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[旧佐賀市][ その他]は93件登録されています。
旧佐賀市 その他
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佐賀競馬場
西神野(神園3丁目)に競馬場ができたのは昭和4年(1929)5月である。競馬場の総面積は11,000坪、馬場6,300坪、建造物570坪、走路1,000m、幅員16mで、その頃では九州屈指の模範競馬場であった。昭和14年(1939)までは毎年春秋2回の競馬が開催されたが、支那事変の拡大とともに馬の重要性が再認識され、昭和15年(1940)11月7日に軍用保護馬鍛練場となり、鍛練馬競馬が開かれたが、これはそれまでの競馬に比べて面白くなかった。昭和16年(1941)12月8日太平洋戦争が起こり、昭和18年(1943)には鍛練馬競馬は中止、場内の施設は市内の軍需工場、新聞社等に貸与され、走路は野菜芋畑となった。 昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は日本の敗北に終わり、国民は絶望と虚脱感に陥り、食糧事情は極度に悪化した。世の中は混迷と混乱の渦につつまれたが、一般の馬事愛好者がたち上がり、県と占領軍の許可を得て、昭和21年(1946)10月17日から4日間競馬を開催した。 昭和23年(1948)競馬は公営となり、大水害等で災害を受けた町村は、競馬益金の配当を受けるようになった。 しかし、競馬場付近には多布施川、神野公園があり、遊びに来る人も多く、競馬の開催回数の増加にともない開催時における人、馬、自動車等の洪水で大混雑をするようになった。また、競馬場周辺には人家もふえ、朝夕の通勤通学にも支障をきたすようになり、いろいろ問題が出てきた。そこで鳥栖市に移転することになり、昭和47年(1972)新競馬場完成、西神野競馬場は、この年の2月末で廃止されるに至った。 戦後も、農家では馬を使用していたが、農機具が次第に機械化され、馬の姿を見ないようになった。小学校の児童の中には、馬は映画やテレビの西部劇で見るくらいで、生きた馬を見る者はないようになったが、神野小学校の児童は、競馬場の閉鎖されるまで生きた馬を見ていたのである。
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佐賀駅
【旧佐賀駅】 九州鉄道(後に国有鉄道)の長崎線が、鳥栖から佐賀まで開通したのは、明治24年(1891)8月20日である。駅が愛敬島に設置された(今の駅より南へ約200mのところ)。 佐賀新聞は、当時の様子を次のように伝えている。「今回の開通式は実に佐賀はじまって以来の盛事なれば、式に臨む者は山のごとく、各村々からの見物人はアリのごとし。汽車は鉄笛一声、軽雷地に響き、鳥栖へ向けて進行を始めた。拍手と歓声は天地を動かすごとし。見物人は初めて見る汽車にただ驚くばかり・・・」 開業時、鳥栖―佐賀間には神埼、中原の二駅しかなく、列車の運行も1日4往復で、所要時間は約1時間であった。 長崎線は、明治28年(1895)5月武雄まで開通、明治31年(1898)11月には長崎まで開通した。そして、明治36年(1903)12月に唐津線全線開通、佐賀駅は名実ともに佐賀市の玄関口となった。佐賀線が全線開通したのは、昭和10年(1935)5月であった。 【新佐賀駅】 昭和51年(1976)2月まで続いた旧駅は、現在の新駅より南へ約200mの位置にあったが、駅周辺の混雑緩和、貨物の入れ替え作業等に伴う国道263号の交通渋滞解消などを図るために、昭和46年(1971)2月から佐賀駅高架移転事業が起工され、約81億円をかけて、昭和51年(1976)2月に完成した。駅とその東西約4.3kmが高架化され、新駅周辺の南北を結ぶ道路の交通渋滞が解消された。 新駅の開通と同時に貨物取り扱いが鍋島駅に移った。駅の高架下にはバスセンター、佐賀デイトス(ショッピングセンター)などが設けられた。駅周辺には高層建造物が増え、駅前開発が進んでいる。 最近、新幹線長崎ルートの建設も決定された。
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川上軌道と馬鉄
