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[旧佐賀市][西与賀校区]は119件登録されています。
旧佐賀市 西与賀校区
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初午祭
(3月) 天正年間(1573〜1592)大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江のにぎわいが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名付けた。それにならい、港も今津と名付けられた。このように今津は江戸時代より商人の町として栄えた。 この初午は、商売繁盛、家内安全や大漁、海上交通を祈願する。 初午は鹿島市祐徳稲荷神社や唐津市鏡山稲荷神社など県内各地で行われている。当地にも江戸時代に稲荷神社が祀られ今日に至っている。祭典の内容はだいたい大神宮祭と同じで祝詞は午後6時に行われる。
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郷土歌
作詞 腹巻 紫浪 曲譜 産業組合の歌にて 昭和10年10月発表 1.北に天山 空澄みて 南 筑紫の海広く 文化の波も綾なして 寄する佐賀市の片ほとり 2.農工商漁 わが村の 戸数は五百七十戸 人口三千五百にて 野に天恵は溢れたり 3.潮の香高き 松並木 一望涯(はて)なき干拓地 伸び行く村のたのもしく 耕地は三百五十町 4.米収一万五百石 麦作 凡そ二千石 五穀のみのり豊かにて 南北二つの大倉庫 5.市場に築く魚の山 行商人の勤勉に 鮮魚かまぼこ 竹輪など 販路いたらぬ隅もなし 6.雲雀さえずる春景色 瓦工場も のどかにて かげろうもゆる遠方(ちちかた)に 缶詰会社も 見ゆるなり 7.交通要路の本庄江湖 春はさざめく潮干船 丸目渡しの御番所は 江藤新平 乗船地 8.佐賀藩公の御船小屋 軍船あまた つながれし 往時を語る松風に 白帆のかげものどかなり 9.偉人 副島種臣は 開化日本の暁(あけ)の星 残る逸話の数々を しのぶ今津の屋敷跡 10.崇(あが)めまつるは九寺十社 本庄の宮の朝あけや 高太郎丸の跡問えば 赤い夕日のはぜもみじ 11.さくら花咲く わが校よ 学びの道の春秋に いそしむ健児七百の 栄冠ほこるバスケット 12.我が西与賀の村民は 義務責任を全うし 公徳守り 義に厚く 究めて進む おのが業 13.ああ 勅語(みことのり)かしこみて 御国を思う 真心に 挙村一致の実をあげ みごと築かん 理想郷
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相応下の年中行事
【7月20日〜25日頃】 「施餓鬼」 毎年夏祭りの夜4〜5名の和尚を呼び、公民館に地区のお地蔵様3体を設置し施餓鬼が行われる。 元来、漁師が多かったので海の事故、その他の水死者または疫病で亡くなった人を供養するために始まったとの事、町区内の1年以内の新仏様も供養されます。 (位牌を会場に持ち込む。町区民が多数お参りする。) 【8月上旬(8月10日)】 「四万六千日」 お宮やお地蔵様に縁台を出し、袋菓子を多数準備する。 子ども達が朝早くからお賽銭、お米をあげてお参りする。すると地区の婦人達から袋菓子を貰う。 当日お参りすると四万六千日お参りをしたのと同じ効用があると言われている。子ども達へ信仰の大切さを教える。何箇所もお参りするので袋一杯お菓子を貰い、子ども達は楽しみにしている。
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わらべ唄
♪キャーツグロ キャーツグロ キャーツグロ お前の頭に火がちいた プルッとすんでキャーキエター (子どもの頃よく歌っていた唄。キャーツグロの頭の赤い毛が印象的なのを歌ったものでしょう)
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本庄江湖
