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[旧佐賀市][ 寺]は139件登録されています。
旧佐賀市 寺
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願正寺本堂欄間彫刻「二十四孝」
本堂内陣の欄間は全面に、寺院には珍しいたくさんの人物や動物が彫刻されている。これは中国の親孝行をした子供たちの24編の物語である、二十四孝の彫刻である。 元禄15年の本堂建立の時に作られている。物語には、寒中、雪の中に、病気の母親のために筍を掘りに行った孟宗(もうそう)の話や、冬に生魚を欲しがった母のために、氷の張った水面を裸の体温で氷をとかして魚をとった王祥(おうしょう)の話などがちりばめてある。 これは寺院の建築にあたった多久茂文が多久に孔子聖廟を造ったり、東原庠舎を建てたりして、親孝行を重んじる儒教を信奉し推奨していた影響かと思われる。欄間の裏には「左甚五郎五代末流、和泉岸上但馬五兵衛」などの名が記されている。
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旧町人町に集まる寺院
循誘校区にかぎったことではないが、校区内のゼンリン地図を見ると、藩政時代の町人町と呼ばれた各町に寺院が集中していることが分かる。東は下今宿町の証明寺から西は願正寺まで22ヶ寺を数える。宗派のちがい、規模の大小はあるが、10ヶ町足らずのこの町にこれだけ存在するのも珍しい。寺院名だけ残し、すでに廃寺となったものも数ヶ寺ある。 これら寺院の中で創建年代の判明しているものは、ほとんどが慶長13年(1608)頃の総普請で、屋敷や町小路が作られた以降に創建あるいは移建されたものである。これは一朝ことある時には、武士たちの屯所として、または砦として戦略的な意図をもって配置されたものと思われる。創建年代を比べてみると、わずか数年の間に建てられたものもあるし、あまり長くない期間中に建てられたものもある。 これらの寺院には、いくばくかの寺領としての知行地も与えられたのかも知れないが、この大きな建物の建築費用はどのようにして調達したのだろうか。当時の藩財政も決して豊かでなかっただろうし、富裕な町民も出現しているとも思われない。また寺の維持費は誰が負担したのか。さらにすでにあった小さな街なみに、広大な敷地をどのようにして確保したのか。すでに幕藩体制も確立し戦いの世の中でない時に次々と建てられたのか謎である。 これらの寺院が江戸初期の一戸ごとに所属寺院を定めた寺請制度とどのようなかかわりがあったのかも興味深い。また、南蛮寺と呼ばれた教会が柳町の地に、寺院と隣接して建設を許可されたのも何かの意図があったのだろうか。 なお、校区内のある寺には、天文10年(1541)の銘の記された六地蔵があるが、寺の創建時のものか、後世路傍などにあったものを寺に安置したものかは不明。 ちなみに明治16年長埼県からの佐賀県分離独立を願う有志が集会を開いたのは高木町の観照院であり、同年第1回の県議会を開いたのは願正寺である。
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観音寺
鍋島家の旧御館森には天満宮及び観音寺を観請されていたが、年月が経つにつれ旧跡地は荒れ果て草木が茂り、周囲農民の耕作にも支障があると申し出があったので、藩祖直茂は祖先発祥の地を荘厳にするため、西側の地を拓き観音寺を移転し鍋島家菩提寺とした。これは天文21年(1552)高伝寺建立まで続いた。なお経秀一家は代々あつく仏教に帰依し、天下泰平、萬民和楽の祈とうを続け、天明2年(1782)8代藩主松平肥前守治茂の代に本堂を再建し、田畠三町八反永代寄付し、寛政5年(1793)(※1)には観音堂改修のため三百両を寄進した。本堂には鍋島家初期の藩主過去帳及び位牌が安置してある。 鍋島伊勢守経秀 鍋島三郎兵衛経尚及内室 鍋島教頼及内室 鍋島治部大輔清直及内室 鍋島治部少輔栄実 鍋島平右衛門清久 鍋島駿河守清房 鍋島加賀守直茂 鍋島信濃守勝茂 (※2) ※1『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399〜400)によれば、寛政元年(1793年)5月。 ※2『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399~400)によれば、鍋島伊勢守経秀公、鍋島三郎兵衛尉経尚公・室、教頼公・室、鍋島治部太輔清直公・室の御石塔・御位牌とあり、他の位牌については記録がない。鍋島治部少輔栄実については、どういった人物なのかは不明。
