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[旧佐賀市][ 寺]は139件登録されています。
旧佐賀市 寺
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来迎寺
金立町来迎寺地区の北端にあって極めて由緒深い寺である。開基は鎌倉幕府の第5代執権の北条時頼が諸国巡遊の際肥前国上郷白水村(現在の来迎寺)に大源山称名院来迎寺を建立し、知玄上人を開山和尚とした。時の執権時頼の威勢と信仰の力を以って建立されたものでその規模は広大であったといわれている。
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来迎寺の伽藍さん
伽藍(お寺のこと)さんは昔、来迎寺の寺だったところで、現在のお寺より大分離れていて詞を御堂内に祀ってあり、現在はこれだけになっている。
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正法寺
大字東高木595番地にあって、山号高木山。正法護國寺を正式の名とする。臨済宗東福寺派に属し、春日の高城寺と共に、佐賀の同宗寺院を二分する程の勢力があったというが、それを物語るかのように後醍醐天皇綸旨を初め貴重な古文書が多数残っている。 山門前には 後醍醐天皇綸旨 正法寺 正安三年創立 昭和16年11月吉日 背水 高木誠一 建之 高木良次 と刻まれた石碑があり、又 佐賀市重要文化財(古文書)正法寺文書 昭和46年2月11日 と記された標柱も立っている。 広壮なる敷地に老樹枝を交え、域内清閑として町内随一の古さである。
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宗善寺
豊楽山 宗善寺(曹洞宗) 開山 太圭宗椿和尚 宗善寺には、大般若経六百巻がある。これは天保の頃、檀信徒の奉納によって揃えられたものであって、所蔵の木箱には牛島町武富大右ヱ門と誌されている。 この大般若経による御祈とうは無量の煩悩を取捨し、宝藏、社頭、家内、武運長久を祈るものであって、特に御祈とう文の中に庖瘡軽安なる文句がある所から見ると、古へ如何に庖瘡がまん延し、民衆がほうそうのために苦しめられていたかを物語るものである。御祈とうは法憧開基の牛島町武富氏の家宅を始め、上渕、下渕、東渕、徳永、友貞、二又、百石に及び百石村では正月15日が恒例とされ、現在でも2月の第1日曜に執行されている。 二又でもつい数年前まで行われていたという。若者達は大般若経を担ぐことを息災延命の祈願の一つであるとして争って志願していたという。 さて宗善寺において、特筆大書すべきものは、キリシタン燈ろうがあることである。この燈ろうを織部燈ろうであるとする説もあるが、織部燈ろうは桃山時代の茶人古田織部が美術品として考案したものといわれるが、この燈ろうについて昭和43年11月キリシタン燈ろうの研究家、鳥取市立民俗美術館長、松田重雄氏が鑑定された結果、宗善寺のものは全国で2番目に貴重なものと判った。 宗善寺の燈ろうは、笠石、あかり窓はないが、竿石の上部がふくらみ、竿石の上部にラテン語の〝父〟を意味する「ペイトリー」(PATRI)が刻まれている。下部にはガウン姿の男立像が刻み込まれている。さらに側面には、「岩松天風心来吟」、裏面には「錦上花舗又一重」の詩句が読める。これらの詩は松田氏の話では信者の「聖霊」といわれるもので、詩句がはっきりしているのは全国では東京、目黒の大聖院についで二番目の貴重な資料といわれる。つくられた時代はキリスト教弾圧がきびしくなった江戸前期の寛永、正保、慶安(1624-1647)ごろのものらしく、同氏はこの燈ろうを擬装時型と分類していられる。(昭和43年12月4日毎日新聞より)燈ろうが墓碑の脇に安置されているところから、吉次住職の話では、開基信重の甥重治が、寛永15年(1638)原城におけるキリシタン一揆討伐戦で戦死しているので、多分この戦争における記念品として安置されたものではないかということである。 正面参道の入口には、年代不明の立派な六地蔵が建っており、山門には明治35年10月吉祥日と書かれている。
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極楽寺