本庄江は鍋島深町の北部一帯の小河川の流れを集めて嘉瀬、西与賀を経て有明海に注ぐ延長約8.1kmの河川で嘉瀬川水系に属している。 この川は人工の河川で文明14年(1482)少弐氏が開削したと伝えられている。 上流の高橋は八戸宿の西の端にあたり佐賀城下の入口で番所が設けられ、本庄江湖をさかのぼる川舟の終点でもあった。 この周辺はかつて荷を運搬する牛馬や人々が往来し長崎街道の物資の集散地として栄えた。 佐賀藩が嘉永3年(1850)西洋式反射炉を造り大砲鋳造所で長崎防備用の大砲を見事に鋳造した。これらに必要な原材料である南蛮鉄や、石炭等は本庄江湖を利用して運ばれており、藩政時代には運河として重要な役割をもっていた。
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有明海概要
有明海は、島原半島と天草諸島との間から佐賀平野の前面に入りこんだ奥深い内海で、長崎、佐賀、福岡、熊本の4県に囲まれており、筑紫海または筑紫湾とも呼ばれ、本県では一般に前海と呼んでいる。 平坦部を貫流する河川には、東から早津江川、本庄江川、嘉瀬川、六角川、塩田川、鹿島川などがある。潮汐の干満の差は非常に大きく、大潮時では6mに達する。従って、潮流の速度も速く、底質の関係で潮汐は沿岸に近づくほど混濁の度が著しい。
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有明海の水産物
水面が狭い割合に注入河川が多いので、栄養塩類にとみ、魚介類の天然飼料が豊富なために、稚魚の育成に適している。局部的には、外洋性魚類のサワラ、ヒラ、グチ等が生殖のため回遊してくるし、餌を求めて回遊してきて長期間滞留するハモ、サヨリ、マボラ、ススキ、クロダイ、ヒラメ等も多く、定住的に棲息している沿岸性魚類のハゼ類、アカグチ、メナダ等は非常に多い。しかし、有明海の海水は、空気の温度に強い影響を受けるため冬期水温が低下するので、魚類はそれを避けて沖合の深所に移動する。 有明海の広大な干潟は、泥土および砂土からなっていて、飼料となるプランクトンも多いため貝類の繁殖に適し、アゲマキ、カキ、アサリ等が棲息している。また、今日ではノリの養殖が行われている。
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相応搦(干拓地)
面積16町7反9畝20歩を測る。周囲よりも一段低く、その恰好が如何にも入江の様相を今に残している。完成時期は明確でないが、南の再興搦が文政期頃の所産とされているのでそれより多少遡るものと考えられる。
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再興搦(干拓地)
丸目の富農が主体となり、3期3搦に分割して築造したものである。最初に東部を築造して東新地といい、次に西部を築造して三丁搦といい、最後に中央部の江湖筋を築造して中の搦とした。総面積26町9反12歩を測る。
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新搦(干拓地)
再興搦の南にあり、面積は15町3反8畝15歩を測る。明治初年に始められたもので、丸目の富農の外、嘉瀬新村、元相應、高太郎よりの参加もあったという。築堤には土居心に松杭も打たず、鍬のみで築造し、工事作業員は白石地方より雇い入れたとのことである。
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戊辰搦(干拓地)
西与賀地区最大のもので新搦の外搦である。昭和3年戊辰の年に起工したのでその名がある。築造は近代的な工法によって行われ、昭和6年には潮止めが出来上り、昭和10年にはすべて完成した。出願者には東雅彦外65名で、面積は46町7反3畝24歩である。
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相應津