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蓮成寺
江戸時代初期の頃、三日月村居住領主杉町備中守が仏門に帰依して、一宇をたて後鍋島町木角に移転して今日に至った。記録によれば、2代藩主光茂の妹が備中守の内室であった関係で、延宝3年(1675)8月光茂は両者の為に堂宇を改築し、境内を拡張して田畑を寄進し寺格を改めた。同寺の門前には一万部塔、二万部塔の経碑がある。読誦者は知正院日専上人である。 なお桓武天皇の皇子葛原親王の遠孫、千葉介常胤が江藤新平家の先祖である。この常胤のとき源頼朝から九州探題を命ぜられたが、小城郡晴気に赴任し、のちに鍋島村木角に住み、蓮成寺には祖先より14代までの墓地がある。江藤新平は佐賀戦争の主魁として土佐甲の浦で捕えられ、明治7年4月13日佐賀城内で処刑された。3日後江藤の遺体は首と共に親友相良宗蔵が貰いさげを受け、竹で胴をつなぎ蓮成寺に移した。古老の談によれば、彼の遺徳を偲び参詣人が続き、南の堀端から賽銭をなげたのが毎日叺に入れる程多額であったという。警察では何と思ったか、参詣人を追い払ったので人々はその横暴に憤慨していたそうである。
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勝楽寺
真言宗に属し、本尊は阿弥陀如来で聖徳太子の御作と称せられ、しかも勝楽という名が吉詳なりとして、武家の間で特に尊崇されていた。往昔日本武尊、熊襲征伐の時祈願をこめられ、また弘安4年(1281)蒙古襲来の時も当寺で祈願をこめ、境内の竹を切って軍用に供し、降って元亀元年、大友軍来襲の際も勇将鍋島直茂出陣の途次当寺に立ち寄り、竹を伐って旗竿を作り武運を祈願し今山戦に大勝利を得た。直茂凱旋後、首途の時奮って協力従軍した新庄、江頭の住民等に恩賞を与え、当寺には屋敷四反、田地六反を寄進した。ちなみに今山戦にて敵大将大友親貞の首級をあげた成松刑部大輔の使用した真槍が、当寺の寺宝として保存されていたが、惜しい事に何時しか所在不明になっている。更に直茂朝鮮出陣の際も、当寺の竹を軍用として用いたが、その旗竿の向こう処何れも大勝利をおさめた。こうして鍋島家代々の馬印の旗竿、着物竿等総て当寺から上納することになっていた。
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勝福寺
勝福寺は山号を東光山と称し、天正2年(1574)に陽山俊虎大和尚により開山された。宗旨は曹洞宗で、永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)が大本山となっている。 また、本寺は佐賀市八戸の龍雲寺で、開基大和尚も龍雲寺の4世と伝聞されている。ご本尊は東方瑠璃光薬師如来が安置されており、壇信徒の深い信仰の対象となっている。 近世の歴史の中では、昭和8年に江里地区にあった東光寺の小堂並びに墓地・墓石を勝福寺内に移転されたと記されている。 大正時代から昭和30年代には歴代住職と壇信徒が一如となり、竹林の開墾や本堂の建立などを行い現在に至っている。当寺は、静かな田園集落の信心の拠所として、「約430年に渡る法燈」と「ご先祖様の遺徳」を壇信徒が大切に守り続けてきた場所といえる。
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福満禅寺
福満禅寺は、1600年頃から存在しているが、創建は不明である。当山の開山和尚は流室禅師大和尚(1672年、寛文12年没)である。本山は、京都の大本山南禅寺で、臨済宗南禅寺派の末寺にあたる。現在は13代目で、江戸時代は森田学校(寺子屋)として開校され、現在の鍋島小学校の前身となっている。ご本尊は、薬師如来で、薬や病気の神様である。
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地尊院
本山は南禅寺(臨済宗)で、当院の由来は天正時代(1573〜1592)龍造寺隆信公家臣の原口・江副両家によって設立された。原口氏から13ha、江副氏から10haの水田を周辺の百姓が小作としてその禄高をこの寺に奉納した。今でも江副氏の子孫は400年以上の歴史のある地尊院を守り続けている。現在住職は、経済的理由等から不在で、鍋島町江頭地区の長寿庵の住職が兼務されている。
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光福寺