大正中期には佐賀軌道と川上軌道があったが、大正8年(1919)8月に両社が合併した。 佐賀軌道は、明治36年(1903)8月に創立し、その設備は品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入して、営業は翌37年2月から開始し、佐賀駅―諸富間の運行を行なった。 川上軌道は、大正元年(1912)11月に設立され、本社を三溝に置き、佐賀駅から川上都渡城(かわかみととき)の区間を営業した。その後大正5年には、神野踏切から招魂社(現護国神社)前までの路線を拡張した。 両社の合併は、交通機関の統一をはかるために行なわれた。協議は難航したが、大正8年8月に合併案がまとまった。社名を佐賀軌道株式会社とし、路線拡張案も出された。 佐賀軌道株式会社は神野町三溝の元川上軌道会社を本社とし、水ケ江町の元佐賀軌道会社を出張所とした。営業路線は川上線(神野町二本松―三溝―県道―川上都渡城)、中ノ小路線(佐賀駅前―中ノ小路―招魂社前)、諸富線(佐賀駅前―唐人町―県庁前―片田江―水ケ江―諸富)があり、中ノ小路、諸富の両線は馬一頭牽(馬鉄)で、川上線は軽便機関車による運転であった。機関車は、ミニSLで西部劇に出てくる機関車に似ていたが、それよりもっと小さかった。川上やお不動さんの遠足には、「川上軌道」といってよく利用したものである。 「名残り惜しい佐賀の軌道馬車、廿五日からバスと交替」(『佐賀新聞』昭和3年6月23日付)と佐賀軌道は馬車鉄道を廃して、自動車運行をすることになった。 また、佐賀軌道では、電化が論議されていたが、昭和3年11月にそれを正式に決定し、社名も佐賀電気軌道株式会社と改称した。佐賀電気軌道の佐賀―川上間の電車敷設工事は、昭和5年4月8日に竣工し、4月10日から運行を始めた。 【思い出】 また、佐賀駅前から紡績通りを通り招魂社(現護国神社)前までは馬鉄があった。馬鉄とは鉄道馬車のことで、チンチン電車よりもっと小さい車両を馬が引っぱって走る車である。車両の窓は片側4つか5つであった。馬が引っぱっているので、時々珍事が起こった。疾走している馬鉄が突然停車、何ごとかと思いきや、馬が徐に尻尾を上げて排泄作用をやるのである。時には脱線することもあった。この時は、運転手さんは、お客さんに降りてもらい、車体をかかえてレールにのせてもらって、「ハイ、発車」というようなのんびりした光景も見られた。
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佐賀県農事試験場
現在、佐賀市川副町南里にある佐賀県農業試験研究センターの前身佐賀県農事試験場が、草場に設置されたのは、明治33年(1900)のことである。場所は、佐賀駅北口前通りとはがくれ荘から三溝へ通ずる道路の交差点の東側で、その東北角の少し北に正門があり、その東側に建物や実習田、実験畑があった。 昭和25年(1950)、佐賀県農業試験場設置条例が施行され、佐賀県農業試験場と名称変更、同27年(1952)高木瀬村に移転した。その間、佐賀県農業の発展に寄与した技術の開発などは測りしれないものがある。 農事試験場の農事参観デーが初めて開かれたのは、大正11年(1922)という(佐賀県農業試験場要覧より)。この時は、県内から沢山の農家の人が集まって大にぎわいをした。 その後、佐賀県農業試験場は、昭和43年(1968)に現在地の佐賀市川副町へ移り、平成4年(1992)には佐賀県農業試験研究センターに改称され、現在に至っている。 【思い出】 神野小学校の児童で、学校帰りに農事参観デーを見に行ったものも多い。その中のイタズラボウズが、展示場にさげてあった広告を1人で沢山とっているところを試験場の人にみつかったらしい。 翌日の朝会(その頃は毎日あっていた)で、「きのう、農事試験場に行って広告をどっさりとったものがいる・・・」と先生から叱られたこともあった。
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佐賀紡績株式会社・大和紡績株式会社佐賀工場
大正5年(1916)12月、地元の有志によって佐賀紡績株式会社が、資本金300万円で創立された。大正9年には男子300名、女子1,200名の工員を擁する大工場となった。当時の佐賀市郡の企業の中では、最大規模の工場であった。しかし、その後の不況で業績が悪化、大正末期には操業が停止された。 昭和3年(1928)4月、錦華紡績株式会社に買収され、同社佐賀支店(のち同社佐賀工場)として、操業が再開された。 昭和16年には、錦華紡績(株)、日出紡績(株)、出雲製織(株)、和歌山紡績(株)の4社合併により、大和紡績(株)佐賀工場となった。 大和紡績株式会社(本社:大阪市)は、資本金50億2,000万円、年商1,015億4,000万円(昭和56年度)の繊維の総合大手メーカーであり、従業員約5,000人(うち佐賀工場650人)であった。綿布、スフ綿、綿糸のほか合繊布の生産も多かった。 大和紡績(株)佐賀工場の操業は、戦中・戦後を通じて盛んに行なわれ、最盛期(昭和25年頃)には、従業員数(組合員のみ)は2,000名を超え、そのうち女寄寮には1,430名の女子工員さんたちが働いていた。 しかし、その後の繊維業界の再編等により、次第に工場の規模も縮小され、ついに昭和61年3月、同社佐賀工場は閉鎖になり、約70年の歴史を閉じることになった。 