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[旧佐賀市][ 橋・井樋等]は123件登録されています。
旧佐賀市 橋・井樋等
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更生橋
NTT佐賀支社の西にかかる橋で「更生橋」と意味ありげな名前である。 昭和の初期、近くに裁判所がありそこへ通ずる橋なのでこの名になったのかもしれないが、記録が定かではない。
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校西橋
その名の通り、成章中学校の西門にかかる橋。 校南橋と同じ、昭和9年の建造。
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校南橋
成章中学校の南の十間堀川にかかる橋で、昭和9年竣工の古いもの。 りっぱな親柱と強固な欄干が特徴的である。
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六反田橋
愛敬町の歓楽街にあって、親柱が特徴的な橋である。 1950年製でコンクリート橋の重厚感を持たせるために、このような外観を施したものと考えられる。
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鈴蘭橋
向榮橋の次に、十間堀川にかかる橋である。 当初は、恵比須橋と呼ばれていたが、白山恵比須班の人達が力を合わせ市の補助などを受けて施工された。 この橋の奥が「すずらん通り」と呼ばれる
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向榮橋
昔は、「土橋(どばし)」という名で呼ばれていた。 江戸時代には、お城下と唐人町を分ける十間堀川にかかる数少ない橋のひとつであった。
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松園橋
「松園橋」は、その名の通り、松原とその北側にあった「銅像園」をつなぐ橋。 大正12年11月10日、鍋島直正公銅像の除幕式があり、その日の内にこの橋の竣工式と渡り初めが行われた。
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松原橋
県庁通りと中央通りにふたつの橋がかかるが、両方とも「松原橋」となっている。 中央通りの方は、佐賀市のメインストリートの橋という事もあり、欄干の素材や親柱の看板名共にとてもきれいな石造り。
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太鼓橋
松原神社東正面の太鼓橋。 松原神社は、藩祖・鍋島直茂を祀るため、8代藩主・鍋島治茂が、安永元年(1772)に創設した。社前の石橋も同年5月15日に完成している。
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楽天橋
この橋を渡ると向こうには何があるのかと、期待するという。 眼鏡橋、橋の南は飲食店の歓楽街。
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三百紀(みほき)橋
松原神社西北、飲み屋街東入口。 橋が改造されて「みほきはし」と刻んだ親柱が南から北の道端に移された。西南にある親柱「藩祖三百年祭記念工人」とある。
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お観音さん前の樋門
開成二丁目にある幹線排水路の井樋は、お観音さん前にあり、新村川と立体で交差している。立体に交差している所は沖田の長堀の井樋と2ヶ所で、この井樋は昔排水路の底が高くて冬の渇水期は水の流れが無く、主に洪水時の予備排水路として使用されていた。
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六の角の井樋(アルタ東)
お観音さん前の井樋の上流、ショッピングセンターアルタの東に在る井樋で、上流は戦前、植木川の傍まで伸びていた。この井樋は野越し井樋になっていて、底井樋は常に閉められ野越し部分で水の調整がなされる。成富兵庫茂安の考案と思われるが佐賀には、こんな樋門が姿形を変えて、あちらこちらに見ることが出来る。
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長堀の井樋
開成6丁目の中央の新村川と立体交差している井樋である。新村川が人工河川である証拠でもある。昔は掘の幅も広く草等無く新村の幹線排水路として大事に管理されて来た井樋と水路である。この井樋を締めれば、上流の旧新村の地域内の堀の水は下流には全然流れない。5月頃田植が近づけば、井樋は締められ、井樋番がきめられていて、洪水となれば速やかに開放される。
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練兵場橋 (れんぺいじょうはし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「練兵場橋」の名称が残っている。 この場所は、戦前の軍事施設「練兵場」の北西角、民地側との境界地に当たり、この新たな「練兵場橋」が出来るまでは、地域の人たちが通るただの石橋(橋の名称・欄干も無い)が存在していた所である。 昭和48年1月、現在のコンクリート橋が成工され、当時の関係者が練兵場等の軍事施設が存在した歴史、事実を後世の人達が忘れないようにとの配慮から、この橋「練兵場橋」と命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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蓮堀橋 (れんぼりはし)
練兵場関連の名残として、橋の欄干に「蓮堀橋」の名称が残っている。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のための埋め立て用地の土砂を採掘したため、一面窪地の堀となり、一帯に蓮が栽培されていたことから、当時この堀を「蓮堀」と呼称していた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻され、宅地造成がなされて、新たな水路の上に昭和46年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に伝え、忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 今は、橋の名称以外に往時の姿は残っていない。
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土取橋 (どとりばし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「土取橋」の名称が残っているものである。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のため、埋め立て用地の土砂を採掘したために一面堀となっていた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻されて、宅地造成がなされ、新たな水路の上に昭和44年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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「陸軍用地 一」の境界地用石碑