本庄江に面しており、近世に入って発達した津で慶長絵図(1596〜1615)には村名の記入がなく土地の造成された様子もない。また、正保絵図(1644〜1648)にも村名がない。安政4年(1857)の川副、与賀、嘉瀬津諸目安によると、相應津は上町と下町に分れ、津なので村の庄屋に相当する別当の支配を受けていた。上町は船23艘で人別は448人であり、その内訳は男239人女209人で戸数87軒で、侍2、手明鑓3、足軽6、諸家来31、御船手4、寺1、山伏1、被官2、百姓37となっている。上町は、商業か日雇いなどの職または漁業に従事していたと考えられる。下町は船数39艘で人別は512人で、その内訳は男264人女248人で戸数95軒で、足軽7、諸家来41、御船手2、被官5、百姓40となっている。 上町同様に足軽や諸家来が多いが、上流の今津に比べて御船手(水軍の船頭)が少ないのは、今津が佐賀藩水軍の基地であったのに対して、漁港または商港の性格が強かったからであろう。
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厘外津
慶長絵図(1596〜1615)には厘外として「石高二千六百十八石二斗二升二合」と記されている。厘外と書くのは江戸後期になってからと思われる。文化14年(1817)の郷村帳には厘外東分村(高柳、平松、野田、宮ノ丁)、厘外西分村(中村、中島、八竜)と記されている。佐賀本藩の蔵入地で村内に山本常朝の師湛然を開山とする曹洞宗の楊柳寺などがある。
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今津
天正年間(1573〜1592)、大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江岸の賑いが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名づけた。それにならい、港も今津と名づけられた。
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元相應
慶長、正保、元禄の絵図には村名の記載がなく、慶長年間(1596〜1615)頃の海岸線と考えられる。その後の沖積と干拓とによって陸地化し、耕地化が進んだのである。相應津の東にあって戦国末期までは小津江の河口の潮待港の役割をもっていたと思われ、のち本庄江に沿った相應津にその役割を奪われ、内陸が水田化した。文化14年(1817)の郷村帳に与賀下郷元相應村とある。明治初年に高太郎村となり、のちに西与賀村となった。
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高太郎
足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。 時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の郷士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった。これによりこの地を平定し豪族として勢いを得た。現在の高太郎は領主の名をとって字名とした。 文化14年(1817)の郷村帳によれば、秋丸小路、中ノ小路、舟津小路、蔵床小路、野口小路、唐津村の各集落からなる、かなり広範囲の村であった。
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西与賀町の地理的環境
佐賀市は佐賀平野のほぼ中央にあって、北に脊振・天山山系を臨み、南には有明海が広がっている。西与賀町は南北に細長い佐賀市の西南部に位置し、西はゆるやかに蛇行しながら南流する本庄江で嘉瀬町と接し、北東部を本庄町、南東部を東与賀町に接している。面積は5.35kmであり、産業は干拓事業で広大な土地があり、第1次産業の占める割合が大きい。特筆すべきものとして、有明海に近い土地柄のせいかノリの養殖や水産物加工産業がある。 佐賀市の中心部から車で十数分の通勤圏であるが、町の大半は市街化調整区域であるため、高木瀬、鍋島地区に見られるような急速な市街化は見られない。しかしながら既存宅地周辺は少しずつではあるが住宅が増加する傾向にあり、昔日の西与賀町は日をおって遠くなってゆく感がある。
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平山 栄十
