にお送りする歌舞が、夜が明けるころに終わるという構成になっている。一夜を歌い舞うので歌の数も多い。 鍋島家本は東遊歌と後に神楽歌を採録してある。字体は万葉仮名を主とし、古い平仮名字体も交える。共に平安時代後期の写本であるが、他本との歌詞の異同・各詩の唱法及びその作法等の記載が多く、奉納の順序が整然と記載されており、優れた資料的価値を持つ。 (写真:鍋島報效会提供)
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松浦山代家文書(六十六通) 二巻
重要文化財
山代氏は、西松浦郡山代(伊万里市北西部)を根拠とした松浦党の一族であって、松浦山代氏系図によれば、松浦党の祖、源久の孫圍に始まる家である。圍12世の孫、貞は幼名を虎王丸といい、ついで弥七郎、のち喜左衛門尉茂貞と名乗った。天正7年(1579)に龍造寺隆信に従い、隆信没後、鍋島氏に属して、杵島郡葦原に知行2,250石を与えられ、鍋島の姓を許された。 文書は鎌倉初期から南北朝末期に至るもので、「六波羅施行状」「大宰府守護所下文」「関東下知状」「関東御教書」など一連の文書は山代氏が松浦地方における有力な御家人であったことを裏づけるもので、内容は所領についての相論(土地に関して両当事者がおのおの権利を主張し、訴訟して争うこと)などである。また、正応2年(1289)「蒙古合戦勲功賞神崎庄配分状案」では、蒙古合戦で奮戦した山代又三郎栄が、神埼庄竹村などに十町の配分を受けたことがわかり、九州在地の武士として活躍していることも知られる。文書は総数66通が2巻の巻子本に仕立てられている。 (写真:鍋島報效会提供)
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深堀家文書(三八六通) 九巻
重要文化財
深堀(ふかぼり)家は上総国(かずさのくに)の後家人である。建長7年(1255)一族の能仲が肥前国彼杵郡(そのぎぐん)八浦(現長崎市深堀)に地頭職(じとうしき)を与えられた。蒙古襲来後、異国警固番役(いこくけいごばんやく)に備えるため、この地に土着、以来一族はこの地方に繁栄して近世初期に至った。豊臣秀吉が九州入りすると、一時これに従ったが、のち鍋島氏に属してその宿老(しゅくろう)となった。 文書は、大部分が鎌倉・南北朝期のものである。内容は東国後家人の西国下向(げこう)の実態・その活動・定住後の軍事行動・恩賞配分(おんしょうはいぶん)等を最も詳細に知ることができるもので、正応2年(1289)の「蒙古合戦勲功賞肥前国神崎荘配分状」によれば、蒙古合戦の恩賞として神埼に三町を配分されたことが、細かい坪付(つぼつけ)とともに分る。建武3年(1336)の「深堀時広軍忠状」では豊後の玖珠(くす)城攻めなどにも参加しており、その行動範囲は広い。また、南北朝期には勲功賞として「肥前国宇礼志野(嬉野)」などに地頭職を与えられている。この外関東御教書から足利尊氏・その子直冬(ただふゆ)・一色道猷(いっしきどうゆう)…豊臣秀吉に至るさまざまな文書により在地の九州の武士と中央政権との係わり方を見ることができる。 (写真:鍋島報效会提供)
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催馬楽譜 一冊
国宝
催馬楽(さいばら)は、もともと平安時代初期に民間で広く歌われていた古代歌謡のひとつであったが、やがて貴族の間に取り入れられ、その後宮廷において広く用いられるようになり、譜の撰定も数次にわたって行われ、旋律も不定であったものが、平安時代中期には律(りつ)・呂(りょ)二種の旋法に固定化した。 本書は鍋島本といわれるもので、縦25.5センチメートル、横16.7センチメートルの和綴本で、飛雲文様のある料紙に押界を施し、首に律・呂の順に拍子と段数を記した目録を掲げ、続いて引声(いんじょう)・拍子を加えた本文を記している。目録には、呂歌三十六首と記すが、現在は呂歌のうち真金吹(まがねふく)、此殿者(このとのは)、此殿乃の全部と芦垣の後半、山代の前半を欠く。半葉七行ずつ、万葉仮名を用いて温雅(おんが)な楷書にて一筆で写されている。平安時代後期の書写とみられ、催馬楽古写本では最も古いものである。 (写真:鍋島報效会提供)
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紺紙銀字法華経 八帖
重要文化財
