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[旧佐賀市][西与賀校区]は119件登録されています。
旧佐賀市 西与賀校区
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副島種臣二郎さんの風呂入り
古老の話に今津周辺で子どもが風呂に入りいい加減にして遊び上りよく拭きもせず着物を着ると、これを許して「二郎さんの風呂入り」といったそうである。これは副島種臣が今津に来てからの風呂入りをかく評したもので、日常生活にいかほど無頓着であったかを知ることができる。
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副島種臣浸水にも平気
二郎(副島種臣)が今津に来てから幾度か大潮にて本庄江湖の水がふとり、遂に今津の土手をこして副島家に侵入した。 養父吾左エ門は、手桶をもって家の中の水を汲み出しに一生懸命になっていたが、一方二郎はひとつも気にせず2階から、淡々として潮の満ちて来る江湖を眺めて平然たるものであった。 それを対岸の有重の人達は「吾左エ門さんは、あんな馬鹿者を養子してどうするつもりか」と、ののしったその声は今津方面に聞こえる程であった。けれども相変わらず平気で考えこんでいた。
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副島種臣犬神堀の投網
副島家の隣に、須古弥エ門の住宅があった。種臣が弘道館教授の当時、高太郎犬神屋敷(旧西与賀小学校の北東)の堀干しがあって獲物が多かったので弥エ門氏は種臣に、しきりに漁をすすめた。 その時種臣は机に向かい、読書三昧に入っていたため、何の返事もない。弥エ門は、更に大声を発して勧めてもやまなかったが、種臣は迷惑そうに、「先に行かれよ、あとで自分は参るから」と言い読書を続け読書一段落を告ぐるや、網を肩にのこのこと家を出た。 テボも持たねば別に支度もせず、しかも犬神堀にいたるや数回網をうったが、場所も動かねば、魚の取れよう筈がない、村人はあまりの事に呆然として見物していたが、種臣は、左様のことに頓着なく数回にして投網を肩に平気で帰宅し、再び机に向って、先の読書を続けたということである。
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副島種臣弘道館教授となる
実兄、枝吉神陽の心配で弘道館、目達原分校の教授に就任し、毎日徒歩にて今津より目達原まで、24kmの道のりを通勤した。 のち弘道館教授枝吉神陽の病没に際し、本館に転勤となった。当時、弘道館生徒であった清水熊之助氏(10代西与賀村長清水宇吉の父)の談によれば、朝食を済ましてすぐ種臣先生宅をたずね先生に伴われて通学していたが、出発前には必ず天をあおいで天候を見定め笠を横にしばり途中雨が降り出そうと、雷鳴にあっても一向平気で、何時も変わらない歩調を続けたという事である。 また、平素が無言無愛想で独り思索に耽り、時に直立して思案に沈むこともたえずあったと、もってその一斑を知る事が出来る。
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副島種臣親孝行
副島種臣は孝行心の深い人であった。 種臣が弘道館に通学中のことである。朝の空模様が悪いので、義父は今日は雨になるかわからないから高下駄をふんでゆけと言う。やがて義母は雨が降るまい下駄でよいと言う。種臣は一方高下駄、一方に低下駄を踏んで例の通り笠を頭にし、平気で弘道館に通学したという事である。
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副島種臣御庫番のこと
二郎が副島家へ入ってから無職で閉居し、読書三昧に耽るのみで、しかも家は左程財政も豊かでなかったから、親戚の一人が大いに心配して、ついに二郎を鍋島家のある御庫番に就職するようにした。 あたかもその当時、副島家に法事があって、親類会合する機会があったので、その席で吾左エ門と二郎に御庫番に定めてきた一件を誇り顔に報告した。二郎は柱にもたれたまま、全く耳にせずに何等の返事もしなかった。 よって、その人は、自分の好意を無視するものと大いに憤慨したので義父は、閉口の態であった。ここに親類の他の一人が先程から二郎の様子を窺うに、とても御庫番には見向きもしまじと思われる。 これは「大馬鹿か大傑物か二つに一つ、まあ怒るものではない。」と慰めて御庫番は、ものにならなかった。大賢愚に似たりとか、大馬鹿ではあるまいかと疑われた二郎が後年大傑物として天下に名をあげたのである。