浄土宗史に永正年間(1504〜1521)飯沼弘経寺等3代曜譽酉冏上人が肥前国に帰郷の際、四ヶ寺建立し、その中に高福寺(現存せず)の寺名があり、県立図書館所蔵の浄土宗寺院由緒には神野の潮音寺の末寺として高福寺の名が記されている。鍋島村誌には、創立年月日として、永正四年四月十五日とあるが、おそらく曜譽酉冏上人永正四年正月十五日寂となっているので、当てたものと推定される。 高福寺が光福寺になった年代は全く不明である。高福寺の所在地は鍋島村植木堀内となっており、現在の光福寺と同一である。昭和13年5月18日教学週報社(岩野眞雄)発行の浄土宗寺院名鑑には光福寺は記載されており、寺格等級も平僧二等となっている。 現在の光福寺は平成18年3月に新しく建設された。
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法常寺
明治初めの廃仏毀釈で寺は壊され、その後再興されたが現存する資料はほとんどない。 しかし、昭和63年の本尊修復工事の際に仏像の体内を詳しく調査したところ、「聖寿比丘が法常寺の住持であった大永7年(1527)4月8日に、伊勢の国(三重県)の六十六部宋須が寄附を募って資金を調達し、筑後国江上庄佐々渕に住む春香という法眼位を冠する仏師に依頼し、この薬師瑠璃光如来を供養した。」と言う記録があった。 修繕の供養や彩色の供養をしたということから、製作年代はもっと前に遡ることになる。 仏像は182.8cmの立像で頭体部を通して前後2材矢引の構造で、楠の木を材料に作られ、極めて地方的な色彩を残す室町時代の作例として貴重であるとの博物館職員の見解であった。 寺の住所は「岸川」となっているが、小字の通称は「西長瀬」いう。檀家の皆様さんは「西長瀬のお寺」と呼ばれている。人工河川の多布施川を造る際に長瀬地区(現在の高木瀬地区)が分断されたため、西地区にあったお寺は鍋島地区になっている。
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光明寺
東盛庵の東方に、幕末の頃堀に囲まれたお茶屋(世尊寺)とお台場(台所)が造られ、佐賀藩10代藩主鍋島直正公の中折巡検(熔鉱炉、調練場)の折の休息所となっていた。 しかし、その後東盛庵には墓参りする人も途絶え、草が生い茂り荒地と変わってしまった。 そこで、庵故蹟一帯の譲渡について遺族の了解を得て隣接する田畑を一括買収し、新たな霊園を造ることになり、日蓮正宗世尊寺がお茶屋の地を譲り受けて建設された。 この場所では種々の出来事があり、また墓地も狭くなったため、ほかの地区に寺院の建設が必要となり、10数ヶ所の候補地から現在地(鍋島町蛎久)を選定し、平成9年7月に600坪の土地を購入して、平成10年4月に仮本堂等が増築された。 平成14年2月には墓地用地150坪を購入して、平成14年4月28日には盛大に落慶入仏式が挙行され、宗教法人、日蓮正宗光明寺として認証された。全体面積は1200坪である。 この新寺建設委員会や信者の皆さんの純心さと団結力に感銘しており、今後大聖人様の大慈・大悲の佛力・法力を世間に伝え広めて人々の安心と慶びに貢献していきたい。
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妙福寺
臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟、大道一以大和尚である。本寺の大日尊縁由略記によると本尊の大日如来は承徳2年(1098)に流失した石城山妙楽寺のものと推定され川底から発見されたこの仏像は「疱瘡の神」として近在、近郷に知られている。 この寺は神代家の分家の墓所として又中島哀浪先生の菩提寺として知られている。
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上揚の也足庵
皇位をめぐる南北朝の争いに続いて、将軍家の後継争いは、地方大名を巻き込み小豪族間の勢力争奪へと波及した。この時代を戦国時代と言う。勝つためには義理も人情も無い、嘘と欺き反逆に明け暮れ、肉身をも犠牲にし、上下の関係も薄らいだ時代である。 肥前においても、藤原系を名乗る龍造寺・太宰の少弍・関東下向の千葉氏、北の松浦・波田、西の橘・後藤・大村、島原の有馬、それに加えて豊後の大友、南の菊池・島津、中国の大内、それ等をめぐる馬場・八戸・高木、蓮池の小田、神埼の本居・姉川、城原の江上、山内の神代の諸豪族間にも攻防斗争が続いた。 隆信の曾祖父剛忠家兼が92才の天文14年=1545年、馬場頼周は謀を巡らし龍造寺を倒すため諸豪とはかり、城を渡し退去させ、剛忠の息子家純・家門・純家を川上淀姫社に招き、一方孫の六郎周家・三郎家泰・孫八郎頼純を城原勢福寺城へ誘い出した。