この法華経(ほけきょう)は、朝鮮半島高麗(こうらい)時代のものである。中国や朝鮮半島の法華経は、7巻本が通例であり、この法華経は高麗写経の中では、極めて珍しい8巻本である。 表紙及び裏表紙には、金銀泥(きんぎんでい)で宝相華唐草文を描き、見返し絵は、金泥で巻第1は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)、第2から第7までは多層宝塔、第8は菩薩半跡像(ぼさつはんかぞう)を描いている。巻第1の釈迦説法図は、大東急記念文庫所蔵の中国元時代の法華経に酷似している。 経文は、銀字で1行17字詰めに整然と書く。 第8巻の奥書に、道人玄哲らの発願により、壬申(じんしん)の年制作されたことが記されている。見返し絵の作風などから、干申の年は朝鮮半島高麗時代の忠粛王復位元年(1332)と推定されている。 この法華経は、確認される高麗写経のなかで8巻本法華経唯一の遺例で、特異な図様の見返し絵、経文ともに優れており、また、大変によい保存状態である。 また、東アジアにおける経典見返し絵の変遷を考察する上で重要な作例である。 当地に多く伝えられる、文化的特色をなしている高麗時代の仏教美術を代表する作品である。 (写真:鍋島報效会提供)
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紺紙金字法華経 七帖
重要文化財
表紙には宝相華唐草文を金銀泥(きんぎんでい)で、見返し絵は釈迦説法や経典内容を金泥で描いている。経文は、金界線を引き、1行17字詰めの金字で書く。経帙は近世の後補であるが、題箋(だいせん)は当初のものである。金剛杵をかたどる象牙の帙(ちつ)留具も当初からのものである可能性が高い。 見返し絵は、極めて謹厳な筆致により細密に描かれていて、経文も力強い。高麗の宮廷工房である金字院の制作の可能性も考えられる。 第7巻の奥書により、至元6年(1340)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことがわかり、施主と幹事の名も記される。また,それに続く別筆の施入銘からは、対馬を通じて高麗と交修していた少弐頼尚(しょうによりひさ)が正平12年(1357)に太宰府天満宮に寄進したことが知られ、さらに後に続く再施入銘により尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663)に枝吉利左衛門により修理再納されたことがわかる。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても重要である。 (写真:鍋島報效会提供)
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青漆塗萌黄糸威二枚胴具足 一領
重要文化財
初代佐賀藩主鍋島勝茂(1580-1657)が着用した、総体青漆(せいしつ)塗の当世具足。兜高29.0センチメートル、胴高45.0センチメートル。青漆とは漆に石黄(せきおう)等を混ぜて青緑色に発色させたもので、桃山時代以降の甲冑にまれに見られる。兜は桃の実を象った桃形兜(ももわりかぶと)で、古様な杏葉紋の前立(まえだて)をつける。桃形兜は西洋の兜の影響を受けて作られた変り兜の一形式で、桃山から近世初頭にかけて佐賀藩をはじめ福岡藩、柳川藩など九州各地で特に多く用いられた。兜の後ろにさがるシコロは日根野形(ひねのなり)という、江戸時代初期の好みを反映している。 胴は鉄板に漆で小札(こざね)の刻みを盛上げて本小札のように見せた切付盛上(きりつけもりあげ)小札の板を上下に連ねて固定し、左脇の蝶番で開閉して着用する二枚胴である。後補・別物の箇所がいくつかある。 具足の胴裏に記された金泥銘、「鎧記(よろいき)」により、寛永14年(1637)島原の乱の折に勝茂が着用し、その5年後に末男直長(1628-1693。明暦元年に神代家の家督を相続)に与えられたことが分かる。また、附の「鍋島内記茂生書付」(我家所蔵鎧)により、その後は直長の息子茂真に始まる鍋島内記家(親類。茂生は内記家6代、1821-1846)に幕末期まで伝来したことが分かる。 近代以降の経緯は明らかでないが、附の鎧櫃に「永田町 侯爵鍋島家」との貼紙があることから、遅くとも永田町の鍋島本家の邸宅が震災により崩落した大正12年までには本家に所管が移っていたことが分かる。 (写真:鍋島報效会提供)
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蒸気船雛形(スクリュー船)一隻
重要文化財
