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[旧佐賀市][巨勢校区]は76件登録されています。
旧佐賀市 巨勢校区
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高尾繩手の敵討三人入り乱れての大活劇
寛永19年3月、高尾繩手で稚児のことから三角関係となり、訴訟による前代未聞の果し合いがあった。ちょうどそのころ藩主勝茂公は在府中でお留守、三男甲斐守直澄公がお係りでお裁きになり「双方果し合いをなし一人でも助太刀は相成らぬ。もしそんなことをすれば仕置にする」と申し渡しがあった。 「親兄弟の敵討ならまだしも、衆道の恋の果し合いとは何という珍しいことか」と、遠近から見物が押し寄せた。やがて双方から中央に進み出て、それぞれ作法を終って「イザ」とばかり立ちあがり切り結ぶ。群がる見物はひとしく我を忘れ片唾を呑んで手に汗を握り勝負いかんと目をみはる。やや久しく火花を散らして戦ううち、大野はついに敵の鋭い刀先を受け損じて高股を打ち落とされ、「アッ」と一声悲鳴をあげてその場に打ち倒れた。勢いに乗じて鍛治は今一撃と打ちおろさんとする一刹那、竹垣を押し破って、矢玉のように飛び込んだ一人の若者、「ウヌー、兄の敵覚悟せいー」と声掛け、鍛治の後からけさがけに一刀のもとに斬り伏せ、そのままいずこともなく姿を晦ました。 これこそ大野が弟千兵衛という者で、兄の敵を討ったのである。 瞬く間のこの二つの出来事に見物は呆気にとられ、ただワッワッと、どよめくばかり恋の果し合い−。兄の敵討−。」一時にそうしたことが起こるとは、これこそ珍中の珍事であった。千兵衛は勝茂公ご下国により「目の前に兄が切られ我が命が惜しいとて見て帰られるものか」と、助命になった。 彼は後、お鷹師となり勝茂公に仕え、逝去の際追腹を切ったと伝えられる。(『肥前夜話』による)
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肥筑軌道高尾駅跡
巨勢地区には大正末から昭和初期にかけて軌道(軽便鉄道)が牛島宿のアクロスの裏から蓮池、千代田に走っていた。大正6年真崎照郷などが発起人となり肥筑軌道株式会社を設立し大正6年に工事に着手し、第一次大戦で物価が上がり一度中止したが、大正11年高尾より崎村まで工事再開して12年5月竣工、24日営業開始した。始発駅はアクロス南にあって、2両編成の車両に機関車がついてヒョーッという汽笛を鳴らし牛島、西分、東西、東巨勢、千代田へと走っていた。この軌道は久留米まで延長される予定であったが、第一次大戦後の不景気で資金も続かず経営困難となり倒産して昭和9年頃廃止された。
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高尾宿
長崎街道は構口より丸中市場の南を通り、牛島宿の五叉路にでて旧道をとおり高尾宿の旧道をぬけ、東で南に折れ、公民館前に出た。また、寛政元年の巡見録によると当時の人数550人、戸数は、100軒ほどと書かれており、郷村帳には宿、南小路、中小路、井手小路、竈王院小路などの集落が書かれている。この宿が高尾宿で他は高尾小路である。 また、菱屋平七の筑紫紀行には「7、8町いけば人家100軒あまり、茶屋多し」と書かれ、高札といって、宿屋をおかない、小店並ぶ宿場町であったそうである。 このように、長崎街道と巨勢川の交差点で恵まれた場所で、高尾宿公民館付近は佐賀藩の年貢米の倉庫があって、ここをお倉浜といって「津出し浜だし」といい、高尾津より米の積出しが行われ、牛島宿には、「高尾市場」と呼ばれる農作物の市が開かれ、物資の集散地として栄えた。 昭和初期までは、魚屋、八百屋、酒屋、豆腐屋、菓子屋、床屋、荒物屋、畳屋、仕出し屋、自転車屋、醤油屋、肉屋、飲食店、粉ひき屋、煙草屋、製麺屋、精米所、小菓子屋が軒を並べ、それに酌婦を置く遊里が5軒ぐらいあって、さらに、高尾宿の公民館前の倉庫は巨勢町の役場があり、駐在所、病院もあって巨勢町の中心で人通りも多くつねに賑やかであった。 しかし、南に新しい道が出来て、店なども他に移り、ぽつぽつと空地もできて次第にさびれていった。
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堀と生活
巨勢地方では網の目のように堀が発達していた。これらは「堀」または「クリーク」と呼ばれ、巨勢地方の米作りには不可欠なものであった。これにより米作地帯を形成していた。それだけでなく、戦前までは住民の日常生活に重要な役割を果たしていた。 水田の灌漑や雨がふると排水の役目をはたし、お茶の水、炊事の水、風呂の水、米とぎ、洗濯その他の水、すべて堀の水を使っていた。子ども達は濁った水でも、夏はこの堀の水で泳いだ。また、海に遠いこの地区では、堀の淡水魚の世話になった。 堀から鮒釣りをしたり、投げ針やうけをつかい、「うなぎ」「なまず」「鮒」を獲り、春のごみ揚げや秋の堀り干しで多くの魚類を獲り、昆布巻、焼き鮒にして保存食にした。また、秋になると菱ちぎりをして「おやつ」にもした。このように、この地方の人は堀に親しみ、堀とともに生きてきた。
