検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][嘉瀬校区]は117件登録されています。
旧佐賀市 嘉瀬校区
-
八幡神社のクスノキ
境内入口南のクスノキは、1株2本立で、2本とも胸高直径は0.75m、高さ10m。オオイタビが着生している。この株以外に4本のクスノキがアラカシなどと混生している。 下宮のクスノキは、胸高直径0.3m、高さ12m。生育状態は良好。
-
湾頭(わんどう)の松
本庄江河口近くの右岸(新町地区)にある祠(ほこら)を挟んで両側に5本ずつ合計10本の松が植樹されていた。この松は大きく成長して遠方からも望見できた。そこで本庄江目指して航行してくる船舶の安全航行の指標となっていた。しかし昭和20年前後に総て伐採されて、今はない。
-
百間土居(土手)の松
市の廃棄物最終処分場の北側の土手に植えられていた松で、今は伐採されてない。嘉瀬川水系の泥は砂の含有量が多く粘土質が少なく干拓堤防として弱点が大きかったので、それを補強する目的で植林されたと思われている。昭和28年の水害の潮止めの杭にも使った。
-
徳善院の西方にあった松林
鍋島家の徳善院縁起によると「徳善院の西方にあった松林八丁余歩を払い下げて同寺の建築材に供せり」とある。古老の話ではその松の残り1本が八幡宮と一の鳥居のほぼ中間に残っていたが最近伐採された。また、この松林の松の一部が有重の松林寺の建立に使用されたとも言い伝えられている。
-
別れの松
藩政時代処刑される人が最後に家族と別れを惜しんだ場所に植えられていた松で現在は第三代目が植樹されている。 佐賀城下の西端・高橋を渡って扇町を西に過ぎて、嘉瀬元町に少し寄ったところに1本の松が植えられていた。現在は、造園業者の敷地の一隅に植えられている。藩政時代、嘉瀬川沿いに刑場があった頃には、刑場に引かれる罪人がここで見送りの肉親の者や知人と永遠の別れを告げねばならなかった。早朝、白衣蓆駕で獄舎を出された罪人は、見送りの者と水盃を汲み交わすことが許されたそうである。そこで別れの松と呼ばれている。
-
四面神社の境内とその参道の松
四面神社の境内とその南側の参道沿いに旧長崎街道筋の鳥居まで、松並木がつくられていた。しかし、大東亜戦争中航空機の潤滑油として松根油が使用されるようになって、この松も松根油をとるため伐採されて今はない。
-
古賀清右衛門(緞通碑)
生年月日不明、元禄12年(1699)7月10日没 扇町出身、農家に生れたが志を立て韓国に渡り、中国伝来の「毛氈」の手法を学び、帰国して「扇町毛氈」を創作した。堅固で多様な色彩、紋様が人気を呼び、当時扇町一帯に10数軒の機織屋があって繁栄した。これが藩に認められ「鍋島緞通」として藩の御用商品となり、一般庶民間の売買は禁止されていた。 幕府への献上品ともなり藩の貴重な商品となっていた。明治維新で職を失った士族救済のための「士族授産」として技術指導が行われたという。顕彰碑(緞通碑)には「緞通由来記」が刻まれている。 墓は扇町の苗運寺に在る。
-
松永安平
生年月日不明 明治16年(1883)12月8日 没 扇町に生れる。明治13年、扇町の苗運寺境内に栄昇小学校が設立された。その際、校地並びに校舎を寄付し、学校設立に大きく貢献された。その功績を称える頌徳碑は大正16年に苗運寺境内に建てられている。
-
鵜川徳次郎
明治11年(1878)2月9日生れ、昭和20年(1945)6月21日没、69歳 学校敷地寄付。嘉瀬町嘉瀬津在住だった。 明治23年(1890)10月30日の小学校令改正で、嘉瀬村の小学校が統合され、学校が新築されたが、その時の敷地を寄付(今の青藍団地全域)。その後、昭和20年(1945)に、国道南に校舎が新築移転した。その折も校地並びに校舎建設資金を再び寄付した。また、学業と善行に俊れた生徒に「鵜川賞」があった。頌徳碑は嘉瀬小学校玄関の東の校庭に建っている。