佐賀藩精煉方で製作された蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー2隻のうちのスクリュー船である。長さ99.0センチ、高さ67.0センチ、幅22.0センチで、外輪船同様、蒸気機関や動力伝達装置などは銅、真鍮などの金属で作られているが、船本体は木製である。 近年の調査で、内部の構造や材料等について明らかになってきた。それによると外輪船同様に汽罐内に煙管が施されているが、その構造はより複雑なものとなっており、より高い熱効率が実現できたと思われる。蒸気機関と推進駆動軸との接続はピストン・ロッドとコネクティング・ロッドを一体化したオッシレイト・エン.ジン(首ふり機関、揺筒機関)となっており、この機関は当時日本に輸入された欧米の文献に表れた最新の技術である。このようにスクリュー船は蒸気車、外輪船との動力・推進機構部などを含めた内部構造の比較から、蒸気車一外輸船一スクリュー船の順で技術進歩の段階を経ていることが推定され、貴重である。 国産初の蒸気船の建造につながる佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料である。 (写真:鍋島報效会提供)
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蒸気船雛形(外輪船)一隻
重要文化財
佐賀藩精煉方で製作されたとされる蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー2隻のうちの外輪船である。長さ88.0センチ、高さ52.5センチ、幅18.6センチで、蒸気機関や動力伝達装置などは銅、真鍮などの金属で作られているが、船本体は木製である。 近年の詳しい調査で、内部の構造や材料等について明らかになってきた。それによると汽罐内に煙管が施されており、蒸気車雛形と比べて熱効率が向上し、より大きい力が発揮できたと思われる。燃料は蒸気車雛形同様、アルコールであり、汽罐内で発生した蒸気はシリンダーに送られて動力機構と伝えられ外輪を回転させる。蒸気機関と推進駆動軸との接続はピストン・ロッドとコネクティング・ロッドによる簡便なものであり、スクリュー船ではより複雑な構造になっている。このように外輪船は蒸気車より進歩しているがスクリュー船よりも単純な構造であり、動カ・推進機構部などを含めた内部構造の比較から、蒸気車一外輸船一スクリュー船の順で技術進歩の段階を経ていることが推定される。 国産初の蒸気船の建造につながる佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料である。 (写真:鍋島報效会提供)
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蒸気車雛形 附貨車他 一台
重要文化財
嘉永5年(1852)に設置された佐賀藩精煉方では理化学を中心に科学技術の研究・開発にあたったが、蒸気機関の開発・試作にも尽力し、安政2年(1855)には蒸気車及び蒸気船の雛形に着手したとされる。同雛形は精煉方主任の佐野常民を中心に、中村奇輔、石黒寛次、福谷啓吉やからくり儀右衛門の名で知られる田中近江親子などによって作られたとされる蒸気機関車の縮小模型である。 蒸気車雛形は全長39.8センチメートル、車輪幅14.0センチメートル、全高31.5センチメートルで、ボイラーなどの主要部分は銅で作り、シャーシ、車輸等は真鍮等で作られている。'汽罐の内部構造は単純で蒸気圧が十分でなかったと思われるが、ギヤ等の機械技術の工夫によりそれを補い、アルコールを燃料として2基のピストンが歯車を通して車輪に連動する仕組みとなっており、高い技術水準を示している。 ほかに、貨車2台とレール付き台座、組立式板付きレールが付属している。貨車は木製で作られており、また台座は長方形の木製であり、直線状にレールが付けられており、展示するために使用されたようである。組立式板付きレールは8枚の円弧形の板付きレールからなり、組み立てて円形にレールが繋がるように作られている。円周上を走らせるのに用いられたものと思われる。 国産初の蒸気エンジンをもつ陸上交通機関の試作品であり、佐賀藩精煉方で製作されたとされ、幕末、佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料である。 (写真:鍋島報效会提供)
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色絵{流水文碗(台付)、瑠璃地桜花散らし文碗(台付)} 二組