平山栄十は、坂井嘉右衛門の二男として西与賀厘外西に生まれる。庄家の平山家の養子となり平山家を継ぐ。和雄と号す。和歌をよくし万延元年(1860)6月庄屋の職に推挙される。村政の経営にはげむ事、数十年村のために善政をしいたのである。また文久2年(1862)5月麻疹(はしか)が村中に流行するや、自分の田を売却して村民を苦難より救う事もしばしばであった。また副島種臣が、長崎遊学に燃えていた時、家が赤貧であったので義父利忠は、思い悩みの末、庄屋であった平山栄十翁に学資を相談されたところ快く承諾されたということである。平山家の菩提寺は、長勝寺である。毎年1月15日には翁の記念碑祭が開催されている。
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副島種臣ゆかりの地
副島種臣は、文政11年(1828)9月9日佐賀藩士枝吉忠左衛門種彰(号南濠)の二男として佐賀市南堀端に生まれ、国文学者枝吉神陽の実弟で、幼名を枝吉二郎といった。 種臣31歳の時、親類の副島和忠の長女律子の入婿となる。副島家は、代々西与賀町今津江湖端に住み、種臣も青年時代の一時期当地で過ごしたと伝えられ、その後は現在漁業田中氏の乾燥工場等が建てられている。副島種臣は、明治維新の元勲として明治新政府で参議、外務卿、内務大臣を歴任し、その外交手腕は、外国高官からも高く評価された。また、書家としても優れ蒼海と号した。
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川副 夘三郎
川副夘三郎は、江戸時代末の嘉永3年(1850)与賀上郷上厘外村の高柳(現在の西与賀町高柳)に生まれた。 幼少の頃は神童といわれ、その後、家人に従い農作業を手伝ったが、朝早くから夕方には星をいただき、その働きぶりは周囲の目をみはらせ、伝えによると、閑叟公(佐賀藩10代藩主)より賞辞を賜ったといわれている。 やがて家業を継ぎ田畑の耕作に従事したが、その精励ぶりはその度を加えた。後に選ばれて村会議員となり地区の世話は勿論、西与賀町の発展に尽くした。 高柳の住民によって、氏の没後その徳を称えて記念碑を建て、毎年お祭を行っている。
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西与賀町の伝説
全国各地に日本武尊の伝説が存在するが、熊襲征伐のくだりでこの西与賀町関連部分がある。それによると武尊は長門国より乗船し、五島、平戸を経て有明海に入り、火前(ひのまえ)の御崎(みさき・諫早の肥の御崎の説有り)に一応上陸、ここより現地の者による水先案内で、佐賀郡西与賀村の元相応あたりに上陸、そこから小津江(多布施川流域か)を遡行し「中の龍造島」に至ったという。真偽のほどはともかくとして、古代、この西与賀町の大半が海または湿地であったとするのが一般的な考えであるが、この説話は少なくとも一部には人々が生活していたことを示唆しているのではないだろうか。
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中世〜近世の与賀
古代律令制崩壊の過程で荘園が成立していく訳であるが、与賀庄として記録にあらわれるのが建長2年(1250)の『沙弥行恵家領処分状案(東福寺文書)』である。これによると、肥前国与賀庄は関白九条道家の家領であった。また、『与賀大明神御鎮座記』によれば、同年8月8日に与賀神社の鐘を鋳造し、その鋳銘に、「肥前国与賀郷庄守守洪鐘壱口 右奉為天長地久祈願円満也 殊為本家領家預所沙弥 成阿地頭豊前前司藤原朝臣資能安穏泰平」の文字が刻まれている。 時代が降って、明応4年(1495)の『大蔵某の証文(河上神社文書)』に「肥前国佐嘉郡与賀庄上古御寄附の地 字号辻ノ堂」とあり、現在の辻ノ堂付近を中心として与賀庄と呼ばれていたらしい。 藩政期になると与賀庄は上与賀郷と下与賀郷に分かれ、佐賀本藩の蔵入地となっていた。現在でいう西与賀町、本庄町を中心とした地域である。
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西与賀町の成立