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副島種臣長崎遊学につき平山翁の学資援助
長崎にオランダ人が初めて日本人に文物を伝来して以来、天下の士は奮って長崎に遊学する様になり種臣も、また志望に燃ゆること甚だしかったが、それを満たすだけの学資がなかったので養父吾左エ門は思い悩みの末、庄屋、平山栄十翁に相談された所、翁はただちに快諾されたので種臣は教授を辞し憧れの地、長崎に遊学することができた。 種臣が天下に識見を求むる基であって、明治維新後、一族東京移転後も吾左エ門氏は墓参りに帰郷する毎に平山家に立寄り、翁の1子を引受けて、学問をさしてやるからとの事なりしも、翁は遂にそれを受けなかったということである。
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子守唄
♪ひっちょこはっちょこ蜂の巣、蜂や山みや巣作りぎゃ、巣は作らじ嫁御見ぎゃ、その嫁御はどうじゃった。紅つけかねつけよか嫁御、今朝見たれば、ばけ嫁御。 ♪キョーヨンドン、キョーヨンドン山みや行くけん出たこんかん。ナタもヨキもたんたん。持たんないば貸そうだん。買いものはいやばん。茶つけ飯しや十三ばゃ。 ♪おろろんの焼餅ちゃ一銭がと九つ、まけて十いっちやいやい。 ♪あららん、こららん、子が出来た。この子はどうしておおそうかな。 ♪とことっと鶏の糞、あせって見れば犬の糞。 ♪ふとんかぶせて、ねじ殺せ、あけて見たれば猫ぢゃった。
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あやしうた
♪ちゅうしちゅうしいんばいばい、たんぐたんぐばあーきや。 ♪やれすんやれすん佐賀ん町いこうでちゃやれすんやれすん。 ♪大藪小藪ひくかいどうの蜂の巣、饅頭、きくらげ、鋤の先、鋤の先。 ♪おつむテンテンかんぶいかんぶいバッキャー。 ♪おらんおらんバア
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まりつきの歌
♪きょんきょんきょろばち、はちぞめろ、べにやのおかあちゃんの染物は、さってもさってもゆう染めろ、すずめのこまくらこまくらに、三ちょう車に水車水のほとりに腰掛けて、これこれもうここは何というところ、ここは信濃の善光寺、善光寺様に願い立てて梅と桜をあげました。梅はすい性で、もどされて、桜はおおいにほめられた。一寸一貫つきました。 ♪からうめ、からさき、からすが一匹飛んで渡った。このお手まりや誰に上げましょう。花の梅子さんに上げましょう。よううけとんさいのよう受け取りました。 ♪でこ坊や帰ろうや、もうかれこれ三時間、うちではね、民ちゃんがねまちこがれているんでよ、今朝ね、猫ね、ねずみ取ってちょい。
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金比羅神社
金比羅神社は香川県琴平町に鎮座し、船に乗る職業の人たちに海上安全の海神として信仰されています。厘外津に鎮座する金比羅神社は明治年間に建立されました。高橋を起点として厘外津に船着場が設けられました。本庄江が当時の海上交通の要所として重要なところでありました。この金比羅神社は昭和9年12月23日讃岐の国、金比羅神社の分霊を勧請して落成しました。
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日子神社
相応津の北端にあって祭神は伊邪那岐、伊邪那美、の二柱に天忍穂尊命を合祀している。寛永2年(1625)7月29日鍋島綱茂公の創建に係るという。現在の社殿は台風で崩壊したため近年改築したものである。祭日は毎年旧6月15日である。
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若宮社
相応津にあって応神天皇を祀る。宝永年間(1704〜1710)相応津氏子連中の建立である。
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若宮社
今津下に鎮座し、祭神は応神天皇を祀る。 近年、老朽化により解体され改築された。
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天満神社
今津上の中道にあって祭神は菅原道真を祀る。