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載される「古南京染付御天目 二」「右御臺 二」に該当する作品である。 碗は二口ともに高台内を断面がアーチ状になるように削り込んでいて17世紀の茶道具の碗の高台削りに共通し、同様のものが有田の谷窯床下層から出土している。 色絵流水文碗(台付)の碗は、内面に透明釉(ゆう)を掛け、口唇部に呉須(ごす)を一周塗る。外面に染付のダミで水面をあらわし、染付の線書と金により流水文を描く。外面の地と高台内を緑に塗るが塗りむらが著しい。台は、上部に碗外面と同様の染付と色絵を施す。台の高台外側は二重圏線と波文様を染付で描く。羽の裏は透明釉を掛け、一重圏線と花唐草を染付で描き、ハリ支えの熔着痕を緑で唐草文を描いて隠している。 色絵瑠璃地花桜散らし文碗(台付)の碗は、内面と高台内に透明釉を掛け、外面は桜花を除いて濃淡二種の瑠璃(るり)釉を掛けわけている。桜花は呉須で線書して透明釉を掛け、赤と金で花弁をあらわし、花芯に緑又は黄をさす。金彩は良好な仕上がりとはいえず、色絵の技術が未完成の状態を示している。台は、上部に碗外面と同様の染付と色絵を施す。羽の裏は透明釉を掛け、ハリ支えの熔着痕に黄をさして隠し、二ないし三おきに赤の花弁を描き加えて花とし、緑で唐草文を描く。 色絵流水文碗 口径13.0センチメートル、高さ 7.6センチメートル、底径 4.7センチメートル。 色絵瑠璃地桜花散らし文碗 口径13.1センチメートル、高さ7.0センチメートル、底径 4.9センチメートル。 この2組の碗は、器形と形成の特徴が同じであり、同時期に同工房でつくられた一対のものと考えてよく、双方ともに列状のハリ支えなど、のちの鍋島焼に通じる特徴があり、とくに、瑠璃地桜花散らし文碗には、鍋島焼に多くみられる濃淡二種の瑠璃釉の掛けわけがなされている。しかし、流水文碗には、有田の初期色絵、とくに青手様式と通じる濃密な緑の地塗りがみられる。 以上のことから、この2組一対の碗は、有田御道具山から大川内鍋島焼への過渡期に位置し、大川内(おおかわち)鍋島焼の前身的な窯である有田岩谷川内の御道具山で制作されたものと推定される。双方とも色絵に金彩を使用しているが、この技法は柿右衛門文書により1650年代後半に始まったと推定されており、本作品はその開発期の作例としてきわめて貴重である。 (写真:鍋島報效会提供)
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色絵椿文大皿 鍋島 二枚
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載されている「南京焼錦手大御鉢 壱ツ損物 二」に該当する作品で、2枚一対で伝来したものである。 2枚ともロクロで引き上げて成形している。口縁部は折縁にしてイゲ縁状に角をつけている。内外に呉須で文様を描き、内面のみ色絵を施している。文様は基本的に同じであるが、口縁部の花頭状の区画文様に若干の違いが見られる。素地の厚みや焼成状態にも差異が見られ、甲は素地がやや厚く十分な焼成がなされていて青味が強い。こちらの口縁部に補修があり、『御寄附物帳』にいう「壱ツ損物」にあたると考えられる。乙は素地がやや薄く焼があまくて細かい貫入が多い。法量は以下のとおり。 甲 口径39.1センチメートル、高さ9.4センチメートル、底径20.3センチメートル。 乙 口径38.7センチメートル、高さ9.7センチメートル、底径19.5センチメートル。 これらは、同時期に同工房でつくられたものと考えてよいが、見込みの椿文の表現に相違点があり、甲が有田の初期色絵に多い色絵の黒線で輪郭を引くのに対して、乙はのちの鍋島焼が特徴の第一とする染付輪郭線(骨描き)を用いる。また、双方ともに口縁部に有田の初期色絵と通じる花唐草文の表現法が見られるとともに、高く削り出した高台やハリ支えを一切使用しない点など鍋島焼につながる技法が見られる。 以上のことから、これらの作品は大川内山鍋島焼の前身的な窯である有田岩谷川内の御道具山で制作されたと推測され、肥前の色絵磁器の変遷を知る上で大変価値が高い。 (写真:鍋島報效会提供)
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刀 一口 長巻なおし 銘正平十□肥州末貞
重要文化財