山号は、延命山浄土真宗であり、開設当時は法華宗であったが、浄土真宗開興とともに改宗されたと伝えられている。 本尊は、「阿弥陀如来」で、室町時代の作と伝えられているが、木造の本尊であるが作者は不明である。 開基は、了心で俗名「石井弥次郎又は弥三郎家久先祖石井式部大輔」とある。 堂宇の建立年代はつまびらかでないが、記録によれば天保三年(1832)に本堂は再建されている。また、書院は一式は、文化十三年(1816)丙子十月門徒中によって建築されたと記録されている。 極楽寺は、古い由緒ある寺ではあるが、その割には地方のいわゆる貴族、豪族というような古い墓はほとんど見当たらない。ただ特筆すべきものとして、明治7年佐賀戦争の犠牲者の墓2つがあり、地元上高木出身の原口寿七氏と早津江出身で江藤新平直属の香月経五郎の墓がある。 本堂は、昭和5年に瓦葺にされ、庫裏は昭和42年に改築され、本堂約50坪、庫裏その他約100坪の広さを有し、境内は約300坪、墓地は約800坪もある。
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父母寺
・臨済宗東福寺派に属し、両足山父母寺という。 ・開山 : 梅甫和尚 ・敷地 : 2反2畝14歩 御上納地 地米1石1斗8升7合 抱所 ・寄人天神 敷地5畝18歩 御免地 当寺の墓地である通称築山の上に、多々良家と三浦家と2つの豪族の墓地が並んでいる。両家は父方か母方かいずれにしても密接な縁故関係にあり、両家でこの寺を創建したものであり、それ故に寺号を父母寺と唱え、山号を両足山というのも、多々良、三浦両家は両足の如く、父母のごとき関係にあったから、この寺を両足山父母寺となずけたと言うことは素直に解釈される。 開山は梅甫和尚であることは正法寺に残されている記録によっても明らかである。由緒記その他の記録が火災によって焼失しているので詳細は不明であるが明治30年に作成された過去帳はある。歴代和尚の大略は判明する。
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浄蔭寺
山号は天眞山といい、黄檗宗に属する。鍋島勝茂公の4男、直弘は山城守と称し、三養基郡みやき町白石の2万2千石余の城主で、室は萬夫人で佐賀藩武雄領鍋島若狭守茂綱の長女である。領地は、佐賀郡西渕の上下、今の上渕、下渕、東高木の辻あたりと平尾の四丁籠なども所在し、辻地区に館を設けていた。直弘は寛文元年(1661)7月、44歳で没したので、萬夫人は剃髪し名を法樹道人と改め、辻の館に移り黄檗宗祖、隠元禅師の曽孫、碧湖元達禅師に接し仏門に入った。天和元年(1681)6月17日享年59歳をもって示寂した。正貞院殿法樹浄蔭禅師と称したが、禅師入滅に当り、嫡男の白石2代藩主鍋島大和守直氏に遺命して館をもって寺となした。夫君直弘の法号を盛徳院殿前雍州大守天眞日玄大居士といったので、山号を天眞山とし、寺名を法樹浄蔭禅師にちなみ浄蔭寺と名づけた。 開山は碧湖禅師、開基は浄蔭禅師である。 当寺は支藩ではあるが、鍋島家の菩提寺として法燈さん然として輝き、黄檗参禅の道場として重きをなしていたが、文政11年(1828)の大風で堂宇倒壊し、直ちに再建されたものの、明治維新で廃藩となって藩よりの扶持も絶え、明治28年の大暴風雨で崩壊してしまった。後小宇を建立したが昭和28年の大風水害にあい、今は往時の盛観を見るべくもない一小堂に鍋島家ゆかりの幾多の位牌が安置されているに過ぎない。
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祝融山 天福院