現在、その工場跡地は、「どんどんどんの森」として、市民に親しまれている。 【思い出】 昔は、(神野小学校の)運動場から紡績の工場を写生することができた。また、工場と長崎本線の線路の間に蓮堀(佐賀では蓮根堀という)があったが、神野小卒業生の中には、あの蓮堀に思い出のある人もあろう。 【〝紡績通り〟の名称の由来】(現国道264号線) 大正5年12月に、現在地に佐賀紡績工場が設立された。工場が整備拡充されるにしたがい、当時の佐賀にとって、最大の工場として地元民の関心を集めた。 当時は人が通る程度の道があったが、道路も混雑するようになり、次第に道幅も広くなっていった。 その後、通称〝貫通道路〟がつくられ、佐賀市街を東西に通ずるようになり、この通りと連結されると、次第に市民が紡績工場の隆盛を期待し、愛称として〝紡績通り〟と呼ぶようになり、今日まで引き継がれてきたものである。
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神野劇場
草場の徳島酒店の東側、今駐車場になっているあたりにあった。大正13年(1924)12月起工、翌14年(1925)7月竣工、落成式を挙行、初興行(柿葺落)には大阪俳優の実川新四郎、市川鯉三郎一座60余名の歌舞伎興行を行った。 昭和11年(1936)12月からは、東宝映画上映の映画館となった。しかし、東宝映画は昭和14年(1939)6月、松原通りに東宝映画劇場が開館されるにいたり、ここで上映されるようになった。 (昭和27年発行「佐賀市史下巻」による)
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佐賀瓦斯株式会社(製造場)・日本電気分工場
大正2年(1913)佐賀瓦斯株式会社が設立され、瓦斯製造場が愛敬島(今の市役所のある所)に設置された。この瓦斯会社は、大正7年(1918)に解散、そのあとに日本電気工場ができた。これは、大正の後期火事で焼け、まもなく閉鎖された。昭和6年(1931)そのあとに有限責任瓦斯購買利用組合が設立され、昭和16年(1941)佐賀市がこれを引き継いだ。
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佐賀食糧事務所政府倉庫(旧農林省米倉庫)
1 環境等 (1)環 境 JR長崎本線佐賀駅から東へ徒歩5分のところに位置している。設立当時は、囲りの水田に倉庫の影を映す、のどかな田園の中にあり、市民に国立倉庫と呼ばれて親しまれてきた。しかし、現在(昭和63年当時)は都市計画により、市役所、農協会館等公共施設が隣接し、市内の中心街に変貌しつつある。このため、貨物専用駅が佐賀駅西方約4㎞の所に新設されるとともに、35年の歴史をもつ専用側線は撤去され、併せて、敷地も長崎本線によって分断され、荷さばき等の立地条件として悪くなった。 (2)最寄貨車扱駅 長崎本線鍋島駅 当倉庫まで4.5㎞ 2 沿 革 (1)設立当時の概況及び現在までの経緯 当政府倉庫は、佐賀平野の中心地に位置し、昭和13年に建設され、過剰米対策のための米の備蓄を目的として設立されたものであり、建設に当たっては、農林省支弁により政府倉庫7棟(倉庫用地12,900㎡、建築面積4,200㎡、収容力6,800トン)その他附属設備等工費24万円余を投じて建設され、翌14年には専用側線も施設された。 戦後、約2年半占領軍に、官舎1棟、政府倉庫2棟が接収され、その間、1号倉庫は物資倉庫、2号倉庫は娯楽施設等に使用されたという歴史をもっている。 昭和47年、佐賀市の都市計画事業が実施されるにおよんで、3、4号倉庫が解体されるとともに、1、2号倉庫と5、6、7号倉庫が、長崎本線の高架線により分断されることになり、政府倉庫も5棟(倉庫敷地7,116㎡、建築面積3,061㎡、収容力4,860トン)となり、同時に専用側線も廃止され、現在に至っている。 (2)現在の状況(昭和63年当時) 県内の需給操作用として、青森産米(4類)、北海道産米(5類)と、政府倉庫周辺の農業倉庫の収容力不足を補うため、県内産大粒大麦及び小麦並びに備蓄用外国産飼料大麦の搬入を図り活用しているが、年間を通してほぼ満庫に近い状態である。 3 倉庫規模、構造 棟数 5棟 倉番数 5倉番 標準収容力 972トン×5倉番=4,860トン 建物構造 木造平屋建、二重屋根 ※政府倉庫は平成18年3月に解体となり、現在、一部は佐賀市の駐車場になっている。
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ヤモ合わせ