各れも僅かな郎従を取囲んで急襲し全滅さした。正月23日のことである。 このときの先鋒が、34才の神代勝利であった。これ以後神代と龍造寺は矛を交えること8回、4回は勝ったが4回は負け、最後は大友勢と共に今山で鍋島の夜襲を受け、惨敗した。 さきの城原へ出向いた隆信の父周家等3人と郎従は、西郷の祗園原で討死し、ここ也足庵に葬られたが、明治4年本庄の高伝寺に合祀された。也足庵には小さな墓標が残されている。当時の也足庵の僧は、龍造寺の血統の者であった。 也足庵は戦国中期の創建で、付近には玉泉坊を始め多くの寺社があった。現在は臨済禅寺で、南北朝期に数名の筆になった大般若経500余巻が写本として保存される。また脇仏には龍造寺家再建を祈願し、天文17年=1548作の木造達磨像があることでも有名である。
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松陰寺
神代1万石の菩提寺松陰寺は、西原天神山東の竹林に囲まれているが、もとは鈴隈南麓お霊屋下に在った。『太宰管内志』によれば、この辺に太郎丸(泰郎丸の誤りか)という所があってそこに行基菩薩(?)が作ったという薬師尊像があった。松陰大姉(鍋島勝茂の娘で、神代5代邑主常利の妻。性空院のこと)は先祖菩提のため仏殿を建立し医王山松陰寺と号した。本尊は唐佛の釈迦とその弟子の三尊云云とある。
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鏡圓寺
唐人町の鏡圓寺(浄土宗)は、唐人町の始祖、李宗歓一族及び鍋島更紗の創始者、九山道清の菩提寺である。 李宗歓は、天正15年(1587)郷里(現朝鮮民主主義人民共和国)の海岸で舟遊びに興じていた折、突然の旋風により船が破損し、日本(現北九州市)に流れ着いた。天正19年(1591)、大宰府にて鍋島藩家臣龍造寺家晴と成富兵庫茂安と出会い、これをきっかけに佐賀城下へ赴いたところ、藩主鍋島直茂にその才を見込まれ、重用されることとなった。『葉隠聞書』や『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』によると、朝鮮遠征に同行した帰途、宗歓は主君の命を受けて陶工を6~8人連れ帰り、陶器の製造に着手した。直茂公は慶長4年(1599)、宗歓が連れ帰った高麗人などを佐賀城下の十間堀川以北、愛敬嶋村に住まわせ、唐人(異国人)の住む町「唐人町」と名づけた。宗歓は、唐物の繊維品、陶器類、金物類、海産物、荒物など日本にない珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人が集まって、今日の唐人町の基礎を形成していった。 九山道清は、『更紗秘伝書』ならびに『江頭家系図』によれば、慶長3年(1598)、直茂公が朝鮮遠征より帰国する際に連れ帰った高麗人13人のうちの1人である。道清は漢方医の家柄の出であることから、製薬の技法にも優れていた。漢方薬の原料となる薬草は染料となる植物としばしば同一のものであり、それらの高価な材料が、宗歓の海外貿易により比較的容易に入手できたことが、鍋島更紗の創始、発展に重要な役割を果たした。 『鏡圓寺縁起』によれば、唐人町に居住していた数十人の高麗人について、帰依する仏寺が必要になった(島原の乱以降は、宗門改めが特に厳しくなった)ため、寛永3年(1626)、鍋島勝茂公の姫付老女、秀島源右衛門の母の願いにより、鏡圓寺が創建されたとのことである。 左側の写真は李宗歓の墓碑である。
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愛宕寺
愛宕寺は京都竹内御門跡の末寺で天台宗の寺院です。『佐賀県近世史料第10編第1巻』の「天台宗由緒 西目門中 愛宕寺」によると、柳川御陣(慶長5年(1600年)の柳川への出兵)の際に鍋島勝茂が鍋島生三(道虎)に愛宕社へ祈願させ、勝利を得たため、愛宕社を勧請しました。慶長5年以前から愛宕寺は祈祷所として存在していた可能性もありますが、詳しいところは分かっていません。 愛宕寺となって以降の中興の祖は公雄で、正徳5年(1715)に退院し、3世の慶寛は、寛延3年(1750)に退院しています。慶寛は二御丸護摩堂開基を仰せ付けられ、御本尊の不動尊を持ち越して安置しました。その後、宝琳院(鬼丸)へ移転し、またさらにその後、東福院(背振山)へ転住を仰せ付けられたということです。 愛宕権現は、愛宕山の山岳信仰と修験道が混淆した神仏習合の神であり、イザナミを垂迹とし地蔵菩薩を本地としました。愛宕山白雲寺は勝軍地蔵(将軍地蔵)を本尊としたため、特に戦国時代においての愛宕権現は勝軍地蔵として敬まれ、武将からは戦の神として信仰を集めました。本地仏としての勝軍地蔵は、甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗っている像となっており、愛宕山白雲寺から勧請し、全国の愛宕社で祀られました。当神社でもこの勝軍地蔵が今も祀られています。 境内には、旭の森稲荷社、観音堂(観世音菩薩堂)や地蔵菩薩をまつったお堂、文化8年(1811年)銘の大乗妙典壹萬部塔などがあり、寺院の面影を残しています。