-
中原勇夫
歌人 佐賀大学名誉教授 明治40年4月1日生れ、昭和56年4月25日没 74歳 嘉瀬町天草江に生れる。著書 「今泉蟹守歌文集」「中世和歌集」他、歌集 「年輪の序」「常歌」「続常歌」他、ひのくに短歌会主宰、佐賀県短歌協会を結成し会長を務めた。 佐賀県文化賞、佐賀市政功労者表彰を受賞した。佐賀市高伝寺と伊万里市自然公園に歌碑がある。
-
高柳儀八
海軍中将 明治24年(1891)4月17日生れ、昭和48年(1973)12月29日没 81歳 嘉瀬新町に生まれ、新町の分教場で学び、後に海軍兵学校入学・卒業。昭和16年(1941)戦艦大和の第2代艦長、終戦時は海軍兵学校副校長。 戦後は、郷里の嘉瀬村で教育長や公民館長初代長生会長(現老人会)を歴任。 館長時代に公営結婚を唱え429組が挙式。俺の一生は「艦館」だったとよく云われていた。達筆で公民館にも額をもらっている。生家は嘉瀬川の拡張で今はない。 墓は中原の臨滄庵から東京へ移転。
-
一編舎十九 蒲原大蔵
天明3年(1783)生まれ、安政4年(1857)4月2日没 75歳 金立の大門で28年間創作、活動をし、作品は20作余りある。肥前史談会古書刊行部会で昭和3年12月10日発行。非常にユーモアに富み、面白く可笑しく飽くことがない。墓は中原の臨滄庵にある。
-
内田清一
明治13年(1880)5月12日生れ、昭和14年(1939)4月5日没、野田出身で、明治37年より大正4年まで、旧制中学校の柔道教師を勤める。大正4年以降、製紙、印刷、水産、紡績など各種会社の社長となり会社経営に携わる。大正5年より佐賀市会議員当選4回、佐賀県会議員当選5回。政界でも活躍した。明治44年には私立佐賀実科女学校を佐賀市与賀町に創設、校主となり女子教育にも傾注した。私立実科女学校は幾らかの変遷を経て現在の佐賀清和学園に引き継がれている。胸像が清和学園の中庭に建っており、墓は赤松町龍泰寺に在る。
-
長崎街道と嘉瀬
近世になって嘉瀬が史上脚光を浴びるようになったのは、何と言っても嘉瀬が、村の中央を東西に貫く長崎街道の重要な位置にあったからである。長崎街道は、鎖国時代日本唯一の貿易港長崎に通じる日本幹線道路であった。江戸時代全国の幹線道路は、五街道・八脇街道であった。長崎街道は山陽道に直結する九州唯一の脇街道(脇往還)であった。オランダ商館員ケンペル(1690〜92滞在)や、シーボルト(1823〜28・再来59〜62)も、この街道を通って江戸参府を行っている。 この街道筋で栄えたのは、本庄川の河港高橋宿で、下流の厘外・今津・相応津と共に用船の寄港地として繁栄した。天草・八代方面からの川船の出入が多く、バラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた。入船は多いとき日に14,5隻もあった。その時は市が立ち近隣からの買い物客で賑わっていた。宿場には呉服屋・米屋・料理屋が軒を並べ、西の今宿といわれたという。それに続く扇町は、有名な鍋島緞通の生産地で、扇町出身の古賀清右衛門を元祖とする「扇町毛氈」として有名になった。藩の幕府への献上品にもなっていた。また明治維新に職を失った士族救済の為の士族授産として技術指導が行われたという。 嘉瀬川の嘉瀬津は、河港として中世末から江戸時代を通じて長崎街道の宿場町として栄えていた。嘉瀬上町・嘉瀬下町に分かれていた。藩は、ここに「津方」を置いて、港としてまた宿場町としての商業取引一切を管理していた。特産品として、鍋・釜・障子・襖等があった。本来、農業生産地嘉瀬も、長崎街道筋では交通商取引の盛んな宿場町として賑わっていた。