曹洞宗(龍雲寺末寺) ○本尊 薬師如来 ○創立 元和元年(1615年)※ 開山演渓融音禅師、開山希伯瑞龐禅師、開基隨公宗正大姉 天福院の先々代住職(第二十七代)、渡辺鉄肝和尚は、日本初の養老院を佐賀に立てた事で知られている。 明治40年アメリカへ留学した鉄肝和尚は、勉学に打ち込む一方貧困者救済にも関わり日本に帰国した後、アメリカを見習って護国神社の南隣り(川原小路)に養老院を建設した。以来、その運営に心血を注ぎ、天福院との間を下駄の音高く往復する姿を見て、人々は「鉄肝さん」と呼び敬愛した。 寺の入り口にある「養老院」と書かれた大きなお墓には、養老院で亡くなった身寄りのない人々が葬られ、今でも手厚い供養が行われている。 また、この寺には「佐賀の夜ばなし」(「市報さが」昭和49年9月1日号、福岡博著)で語られている円蔵院物語の村了の墓がある。 佐賀市城南(現在の赤松小学校)の南にある圓藏院は、天文14年(1545)の正月、川上(大和町)と祇園原(神埼町)で、馬場頼周にだまし討たれた龍造寺家純、周家、純家、頼純らの菩提を弔うため、周家の未亡人慶誾尼が建立した曹洞禅寺である。 佐賀藩では、二代藩主鍋島光茂の時代に、龍造寺家と鍋島家に縁故の深い高伝寺、慶誾寺、静元寺、宗竜寺、竜泰寺、天祐寺、宗智寺の7か寺に特別の保護を与えることになった。しかし圓藏院は漏れていた。 そこで、圓藏院の時の住職村了和尚は、「龍造寺家一門の墓所のある圓藏院も、前の7か寺と同格に優遇していただきたい」と願いでたが、返事もなく、果たして光茂のお耳に達したやら、はなはだ心もとないありさまだった。 業をにやした村了は意を決し、鍋島一家が慶誾寺に参拝のとき、焼香台の下に身をしのばせ、光茂に「お願いでございます」と叫んで上訴状をささげた。 当時、直訴は重罪で、その場で捕らえられた村了は、八戸の天福院で処刑されることになった。いよいよ首を切られるとき、村了の形相はものすごく、検視の役人どもをにらみつけ、「村了の肉体はたとえ切られても、わが一念は切られはせぬ、いつまでも現世にとどまって望みを果たす」とのろいながら、首をはねられた。 丁度それと同時刻に、佐嘉城門を風のごとく通り抜け、玄関へ急ぐ僧侶があった。その格好は、切られたはずの村了和尚とそっくりであった。僧侶が本丸の玄関に立った瞬間、光茂の妾腹の子が火のついたように泣き出し、間もなく息絶えた。 このような不祥事が日ごと続き、夜は火の玉が飛ぶようになった。高伝寺の湛然和尚は、村了の助命を願い出ていたが、出家を処刑したことに抗議して、さっさと高伝寺を出てしまった。さすがの光茂もこの事件に驚き、圓藏院も先の7か寺と同様に優遇することとし、本尊として観世音仏を刻ませ、村了の位牌を納めてその霊を慰めた。 村了のおん霊にたたり殺されたといわれる庶子十人の肖像は、十仏と唱えられ、水ヶ江の宗竜寺に残っている。なお、村了の墓は天福院、供養塔は圓藏院に現有している。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p181、「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」によれば、「当寺儀は創建年月不詳、開基演渓融音禅師隨心宗□(※正)大師三世暁岩和尚元和元年従龍雲寺退穏于当時、陽泰□(※院)様御帰依有之敷地弐段八畝御寄附被遊」とあり、元和元年は三世暁岩和尚による中興の年で、創建年は不詳とされている。
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祥雲山 廣福寺
曹洞宗(龍雲寺末寺) ○本尊 千手観世音菩薩 ○創立 寛永2年(1625) 開山傳國宗的禅師、開基不詳
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慈眼寺
臨済宗 ○本尊 薬師如来 ○創立 文明八年(1476)、 開山材用、 開基不詳
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宗智寺
【名 称】日峰山 宗智寺 【宗 派】曹洞宗 【ご本山】永平寺 総持寺 【本 寺】山口県 瑠璃光寺 【御開山(初代住職)】不徹桂文大和尚 【開基(お寺を建立された方)】鍋島直茂公 (戒名)高伝寺殿日峯宗智大居士 【開 創】元和4年(1618) 【由 来】 鍋島直茂(藩祖)は、慶長15年(1610)、73歳で家督を嫡子勝茂(初代藩主)にゆずり多布施の館に隠居した。隠居中には自然石の墓標(現高伝寺)を建て、元和4年6月3日、81歳で亡くなった。 遺骨は、直茂の遺言でこの地に葬られた。これは、「もし乱世になって、他国より佐賀へ敵が押し寄せてくる時、北への守りがとくに大切である。自分がここに埋まっていれば、家中の者はこの地を敵の馬の蹄に懸けまいと奮戦し、城下に敵を入れることはなく持ち堪えられる」との賢慮があってのことだと伝えられている。 元和4年8月に藩主勝茂は、藩祖直茂の菩提のために寺を建立し、直茂の戒名「日峯宗智大居士」をとって山号を日峰山、寺号を宗智寺とした。