末貞は肥前では数少ない古刀類の刀工で、南北朝初期の14世紀中頃塚崎庄(現武雄市一帯)に住したといわれる。彼の作刀は現在2口が判明している。作風からみて肥後の延寿(えんじゅ)一派とみることができる。 この長巻は中心銘を折り返しにしたもので、もともと長巻として使用されていたものである。肥前では数少ない古刀期の刀で、龍造寺隆信の佩刀(はいとう)といわれる。 法量:長さ62.26センチメートル。 反り0.8センチメートル。 形状:長巻(ながまき)(薙刀の一種)の中心を折り返して刀に作り直している。銘は折り返し銘、庵棟(いおりむね)、表裏に腰樋が中心の中程まである。 鍛:小板目肌で流れ柾(まさ)がまじり、ざんぐりとしている。白気(しらけ)で棒映りが現れる。 刃文:小乱れ調の中直刃、刃ぶちに小沸がつき、小足がよく入り働きがある。 帽子:中直刃の焼きづめ。 中心:折り返し、鑢(やすり)目切り、目釘穴2個、先切り。 (写真:鍋島報效会提供)
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刀 一口 銘肥前國住藤原忠廣 寛永七年八月吉日
重要文化財
忠吉(ただよし)は元亀3年(1572)龍造寺家の抱工橋本道弘の子として生まれ、慶長元年(1596)上洛、埋忠明寿(うめただみょうじゅ)に学び同3年(1598)帰郷して佐賀藩の抱工となり、城下の長瀬町に住む。元和10年(1624)再び上洛し武蔵大掾を受領、名を忠廣(ただひろ)と改め姓を藤原とする。「肥前国忠吉」の初代である。寛永9年(1632)60才で没した。 法量:長さ75.6センチメートル。 反り 1.2センチメートル。 形状:鎬造(しのぎつく)り、庵棟(いおりむね)。 鍛(きたえ):小杢目肌(こもくめはだ)がよくつんでいる。 刃文:広直刃で匂は深い。 帽子:二重がかりで小丸に返り沸えづいてにぎやかである。 中心(なかご):鑢(やすり)目切り、目釘穴が1個、尻剣形(しりけんぎょう)となる。 寛永7年(1630)8月吉日の銘があって、忠吉晩年の円熟した作風がうかがわれる。 この刀は、佐賀初代藩主鍋島勝茂の佩刀(はいとう)といわれ、その歴史的価値も高い。 (写真:鍋島報效会提供)
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太刀 来國光の朱銘あり 一口
重要文化財
来(らい)派は国行(くにゆき)を祖として鎌倉時代中期から南北朝にかけて栄えた山城国の刀工で、國光は来派3代目来國俊(くにとし)の子あるいは門人といわれ、鎌倉末期から南北朝初期にかけて同派を代表する刀工である。国で指定を受けている刀剣では一番数が多い。 この太刀は鎌倉末期の典型的な優品で、実戦向きの豪壮な姿と格調の高さをうかがうことができる。佐賀4代藩主鍋島吉茂(よししげ)の佩刀(はいとう)といわれる。 法量:長さ71.6センチメートル。 反り:2.2センチメートル。 形状:鎬造(しのぎつくり)・庵棟(いおりむね)、中反り高く身幅がある。 鍛:小板目よくつみ梨子地(なしじ)風、地沸細かにつき総体に白気映(しろけうつ)りが現れる。 刃文:直刃調の小丸にわずかに返る。 中心:摺上、鑢(やすり)目にわずかに勝手下り、目釘穴2個。わずかに栗尻、指表に朱で「来國光」。 (写真:鍋島報效会提供)
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太刀 國行の朱銘あり 一口
重要文化財
國行は鎌倉中期を代表する山城国(京都府中部南部)の刀工で来(らい)派の祖といわれる。 彼の作刀は身幅広く、踏ん張りがあり切先(きっさき)が猪首風(いくびふう)になったのが多い。現在全国で10数口が国宝・重文に指定されている。この太刀は時代を反映した豪壮な太刀姿で、品位があり鎌倉中期の典型的な姿を残している。佐賀2代藩主鍋島光茂の佩刀(はいとう)といわれる。 法量 長さ70.6センチメートル。 反り 2.4センチメートル。 形状 鎬造(しのぎつく)り、庵棟(いおりむね)、表裏に二条の樋(ひ)が中心(なかご)の下まである。身幅があり重ねが厚く、姿は力強く豪壮である。 鍛(きたえ):板目肌(いためはだ)ざんぐり、地沸(ぢにえ)が細かにつき、全身に乱れの映りが現れる。 刃文:広直刃調(ひろすぐはちょう)の小乱れで、刃ぶちに小沸(こにえ)がつき小足、葉がよく働き、物打ち辺がしまり気味。 帽子:直刃調の掃(は)きかけで焼きづめ風。 中心(なかご):摺上(すりあげ)・鑢目(やすりめ)わずかに勝手下り、目釘穴3個、先は切り、指表(さしおもて)に「國行(くにゆき)」の朱銘がある。 (写真:鍋島報效会提供)