-
嘉瀬川水路の変遷
奈良時代、国毎に作成された最古の地誌の一つ「肥前風土記」によれば佐嘉川の上流に荒ぶる神あり。通行人の半分を殺した。当時、土地の支配者佐賀県主(あがたぬし)「大荒田」が、まだ朝廷に服従してなかった「土蜘蛛」の「大山田女」と「狭山田女」の二人の女性に占わせた。そこで二人は、下田の土で馬と人を造り、荒ぶる神を祀ったら静まった。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれたという。サカシメが佐賀の地名の由来となったとも言われている。この風土記の中の佐嘉川は現在の嘉瀬川であり、荒ぶる神は嘉瀬川の氾濫である。川は氾濫を繰り返しながら流れを西方に変えていった。 奈良時代は、川上から巨勢川、佐賀江川から諸富で筑後川に合流していた。当時、諸富は有明海に臨む重要な河口港であった。その北徳富の大津は、肥前国司所在の大和町久池井への玄関口になっていた。 鎌倉時代になると水路は、多布施川・八田江から有明海に注ぎ、中世末から戦国時代になると、多布施川・本庄江となり、さらに現在の嘉瀬川となった。 江戸時代初期の寛永年間に成富兵庫茂安の石井樋造成で、石井樋より上流を川上川、下流を嘉瀬川とよび、初めて佐嘉川が嘉瀬川となり現在の流路に定着したと言われている。 そして、嘉瀬村も現在の村落として形成されたのである。 佐嘉川(嘉瀬川)の洪水や水路の変遷がもたらす土砂流と、有明海の干満の差6mにも及ぶ潮の流れが運ぶ潟土によって形成された平野が農作地帯として開発されるが、平野の形成に重要な役割をなすものに澪(みお)と呼ばれる小水路があった。 潮の干満に伴って、潮の流路ができる。堀ともクリークとも呼ばれる。この澪が潅漑用水路として重要な役割を持っていたのである。嘉瀬村は特に「澪」の多い地域として豊富な米作地帯となった。
-
千本松のはなし
嘉瀬川河川敷にあるバルーン会場の本部席あたりを千本松と言った。その千本松は、松林で荻野地区が海岸だった頃、有明海の潮風による塩害防止のため松の木が植えられ、松林は川上まで連なっていた。後に、成富兵庫茂安の指示で、松林は伐採され、代りに竹林が堤防に造成された。今は、堤防の竹林は、嘉瀬川改修工事のため消滅した。
-
渡し場
徳善院が鍋島家の祈願院であったため、参詣者は西今宿の渡しを利用し、本庄江を渡り寺院に参詣していた。 江を渡って、徳善院まで灯明台が並び建っていたと、近所の人から説明を受ける。 西今宿の渡し場は、干潮時に川底の潟泥が現れた。両岸につくられた石畳の間に船を横にして人は通ったと。 本庄江には、今津の渡しや丸目の渡しがあった。嘉瀬川には、久保田町の酒屋から新町にかけて、渡し場があった。ここは、干潮時には、両岸から渡し船を出し、連結され、その上を通っていた。昭和45年(1970年)久保田橋の完成まで渡し場はあった。 本庄江、西今宿(有重)の渡し場灯明台は、一基だけ残り、昔を偲ばせてくれる。
-
「かせ津の地質上の誕生」
北に連なる脊振山地は約1億年前、地下の深所で生成した火成岩が地殻変動により隆起し山地を形成したものと考えられている。 佐賀平野は、1万年前頃嘉瀬川などが山地を侵食して大量の土砂を運搬し、有明海の潮汐作用と相まった沖積平野である。 約5千年前(縄文時代)満潮位の線は、金立・高木瀬・森田・四条・生立ケ里を結ぶ線。 約2千年前(弥生時代)JR長崎本線が陸地の南限。 陸地化のスピードは百年で、川副1kmへ東与賀0.5km、久保田0.35km 、嘉瀬ごくわずか。 600年前嘉瀬中原、300年前嘉瀬新町、150年前嘉瀬新地籠造成誕生。 720年前の元冦以後干潟荒野が干拓の対象となる。荒野とは葦原のことだが、嘉瀬津にあちこち葦の立っている堀や凹地が見られる。かせ津は、有明海の凹地でもあり潮の満干を利用したよい船着き場であった。