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巨勢川と井樋
巨勢川や佐賀江沿いには、いくつもの井樋が作られている。これらの井樋は成富兵庫茂安の発案と指導によるものと言われ水が多すぎるときの排水、水不足の時の採り水などに活用されてこの地域の人々は多くの恩恵に浴してきた。
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寄宮
明治44年ごろ巨勢町内の神々約25をここに合祀し寄宮された。主なものをあげると、天満宮、英彦山権現、天照皇大神、天満宮、稲荷社があって町民の信仰の様子が伺える。 佐賀では藩主が英彦山権現を深く信仰していたので県内では英彦山参拝が盛んとなり、「英彦山講」が組織されて代参も行われるようになった。このような信仰によって英彦山講衆による英彦山塔が各地に建てられた。
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巨勢神社
佐賀県史編纂資料『巨勢神社由緒記』に次の記載がある。 肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は人皇37代孝徳天皇の御宇異族壱岐、対馬の二島を犯すに依り巨勢大連征伐の勅を蒙り下向せり。御退治の後猶西津守護となり慢々たる広野を開き此所に跡を垂れ給うにより巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉る(下略) 巨勢神社所蔵の『巨勢神社由緒記』、佐賀県神職会発行の『佐賀県神社誌要』にも同意のことが記されている。 『旧藩主各神社調』巻末記載によれば 鎮西肥前州巨勢庄鎮守宗廟巨勢老松大明神、本地不動明王なり。鎮守の由来を尋ね奉るに源頼朝公諸国の地頭職を兼ね給いし後、後鳥羽院の御宇建久5年武蔵国7党の内児玉党の宗子にて参河守俊治筑紫肥陽の地を領して、此の地に下向あり。(中略)故国の氏神老松大明神を瓦町に勧請し、五百余町の宗廟と仰ぎ、あわせて淀姫大明神・乙宮の二社を崇め、二社の本地観音菩薩・毘沙門天の二尊像を一堂に安置し奉らる。(中略)その後花園天皇の御宇延慶年中立川阿波守・同舎弟伊豆守・嫡男讃岐守・次男若狭守・鎌倉今泉村より当国に下向あり…とある。 天保10年円満院より実相院への書状の中には、 当社の宗廟と申し奉るは大化元年異国より大軍九州へ寄せ来り候節巨勢大連朝臣といいし人討鎮として勅命を蒙り此地に下向ありて不日に討鎮給い永く此地に留り神と跡を垂れ給う。只今の宝殿は即ち朝臣垂迹の所に付、白雉年中巨勢大明神当庄の崇廟と奉仰、また此地を巨勢の里となす。その後、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、此地に下向ありてその生国武蔵国の氏神老松大明神と、当国一の宮・淀姫杜・乙宮の三社を宗廟巨勢大明神の宝殿に新に勧請して四社の明神と尊崇し千余町の宗廟と奉仰せり、とある。 『円満院由来記』には 当庄に宗廟神崇に成りし事は白雉年間より、およそ五百四十余年後に、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、建久5年此地に下向ありて牟田という里に居城を築き、住居して故国武蔵の氏神老松大明神を瓦町宗廟本社に勧請し、ならびに淀姫社・天満宮・乙宮の三社を一殿に崇めらる。故に四社の明神と奉申。また古郷巨勢野になぞらえて此地を初めて巨勢と号す。(中略)右俊治の家はおよそ百十余年を経て絶えけるにや、後に相州鎌倉より立川阿波守といいし人、一族4人延慶年中此地に下向ありて、館を築き今泉と号せられ、瓦町の四社は巨勢の崇廟たるにより、今泉(巨勢川西岸一帯の総称)の中四本松一の角に遷されたり…とある。 創建の由来および祭神については前述のように一定していないが、祭神は巨勢大連・老松大明神・淀姫命・乙姫命、さらに菅原道真などを合祀されたものと考えられる。 このように変遷をしているが参河守の一族、立川氏の与党に尊崇され、巨勢郷唯一の鎮守神であったことは否定し難い事実といえよう。 境内に松尾神社・三輪神社・稲荷神社の三社がある。
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修理田神社(熊野権現)