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海童神社
丸目中程で信号機四角の左側にある。祭神は龍神であり丸目氏子の建立といわれている。祭典は旧11月1日と旧15日に行う。 竜王神社と海童神社も漁村に多いが、漁業との関係は直接でなく、漁村が一般に海岸近くにあって、海の被害を受けやすいために祀られているので、海の被害を受けて、海波の静穏と堤防の安全を願う沿岸住民の職種をこえた信仰である。有明海沿岸は沖積平野が広く存在しているため海面との高低の差がほとんどなく大暴風雨に見舞われ堤防が決壊すると沿岸住民は大被害をこうむるのであって、古来いくたびとなくその辛酸をなめ、海波の静穏と堤防の安全を祈念したとされている。
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熊野神社
熊野詣でとは紀伊熊野三山に参詣することをいう。平安中期から白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の各上皇などを中心とする貴族の参詣が盛んになった。鎌倉以後は武士、次いで一般庶民の参詣が始まり、全国各地から、時には数百人の集団参詣があり、江戸初期まで盛行した。この熊野神社もその頃この地区の人々が詣出して分神を祀ったものと思われる。 拝殿の横に祀られている天照皇太神宮の碑に造立年代が刻まれている。これによると寛永2年(1625)2月11日からこの地に造営されていることが判明する。 現在の鳥居は昭和50年12月に再建された。
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三社宮
この宮は高太郎部落の東に位置している。祭神は、与止日女大神、大神宮、権現と三神である。建立の年代は明らかでないが、境内にある参山権現の石祠に寛永2年(1625)2月吉祥日と銘が記してある。 このようなことを勘案すればこの頃に建立されたことは間違いないものと思われる。その他境内には庚申塔や、猿田彦命等が祀られている。
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楊柳寺
【山号】曹洞宗大悲山楊柳寺 【本尊】楊柳観世音菩薩 【開山】湛然梁重和尚 【開基】鍋島直茂 【由緒】藩祖鍋島直茂公が大病に悩まされた折種々の良薬も効果がほとんどなかった。そこで御本尊である観世音を御信仰され楊柳観世音像を現して「吾は鋤崎海中にあり、吾を迎えて祭れ」とのお告げにより迎え奉ったとされている。 この寺は明治に至るまで鍋島家との関係が最も厚く、盆祭、御施餓鬼会等が厳守されていた。
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楊柳寺縁起
当寺の創建は慶長3年(1598)にして、本尊は楊柳観世音菩薩なり。かつて鍋島直茂公征韓の役に出陣し、凱旋の後大病に罹り日々重態に陥られけらば、臣等一同、日頃公の信仰篤き楊柳観音に平癒祈願を籠(こ)めしに、数日の後、霊夢のお告げに、鋤崎(川副地区)海中に観世音の海底に埋没せるを知り、これを迎えて霊地を選び、一宇の伽藍を建立せり。これ時に、慶長3年6月19日にして霊感空しからず、公の病状俄(にわ)かに改りければ、同所を大悲山楊柳寺と命名せりと傳ふ。 以来公の信仰益々篤く、元和4年(1618)6月3日公の没後、勝茂公の宰領となり、信仰愈々篤きを加え祭祀の俸禄、堂宇の建築修營等の規定を設けられ、毎年例祭を執行さる。 また、鍋島家歴代の精霊祭を厳修すること爾来勤續今日に至れり。しかるに明治維新の改革(廃藩置県)に際し、藩主の待遇中絶され、時勢漸次(ぜんじ)衰退(すいたい)し、明治27年頃は堂宇全く廃れてただ寺院の形骸を留むるのみ。 しかるに15世住職早崎徳仙師は由緒歴然たる楊柳寺の衰退を嘆じ、憤然として起ち、その復興に専念努力すること多年に及びて、近時漸く山門の隆昌を見るに至れり。 ちなみに、開山は「葉隠」の傑僧湛然梁重大和尚(高傳寺11代住職)にして、山本常朝も膝下にて得道、仏道を修行す。近くは、陶芸家只一人の芸術院会員故青木龍山師は、若き日、徳仙和尚の導きにて今日在るを忘れずとて10年毎に来山し、過日大本山永平寺の法堂に、道元禅師750年(平成14年)の御遠忌に当り天目の大香爐を寄進し、若き日の報恩の一端に酬いし旨地元紙に報ぜらる。
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福寿庵