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短刀 一口 肥前国住藤原忠広 寛永八年八月日の銘あり
重要文化財
初代忠吉(ただよし)の数少ない短刀の一つで晩年の代表作である。忠吉の作風は、一般に鍛(きたえ)が小杢目(こもくめ)で地肌は小糠肌(こぬかはだ)と呼ばれる肥前刀独特の冴(さ)えを見せており、刃文は中直刃が多く匂できで、小沸えがからんでものが多くみられる。姿は一概に身幅(みはば)があって新刀の中でも豪壮優美である。 この短刀は、佐賀10代藩主鍋島直正(なおまさ)が愛用したものといわれ、中心に「閑叟(かんそう)所持」の金象嵌銘(きんぞうがんめい)がある。佐嘉神社に奉納されたもので、御神刀とされている。 法量 長さ29.6センチメートル。 反り0.1センチメートル。 形状 平造(ひらづくり)、庵棟(いおりむね)。 鍛(きたえ) 小杢目肌(こもくめはだ)がよくつんでいる。 刃文(はもん) 広直刃で刃ぶちに小沸がつき匂深い。 帽子 直に小丸に返る。 中心(なかご) 鑢(やすり)目切り・目釘穴(めくぎあな)1個。尻剣形(けんぎょう)
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色絵山水竹鳥文輪花大皿 一枚 (附)色絵山水竹鳥文輪花大皿 一枚
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載されている「青絵御鉢 内壱ツ裏銘大明嘉靖年製 二」に該当する作品で、2枚一対で伝来したものである。 1枚は中国景徳鎮の作品で、型打ち形成により口縁部を稜花形につくり、内外に呉須で文様を描いて色絵を施している。口径34.1センチメートル、高さ 5.1センチメートル、底径22.5センチメートル。 もう1枚は、景徳鎮の作品と同形同工の写しの有田焼。口径34.5センチメートル、高さ 7.0センチメートル、底径22.5センチメートル。 景徳鎮の大皿の高台内には、色絵の赤枠内に「大明嘉靖年製 福」の銘が染付けされるが、このような銘は、崇禎期(1628~44)ごろの色絵祥瑞と称される一群の作品の中に見られる特徴である。この作品で特筆すべき点は、高台周辺の釉の傷を色絵で塗り隠している点と内面の主たる意匠を色絵で塗りつぶしている点で、有田の初期色絵の、いわゆる古九谷様式のうち、特に青手様式に通じる技法である。 有田の大皿は、染付け文様は景徳鎮を忠実に模しているが、色絵の配色を違えている。底が少し垂れて全体に歪みが生じ、色絵も焼きすぎて赤が黒ずんでいて、焼成技術が未熟で試行錯誤している段階を示している。 景徳鎮の大皿とその写しの大皿が一対となって伝世していることは、有田の初期色絵が中国景徳鎮窯作品の直接的影響によって成立したことを示すものであり、肥前陶磁器を研究する上での貴重な資料といえる。また、鍋島勝茂の御道具であったことも考えられることから、肥前磁器の開発における藩主の関与をうかがわせる点も重要である。 (写真:鍋島報效会提供)
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マンドリンを持つ少女 百武兼行筆 一面
重要文化財
百武兼行は、天保4年(1843)佐賀藩士の家に生まれて、8歳の時から佐賀藩最後の藩主、鍋島直大の側に仕え、明治4年(1871)に直大の留学に随行して渡米、やがて英国へ渡り、明治8年(1875)にロンドンで直大の妻胤子のお相手役として油絵を学び始めた。明治11年(1878)にはパリに移り、官学派の大家レオン・ボンナに師事し、飛躍的に画技を高めた。 本作品は、明治12年(1879)にパリで描かれた作品で、明暗の色調の鮮烈な対比の中に、しっかりとした量感を持つ少女を描いている。少女の民族衣装は、ボンナのスペイン趣味の影響と考えられており、ボンナに師事した成果をよくあらわしている。 また、この作品は、百武の代表作というばかりではなく、そのすぐれた人物描写は日本洋画史上、明治12年という早い時期において画期的なものである。 明治以降、佐賀からは久米桂一郎、岡田三郎助をはじめ、優れた洋画家が多数輩出しているが、百武の作品はそれらの先駆をなすものとして高い価値を有する。
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国相寺の楠 一株
天然記念物
