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[旧佐賀市][嘉瀬校区]は117件登録されています。
旧佐賀市 嘉瀬校区
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有明海の港
13、4世紀の船舶「刳船」は6〜8人の櫓の漕ぎ手で、有明海に潅ぐ嘉瀬川を利用し、年貢や物資の集散地であったのが嘉瀬津であったと推察される。 嘉瀬津には「津の代官、平吉弥次郎」着任している。今の嘉瀬津公民館。中国との交流もあっていたのだろう「宋銭」を祖母から貰っている。 その頃の九州の3大津 博多津・・博多、坊津・・鹿児島、嘉瀬津・・有明海 13、4世紀頃の嘉瀬津の船着場を昨年やっと、ここらしい所をさがしだす。 土井の古賀で側に「ひやあらんさん」を祀ってあった。勿論写真に収めている。場所は十五部落の西の方。
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栄昇こう(栄昇小学校)
明治十三年(1880)扇町の苗運寺境内に栄昇小学校が開校され、明治二十二年(1889)に嘉瀬小学校に合併された。
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倉屋敷
藩政時代に多久家(小城藩との説もある)より鍋島藩に嫁入りされた時に荻野に倉を建てたとされている。乙護神社の東の地区を以前より倉屋敷と呼んでいた。北島線の道路工事時に跡地と思われる遺跡が出たとの話もある。 また、嘉瀬川沿の、現魚市場より南に「遠の江」の地名(字名)が有り現在も使っている。この地は嫁入りの際に持参された土地で、現在でも小城市(三日月町)に、この行政区名がある。又この地は「化粧田」とも呼ばれていた
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自得庵と若宮さん
この野田は江戸時代、久保田領主村田氏の領地であった。森家は、村田氏より百石拝領で、野田に移住し、武術の師範を勤めた。後では銃術の小銃部に取り組んでいる。百石は十町の耕地。野田村の野田氏が千葉家の戦乱に巻き込まれ、討ち死にす。野田に、ポツンとやってきた森家は、先祖の菩提寺として、自得庵をなす。水害にも火災にもあっているので、資料は十分残っていない。ただ門前に石造りの六地蔵さんがある。千葉家の戦乱で討ち死にした人の供養塔である。また、武術の神として、若宮さんも祀っていた。久保田の町東に、若宮さんはある。今の嘉瀬川が、昔は、松永の家の前にあった。堤防がない状態だったと思えば若宮さんが町東に流れていったことがわかる。お寺の自得庵は、大水害後再建したが、若宮さんは、金がなく、そのまま置きっ放し、地元の人に祀ってもらっている。若宮さんの天井の絵馬に、父や叔父たちの名前が見られる。せっかく流れてきんさった若宮さんとして、地元の方々から可愛がってもらっている。
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部落は一家族
野田地区は、お寺を入れて九軒の集まりである。親たちの年齢、子供たちの年齢、世情も同じ位で、特別に目立った家はない。 部落内に店がなく、荻野の蒲原店や徳万町まで買い物に行かねばならぬ。醤油のなか、ソースのなか、あーら米の撫でたのがなか、塩のたらん、お金のなかと、日常生活で不自由なことがあっても、走って隣の家に走り込めば、十分たりた。子供は、遊び先で食事の時間になれば、「おふん舞い、うけんね」。遠慮なくお世話になった。お彼岸が近づくと、おはぎ、ぼたもち、皆んなの家に配り、日を変えて、家にも配って貰った。配るのは楽しみだった。「あんたがきたね」と、小遣賃を貰った。「ただいま」 と学校から帰ったら、一番先に見るのは、仏さん棚である。何んか配ってきていないかな。あるある仏さん棚に。すぐ何だろうと見に行く、早う食べたいと、うきうきしていた。野田は、よかとこ。
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野田の戦時中の一風景
桑の木を移植し、野田にある畠は、どこでも桑畑になった。嘉瀬川の川中や川外の畑も桑の木だらけ。命令でもきたんだろうか。桑の葉を蚕さんに食べさせ、繭になし、それを紡いで生糸になし、供出していた。各家の庭中にも、家で寝る部屋以外は天井まで棚造りし、竹の大きなザルに入れ蚕飼いに追われていた。野田のお寺はじめ、どこの家に行っても、ガスガス桑の葉を食べる蚕さんの音、用事が話されん位厭な音だった。蚕さんが繭になったら、熱湯につけて、糸をつむぎ、より入れが始まる。手車回しはバアチャンの仕事だった。生糸ができ上がる様子は、不思議で珍しくもあった。桑の葉の毛虫は、大嫌いで加勢にならず、桑の実の赤いのは、学校に持って行った。熟した桑の実は、衣類や口の中の舌まで紫色に染めてとれんやった。バアチャンが生糸で反物つくり、一着和服を作ってくれた。
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昭和二十八年の大水害