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大興寺
黄檗宗 瑞龍山 大興寺 【開創】 天和3年(1683)本寺の前身、神埼の朝日山安国寺末の即宗庵を再興許可、3年後の貞享2年(1685)3月に諫早家4代茂真の室鍋島山城直弘女、伊勢菊[天保2年(1645.5.3)〜元禄9年(1696.7.11)戒名・霊光院殿聴松実操大姉]が勧請開山となる桂巌明幢(けいがんみょうとう)禅師に帰依して開基となり、元禄14年(1701)6月に当時の寺社奉行、小城の臨済宗三間山円通寺の直触となり、元禄16年(1703)9月に同寺末の廃寺大興寺の寺号を取り、「大興寺」と改名された、と済家宗由緒などに記述されている。 【沿革】 諫早家の往来が盛んだった江戸時代には、「七間四面の本堂、四間に四間の禅堂(雲水の修行道場、坐禅堂)、庫裡、鐘堂、鼓堂、楼門など、伽藍完備し、寺門頗る繁栄したもの」との記述が残る。が、明治維新後諫早家は撤退、急速に寺は衰退し、明治14年には本堂が売却される事態、加えて台風等の自然災害も重なり、一旦は住職も途絶えてしまう。 明治末に寺領復活、先年までの景観を保った庫裡本堂等が整えられた。昭和40年頃の区画整理時までは、鳥居式石門(山門)は現在地より約3m南にあり、参道は桜並木で、花見の季節には店がならぶ賑わいがあったという。 平成18年2月13日未明の失火により本堂、方丈が消失。多くの寺宝まで瞬時に失い、再度、再興の機縁に遇う。新本堂は平成21年度に竣工、再建された。 【石門の様式】 大興寺の門柱式の石門は、旧肥前国内に限って集中してみられる。江戸時代に流行した禅宗の一派である黄檗宗とともに広がった中国趣味をよく反映していて、他には、霊源院(長崎市)、性空寺(諫早市)、普明寺(鹿島市)などがある。 大興寺の石門には、天保6年(1835)の刻銘があり、これら石門の門柱式の形式も垂直性の強い中国的造形と考えられる。
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福満寺
【名称(山号)】護国長尾山福満密寺 【宗派】真言宗御室派 延暦23年(804)、伝教大師入唐に際して発願した寺と言われ、初め天台宗であったが、後に、真言宗御室派に属した。名前の由来は、長尾の鳥が、「福、福」と鳴いたことにちなんで付けられたと言う。 ご本尊は、最澄(伝教大師)が、沈香木をもって、薬師如来の木像を刻んで安置されたもので、日本七薬師像の1体であるが残念ながら火災にあって、重要文化財の指定がなされていない。 昔から、崇敬厚く、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所となり、鎌倉時代になって、源頼朝、足利尊氏の当国における祈願所になり、北条時政の伽藍再興、足利直冬の山門建立、金堂補修が行なわれたが、その後、火災にあい、龍造寺、鍋島が共に再建して、寺領を与え、尊崇した。 この寺に伝わる室町末期から安土桃山期の作と推察される「紙本著色福満寺古図」には、足利直冬による補修後の七堂伽藍の配置が描かれ、境内8町1反歩、寺領計400町歩、坊官22人などの記載がある。 その境内は、東北の入口は、犬尾の疣地蔵、東は増田、南は川副町中古賀の「ヒャーランサン」、西は、南佐賀の古賀橋(ガランサンがあった所)、北西は、枝吉のバス停の所(以前、地蔵様が祀られていた)と、その広さが想像される。 毎年5月7日から15日まで、お経会(きょうえ)が行なわれ、県下から多くの参拝客が参詣に集まり、道端には出店が並んで、非常に賑やかであった。 後に、川上の実相院で始まったお経会に、参拝者が移ったりして、戦後は、昔ほどの賑合いはなく、日時も今は5月1日から5日までに変更されている。正月には、大般若さんが、第2日に行なわれている。お経会は、三界万霊の供養と参詣者の仏縁、塔婆供養も行なわれる。
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大応寺