藩政期には本藩の蔵入地であったこの西与賀周辺も、版籍奉還という全国的な改革の中で新たな行政区分が設けられた。 明治6年(1873)の大区小区制では厘外村を第14大区第2小区、高太郎村を第14大区第1小区とされていた。次いで明治21年(1888)に公布された市制・町村制では、佐賀郡厘外村、高太郎村を合わせて西与賀村が成立した。この時、佐賀市は町制か市制かの論争を経て、明治22年(1889)に旧城下と周辺の地域を含み市制がしかれた。 大正11年(1922)に佐賀郡神野村を市に編入。昭和29年(1954)3月、佐賀郡内の高木瀬・兵庫・巨勢・嘉瀬と同時期にこの西与賀村も佐賀市に編入され、同年10月、同じく久保泉・金立・鍋島・本庄・北川副を編入。翌30年には神埼郡蓮池町(一部を除く)を編入し現在に至っている。
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西与賀の干拓
古来有明海は自然の営力による堆積作用が著しく、自然陸化する地域が所々にみられ、その土地を人々は開墾していったが、人口の増加はさらに広大な圃場を必要としていった。佐賀地方における干拓の開始時期は鎌倉時代とされているが、やはり江戸期から近代に至る間にその大半は形成されている。 江戸期においては藩をあげて干拓事業に力が注がれ、機構的にも殖産興業を目的とした六府方が天明3年(1783)に設置され、その中の搦方が中心となっていた。この六府方は治茂治下、長尾矢治馬(東郭)の献策によるものであり、これをうけて設置されたもので藩の財政に大きく寄与することになった。財源は万人講(現在の宝クジ)の収益金の5割をあて、大規模事業を実施していった。また民間資本による干拓も後年認可され、干拓事業は隆盛をきわめる。明治期になると築造の工法も近代的になり、事業規模はさらに大きなものも可能となり現在に至る。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その1
16、7からですね、私ゃかまぼこ屋でございましたが、20歳頃までかまぼこ屋しとりました。 そいで、かまぼこをいのうてなた、午前3時頃、もう、一日(ひして)過しなって。多久まで80斤(きん)から100斤いのうて、1日でかけて来て、そいぎ、ちくわとかまぼこもんのまい。そがんしていのうて卸(おろし)行きよるわけですよ。 そいけん、野狐でんなんでん出て来にゃならんばってん、ほら、朝、3時から行たてばんたぁ、そいで、帰ぇさみゃあは、もう4時頃にならんば家にゃ帰って来よりませんでした。 そして、行きよったところが、三日月の先の方からなた、西さい分れりゃ高柳ヶ里ちゅうてございました。そして、高柳ヶ里ちゅう所を行きよっちゃった向こうに、明かいが一つ見えましたですもんなた。おお、今のう誰じゃい行燈つけて行きよるね。今からちょっと、60年前のことですもんね。行燈つけて行きよんね、こう思った。そして、出っかしたなた。こっちは風で右から吹きよんもんじゃい、ちょうど出っかしました。そうしてみたところ、こうして見たぎ、白髪姿の、あたいよい太かとの立っとんもんのまい。びっくいしましたのまい、これにゃあ、本当に。そいぎ、そいが言うことにゃあ、 「かまぼこ屋さん」「ないかい」「あの、家の娘がお前、丹坂越えて来い」「うん、越えて行く」「あっけぇ、おとうにん人さんのおっちゃて、家の娘が縁じいとんもんのう。その娘に、『きゅうは稲刈りじゃけん、来てくいろ』て、言うてくれんかい」 て言うて、あたし言づけさすばん。そいばってんがこっちは、つっくるびいて、あなた、白髪姿じゃんもんじゃあけん。そして、 「うぅん、ううん」 ちゅうて、もう返事ばかいして、かけて走ったわけ。あたし、えすかじゃもんじゃっけん。 そうしてみたところが、向こう見たぎ、ほうかぶいして、またこっちゃい向いて来んもんのまい。なんの、娘方(がや)ぁじゃ行きよっとたんたぁのまい。使ぇ、親父がこいがこうして見たぎにゃあと、こんど白髪爺の立っとんもんのまい。ほんに、びっくいしてあたしゃ足ゃあくりゃあぐうして駆けて来た。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その2
そうして、向こうの丹坂(にざか)越ゆっ時は、まあーだ暗かですよ。7時までは夜は暗かった。そして、おいかぶっもんじゃいのまい。あの境に。そいぎ、暗かけんもう、午前の方におってんばい、あたしゃ越さんじゃった。よそん悪わかもんじゃっけんが、もう、 そいぎ、そいが言うことに、 「あの、お前、丹坂越えて来い」 て、また言うもんのまい。 「いんにゃあ、丹坂もう越えん。山ん先さい回っ」 て、こう言うたぎんと、そいぎ、 「あつこ、石馬のおんもんのう。石馬のおっとこれぇ、『きゅうは稲刈いやっけん、かせぇに来ぇ』ち、言うてくれんかい。また、そうっと言うもんのまい。そいぎ、足ゃつくごとつかんごと駆けて行たて、ほんに黒うどったもん」 そいぎ、そこの丹坂の家からのまい、 「そりゃ、ほんなもん」て。 「決して、白髪婆も白毛爺も、そりゃほんなもんぼ。そいけんが、おそう時間、ゆっくいあっ」 て言われて、ここに来たごとがありますなぁ。