戦後の立ち直りに、皆が努力し始めた昭和二十八年の夏、台風による大被害、家も家具も農具も流され濁流となる。『二十八水』と呼ぶ。大体、嘉瀬川は、川底が田んぼより高く、それに堤防の東と西に強さに加減があった。二十八水の折は、両方の堤防から水濡れが始まり、危険状態になる。突然、西の堤防から『バンザイ、バンザイ』。東の堤防が崩壊したのだ。鍋島の桜の堤防。濁流は、一瞬にして家々を呑み込んでしまった。畳の上に慎重に三俵重ねたが、増水のためひっくり返った。隣ではタンスがバタバタ倒れる。家具は家の外にどんどん流れて行く。屋根まで濁水に浸され、屋根裏に家族は寝るのに精いっぱいだった。42日間の水びたしは家を壊してしまい、その冬寒い年だった。嫁にきた家内は、大水にびっくりしていた。新町の堤防は閉ざされたままだったので水は減らず、食事は船でおにぎり、漬物を運んで貰い命は保った。
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野田の河童
野田あたりの河童は、夕暮れ時に堀の側の道端に、ニョキョッと立っている。手足は水かき、背中は甲羅、頭の上に皿がある。この皿が濡れている時は、神道力を出して、歩いている馬でも堀の中に引っ張り込んでしまう。河童は、人間の子供が好きで、お尻から手を入れてお腹の中を食べてしまう。堀の岸に、子供は一人で行かんこと。河童をはっきり見たもんは、まあだ誰もおらん。雨が降って、堀岸の滑る時、河童の皿もいっぱい濡れている。堀の岸の方に河童はちゃんと来て、水の中に隠れている。『助けてー』と大声出したら、河童はびっくりして逃げて行く。一人で堀の所に、近寄らんことが一番よか。野田の河童は、よう、あっちこっち遊びに行くけん、どこの堀でん、注意せんば。
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昔の嘉瀬橋の急勾配
液体燃料が軍部中心になり、一般生活から姿を消した。バスにもその影響は現れ、車体の後に大きな蒸気発生器を装着し、木材を燃やしたり、木炭をくべたりして走っていた。勿論、力が弱く、スピードもダウン。嘉瀬橋が木造りで、橋への道が急勾配で、今の2倍位はあった。バスに乗っているお客さんに、バスの車掌さんが「バスが坂を登りきれません。お客さん降りて下さい」。下車した客は、バスの後押しをしてやっと登りきった。客で文句を言う人はなく、手の汚れを叩き、ふたたび乗客になる。また、人が引っぱる車力に荷を沢山積んでいる人は、この嘉瀬橋は登りきらん。その時、出番と後押しをし、手間賃とって稼いでいた人もいた。これらのことは終戦前までのことである。今は、嘉瀬川の川幅も倍以上になり、橋の長さもずっと伸び、鉄橋化され、難渋した時の面影はなくなった。
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嘉瀬川鉄橋
最初の鉄橋は明治28年5月5日に竣工。その後昭和38年3月に架け替えられた。昭和41年6月複線化に伴い、上り線用に新しい鉄橋(長さ253m)を架設し、従来の鉄橋(249m)を下り線用とした。昭和51年7月1日に全線が電化されて現在に至っている。
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嘉瀬橋
古くは元禄4年(1691)のケンペルの参府紀行に150歩の橋があったとの記録があるが、その後水害などにより流失したため何回となく架け替えられて今日に至っている。現在の橋は嘉瀬川改修事業に伴い旧嘉瀬橋より北約50mに移動架設され、昭和38年2月に竣工したものである。
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久保田橋
嘉瀬町新町と久保田町久富との間に架かる橋。国道444号線が新設されるに当たって新しく架けられた橋で昭和45年3月に竣工した。
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久保田橋側道橋
久保田橋の完成後、歩行者、自転車利用者のために久保田 橋のすぐ南に隣接して架けられた橋で、昭和59年3月に新設竣工した。
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築地橋
本庄江上流の新川を跨ぎ、嘉瀬町扇町と鍋島町江頭を結ぶ橋。昭和56年12月に竣工した。
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深町橋
嘉瀬町扇町と鍋島町深町を結ぶ橋。平成4年12月に 竣工し た。
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平成橋
嘉瀬町扇町と鍋島町八戸を結ぶ橋。平成元年10月に竣工した。
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高橋
平成橋の南80mに架かる橋。歩行者専用になっている。西の袂に、長崎・小倉への石の道標がある。 木造で旧長崎街道の面影を残すため、地元の人の努力で出来上がったもの。 大名行列や奉行行列が渡った橋で、江川は船の出入りが盛んで賑やかな船着き場であった。 昭和時代まで精霊流しや花火打ち上げなどがっていた。橋の近くの家には、馬の手綱をつなぐ環の金具が残っている。
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新高橋
高橋の南100mに架かる橋。現在の橋は平成元年10月に改修架設された。
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今重橋
嘉瀬町有重と西與賀町今津の間に架かる橋。昭和61年11月に竣工した。
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御船小屋橋