北条時頼が西国廻国の時熊本より有明海を渡り、肥前の国に来られた。その時たまたま大風にあって、航海に非常に難儀され、海底に潜らせて石を8個拾って、八代竜王として祀られたところ、波もおだやかになり、無事に渡ることができ、海岸にあがって、その中の4個を持参し、八田江のほとりのこの地に祀って寺を起こされた。 これが現在の大応寺の発祥である。 現在もこの4個の石は観音堂に祀ってある。開基は、弁重大徳、これが時頼公と思われる。 開山は月峰和尚大禅師。 時頼公入寺以来、民心は安定し、益々寺院は繁栄し、広大な地域に七堂伽藍が完備されてその威厳は荘厳だったという。領地約50町歩、他に三養基郡に3か所、神埼郡に2か所、大牟田市付近に2か所、以上の広い寺領地を所有していた。 本尊は時頼公を祭主とし、愛宕山の勝軍菩薩(秘物)で蓮華座に坐る1尺3寸の仏像が祀られている。その後時代の変遷と共に、寺院は衰微の一途をたどり、今日では伽藍の一部を残すのみとなる。 この様に700年の長きにわたる由緒ある、大応寺であり、江上の福満寺と共に旧き歴史をひもとき、北川副町の誇りのためにも、檀信徒の皆様の、仏恩報謝と祖先に対する報恩感謝の無限の願いを念ずる思いを認識され、禅宗南禅寺派の寺院の安泰を計られたい。 また境内には、軍国比翼塚と江副次郎、美子二人の墓が建っている。
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岩松軒
【名称(山号)】黄梅山岩松軒 【宗派】曹洞宗 【開基】龍造寺隆信の実弟長信(初代多久邑主) 【本尊】聖観世音菩薩 慶長6年(1601)2月、長信64歳のとき、入道して天理元信と改称して聖観世音菩薩をこの本尊として安置した。のちに高伝寺和尚を通じて岩松軒と命名した。 慶誾寺3代文応和尚を招いて開山とし、妙郷1千部の読経を修めさせた。この寺は、長信の領内の水ヶ江の館にあって、境内には、石造の十六羅漢が安置されている。 昭和20年8月の空襲によって焼失したが、再建されて今日に至っている。
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長安寺
【宗派】曹洞宗 【本尊】薬師如来 万治元年(1658)正月、鍋島忠直公の御意志を受けつぎ、光茂公が建立され、開山萬休禅師を請招して、当寺を建立された。それから相継いで今日に至っている。 当寺には、先代より特種な祈とう(ホヤケマジナイ)秘術が受け継がれており、諸方からの参詣者も多く、小児のホヤケマジナイは特に不思議な奇効があると言われている。 境内には、マジナイ堂もあり、先代の知獄和尚は、説法にすぐれて、よく仏法の伝導をされていた。
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弘生院
【宗派】曹洞宗 当寺は、700年来の古刹(こさつ)で、建保元年(1213)、人皇84代順徳天皇の御代、和田義盛が北条義時に亡され、その一族の和田八郎義胤は、身一つで危うく九州に逃れ、その際、十一面観世音菩薩(藤原光長の作)奉持して、この地を選び、真言宗の寺を建て、補陀山弘生院と名付けた。和田家一族の菩薩を弔うため自ら出家して、大観弘生法師と名乗り、大いに観音を信仰し、一般信徒の教導に努めた。 それから500有余年の後、享保8年(1723)、人皇第114代中御門天皇の御代、徳川8代将軍吉宗の時代、佐賀郡春日村、玉林寺第9世勅持賜大龍渭川禅師を当寺の法地開山に請じて曹洞宗に改め、今日に至っている。 その間、第14世祐孫和尚のとき、ほとんど廃寺になろうとしたが、当寺の由来にちなんで33身の観音の霊場を建設するほか法華8巻の1石1字を書いて、妙典法塔を建立し、加えて、幾多の樹木を植栽して、風致を整え、最近水子地蔵菩薩を建立し、多くの信徒の信仰を集めている。 第16世道智師は、大正2年長崎医学専門学校を卒業され、エキリの特効薬を調剤され、評判になって、よく売れていた。また、祐憲師は説法伝導に励まれていた。
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本願寺