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野狐の世間話その1
あるところに、仕出屋ばしないよったて、魚屋でのまい。 そして、この射的道ができる前は、神埼線ができっ前は、この前ばずっといたて、久富の裏さい東向って、仕出して、車引いて帰えないよったぎぃ、若か娘のさい、二人さい、「おじさん、加勢すんのう」て言うてさい、一所懸命、ええて、加勢すってっちゃん。そいぎ、わがいっぱいつけとって、車が軽うなっけん、ホイホイホイで娘が加勢すんもんじゃい一所懸命になって昔の古道ば暗に、一所懸命。 あの人は次作さんやったきゃん。 そがんごとの何度でんあったてっじゃん。野狐も化しよか人間と、化しにっか人間とあっちゃろうちて。 人の見っぎにゃあとは、「何んしょいなっちゃろか。畑ん中ば、なし、あがん一所懸命、車引いて行きなっちゃいきゃん」ちて。
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野狐のなまず
私はのまい、あの、太かことばっかい言うばってんが、なまずのさい、人間の頭ぐりゃあいのなまずの、私が流れうけつけとったとにはいったことのある。そいも鍋島おっときくさんたぁ。 長雨(ながせ)のうち、まぁ、よぼいしぎゃ行たわけ。田ん中、あがっことしとんもんじゃのまい。そして、うけばつけとったさい、流れうけば。そいぎ、帰ぇがけ、あの、めかけぞうけば、あの、てぼに持って行たとったもん。そして、うなぎてぇろん、鮒てぇろん、でぼに入れとったもん。そして、帰ぇがけ、もう流れうけ鮒の入っとろにゃあと思うて、こう、開けでみたたんたぁ。 そうしてみたところが、もう、ゴトゴトゴトで、もうえすかごと音さすんもん。こりゃあ、なんじゃい太かとの入っとっばいねぇ。もう楽しゅうであげてみたわけ。そうしたところが、こうして見たぎにゃあとは、その、なまずの入っとんもん。太かもんのまい。がん太かもん。そいぎ、こりゃどういうなまずかと思うてさい、そうして、野菜かごたんたぁのまい、あいばでぼに持って行たとったもんじゃい、尾ば取ってみて、そうして野菜かごの中ゃあ、尾ば入れて、こう、うけばかけたわけ。ガタガタっとして、ありゃあ、俺が取ったとまでちん逃げたとは太かったとこれぇにゃあて、思うた。両わきの田ん中も水のはいっとんもんのまい。あぜのこうしとっところの、溝につけとんもんじゃん。こうして受けたぎ、バタバタバタってして、こいまで転ばぁきゃあて、そして、やっとったとまで全部やられた。そいぎ、全部出てしもうた。 そうして、残っとったとは、こいくりゃばっかいのなまずがさい、1匹残っとんもんの。そがんとは残らんたっちゃよかったとこれぇ、ほんに惜しかったにゃあ。また、そいがのぼってくっくさと思うて、またつけてぇていたわけ。あんまい先さぁいかんけんがぁと思うて。あぁ、もうどうしゅうかぁ。待っとっ筈じゃこんもんじゃあと思うて。そうして、帰ったんたぁ。 そうして、帰って、なんもかんも、なまずの1匹じゃんもんじゃい、こうまかこいくりゃあんとの1匹しか残っとらんもん。そいぎ、「太かなまずの入っとったばん。こいくさ俺が頭のごたっとの入っとったぁ」ちゅうて、「そがん太かなまずのおんもんかぁ」ちゅうて、親父がやかまし言うて、「わが今のまでそがんしとんない、わが、やられとっじゃあ。つけられとっじゃあ。そいけん、早よう帰って来んばぁ」ちゅうて、あっちゃごし小言いわれた。なんて小言いいよっかにゃあと思うて、なんのその、野狐から騙されとっちいう意味たんたぁのまい。なまずになって、あとから話聞いたぎ、野狐が。そいぎ、目の真暗うなって、川の中にはい込んだいすっらしか。
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野狐の世間話その2