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宝専山仏心寺
仏心寺は元禄5年(1692)に創建された黄檗宗の寺院で、開山は禅厳和尚、開基は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の子長行(覚樹院・餅木鍋島家)とされています。本尊は聖観世音菩薩です。山門の左側には元禄4年(1691)の刻銘がある地蔵菩薩立像があり、右側にも地蔵菩薩立像があります。 禅厳和尚は領内の無縁仏の供養のために毎年七月十六日に大施餓鬼の法要を行っており、領民に志紙袋(喜捨袋)を回すことの許可を佐賀藩から得ていました(『佐賀県近世史料第10編第2巻』)。 享保17年(1732)、蝗(いなご)の大発生により多数の死亡者を出す大飢饉(享保の飢饉)が起き、仏心寺でも数百人もの餓死者の弔いが行われました(『佐賀県近世史料大10編2巻』)。翌18年には、5代藩主鍋島宗茂が「御国家安全」「疫病転除」「餓死菩提」のため、仏心寺において大施餓鬼を実施しました。 宝暦8年(1758)には、6代藩主鍋島宗教が享保の飢饉による餓死者・横死者のために「本州庶民累葬墓誌銘」の入った石碑を建てました。ただ、今ある石碑は明治時代に倒壊したため、その後新たに再建されたもので、詳細な墓誌銘はありませんが「本州庶民餓死累葬之墓」として今も敷地内にあります。
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大宝山精金禅寺と定光寺
臨済宗南禅寺派の禅宗寺院である精金禅寺は、江戸期には臨済宗水上山一派万寿禅寺を本山とする寺院で、初代藩主鍋島勝茂などとの深い繋がりを持つ寺院でした。 「寺社差出済家宗由緒」(『佐賀県近世史料』第10編第2巻)によると「佐賀郡大宝村、一、御免許敷地弐段六畝拾九歩、山号無シ、精金庵」「当寺開山芳隣和尚、事蹟不詳、中興天如和尚」とあり、元は山号のない庵であったことがわかります。 現在の寺域には、参道入口の左側に享保17年(1732)刻銘の六地蔵菩薩右側に地蔵菩薩座像があり、歴史を感じさせる山門をくぐった左側には正徳元年(1711)刻銘の正観音菩薩像、正徳3年(1713)と正徳5年(1715)刻銘の如意輪観世音菩薩像の他、地蔵菩薩立像等が造立されていいます。 なお、精金禅寺は、同じく大宝村にあった定光寺を統合し、大宝山の山号を使用したものと思われます。 定光寺は精金禅寺の南方にあったとされ、「寺社差出 済家宗由緒」(前掲)によると、「佐賀郡大宝村之内、一、御免許敷地壱段四畝壱歩、大宝山定光寺」「当寺由緒ハ、永暦元年(1160)庚辰正月三日、渋谷金王丸定光、主君義朝落命之砌、討死と称し此所ニ忍ひ下り、伝教大師一刀三礼之薬師尊像を携来、当寺開山全山大和尚ニ語り三七日祈る、此地ニ瑞現ある故、御堂を建立して安置ス、于時応保弐年(1162)壬午八月也」とあり、応保二年の開山とされています。
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遍照山光明寺
遍照山光明寺は浄土真宗(本願寺派)の寺院で、永禄9年(1566)に龍造寺氏の流れを汲む江上宗光が開基し、江戸時代の初期、第5世了誘の代に嘉瀬深町村より移転したと伝わっています(『灯炬』真宗佐賀地区連合編)。本尊は阿弥陀如来です。光明寺に残る記録によると、寛延元年(1748)には北向きに本堂を建立しました。その後、寛政12年(1800)に北側の野口家の屋敷が本陣とされたため、寺の本堂の向きを東側に移しました。平成29年3月に本堂の大修復が行われましたが、本堂から庫裏を結ぶ通路は昔のままの姿を残しています。 なお、第12世住職龍ヶ江良俊は、佐賀の民謡「梅干」の作詞者とも言われています(山口練一作詞説もあります)。料亭楊柳亭(佐賀市松原)の庭には梅干の石碑があり、毎年春の梅の咲く頃に「うめぼし祭り」が行われています。