【宗派】曹洞宗 【開山】寛永5年(1628)禅宝栄林大和尚 慶長7年(1602)藩士吉田太郎衛門と桂窓妙賀禅定尼(俗名不詳)が建設したといわれ、川副郷七仏薬師如来の一つで楠材の薬師如来が御本尊として祀られている。開基家の子孫は、佐賀市高木瀬町東高木に居住の吉田氏で、本寺は佐賀市本庄町鹿の子27番地の船若山慶誾寺である。 寺号から見て曹洞宗以前は浄土真宗系の寺院ではなかったかとみられている。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p93によれば、「開山 慶誾寺四世在室大和尚 寛文五年十一月廿二日」とあり。
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阿弥陀寺
【宗派】浄土宗 【開基・開山】不明 龍造寺家臣による天正時代(1573~1591)以前の開基で、約500年前と思われる。佐賀藩初代藩主勝茂公に追腹殉死した韓国人洪浩然の墓がある。 洪浩然は藩祖直茂公が朝鮮出兵の時、慶尚南道晋州色で筆をかついで逃げる子どもを見つけ、この子はきっと文学の才があるとつれ帰った人物で、勝茂公の学友となり、側近となって800石の重職についた。 勝茂公が江戸で死んだと聞いて、菩提寺の阿弥陀寺で追腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士として称讃された。昔は今宿川から舟で墓砂を揚げていたという。 東京海城学園(海軍兵学校の前身)の創始者、古賀喜三郎海軍大佐の墓もある。寺内に観音堂があり多数の信者で講会が開かれている。
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光教寺
【名称(山号)】潮信山光教寺 【宗派】真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来立像 【開基】順智 【開山】天正15年(1587)光山慈観教師 13代光山慈敬教師は、明治26年京都仏教大学を卒業後、本願寺学局に務め、山口県開導教校の総監、また仏教中学校長に任ぜられる。 明治34年高輪大学の教授兼監事、4年後龍谷中学校長に就任され、北陸中学校長に転じ、大正元年福岡教区監事、同3年本願寺財務部長、同6年7月帰郷、大正2年には経蔵を建立されている。14代慈等師は、朝鮮京城の龍谷高等学校教諭、昭和19年佐賀龍谷中学校奉職、学生を可愛がり教導に力をそそがれていた。11代慈善師は勧学であったという。 宝物文化財五劫思惟如来座像、十六羅漢2幅がある。五劫惟とは、長い間思索をこらす事で悟を開かんとする姿である。
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宗専寺
【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【創立】不明 親鸞上人を宗祖とするこの寺は、昭和20年8月の空襲で、一部の過去帳、諸記録を焼失したために、創立の年代は明らかでない。 しかし、大坂夏の陣の前年、即ち慶長19年(1614)からの過去帳によると、ほぼ360年以前の建立と考えられる。 第2世玄益のときから、今日の寺号を許されており、第11世貫簾は、18歳で遠く日田の広瀬淡窓の威宜園で学び、当寺を継承してからは、学問のかたわら、立生花を指導して、池坊華道の九州総会頭職として、広く福岡、長崎など、数百の門弟に教えていたと言う。 「逝去の会葬には、千余の会葬を得し」とあり、いかに多くの信徒の崇敬を得ておられたかをうかがい知ることができる。 その子12世貫夫師は、村の奉仕活動家として活躍され、今の幼推園の先がけとも言える託児所を創設され、農繁期中は、農家の子どもを預かって世話をされた。
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光源寺
【名称(山号)】紫金山光源寺 【宗派】浄土真宗本願寺派 【本尊】阿弥陀如来 【開基】浄勝(俗名・前田源左エ門) 【創立年代】天正12年(1584) 昭和20年8月5日の空襲で本尊の阿弥陀如来像と山門だけが残り、外は皆焼失した。門徒過去帳もなく、昭和30年5月に今の本堂、昭和49年、昭和63年に庫裡の新築が終り、今日の姿になった。 ※『佐賀県近世史料第十編第三巻』p133によれば「開山浄勝 俗名前田源左衛門光法、天正二年草創」とあり。