佐賀では銀蜻蛉をヤモと呼ぶ。とりもち竿などでヤモを捕え、羽の間の胴を糸で結び、糸の先を1mくらいの竹竿にくくりつける。雄ヤモの飛んでいる堀に行き、これを囮ヤモにして頭上で丸く回わす。囮は雄雌どれでもよく、雄であれば繩張り争いのためかすぐ喧嘩しにくるし、雌であれば交尾せんとして近寄るので、その機を逸せず掴まえるのである。これをヤモ合わせといった。捕えたヤモは、ねずみとりや小鳥籠に入れ、意気揚々と帰って友達に自慢したものである。ヤモ合わせの呼び声は「ヤモホッー、ヤモホッー、メトンに目かけてござらんかん」であった。なお、ヤモの雄をオトン、雌をメトンといった。
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九州グリコ株式会社
1 江崎グリコ株式会社(創立:大正11年2月、設立:昭和4年2月、本社:大阪市) 佐賀市蓮池町出身の江崎利一氏は、大正3年(1914)行商の途中、早津江川の岸で有明海特産のカキの煮汁が川口に放出されているのを見つけて、その有効利用を思いつき、その汁の中から栄養素「グリコーゲン」を抽出、種々の工夫の後、それを栄養菓子「グリコ」として完成させた。 大正10年(1921)、その販売のため大阪に出て「江崎グリコ」を創業した。「一粒300m」の宣伝文句とおまけ付きは有名である。ユニークな製品開発が得意で、アーモンドチョコ、ポッキーチョコ、ビスコなどの人気商品があり、冷菓、焼菓子、カレーなどにも進出している。 平成13年(2001)には、全製造工場を分社化。平成21年3月現在、資本金は77億73百万円、従業員数は1,099名、グループ全体では4,889名である。 2 九州グリコ株式会社 九州グリコ株式会社は昭和28年、江崎グリコ創業者である江崎利一氏の故郷である佐賀に江崎グリコ株式会社九州工場として設立された。創業当初は、江崎グリコ創業のきっかけともなったキャラメルの「グリコ」を中心に生産を開始した。 平成13年12月、江崎グリコ株式会社から分離独立し、九州グリコ株式会社を設立。現在では、ビスケット、ガム、チョコレートの3製品を主力として生産を行なっている。 資本金は1,000万円、従業員数は約500名(アウトソーシングを含む。)である。 〈沿革〉 ・昭和28年 創業 「グリコ」生産開始(〜昭和56年) ・昭和32年 アイスクリーム生産開始(〜昭和47年) ビスケット工場新設 ビスコ生産開始(〜昭和57年) ・昭和43年 チョコレート工場新設 アーモンドチョコレート生産開始 ・昭和57年 キティランドビスケット生産開始(〜昭和62年) ・昭和62年 フレンドベーカリー生産開始 ・平成 3年 ガム工場新設 キスミント生産開始 ・平成13年 九州グリコ(株)として江崎グリコ(株)より分社化 ※九州グリコ株式会社は2018年に工場を閉鎖、2019年1月に解散。佐賀市には佐賀グリコ乳業(佐賀市大和町)の佐賀工場がある。
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株式会社佐賀鉄工所
昭和13年(1938)11月、初代社長勝谷辰次郎氏は、(株)戸上電機製作所より独立し、佐賀鉄工所を設立。その後、海軍航空機用精密ねじを製造、戦後はねじ専門メーカーとなる。 現在、佐賀鉄工所は、ボルト製造の全国トップ企業で、シェアは約50%にものぼる。製造するボルトの種類は8,000〜9,000種にもなるといい、そのうち8割が自動車製造関連向けである。 日産、ホンダ、富士重工、トヨタ自動車九州等主要メーカーに納品している。 資本金は3億1千万円、従業員は769名(平成21年4月現在)、売上高はこの3年間、年間400億円〜450億円であり、県内における代表的地場企業である。主要工場は県内では佐賀市と大町町、県外では神奈川県の藤沢市にある。約20年前からは、アメリカ、中国、タイに合弁会社を設立し、海外にも進出している。 これらの躍進を支えているのは、自動車用ボルトにおける非常に高い技術水準と独自性を生み出す製造工程である。素材(線材)の加工から、熱処理、メッキ、加工まで、ねじの一貫生産システムにより品質管理を徹底していることである。 自動車メーカーの海外進出の際にも、佐賀鉄工所の自動車用ボルトにおける技術水準は群をぬいているため、そのボルトが不可欠ということで、アメリカや中国などに進出するようになったのである。
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経塔(福満寺)
真言宗に改宗された後、毎年行われる三千佛名経会に参詣された人が奉納されたものや、現在は主に塔婆や過去帳を最終日である5月5日 にこの経塔に納めている。
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佐賀城四方の濠