-
「嘉瀬津住民の流れ」
嘉瀬津は、昔、戦国期に海氏・平氏・源氏の所領であったり、武雄・多久・小城藩主の領地にもなったり、江戸期には鍋島藩主から久保田領主の領地になる。今の大字荻野は、昔は荻野村で嘉瀬川の西にある集落だった。 嘉瀬津は嘉瀬川の河港として船舶の出入り多く有明海の七つの津の代官所があった。 嘉瀬津の河港は、年貢米の集積また積出しの為、馬車利用の運送者や生活用品の製造販売者、技術者として鋳物製造・井戸堀り・酒造・寺や民家の建築士・石や・菓子製造者等、商店では呉服・小間物・日用雑貨店等の店が立ち並び、千人からの住民が住んでいた。 十を数えた寺も、現在八寺あるが、鍋島藩主の許可で、殆どが外の地区からの持ち込み寺である。河港の機能が無くなるや久保田領主は、寺は残して、住民を主に久保田の土地に移住させた。 その後の嘉瀬津は、主に住宅地になる。
-
「嘉瀬川の古い流れ」
嘉瀬川は、縄文中期(約5千年前)頃、脊振山地の麓に沿って支流をもちながら、東の方に流れ筑後川に注いでいた。水量豊かで舟楫の便があったらしい。 奈良時代(710~793)頃、市ノ江・巨勢江湖・佐賀江の線が、嘉瀬川の本流である。この佐賀江は、巨勢江湖をはじめ、中地江その他の細流を集め東西に流れ、東は筑後川(大堂川) に注ぎ、西は新川などの支流をつくる。 平安時代・鎌倉時代(794~1085、1192~1333)頃、嘉瀬川は、なお西漸して、八田江湖の線に移り、戦国時代(1491~1603)頃、本庄江湖より更に西に移る。 近世初頭(1604~1867)頃、現嘉瀬川河道に納まったものと想像される。 江戸時代(1603~1867)初頭、成富兵庫の治水利水事業の推進によって河道も安定した。 成富兵庫茂安は、元和年間(1615~1624)から寛永年間(1624~1644)にかけて石井樋を設けた。
-
「昔の嘉瀬川」
県農林部技師 崎田善七の著 昔の嘉瀬川より 昭和30年1月発行 史実によれば、平安朝頃(800年頃)までの佐賀平野は、有明の海だった。堤防もなく井堰もない全く原始的な性格そのまゝで、洪水毎に乱流していた。てっきり「水神さまの祟りである」と怖れおののいた。 鍋島村岸川部落の川べりに八竜神社を建立した。380年前、天正の始めに建てられた。戦国時代の末期に当り徳川がほぼ天下を平定した頃です。
-
「八龍さんを訪ねて」
八龍さんは、鍋島の岸川部落にあって創始は、1500〜1600年前に建立されている。現在の八龍さんは、何回目かの建て替えされたもの。有明海の干潟が陸地化に進んでいる時、嘉瀬川の増水した乱流は、堤防もなかったので、住家・家畜・田畑・家族までも流失し、住人は恐怖の的だった。 八龍さんの龍の字は、川の流れのことで、乱流は、水の神が怒っているとした。怒りを鎮めるため社を造り、お供物をした。この八龍さんは、自然造成の佐賀平野にとっては、一番始めに建てられた神社である。社の入り口には、山門や継目なしの石の鳥居、本殿前の左側だけに彫刻なしの岩石だけの狛犬さん。裏手には、昔の建物に使われた大きな紋入りの鬼瓦が三個あった。 境内には、歩道や駐車場また花畑と、ふれあい公園化の工事中だった。側の川で、オタマジャクシの群を見つけ心を洗われた。
-
「変った嘉瀬川の堤防」