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乾亨院
【宗派】南禅寺 臨済宗 【山号】四徳山 佐賀城本丸歴史館と城堀を隔てた南東の地点にあり、龍造寺隆信の生誕地と隣合っている。 永正年間(1504〜1521)隆信の曽祖父、山城守家兼(剛忠)の創建で、その弟天亨和尚が開山。この乾亨院には、明治7年の佐賀戦争に戦死した陸軍将兵が埋葬され豪壮な大理石が3基ならんで建てられている。右が中隊長大池蠖二大尉以下2名の将校の墓。中は下士官20名の階級と氏名が刻まれ、左が兵卒75名と軍属9名の身分、氏名が刻まれている。3基とも背面には「明治7年佐賀役戦死者の墓」と刻んであり、裏面には白川県、第二大区九区宮内村と刻んである。白川県は明治16年熊本県となる。墓碑にある隊号は、熊本鎮台第十一番大隊のことで、佐賀不穏の情報によって鎮圧のために派遣されたものである。新任の岩村通俊佐賀権令とともに佐賀城に入り、佐賀軍と銃火を交えて敗北した。この寺の境内には官軍と戦った征韓党の実際の指導者だった朝倉弾藏の墓もある。
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寶琳院
【山号】恵日山 【宗派】天台宗 【本尊】聖観音菩薩 和銅4年(711)行基建立と伝えられ佐賀城下鬼丸町の南部にある。龍造寺氏の本拠に近く深いつながりをもっていた。長く衰微していた龍造寺氏を龍造寺康家が復興した。龍造寺の家系図によると、明応年間(1492〜1501)に水ヶ江城の館に移った水ヶ江龍造寺氏の祖康家の4子澄覚(家兼の兄)が開山し、住職となった。その後歴代の住職は龍造寺家から出た。2代目は家兼の孫にあたる豪覚であり、また豪覚の兄周家の子である胤信(隆信)は7歳で出家して寶琳院へ入り円月(圓月)と称した。のち還俗して五州二島の領主とよばれるほど勢力を培った。隆信の弟信周や、隆信曾孫にあたる伯庵(高房の子)の墓がある。
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龍泰寺
【山号】平安山 【宗派】曹洞宗 【本尊】釈迦如来 寺号は「龍造寺安泰」の意による。龍造寺隆信が少弐氏の館跡を選んで、永禄6年(1563)わが家の菩提寺とするために建立した。隆信はもと天台宗の僧籍から還俗して宗家をついだ人。かつて円蔵院の怪火を鎮めた大用和尚の法力を感じて、曹洞禅を信ずるようになったと伝わっている。天正12年(1584)隆信が島原(沖田畷)で戦死したので、この寺に墓所を築き、夫人や子の政家夫妻も葬った。その後龍造寺の血脈伝える村田家の歴代もここに葬られ、龍造寺ゆかりの寺である。その後隆信は宗龍寺に、政家夫妻の墓も高傳寺に移された。明治4年鍋島家において、多くの寺院に散在する龍造寺、鍋島両家の墓を高傳寺1か所に集めることになった時、隆信夫人も移葬され、龍造寺の系統としては村田家だけが残っている。またこの寺は佐賀藩士鍋島家の菩提寺であって、同家代々は勿論、明治、大正を通して偉大な政治家であった大隈重信の墓も境内にある。また重信の母堂三井子自ら寄進された自作の「蓮の曼陀羅」も寺宝となっている。 このように由緒ある寺だが、何度かの火災のため寺宝が亡失したことは惜しいことである。本堂は佐賀戦争で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」解体されたものを大正初年頃この寺の本堂に改築されている。創建当時の壮大さと比べることはできないが、建物・境内とも巨刹(大寺)の偉容を保っている。
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慶雲院
佐賀城跡南東の位置にある。吉祥山慶雲院と号し、臨済宗南禅寺派。現在は無住。水ヶ江城は明応年間(1492〜1501)に設けられた。龍造寺家兼の父康家が永正7年(1510)に没したので、ここに寺を建立し、後に家兼夫妻を葬ったといわれている。慶雲院の名称の由来は康家の戒名が慶雲殿○○○だったので、慶雲院と称したといわれているとの事。現在この寺の管理、お世話は瑞龍庵住職がされている。
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宗龍禅寺