【施工】成富兵庫茂安。鍋島直茂・勝茂父子に仕えた重臣で領内農民を動員する。 筑前藩主黒田長政人夫をおくり支援する。県立図書館・佐嘉神社駐車場の北堀で筑前堀の名をとどめている。返礼に黒田長政築城の際、堀つくりに鍋島直茂人夫をおくり支援、肥前堀の名をとどめているという。 佐賀城をめぐるお堀は、東堀693m、西堀644m、南堀765m、北堀450m。幅60〜70m。深さ2〜3m。 護岸:佐賀地方の地盤軟弱のため、基底部の沈下防止に赤石(多久納所産)・松・丸太角杭等を施工してある。(西・南堀端角の道路下に説明記碑在り)。
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博物館と美術館
昭和45年10月、明治100年記念事業として佐賀県初めての本格的な博物館として建てられた。ここには唐津桜馬場弥生遺跡出土品(国重文)をはじめとする考古学資料、肥前名護屋城図屏風などの歴史的資料、染付鍋島藩絵図大皿などの美術資料、工芸資料、先覚者の書画、自然資料等佐賀県内の資料を所蔵している。美術館も昭和58年建設され多方面に活用されている。 屋外には彫刻の森として佐賀市水ヶ江出身の彫塑家古賀忠雄氏((明治36〜昭54)東京美術学校卒)の作品が展示されている。 1.二つの道 2.鶏舎の朝 3.岬の男(新文展特選) 4.生きる 5.浴後 6.晴間を待つ 7.呆心 8.漁夫三想 9.農夫 10.工場の老夜警夫 11.幻想 12.伸びよ次代 13.太陽を知る男 14.限界 15.シャモと男 16.圧 17.青雲 18.花売り 19.語らい 20.想 21.春を待つ 22.沼の幻想 23.思い 24.団欒 25.農場の朝 26.頬杖をつく またお城濠に面し、故市村清氏の遺志を継ぐ幸恵夫人寄贈の茶室清恵庵がある。 博物館玄関前には、佐賀藩カノン砲が置いてある。
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中山家住宅
当家は南北に通る安住小路の西側に東に面して屋敷を構える。文化期「御城下絵図」によると、宅地の主屋を含む北半部に中山正親抱と記され、庭園の広がる南半部は横田雉之允の名が見え、中山正親の名は北隣の宅地に記される。現在では水路を越えて宅地は広がり、中山正親抱の宅地を核として、南隣の横田雉之允の宅地東隣の藤山内蔵之允の宅地も併せ、広大な屋敷構えを見せる。 屋敷構えは北側に配した主屋を中心に、その南隣に厩(うまや)、小路側に前庭、主屋南側に品の良い庭園を設けている。小路とは生垣によって隔てられるが、かつては小路に向けて門を開いていた。門の正面に切妻屋根を戴く玄関があるが、式台を後に改造したものである。 主屋の屋根は寄棟造り茅葺きの上屋に桟瓦葺きの下屋が巡る形式だが、間取りに対応して棟が複雑に折れ曲がる。玄関から東西に延びる大きな棟が奥向きの諸室、そこから南側に鍵型に突き出た棟が、表向きの諸室、北側に突き出た棟には土間を収めている。 表向きの4室は座敷を頂点とする序列に従って配列され、いずれも棹縁天井を張り、玄関を除く3室には長押が打たれる。次の間の採光部分に窓台を設ける点は、類例が少なく珍しい。中央の棟に連なる4室は、奥向きの機能を有していたと考えられるが、改造が多いため当初の姿を特定できなかった。 ただし、棹縁天井が張られる部屋は仏間として利用され、他の武家住宅とは異なる間取りを示す。北側の棟は当初土間で、別棟の釜屋とともに広大な作業空間を用意していた。 小屋組は叉首を用いた折置組の構造で、陸梁と胴差型の梁を併用している。構造や意匠から判断して19世紀前期の建築と推定される。大規模にも関わらず、建築の保存状態は良好で、特に土間廻りがよく残され、座敷に面した庭園の質も高い。門は失われたものの、屋敷構え全体がよく残されている。周りの水路や小路と一体となって優れた歴史環境を形成し、武家住宅遺構として貴重な存在である。
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侯爵鍋島家佐賀内庫所
明治以降、鍋島家の御館は城内の三の丸であったが、明治7年2月に起こった佐賀戦争により焼失した。筋違井樋辺より県庁(本丸)めがけて大砲を発射、御館が矢向になり、2月16日午前10時頃より御館に火が掛り、蔵々共残らず焼失と「日記」(※鍋028−1)にある。 その後、鍋島山城(親類・白石鍋島家)抱地であった宗龍寺東側の地に移転、明治9年5月「佐賀御館御玄関より役所迄の処藁葺に候処、当節瓦に葺替相成候事」とあり、比較的質素な建物であったようだ。一般的に内庫所と言われていた建物は、明治末から大正初めにかけて改築されたもので、大正5年の陸軍特別大演習には摂政殿下(皇太子)お成りの予定であったが、聖上の様態が思わしくなく、急遽閑院宮が代わりを務め、新築の内庫所に宿泊された。 当屋敷は、戦後手放され、宗教団体の善隣会所有となったが、昭和40年ごろ、武雄の御船山観光ホテルに移築され、部分的な改築はあるものの、鍋島報效会所有の平面図と比較してみると、ほぼ原型を留めて現在も客室として使用されている。 ※鍋島文庫整理番号028-1 ※写真は内庫所のあった場所に建てられた市民会館。市民会館は2016年3月末に閉館し、現在は別の建物が建っている。