【山号】曹洞宗丸目福寿庵 【本尊】十一面観世音菩薩 【開基及び開山】不詳
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真乗寺
【山号】真宗紫石山真乗寺 【開山】親鸞上人 【開基】盛宥師 【本尊】阿弥陀如来 【由緒】開基盛宥師、寛文12年(1672)元相応に一宇を建立して二諦の妙教を伝え第4世恵林の時にあたり故あって、現在の地に移転した、時元禄12年(1699)である。
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祐正寺
【開基】祐円和尚(古川孫ェ門入道)慶長14年(1609)卯月29日生 【本尊】阿弥陀如来 【由緒】開基祐円和尚は、後陽成天皇の御宇、永正15年(1587)戊寅2月15日誕生。その祖は菅原右大臣の家臣古川氏の孫裔俗中飯盛の住人古川孫左ェ門西本願寺一派に帰依し、家は嫡子孫右ェ門に譲り出家す。しかして正親町天皇の御代天正元年(1573)55歳にして祐正精舎を建すとある。 要津山祐正寺は天正14年(1586)上飯盛村下分、現在の東与賀町中飯盛の地に古川孫左衛門尉法躰祐円法師の創建と言う。 それより100年を経て第4世宗信教師の延宝8年(1680)当舎を現在地の西与賀町元相応に移し、弥陀の本誓を開信する道場たることをここに法燈400年なりとある。 現在の建物は昭和4年に建立され、その後昭和43年に大改修されそのおり山門より棟札が発見され次のような銘が記入されていた。 ○寛延己巳貮季 大工石田右衛門尉 奉建立御堂宇現住桂秀小工数人 鑑治○賀伊左衛門惣棟 山門を入って右側に祐円和尚の墓がある。自然石を尖頭形にくりぬき高さ95cmで底部はいけ込みとなっている。墓碑の前面に次の銘が記されている。 慶長14巳酉 祐正教寺開基釋祐圓廟 また本堂中央の前面に縦70cm、横1mの額に親鸞上人の絵が描かれている。この絵は越後の国(現在の新潟県)居多ヶ浜へ御上陸のお姿を描いた貴重な絵である。これは広島県出身で、東光会会員の武永槙雄画伯の作とされ近年当寺に寄進された。
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泊舟院
【山号】曹洞禅宗海雲山泊舟院 【開山】慶長3年戊戌(1598)8月1日 龍泰3世当院建立 【本尊】観世音菩薩、達摩大現、文珠菩薩 【開基、由緒】不詳
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長勝寺
【山号】曹洞宗禅宗天性山長勝寺 【開山】相憐和尚 明治5年頃といわれている。2世中興改禅和尚 【開基】天室妙性大姉、天正11年癸未(1583)11月12日 【本尊】観世音菩薩 【由緒】開基は鍋島平右衛門藤原清久公御姪嫁
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香月寺
【山号】真宗天桂山香月庵 【開基】亮誘法師 宝暦8年(1758)6月 【本尊】阿弥陀如来
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海蔵寺
【山号】曹洞宗福聚山海蔵寺 【開山】一翁○賢大和尚、天正7己卯歳(1579) 【開基】江口三郎右衛門、正徳5乙未(1715) 【本尊】観世音菩薩
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円光院
【山号】曹洞宗大宝山円光院 【開山】活山詔撮 【開基】不詳 【本尊】千手観世音菩薩 【由緒】元和3年丁巳(1617)地方の人民、柱巌明幢和尚の徳に化せられて一宇を建立した。
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石造恵比須半跏像 一躯
重要有形民俗文化財
佐賀市内は、全国的に見ても恵比須像が濃密に分布している所として注目されており、恵比須像は、佐賀市の石像を代表するものの一つである。 商家では福徳神として恵比須を祭り、商家が栄えた宿場町など街路端に奉祠されている。 この相応津も漁場豊かな有明海へそそぐ本庄江に面し、かつては漁港としてまた商港として発達した津で、今日でも数多くの恵比須が祀られている。 この恵比須像は台座を含め座高58センチメートルで、鯛を左脇に抱き、右手を前に曲げて竿を執る態をなし、全体的に破損も少なくよく完構を保っている。 制作年は享保9年(1724)で、現在造立銘の判明している恵比須像のうち市内で最古のものであり、その価値が高い。