正式名は、金剛山宗龍禅寺(龍造寺隆信公の法号「法雲院殿泰巌宗龍大居士」に因んで定めた)。 天正16年(1588)5月、龍造寺山城守隆信公の冥福を祈る菩提寺として、佐賀藩祖鍋島直茂公が佐賀城、城内の鬼門に建立し、城の守護神として崇拝した由緒ある名刹である。現在まで400年以上の永きにわたり連綿と法灯が守られている。 本尊釈迦如来を祀り、大本山を吉祥山永平寺(福井県)とする曹洞宗の禅寺で、佐賀藩主より石高(地米)200石、寺領19町8段(19万6364㎡)、敷地(鋪地)8段6畝6歩(8588㎡)を拝領していた。当時、200石を佐賀藩より拝領されていたことは、如何に藩主が龍造寺家に対して配慮していたかをうかがわせるものである。 慶長12年(1607)江戸で自刃した隆信公の孫、駿河守高房の遺骨を泰長院からこの寺へ移葬したが、不祥事が続いたので別に天祐寺を建ててそこに祀った。(これが、「佐賀猫化け騒動」の発端とされている) 隆信公の墓も明治4年、高伝寺へ移葬された。 山門を入って北側に日支事変の際、江湾鎮の旧戦場で壮烈鬼神を泣かしめる最後を遂げた典型的な葉隠武士、空閑昇少佐の墓がある。 裏の墓地には、「佐賀の夜桜」で有名な日本五大騒動の一つである「猫化け騒動」で怪猫を退治したと伝えられる忠臣小森千左衛門(講談では小森半左衛門となっている)の墓がある。 また昔、神埼郡三田川村箱川を領していた佐々木四郎高綱が宇治川先陣の用いた鞍をこの寺に納めたと伝えられている。 明治7年の戦争の際には、中立党であった前山精一郎一派の集会所になっていた。
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養福寺
安住山養福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で「一向宗由緒書 乾」によると、慶長年中(1596〜1614)に陽泰院(鍋島直茂継室)に奉公していた田崎氏の妻が、一子嘉右衛門の柳川陣へお供した際に戦死後、尼になり「妙忍」といった。主君の菩提と夫子の後生を弔うために一宇建立を願い出て認められた「御建寺 御城下八ヶ寺」のひとつ。所在場所は鷹匠小路ではなく「虎次小路」と記されている。尚住職は代々田崎氏が勤めている。 御城下八ヶ寺とは、願正寺(高木町)・真覚寺(駄賃町)・正蓮寺(高木町)・蓮生寺(岸川町)・正運寺(高木町裏)・専光寺(下今宿町)・妙念寺(愛敬島村)・養福寺(虎次小路)のこと。 「一向宗由緒書 乾」(鍋700−2) 御建寺 御城下八ヶ寺 一 虎次小路 養福寺 号安住山 法官無 慶長年中田崎氏之妻 陽泰院様へ御奉公申上 一子嘉右衛門柳川御陣御供仕戦死之後 蒙 御免尼ニ成妙忍と申候 主君之御菩提次ニハ夫子之後生をも弔わん為に一宇建立 を奉願候処 陽泰院様其志を御感被遊 如願被仰付旨従 陽泰院様久池井弥右衛門を以 被仰渡候 右為御礼 御城罷出候節手織の木綿壱反串柿一連差上候処殊之外御笑御悦 被遊候由 右之謂を以不相替毎歳年始ニ御礼申上来候 但御礼物白麻壱束弐本能扇子
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円蔵院
佐賀城跡の南に位置する。福厳山と号し曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。龍造寺家兼(剛忠)によって天文14年(1545)建立されたもので、同年正月馬場頼周らにより川上や祇園原(神埼市神埼町尾崎)で討たれた子の家純、孫の周家・澄家・頼純、そして天文7年に病死した家純の次男で宝琳院の住職であった豪覚などの供養のためであった。寛文6年(1666)住職の村了が寺格の問題で2代藩主光茂に直訴して死罪となった。これは、彼を助けようとした山本常朝の師、高伝寺の湛然が華蔵庵(佐賀市大和町松瀬)に移る原因ともなった事件である。
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光円寺
龍造寺隆信の家臣、木下伊勢守入道覚順の次男が18歳のとき京で僧の修行した3年後、仙叔蔵王と称し、天文23年(1554)に中館前の伊勢守の屋敷の一部に道場を建て、仙叔(栄寺)を開山して光円寺を開創した。ここに墓がある。