樹齢推定500年の大楠で樹勢も旺盛である。樹高約18メートル、目通り6メートル、根回り20メートル、枝張り約29メートルで、佐賀市内では、与賀神社の楠につぐ大きさである。この楠は、根本のところが極度に大きくなっているところに特色があり、楠の巨木の代表的なもののひとつとして価値が高い。 佐賀の楠が文献に表われた最古のものは、『肥前国風土記』の記事であってその佐嘉郡の条に記されている。したがって昔から佐賀地方には楠が繁茂していたと考えられる。市内には主として県庁前から東西の城濠にそって多く見られる。
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鬼丸聖堂の聖像三体と天縦殿の額
重要文化財
佐賀藩2代藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691)に城内二の丸に孔子ほか四君子の像を祀った聖堂を設けた。ついで藩主となった鍋島綱茂は、元禄10年(1697)から数年にわたって、城外の鬼丸西部一帯に広大な園地を開設し、ここに二の丸聖堂を移して鬼丸聖堂と称した。鬼丸聖堂は、鍋島直正の時代、弘化3年(1846)に弘道館に移され、その跡をとどめていないが、天縦殿と書かれた聖堂の額や3躯の聖像が今もなお伝存している。聖像は孔子と顔子の2躯と名称不明の1躯である。 銅造孔子坐像は、鋳銅製の極彩色像であって、椅子に腰をおろした倚坐像である。聖像と椅子とは同鋳であって、椅子まで含めての全高は、62センチメートルである。 頭には冠をいただき、両手は前方に水平にあげて軽く握り、裳は長く垂れて木履をはいた両足を包んでいる。冠は褐色で縁どり、青い紺青を地色に用い、上衣は濃緑、裳は黄色で、襟、袖口、裾などには青色が用いられている。 椅子は黒色を主体とし、手や顔などには黄色が用いられていて、複雑な配色となっている。冠、上衣、裳などには、模様が描かれていて、冠には、竜、上衣には、日、月、山、きじ、その他種々なものが配されている。 頬はくぼみ、目と耳は大きく、眉は半月で、髭が長く垂れている面貌は、孔子晩年の円熟した相を表現しているものであろう。 木造顔子立像は、寄木造の素地の上に粉を厚く塗り、その上に彩色を施した彩色像であって、首は挿し込みとなっている。ほぼ完構を保っているが、台座と足先が欠失し、髭には後世の着色がみられる。 像高60センチメートルで、頭部は結髪を布で覆い、両手は胸前で軽く組み、両足はわずかに開いて直立した姿である。袖口、襟、袖などは緑で、上衣は栗色を主とし、他に白、黄、青なども配色されていて、金線の文様が描かれている。 上衣の袖は長く垂れ、裳の裾は両足を覆い、腹前には垂れが長く垂れている。閉口し、伏目の面貌は柔和であって、衣文の彫りは深く流麗である。 木造の不明立像は、顔子立像とその素材、彫法、像高など、ほとんど相類似していて、対として彫造された聖像であることを知ることができる。像高60センチメートル、台座と足先が欠失している。 袖口、襟、裾は濃青色で、上衣の地は褐色、他に白、赤、栗、緑などが配され、金線の文様が描かれている。わずかに閉口して眉下り、顔子像が清的であるのに対して、やや動きがみられ、腹部には帯の端が長く垂れている。 天縦殿の額は、縦80.0センチメートル、横52.5センチメートルの木額・木縁で、黒漆の面に金泥で「天縦殿」と書かれている。額の左下に「藤原」「宗茂」と彫った木印が貼られ、額裏に享保十年(1725)と彫られている。 鬼丸聖堂の3聖像と天縦殿の額は、江戸時代における藩学又は郷学など学問の精神を今に伝える貴重な歴史的資料である。 (写真:鍋島報效会提供)
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銅造地蔵菩薩立像 一躯
重要文化財
西峰院地蔵寺の地蔵堂内に安置されているこの像は、像高36.5センチメートル、台座高13センチメートルの鋳銅製の地蔵菩薩立像である。両腕は軽く屈して、左手に宝珠、右手に錫杖を執る地蔵尊像の通相であって、衲衣(のうえ)は深く垂れ、衣文の彫りは深く、黒色を呈しているが、顔面や胸の部分には金箔が施されている。 酒買い伝説や海水出現の由来伝承を伝え、「酒買い地蔵」又は「酒呑み地蔵」などと呼ばれていて、酒を供えて安産などの祈願に詣でる人が多いという。 光背を欠失し、錫杖を欠損し、台座の一部が後補となっているが、尊体は完構を保っている。小体ではあるが、極めて端正な尊像で、鋳流れや鋳崩れのあとがなくて作もすぐれ、鋳造年代は明らかでないが、鎌倉時代の鋳造様式のおもかげをとどめており、数少ない鋳銅製の仏像として注目すべき価値を有している。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