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東御屋敷(向陽軒)
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の別荘として建築され、勝茂公は一日の多くをここで過ごした。
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虚受楼
佐賀藩10代藩主、鍋島直正公が政務の疲れを癒し、漢詩の作成にいそしんだ書斎兼茶室。 天保6年(1836)2月、佐賀城南東部の水ヶ江(水ヶ江三丁目付近)に藩主の保養別荘水ヶ江茶屋「虚受楼」の建築が始まった。 直正は、天保6年の正月、下痢に悩まされて、賀正に臨まれず、2日、3日も下痢がひどく、7日には古賀穀堂を伊勢神社などに代参させるほどであった。しかし、月末になって漸く回復した。 直正は、藩主に就いて以来6年間、藩政改革に奔走し、肉体的、精神的な無理から体力が衰え、その上、持ち前の几帳面な性格が災いしたのかも知れない。 直正公伝によれば、直正は壮年時、雨水の混じった水さえ飲んで渇きを癒したこともあり、潔癖性というほどのことはなかった。しかし、晩年になって、お手水ごとに、上中下の3つの手桶の水を使って終うほどで、庶兄の鍋島安房にも同じような潔癖性があった。(直正公傳第1編)
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観頣荘
観頣荘(かんいそう)は、西御屋敷とも称し、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂の別邸であった。元禄11年(1698)、家老鍋島弥平左衛門の抱え地に観頣荘が建立され、さらに、家臣の邸宅が取り上げられて広大な庭園が築かれた。元禄12年の文書にいわく「・・・御屋敷内手狭く殊に御近辺に罷り居り候者御近所故心遣い致し不自由迷惑致す由聞召し上げられ水月庵小路西側迄屋敷召上げられ候・・・」。造園には攝州兵庫の御本陣粘右衛門が招かれて当たったという。 観頣荘の模様については、綱茂の手記「観頣荘記」や作者不詳の絵図「観頣荘之図」(いずれも県立図書館蔵)からうかがうことができる。中央に灔藍池と呼ばれる池があり、周囲に観頣荘や繁陰山となる築山をつくり、各所に楼屋や亭を配したいわゆる回遊式庭園であったらしい。建物にはそれぞれ漱玉窩、真意楼、雲棒楼など経書から引用した名が付けられ、名前の由来が「観頣荘記」に記されている。聖堂もつくられている。しかし、「観頣荘記」は一種の文芸作品であるので、観頣荘の正確な建設場所は明確でない。だが、元文5年(1740)の城下図には池と聖堂が記されているので、敷地全体のおよその位置はわかる。同図にある鍋島主水抱え地は南側に池を望み、かつて荘居のあった場所と思われる。諫早石見抱え地は池の西側に接し、築山などを有する庭園の主要部分であったであろう。池の南東の慈眼院のある場所は、観頣荘建設の際に取り上げられた水月庵の旧跡で、ここも敷地内であったであろう。元禄13年の暮に1ヶ月近く、綱茂は息女と共に観頣荘に滞在している。城との往来は船によっているので、城とは水路で直接通じていたのであろう。池には大船を十余隻も浮かべることがあったという。同年、二の丸から聖堂を移した。このころには、観頣荘の建物、庭園はほぼ完成していたと思われる。綱茂はまた、親類や家老に縁付いた妹たちを呼んで藤の花見と歌会を行っている。その他、家老と、大風の被害を受けた領民の出来、出銀を免ずる相談を行うなど、ここで藩政をみることもあったようである。 ところが、綱茂の没後間もない宝永4年(1707)、早くも観頣荘の一部は解除され家臣8名に下賜されている。敷地内の水月庵旧跡に慈眼院が建立されたのは、宝永年中(1710まで)である。また、前出の諫早石見抱え地は4代藩主吉茂(1664~1730)から賜ったといわれている。このように観頣荘が短期間のうちに縮小解除された原因については、綱茂の文治主義に対する藩内の不評、綱茂に対する親類筋の個人的感情、天災・火災等による経済的圧迫などが考えられるが明らかでない。これに関連する資料の出現が待たれる。 元文の城下図を現在の地図と重ね合わせて観頣荘の敷地の境界を推定すると、東は西堀端と宝琳院西側の通ずる水路、西と南は佐賀大学東側を通り、左折して宝琳院南側を流れる善左衛門井樋水系、北は中周路通りとなる。鬼丸町の西部と赤松町の南部とを含む東西約200m、南北約400m、面積約8万㎡の区域である。水の流れは昔と変わらないが、昔をしのばせるものは、水辺の護岸の石とわずかばかりの立ち木のみである。