旧日本陸軍の練兵場、陸軍用地と市丸氏所有の農地との境界に立てられていた石碑が残されている。 終戦とともに、軍は解散し境界地に転倒したまま放置されていた同石碑を自宅で保管しているもの。 当時、現場に立てられていた場所は、当時の練兵場北西角で、現在の県営テニスコートの南西角の位置であった。 石造物の大きさは、高さ1m、横幅18cm、縦幅16cmである。
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神園大橋
多布施川にかかる橋で、神野校区の最も北に位置している。 都市計画街路で、若宮〜新村線。長さ17メートル、幅19メートル。 もとレンゲソウの咲いた田園も、今は新住宅でぎっしりと埋め尽くされ、西部環状線(国道208号線)まで空地がないほどになった。開通式は昭和55年4月21日に行なわれた。
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公園北橋
多布施川にかかる橋で、もと「勝鬨(かちどき)橋」という木造橋であった。すぐ東が佐賀競馬場で、馬が走る時は、わあわあ喚声がひびきわたり、勝鬨橋とはよくぞ名をつけたものだ。競馬場は昭和41年統合されて、佐賀県競馬組合設立、昭和47年(1972)3月、鳥栖市江島町へ移転した。
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栴檀橋・新栴檀橋
1 栴檀橋 多布施川にかかる橋で、橋脚は円柱石で15本。今は自動車通行を禁じている。両岸は橋名の因となるセンダンをはじめ、エノキ、カエデや桜並木で美しい。 左岸のすぐ南に栴檀井樋があり、その流れ「栴檀一号水路」に「こがわ(小川)橋」、仝二号水路に「せとくち(瀬戸口)橋」がある。 2 新栴檀橋 車時代になり、旧橋は危険だったので頑丈な新橋がかかった。すぐ西に神野公園バス停、その向かいに九州グリコ株式会社の工場がある。 橋の南西岸に瀬戸井樋があり、この水路は「中折水路」と連がり、佐賀北高校東北の北高橋(昭和487年3月)、同校東南に天祐橋(昭和50年3月)がある。
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昭和橋
多布施川にかかる橋で、西に行けば、JRの鍋島駅。 この橋南の左岸に寺井樋があり、水路を東へ行けば、元大和紡績の西・南の川にも連絡する。 昭和橋より東、神野小学校南を通る路上の橋は皆、大正14年(1925)2月の架設で、神野村が佐賀市に合併したのは、大正11年(1922)10月1日である。
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長崎本線多布施川鉄橋
多布施川にかかる鉄橋である。 鳥栖〜佐賀間は明治24年(1891)開通。平成3年が百周年記念。佐賀〜武雄間は明治28年 (1895)の開通。 鉄道南方の左岸に井樋があり、右岸は、天祐寺川に流れる可動式井樋がある。緑小路に多布施川の松並木を背景にした県立佐賀農学校があったが、大正11年(1922)杵島郡の白石に移転した。
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多布施橋
多布施川にかかる橋で、神野校区の最も南に位置している。 南西に佐賀工業高等学校がある。西南の佐工井樋は、高岸地域に送水する。東南の橋の袂に幸蔵井樋がある。土手を下りた家では、大正の頃まで、水車で精米しており、小学校の遠足の折には、水車で精米する様子を物珍らしく見物していた。南方の松月旅館の堤防斜面に松の木2本が昔のまま残っている。松並木唯一の形見である。下れば新青木橋、その北西岸に青木井樋がある。ここにもとの青木橋がかかっていた。
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枝吉樋門
佐賀市東部・北部2,400haの穀倉地帯、住宅地域を水害から護るために設けられたもので、佐賀江川・巨勢川との分岐点にある。排水機能を増大させるため、次々に改造している。最初は昭和17年5月。河川法で県が管理、従来の慣行は黙殺された。そばの「八田江改修記念碑」に事業概要が刻まれている。
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枝吉橋
北川副町枝吉と今宿町との間。もと木橋、長さ20m、幅4.6m、ガードレールがある。平成4年樋門との間にコンクリート造りの新橋が完成、今宿側の曲がり角の民家も解体した。旧藩時代、蓮池往還の出入口に当るため番所があった。平成4年末、木橋の枝吉橋は解体された。
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木原橋
今宿町安住市営住宅と北川副町木原団地間の橋。もとは木橋であった。橋北たもとよりサイフォンで江底を送水横断。またこの橋の西南にも多布施川の支流、愛右衛川が東流し、八田江川底をサイフォンで横断、北川副地域の農業用水となる。
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八田橋
東八田(北川副町八田宿)と西八田(本庄町)との間に架した橋。県道上にあるので車往来が頻繁。東北にある「大応寺」は、鎌倉時代の創建といい、北条時頼の廻国伝説がある。時宗を願主として創建した春日(大和町)の高城寺の寺領が南里(西川副)にあり、その東南の米納津は当時、川副荘の中心港だったらしい。
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蒟蒻橋
龍造寺隆信誕生地のすぐ南で、中の館公民館横の水路に架けられている。近くの寺がその昔住職がいなくて荒れ果て、うっそうとした大楠にコンニャクの化け物が住みつき、ここを通る人のほっぺたにくっつき人をふるえあがらせたという。ある日のこと、うわさを聞いた侍二人がコンニャクの化け物退治にやってきて、コンニャクを切りつけたが、化け物はふるえるばかりでさすがの侍も気味が悪くなったという。このようなことから、それ以来この橋を通る人は気味が悪くいつしかコンニャク橋というようになった。この橋より北方約50mのところに官軍墓地がある。
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愛右衛門橋
多布施川がこの付近までさかのぼっていることから、藩政時代には多布施川の上流まで川砂をとりに船が上り下りをしていたという。砂をとらない時は船をはしけのかわりに横に並べ人を渡していたといわれている。その船頭役をつとめていたのが愛右衛門といわれていることから、この橋の名前がつけられたという。 今日では川幅が狭くなり周辺には民家が密集し、往時の面影を見ることはできないが、かつてはこの川も清流で種々の魚が泳ぎ風情がただよっていたといわれている。現在ある橋は、昭和58年10月につくりなおされ、当時の姿はどこにもないが「親柱」に「愛右衛門橋」という名前だけが刻まれている。