谷口鉄工所が本当に盛んな時、私がまだ若い頃、あの、私の所は建築資材のごたっとを売いよったたんたぁ。そいぎ、あつこがレンガのいっけんちて、レンガの注文があったわけたんたぁ。 そいぎ、なんの電話はそん頃なかもんじゃい、そいぎあの、急ぐちゅうもんじゃい、そいぎ、「今のから行たて来っか」ちゅうて、私が行こうでしたぎ、そいぎ、父が、「今からもう、暗うなっけん行くな」ち。そいばってんが、気になんもんじゃい、「俺が行たて来っ」ちゅうて、そのまま、ところが、えぇ、城島ちゅうて、大川の筑後川の所に工場があっわけですたいなぁ。そいぎ、そこさい、もう、午後から行たわけ、自転車で。 そして、ずうっと行きよったところが、もう、大抵、日暮れ頃になって、ちょうどそんときゃあ、あの、なたねの咲しとっ頃でござんした。そして、ずうっと行たて、もう、だいぶん行たて、そしてあの、煙突が、工場あるからなたぁ、煙突がずうっと先の方まで見えよっ。とにかく、ずうっと行きよったところが、あの、その、なの花の畑ん所を、何か、ぷすっと、あの、道ば行ったわけ。そいから、少し行きよったところが、ずうっと行きよったところが、道がだんだん狭もうなってくっ。そして、ずうっと行きよったところが、先ゃあもう、道が狭もうなって、もう、あぜ道のごとなって自転車行かれんごとなってしもうた。ありゃ道ばまちごうとっばいと思うて、そしてちょっと立ち止って、こう、あたりを見回したら、そうすっと、少し離れたところは、うぅん、人のまだ通いよっし、あの、車も通いよった。そいぎ、あぁ、そんときゃ道ば自分がまちごうとったと思うて、こう行きよるばってん、先ゃあ田ん中ゃ行かんばらんていうて、そうして、また戻って、戻ったところが、あがんと太か道に出たわけ。そして、ずうっとまた、その工場に行たて、「実は、こういうふうなことが途中であったぁ」ちゅうたぎ、「あぁ、そんときゃ、あがんと、ここんたりゃ狐の騙すけん、そぎゃんいうぎ、そいぎ早よう帰らんばもう」ち、言うもんじゃいね。そいぎもう、早よう、用事ば済まして、あの、帰ったとたんたぁ。 そして、帰って来よったぎにゃあ、もう、あぎゃんこともあって。そうして、提灯のいっごとなったわけ。そいけんが、狐の騙すちゅうことは、こういう風なことじゃなかろうかぁと思うなたぁ。
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野狐の世間話その3
火の玉の、ほんなこて縦の1尺ぐりゃあの火の玉に私が二十歳(はたち)頃会うたことのあっですなぁ。 町遊べ、二人(ふたい)連れ、その人もまだ生きとって。二人連れ町から12時過ぎ、あすけぇ森のあっ。森から、こう、出たところが、ここが堤防で、もう今は川の中って。こいから50mばかい行ったとこれぇ、最近まではぜの木のあったたんたぁ。その楠のほんな家の所にね、北の所に山王さんのおいなっさい。その当時。 そいぎ、二人連れ、久保ちゅうて、まだ現在におらすて。ちょうど三叉路から、森の方から出て来て、三叉路になった所のにき、ホォーと、こう、よなよしさんのごたっとのくさんたぁ、まあ、頭の高さぐらいのとこれぇ、ほんにびっくいすっごたっとの、赤でんちぃたたんたぁ。 そいぎ、こっちもびっくいしてもう、かくっぎにゃあ、相手もかくぅごたんもんじゃさい、こっちもじいっと我慢したごとして、そして、その、そこのはぜの木の、こう立っとった時、下ば通らんば、まあ、ちょっと行かれんもんじゃい。ちょっと川じゃあもんじゃいなぁ。 そして、その下んにきに行たぎにゃあとは、そいが自然と、そおっと消えて、のうなったわけ。のうなったけんよかったもんの、そいから気持ちの悪さ悪さのまい、のうなってからがさい、「もう、かきゅうじゃっこうさい」て、かけじゃあたぁ。ちょっと、気持ちの悪かもんじゃいけんさい。そいぎ、城井樋まで出かけて行た。 そいぎ、そいが何じゃったかちゅうて、えぇ、何こっちゃいわからんたんたぁ。そいぎ他の者に、「こがんことのあったばい」ちて。そいぎ、「そりゃあ、あの、練兵所の野狐ちゅう。お前たちは騙されとったぁ」ち。あすこは、せっせと騙されたちゅう者の多かとよ。もう、火の消えたけんよかったばってんもう、あの川ん所はさい、ガオガオガオでもう、ないじゃいこう、馬の駆けてくっごとひょうつかすて。そいぎ、ないじゃいわからんて。