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多久家屋敷門(1棟)
永禄5年(1562)に肥前第二次東西戦争で西軍(有馬・大村・多久連合)が敗れ、前多久家は滅亡した。その後、元亀元年(1570)龍造寺隆信の実弟・長信が多久を支配し,後多久が始まる。水ヶ江龍造寺氏とも別称される。 長信の嫡男・安順は多久姓を名乗り多久安順となるが、鍋島氏の藩政運営では佐賀藩筆頭家老として実質的には藩政を采配している。多久安順は、豊臣秀吉の世に朝鮮にも出兵し、李参平を連れ帰った。水ヶ江二丁目の枳小路にある本屋敷門は伝統的な武家屋敷門となっており、建築関係者によればこの屋敷門を建てるには、「家一軒分の費用がいる」いうことで、土台は総ヒノキの立派なものである。
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協和館
明治維新以降の公共建築として最初に建てられもので、初代佐賀県知事が明治19年に松原二丁目に公会堂式の大衆も使える建物として建設されたもので、社交場としても利用されたことから、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていた。 明治27年に佐賀市が佐賀県から買収し、佐賀市庁舎として利用されることになったが、その後は佐賀県及び佐賀市有を繰り返しながら、昭和32年に佐賀郵便局を建設されることになったため、建物は佐賀城天守台に移築され、集会施設として利用されていた。 平成16年佐賀城本丸歴史館の開館に伴い解体されたが、移築前のものを正確に留めるのは玄関部分のみで、二階部分は柱と小屋組を転用したものの柱は8寸角が5寸となり、柱間も京間を田舎間に縮小し、新たに設計され移築されていたことがわかっている。
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嘉瀬川リバーサイドゴルフ場
嘉瀬川リバーサイドゴルフ場は、平成元年10月から創業され、嘉瀬川の清流沿いの両岸コースで左岸5ホールは南へ、右岸4ホールは北へと向かい各ホール変化に富んだコースで初心者から上級者まで楽しめるコースが設定されている。 現在の年間利用者は、25,000人程度で内県外者が10,000人程度(福岡県の人が9割以上)、東京や大阪等帰郷者の参加も多く、隣県には少ないパブリックゴルフ場としての利用者が初心者等の客に感動を与えている。 開設20年を節目として、平成20年から毎年開場記念ゴルフコンペが開催され、参加者はシニア(65歳以上)・女性・一般と3部門に分けられ、4日間で延310名の参加で4日間のうちで3日間商品を期待して参加される人もあった。 (毎月の月例会も3部門に分け、5位までの入賞者は3月末のチャンピオン大会に参加ができ花が添えられている) 夏季の熱中症対策として、平成20年11月から15台の乗用カートを購入し、利用者が多いため2〜3台の増車計画がある。また、9番ホール付近の広場が整地されてグランドゴルフやゲートボール大会等の地域行事に開放され、鍋島校区の各種団体は楽しく愉快に、健康維持・増進のために利用されている。 コース管理は水辺環境を考え、無農薬である。
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公役
昔からのしきたりによって、地区に住む人には公役が義務づけられている。公役は道路の補修とか河川の清掃など地区の実態によって色々異なった共同作業であり、昔は男の仕事であったが、今では婦人が多くなった。地区によっては不参者から出不足金を徴収して、お菓子代にあてているところもある。
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寄合い・よいかた・ももて
田舎の地区は普通、古賀とか小路とかいう隣保組織になっている処が多い。各古賀には班長がいて地区の世話をする。地区全体のまとめ役は自治会長である。この自治会長、班長が地区の役員であり執行部である。自治会長は必要に応じて、各戸一人ずつ世帯主(或いは代理)を召集して寄合いを開き、種々の協議、伝達、報告をする。この寄合いの決議によって自治会長は地区の運営をしてゆく。一面この寄合いという会合は、あらゆるニュースの交換所であり討論の場でもある。
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お茶講