小路に面し、南を正面として設けられている武家屋敷の門で、創建の年代は明らかでない。門は、3間1戸の平門で、切石礎石上に4本の方柱で直接棟木を受け、貫の上方は連子となっている。貫の上に肘木(ひじき)をとおして軒桁(のきけた)を支え、軒は疎棰(そたるき)で本瓦葺となっている。中央は両開きの板戸で、左右の脇間は片開きのくぐり戸である。両側の破風(はふ)に懸魚(げぎょ)が用いられている以外は、飾金具もなく、装飾的な構造は全くみられず極めて簡素な造りではあるが、木組みは比較的に大きくて安定している。 門の両側には、棧(さん)瓦葺の塀も残存していて、保存状態は良く藩政時代における武家屋敷の遺構が極めて少なくなった今日、その価値は高いものがある。
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佐賀(龍造寺)八幡宮石造肥前鳥居 一基
重要文化財
文治3年(1187)龍造寺季家が鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、龍造寺村 (旧城内)に創建した。その後慶長9年(1604)に鍋島勝茂が佐賀城拡張に際し、当地に移したと伝える。 鳥居は慶長9年佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、笠木の長さ4.80メートル、高さ3.40メートルである。石柱の下部は生け込みとなっていて、笠木は太い柱に対に反る特有の様式である。貫は三本継ぎで中央部分は後補により原形がいくらか改変されている点が惜しまれる。 この烏居は、造立年代の古いものの一つで、また、笠木の曲線などに独特な華やかさをもっており、最も典型的なものの一例として価値が高い。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
八幡小路に面して建つ二階建ての長屋門がある。この屋敷跡は佐賀藩の家老という要職をつとめていた鍋島監物の屋敷であった。 門は、潜戸(くぐりと)付長屋門で、正面向かって左側に2階建の番所があり、右側には駕籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板(ささらこしたみいた)張り、番所の2階正面には出格子(でこうし)窓が設けられ、門扉には両開き板唐戸(からど)で、扉の釣元(つりもと)に入八双(いりはっそう)金具、閂(かんぬき)の金具隠しに饅頭金物が装飾されている。 規模は間口12.7メートル、奥行3.9メートルで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る貴重な遺構である。
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鍋島直正肖像写真 6枚
重要文化財
本資料は、10代佐賀藩主鍋島直正を写した6枚の湿板ガラス写真である。それぞれ個別の木製ケースに納入されており、1点は左閉じのアメリカ製とみられ、その他5点は金属製の蝶番の付く右閉じである。6点とも揃って「御写真」と墨書された木箱に保管され、鍋島家春日御墓所(佐賀市大和町)の番宅座敷床の間に安置され伝来した。 6枚の写真は、被写体の活きた迫真性を帯びており、肖像画とは異なる写真の記録上の特性を窺わせるものである。 6点ともケースの蓋表に「御年四十六 安政六年己未年十一月於江戸溜池邸 藩醫川崎道民拝寫」と墨書された貼紙があり、撮影の年月と場所、撮影者を窺う手掛かりとなる。撮影者の川崎道民は佐賀藩士の医者で、貼紙に記される年月と同じ安政6年(1859)11月、鍋島直正は川崎を遣米使節の随行医師に加えるよう幕府に上申している。翌年、川崎は使節団に随行して渡米し、写真術を吸収して帰国したことが知られている。 佐賀藩では、嘉永5年(1852)に西洋の理科学分野の研究や製作を行う精煉方が鍋島直正の意思によって創設され、写真術の研究も行われたことが知られている。本資料の撮影者である川崎道民について、精煉方での写真術研究と積極的に結びつける研究はなく、撮影時期について貼紙の記述を裏付ける傍証資料は見出されていないが、撮影時期が川崎渡米前の安政6年(1859)、帰国後の文久元年(1861)頃のいずれにしても、本資料は我が国における写真術の実用化の様相や佐賀藩での受容などを知る上で数少ない黎明期の作例と位置づけられ、今後、歴史学や写真学をはじめ、服飾史など様々な分野で知見が得られることが期待されるもので価値が高い。