江戸時代から昭和の末期まであった、嘉瀬川堤防の竹林は、濃い緑の帯をなしていた。 その竹林の中に、一本の小道があった。この小道を歩いて、ふる里を離れていたが、いま帰郷したと、心に、沁みたものだ。 秋も深まれば、竹林の帯の中に、はぜの木の一群があったが、真紅に染った色は、一段と色鮮かだった。ところどころにある椋の木は、黒い小粒の実を一杯つけて、子供たちを待っていた。口一杯ほほ張り、一粒ずつ実を空に吹き飛ばす、しぐさと感触は忘れられない。椋の木の上から望めた、稲小積の列や、屋敷の大根干しの列など、今は、無い景色。竹林も、はぜの木も、椋の木も姿を消した今の裸の堤防だが、河川敷の川幅は広くなり、バルーンの行事中は、にぎやかである。昔の嘉瀬川堤防の椋の木の友達が、お志賀さんの境内に一本あります。秋には、実のり一杯にし、皆さんを待っております。
-
「庶民のならわし」
① 元旦の床飾:白木の三宝台に幅広のコンブを前面にたらし、白米を盛り上げ、その上に橙、とろろ、栗、木炭、もろもき、つるし柿、つんの葉などを、面白く配置して、森林を想起して、盆栽を床飾りとする。 ② 鬼火たき:正月7日の早朝、青竹を手ごろに切り、ワラに包んで、門先で焚火し、荒神さん餅を焼く。嘉瀬津の市道では、車時代に入ると共に禁止された。 ③ もぐら打ち: 正月14日、農作物の満作を祈る子どもの行事。 ④ 雛祭り:3月3日、女の子の成長を祈って行う日で、お座敷には、お雛さんの段飾りをした。娘の子は、晴気の振袖、神社まいり、写真撮りなど可愛さ一杯の時である。 ⑤ 遍路詣り:彼岸期間中に、数人、数十人の男女が混合体をなし、弘法大師を祭る堂、宇、遺跡などを尋ねめぐる。服装は、白衣を着し、背中には経文を書き、襟脇には、住所、氏名、年齢等を認めた。手甲、脚絆、ワラジで、さんや袋をかけ、数珠と鈴を持ち、すげ笠を冠り、金剛杖をつく。道中或は参詣時には、和讃を合唱する。嘉瀬津の参詣地は、蓮乗院。 ⑥ 甘茶まつり:4月8日、釈尊誕生日を祝して、各寺院において、菜の花、蓮華草の花などで、小さな御殿をつくり、釈尊の像を祭り、甘茶の湯を灌水する。その灌水を各家庭に配分する。または各家庭から最寄りの寺に参詣し、この甘茶の灌水場を受ける行事。 ⑦ 菖蒲の節句:5月5日、男児の成長を祝う日で、菖蒲を屋根に上げたり、風呂に入れ菖蒲風呂にしていた。特に長男の生れた家では、初節句として、親類、縁者を招いて御馳走して祝いをする。鯉の吹き流し、上り旗、風車などを、門前に樹てて祝う。 ⑧ 夏の町内大会:班対抗ソフトボール大会。班でチームの出来ない所は、親戚、縁者の応援もあって喜々愛々だった。 ⑨ 盆おどり:お志賀さんでやったり、保育園でやったが、櫓を組んで、照明つけて、カラオケ歌って、住民仲良しで、住みよいたのしい嘉瀬津になっていた。 ⑩ 豆ぎおん:8月25日、嘉瀬津神社(志賀神社) で、女性の楽しみの日である。煮豆を貰って、踊りを舞って、子供も大人も、一つの輪になって、夜景も一段と美しい。 ⑪ お供日:嘉瀬津の志賀神社に、お供日はない。元町の四面神社からは、4年に一同巡ってくる。元町、嘉瀬津、迎町、扇町だったが、扇町は自分の町区の神社を祭ると云うことで脱退。当番に当った町区では、思い思いの浮立の形で、今では、10月10日の体育の日に、お供日が行われている。お供日の日は、堀り干しで捕れた鮒を昆布巻きし、大根、蓮根も茶色がかる位、味がつき美味だった。家で作った甘酒、知人を招いて酌み交わす酒、次から次へと友人宅を訪ねており、どの家も、うたた声が道路まで響く、消え去ったお供日の風景。
-
「佐賀の名のおこり」