これは昔から伝わっている農村の美しい特色の一つである。各地区のほぼ十戸単位の隣保班組織で、古賀とか小路とかじつことか呼ばれている。江戸時代の昔から残っている自治機関「十人組」の名残りらしい。結婚披露宴や出産、病気、不慮の事故発生の場合など、まずかけつけてくれるのは、このお茶講うちの人たちである。元来信仰的な講の集まりから起こった親睦会の様なものである。鍋島では、仏の供養とか出産とか日晴れとか、お彼岸とか旅行とか退院などの場合一切の配り物をして、隣近所に喜憂を分かち合うことで「遠い親戚より近い他人」という諺どおりであり、こんな美風はいつまでも残したいものである。
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ねん棒
樫・柳等の木の桂枝を50cmぐらいに切り、先をとがらしたもので、地面に突きさす遊びである。人数は4・5人でやり、はじめの人が地面に突きさすと、次の人から順に突きさし相手の棒を倒す。きれいに倒れたらその棒は倒した者に渡る。これを順々にやっていく遊びである。
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トーバタ(凧)上げ
男の子は稲の穂が出初める9月、畦でトーバタをあげた。小刀で竹を割りヒゴを骨として紙を貼り、思い思いに作ったものを空にあげて友だちと競う遊びである。
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ぺチャ
円形の厚紙にきれいな絵をはりつけたものを、ジャンケンで負けた者が地面に置く。次の人から順にペチャを叩きつける。そのとき、瞬間の風を利用して相手のぺチャをひっくり返すと、そのペチャは自分のものになる。
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中島哀浪旧宅(坐泉荘)
中島哀浪は明治16年の生まれで本名は秀連という。佐賀中学時代より高田保馬、下村湖人らと作歌に励み、さらに早稲田大学中退後帰郷して「ひのくに」社を主催した。彼は同年代で何れも早稲田大学を中退した若山牧水、北原白秋と共に九州の三大歌人と称されたが、1人郷土にあって歌境を深めた。そのおおらかな調べは哀浪独自のもので全九州の歌人に大きな影響を与え今日に及んでいる。
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川久保の宿
縄文末期に半島経由でも稲作が入ったが、筑紫平野の稲作は大陸中南部から有明海経由で異品種が入ったと言われる。 脊振山内には、先住の縄文人が大自然の中で悠悠と生活していたが、稲作技術を持った弥生人達と別に争うこともなく、山で獲れた野獣の肉や果実、干した青草と、平地や海で得られる塩や米、海産物の干物が、山の出入口で交換された。 西の都渡城、東の仁比山や川久保が、その交易地であった。 大化の改新後、太宰府の中央政府九州駐在所と、尼寺北に置かれた肥前国府を繋ぐ官道が、山麓の川久保を通った。その後川久保は平和時には文化交流地であり、非常時には進攻防守の要路となったが、神代氏が山を下りて川久保に居を構えると、城下町としての形態を整えた。 宿場と言うのは、街道筋の旅籠集落であるが、川久保のそれは小規模の『宿』で、今も高令者はそう呼んでいる。 縦横に道が交叉し、城下ともなれば人の往来も多く、情報基地ともなり、自ずと町が出来る。始めは単なる休憩所としてのお堂であり馬つなぎ場であったものが、わらじ(旅の下足)の取替から、湯茶の接待をする茶屋となり、だんごや餅・おこしやノンキーを売る駄菓子屋となり、おにぎり・うどんを出す飯町となった。 物々交換は次第に金銭取引となり、干物・塩漬、海草や魚貝類、山菜・穀類・干柿・栗などの果実・獣肉類・コンニャク・そば・食塩・薪炭・しょうけ・つけ木・燈心油、陶磁器の破れ物・繭などが「市」の形をとるようになった。お供日前夜は沢山の露店が並ぶ「市」として賑やかで、狂言(芝居)の催もあっていた。 明治末までは、行商が多く椿油・ローソク・塩干魚・入れ薬・針糸端切の小間物・鍋釜修理の鋳掛・キラズ・豆腐屋が来ていた。 明治大正になると、行商人は「宿」に店を構え常時展示販売をした。農工具の製作修理をするカンジーさん・桶や樽を作るオケタンさん・油屋・ローソク提灯屋・薬屋・小間物屋・文具類の筆屋・金物屋・荒物われ物産・飴オコシのノンキー屋・塩干物の魚屋・染屋・酒場(造り酒屋)・木賃宿ができ、製紙原料の楮を集荷取次ぐ店や油粕・煮干し鰯を取扱う肥料屋・打綿取次の木綿屋・精米精粉のマサツ屋・呉服の反物屋・履物屋・床屋・豆腐屋・煙草屋・砂糖屋などが軒を並べ、それに郵便局・銀行営業所・農会、お医者さんまで出来て山内や近郷からも客が多く「川久保宿」は随分と繁盛した。 昭和の初め、人力車に代って高柳善次氏が「乗合自動車」を尼寺経由佐賀まで走らせた。定員4人なのにいつも6人位おしこんで1日3回往復していた。