権現堂部落(東分下)の東端に熊野権現があり土地の人は権現さんという。祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊、素盞鳴尊という。 古びた石門の刻字は、慶応3年(1867)のものである。(原文は漢文体) 熊野権現は神也。例(ためし)には大明神と称すべし。権現と称するは蓋し釈氏の加うる所なり。中世以還流俗相沿い更に之を知るなし。高平郷の東に一曲地あり。居民二十余家能く力田す。(中略)その地松林に接す。老樹植り森は小山の如し。故に千本山と号す。山中に小祠あり、熊野の神を奉安して歳時これを祀る。因りて亦その曲を名づけて権現堂という。(以下略) また、田原磐門などの由緒提出書によれば天正7年(1579)田原伊勢守尚明が千本松と申す所に熊野権現社を勧請したものとあるから、千本松の森も400年前からあって、権現堂という名も熊野権現にちなんだものと考えられる。 古老の話によれば、千本松は千本山ともいわれ、明治初年までは広さ6反歩に及ぶ大薮で、松、樟など生い茂って、昼なお暗く大人でも淋しがる程だった。その林の中に権現社が鎮座していて、この千本山の周辺は野狐や蛇がたくさんいたと言う。明治20年に開墾されて現在の姿になり開墾された水田4反は村の共有として、神社費、部落費にあてられたが現在は個人有となっている。当時の開墾記念碑が現在境内にある。
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法専寺
浄土真宗本願寺派で撫松山法専寺と称し、本尊は阿弥陀仏立像である。この寺は永禄年間池田主馬(法名善教)開基とされている。その由緒について伝えるところによれば、主馬は兵庫町牟田寄の豪族で、その昔大友勢が佐賀に乱入した時、龍造寺隆信に従い、一族百余騎を率いて軍に加わり、豊後勢を巨勢野に破り、敵将臼杵式部少輔以下多くの敵兵を破り大功を立てたという。その功績に対しての恩賞の時、考えることがあって、隆信に請うてこの寺を建てたと言われている。初代藩主勝茂の時から、南無阿弥陀仏6文字になぞらえ、御切米6石を下賜された。当時の将の鎧兜が寺に残っているそうです。
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保喰神社
保喰神社は赤い鳥居が示すように稲荷社と同じである。明治の記録には稲荷社となっている。記録では境内は42坪氏子224人と記されている。 神社入り口の鳥居には「肥前州佐嘉郡東西村高平山 蔵福坊良政貞亮四年」と刻まれている。これは明治初めまで蔵福坊隣りの権現社のものだそうである。 明治初めまで蔵福坊に田原盤門氏が住んでいて田原氏の祖先田原伊勢守尚明は、大友宗麟の家臣であったが、宗麟に諫言して怒りにふれ浪人になり龍造寺に仕え東西に領地をもらい住んだそうである。長男は修験者となり蔵福坊と称したそうである。
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安福寺
記録によると、大徳山と号して臨済宗東福寺派で開山は君山和尚、本尊は阿弥陀如来と伝えられている。この地の豪族であった井原氏と関係の深い寺だったとも言われている。裏に井原氏の墓が並んでいる。明治になって新しく住職が来られて浄土真宗に変わった。
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竈王院(かもういん)
竈王院の本尊は阿弥陀如来、開山は応誉上人、開基は竈王童子とされていて浄土宗である。元徳4年(1332)4月の河上神社の記録に「巨勢荘竈王院那禅坊知行免田三町」と記録されており、当時巨勢荘の荘園納品を扱っていたようである。大変古い寺のようであるが、今の浄土宗になる前は天台宗だったとのことである。天台宗は平安時代に出来たもので寺の古さが想像される。
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円満院
巨勢神社の神宮寺であった円満院は神社の北側にあって後鳥羽院の建久5年に阿増法印がこの地に開き、明星院と号したが、火事で焼けてしまった。後、後土御門院の時、増範法印という人が再興して円満院神幅寺といったと言われている。 明治7年、牛島村と高尾村でこの円満院に牛島小学校を開設した。 これが巨勢小学校の始まりである。 明治以前には神社と寺院が同居するのは当然で寺が神社を守っていたのである。円満院の住職の墓が整理されて残っている。
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応永寺跡
東西の西、寺町に廃寺跡になった応永寺跡がある。入口に戦国時代のものと思われる六地蔵がある。 臨済宗東福寺派で境内426坪、壇徒85人との記録がある。戦国の頃、小田直光が鎌倉より来佐のおり建立したと言われている。
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長江寺
臨済宗妙心寺派、本尊は薬師如来、由緒は蓮池藩創祖鍋島直澄公、年月日不詳建立とされているが、近所の人で守っている。
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龍津寺
蓮池2代藩主鍋島直之が長子直富を弔うために建立した寺で化霖を開山としている。黄檗宗で宝寿山と号し、総本山万福寺の末寺で本尊は釈迦如来であったが、昭和20年に空襲に遭い焼けてしまい、再建ならず、小さな庵が造られている。管理は大財町仏心寺である。 今、中央に売茶翁顕彰碑が建てられ、入口に六地蔵と観音像が建っていて、六地蔵には文政元年、藤崎長蔵、観音像には神田と刻されている。 また、小田資光や、化霖などの歴代和尚、柴山家の墓などがある。