嘉瀬町新町と西與賀町今津の間に架かる橋。平成3年3月に竣工した。
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本庄江橋
国道444号線の新設に伴って、昭和39年3月嘉瀬町新町と西与賀町丸目との間に新設竣工した。
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本庄江橋側道橋
本庄江橋の完成後、歩行者、自転車利用者のために、本庄江橋のすぐ南に隣接して架設された橋で、昭和59年12月に新設竣工した。
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四面神社
諌早神・温泉神・支々岐神・千々岩神の四柱の神を主神とし、天照皇大神他三十社の分霊が合祀されている。創始の年代は不詳だが平胤貞(たねさだ)が建久3年(1192)に再建したとの記録がある。国道207号線の旧道沿いの一の鳥居は鍋島二代藩主、光茂と鍋島藩5名の家老の寄進で、二の鳥居は寛永11年鍋島初代藩主勝茂の寄進によるものである。また明治維新まで鍋島家より祭費として毎年米五石が寄進されており、海の守護神として尊崇されていた。神殿の建築様式や、大規模な参道からみて、嘉瀬津が佐嘉地方の海上交通の要港として栄えていたことがうかがえる。 祭典は、3月5日の祈年祭、10月10日の例祭(おくんち)、12月5日の秋祭、1月1日の元旦祭と、月2回の月次祭である。 神社の境内にある佐田神社は、熱病の神様として知られ、豆腐を供えて祈願すれば効験著しいというので古くから参詣者が多かった。その創始は詳らかでないが、口碑によれば俊寛僧都が嘉瀬に隠棲中に建立したとも言われている。昔からこの神様は疱瘡の神様として崇敬されていたが、その由来するところは判明しない。四面神社は明治6年10月村社に列せられた。
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乙護神社
創立は不詳だが、平胤貞が建久3(1192)年に再建したとの記録がある。また建武3年(1336)に再々建されたとの記録もある。祭神は、多紀津姫命、多紀理姫命、市杵島姫命他五柱で、文禄2年龍造寺周家によって再建され、明治8年(1875)8月に村社に列せられた。今なお、生産の神様としてあがめられている。
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八幡神社
神体は八幡大菩薩で応神天皇が主神で、仲哀天皇、神功皇后を祭神として祀ってある。弓矢の神として信仰あつく、安元元年(1175)地頭の徳善太郎平益信が鶴岡八幡の分霊を勧請、建久六年(1195)祭殿を建立し、のちに鍋島平右衛門清久(直茂の祖父)の保護をうける。鍋島氏に由緒ある社であったので直茂の代となり祭祀を興し、寛永2年(1625)社殿が造営された。明治六年、村社に列せられた。
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虫供養塔 一基
重要有形民俗文化財
虫供養塔は、江戸時代全国的に行われた五穀豊穣を願って水田に発生した害虫を、村境の川や海まで送り出し、虫の霊を鎮め祭るという農民の素朴な祈りの行事のなかで建立されたものである。 『肥前聞書』に「毎年六月に虫供養風祭と申す事有之、其の入用高は相定り居候て、年貢の内より兼て取分被置候、其の節惣郡百姓中於屋宅酒食被下置候」とあり、県内においても虫供養が催されていたことが知られる。 塔は、方形基礎石上に建てられた高さ2.2メートル、長径0.56メートル、短径0.51メートル、厚さ0.3~0.36メートルの短冊形塔である。 碑面には次のように陰刻されている。 嵩 貞享二乙丑歳十一月十九日 謹奉讀大乗妙典壹萬部 為 五穀満田虫供養成就 碑表の下部に、深町村・北島村・扇町村など嘉瀬郷の村名と施主名が記されている。 貞享2年(1685)に各村々の祈願により建立されてものである。 当時の信仰風俗を知るうえで、県内唯一の虫供養塔として極めて貴重である。
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石造六地蔵 一基
重要文化財
柱状の竿石の上に中台をのせ、その上に6体の地蔵菩薩像を彫った龕(がん)部を安置し、さらに宝珠(ほうじゅ)のついた笠石をのせた形式の六地蔵と通称されているものが、県内には濃密に分布している。その造立年代は室町時代後期を中心にしていて、中世末期における地蔵信仰の隆盛さをしのばせている。 荻野の六地蔵は現地表面からの総高145.5センチメートル、竿石は四角柱状の二段継ぎで、この地方通例の下張り上窄みの梯形(ていけい)でなく、上下ともほぼ同大の角柱である。中台は六角平盤で、上面には各辺に応じて皿形の窪みを彫り込んである。塔身は六躰の地蔵を仏寵式に彫出した、この地方で数少ない造形である。笠は径56センチメートルの円形で、屋根の上面には中央の宝珠の部分から放射形に剣先文様の蓮華文が浮彫りされている。竿石に次のような銘が2列に線刻されている。 藤原朝臣㊨氏國宗〇 〇〇文明十六年甲辰二月㊐ 銘により、室町時代の文明16年(1484)の造立であることが知られ、県内で現在判明している最古の造立銘を有するものとして注目される。この六地蔵は笠石が破損しているが、竿石の上下のひろがりが少なく、六角形の葉状文のある中台、六角形に区切られた龕部、蓮華文のある笠石など幾つかの特色を有し、六地蔵の初現的な構造を知る貴重な資料である。