「肥前風土記」は景行天皇・日本武尊の巡幸説話でその中から。九州全域の行政は筑紫大宰。肥前の国府は大和町久池井附近。国府の下組織に郡があって賢女郡があった。賢女郡がなまって佐嘉郡になったと思われる。賢女についてだが、反抗的な土蜘蛛に人形・馬形をつくり、国王の大荒田が占ないをしたら従順になった。この土地を賢女郡となすとある。「日本霊異記」777年奈良時代の説話集で、それには肥前国佐嘉郡(さかのこおり)とある。佐賀と言う地名は日本にあちこちにあるが、アイヌ語で「サガ」とは浜辺の土地を言うとある。平野自然造成の源は川上川であるが、弥生時代の後期(2.000年前)と思われる国主大荒田も国主卑弥呼と同じく、世俗的な権力と宗教的な権威とを兼ね備えて君臨したと思われる。
-
「鬼門と樹門」
住んでる屋敷や家屋に、住んでる人を中心に、北東の隅を表鬼門、南西の隅を裏鬼門と名付けて特別扱いしていた時もあった。昔の家では、冬の北東の季節風は、寒さを家の中に吹き込み、北東にある部屋は、他の部屋よりも寒い。もし、便所でもあれば、お尻まで冷えきっていた。少しでも寒さ防ぎに屋敷の北東の隅に「樹」を植えた。夏の西日は、特に気温が上るので、壁で暑さをしのいだ。もし家の南西に便所でもあれば、ウジ虫は異状繁殖し処置に困る状態だったろう。少しの日陰でもと、「樹」を植えた。北東の隅と、南西の隅に植えた「樹」がいつしか「鬼」となっている。ローソクやランプの世代は去って、家の中は冷暖房に浄化槽の時代になった。エレベーター付きのビルやマンション住いの人は勿論、「鬼門」の言葉は、昔物語りになりかけ一部の人のものになって来た。
-
「畑の隅の中央さん」
畑の隅や、屋敷の隅に「中央さん」を祭ってあるのを時々見かける。時には「中王さん」とも書いてある。 「中央さん」……年古の大工さんの話 昔、家を建てる時、土台柱の場所に、石を置いて目印をつけた。それが「中央さん」。土台柱は、家屋全体の要でもある。この中心となる地に建った柱は、梁の中心にもなり一段と基礎固めが必要であった。近所の人達が「石ぼっ突き」に加勢に来て、簡易やぐらの綱を引っ張り、歌に合わせて「石ぼっ突き」をしたもんだ。その基礎がための上に建った柱に、「荒神さん」を祭ったもんだ。「荒神さん柱」の近くに竃(かまど)を造り、藁を燃した煙は、白蟻駆除になっていた。 家も建ってしまった後の「中央さん」は、屋敷の隅の畑などに置き、お花など供え、建てた家の安全を、その後も、「中央さん」に願っている人もいる。
-
「三夜待、さんやまち」
さんやまちとは、本来、神のそばに居て共に夜を明かすことである。それが月の出を待って、神のそばにいると変化していった。県下では、江戸中期以降に、刻像塔が多く建てられている。刻まれた文字は、二十三夜・勢至菩薩・月読尊などである。月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、講員が集まって飲食しながら月の出を待って月を拝む集団のことで、二十三夜に集まる講のことを「さんやまち」といった。今では「さんやまち」は、単に仲間同士が定期的に集まり、当番の家を順番に回って飲食する親睦会的な機会と考えられて、主に男子の行事として伝承されていた。それが女性尊重の世代になるや、主人も奥さんも子供も家族ぐるみの親睦会化し、行事も食事会、旅行、花見と変って来た。親睦会を三夜待と言うようになった。
-
今津渡し場跡
有重(津端)と今津とを結ぶ渡舟場で、嘗つて、瓦の製造所、海産物の加工所、石灰製造所、魚市場などがあった。 芦が生い茂っているがアラコは往事のまま残っていると思われる。
-
厘外渡し場跡
有重(徳善)と厘外とを結ぶ渡舟場で、厘外には荷揚場や倉庫、貨物の集積場があり、有重(徳善)には瓦製造所が5軒あった。