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[旧佐賀市][ 神社]は94件登録されています。
旧佐賀市 神社
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北山正現稲荷神社
金立山の前面所謂北山正嶽の中腹に鎮座する稲荷神社で由緒ふかい所である。 人皇第12代景行天皇御西征の砌、当山に御足を止められたることがある。その後神亀年中(約1200年前)聖武天皇の御代僧行基が帰郷の折、この地に大寺を建て北山一山と成し、後聖武(勝務)上人勅命を奉じ北山山中に修行し岩蔵寺(天台宗)を開き北山燈頭又数百坊を有し隆昌を極めたらしい。(その寺跡は不明であり、その歴史も残っていないが現在字来迎寺にある成就院(天台宗)はこの岩蔵寺の跡を承けたものと成就院では言われている)その当時この寺の守護神として京都伏見稲荷山に鎮座します。正一位稲荷大明神の御分霊を勧請し奉るようになって寺運がさかえ、参詣者が増してその霊験が益々現はれ北山正現嶽の森として世に現われ給い、その後天台宗徒が奉仕して来たが文明以降戦火にかかって焼失し次第に荒廃に向った。ところが後年鍋島氏の所領となり、初代勝茂公の時、当山付近に狩せられ正現嶽に参拝あり、その荒廃したるを見て堂宇を建立されその後代々の藩主尊信せらるるに至って一般崇敬者も年と共に加わり明治維新前より明治の中頃にかけてはその境内より参道にかけ、十数軒の茶屋が軒を並べ仲々の賑わいを現わし更には参道の中腹(二軒茶屋)麓(稲荷町として)茶屋小店等立ち並ぶ有様で稲荷神社の赤鳥居の森の間に陰見するあたりから三味の音、歌声の聞ゆる事もめづらしくなかったとは古老の言い伝えるところで当時の茶屋の名、茶屋跡、三味の名妓等の名を語るものも沢山ある。 ところが明治20年から同34、35年にかけて2回の山火事に遭い(第1回は北山正現岳を中心としての山火事でその為さしもに壮麓の堂宇の境内から下に立並ぶ茶屋も類焼して跡を留めぬ有様となり、第2回目は金立全山の山火事となり境内の数多の社殿にも損害を受ける悲惨事で)その復興は仲々思うにまかせなかったが日清日露の戦役と共に出征者或は留守家族の武運長久祈願のため、参詣者日と共に加わり更に平時は農商工業者の守護神として等崇加わり、殊に支那事変以来益々隆昌に向いこの時に至り信者一同凝議して荒廃したる社殿の造営をなし、今日に至ったものである。
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彦山権現
観音寺の寺傾掛り宮として祀られたもので字権現原宿内にあり、故原権現と唱えられる。
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八幡社
八幡社は大字東高木422番地にある。肥陽古跡記に、高木八幡宮は高木村にあり、久安中、貞永の祀るところと伝う。宮は今佐賀郡高木瀬村八本杉にありて、社記に「高木越前守藤原貞永と申す人、平氏残党追伐の命を蒙られ、此の国へ下向有りて、佐賀郡高木の庄に居住せられ、武備を専にして、民を撫育し、大平の治に帰らん事を思ひ計り居られしに、或る時午睡せられける夢の中に、忝くも異霊の御姿忽然と顕れ玉ひて、告けて宣はく、汝能く我が皇祖神明を仰き尊み、誠心を盡し怠らざること年久し。今より朝日の昇る像を画きて籏の紋とすべし。然らば武運必ず開け、志願満足すべし、我は是れ八幡大神なり云云」と。 社記によれば、後鳥羽天皇の文治2年(1186)高木越前守、藤原貞永という者、高木の庄に、下向して居城を構えていたが、霊験に任せて旭日の形を画いた旗を押し立て、居城の守護神として八幡大神を奉祀した、とありこれが八幡社のおこりである。 この旭日の形を画いた。旗じるしが、高木家の家紋の「十二日脚」であり、従って八幡社の紋所も十二日脚である。なおこの十二日脚の家紋は、後に隆造寺家が踏襲し、鍋島家の家中でこの紋を用いる者もあった。辻の浄蔭寺の墓地にはこの紋を用いた鍋島氏の幾多の墓石がある。 さてこの本社創建の年代であるが、上記のように記録には文治2年云云とあるが、後に述べるように嘉永3年に神社の700年祭が行われたということから判断すると少し年代的にずれがある。嘉永3年の700年祭が真であれば創建は近衛天皇久安年中にさかのぼることとなる。 肥前古跡縁起巻ノ上には 「高木八幡宮本地阿彌陀如来也文安年中源氏一族高木越前守貞永敵追討の為云云、」とある、が文安は400年も後世であるから久安の間違いと考えられる。神門の前に高木氏の子孫である、背水高木誠一(東京在住昭和18年没)高木良次(佐賀市水ヶ江町在住)両氏が昭和16年11月建てられた石標があるがそれには高木八幡社 久安年中高木貞永創建とある。 このように創建の年代は正確には把握し難いが久安年中の創建とするのが妥当であると考えられる。 本社創立の年月はこのようにすこぶる古く、中世当国に威勢を振うた高木氏の礼拜所であったから昔は非常に盛運を極めた神社であった。社記古文書は天明年中焼失して当時をしのぶよすがもないが、社前の一基の萃表は銘により藩主光茂公の寄進であることが判る。かつ又光茂公、剣一振を寄進されたことからしても藩主の崇敬厚かったことを知ることが出来、上佐賀下郷中の総社であった。 次に御祭神のことであるが当社に残されている由緒記には 御祭神は 大鷦鷯天皇 (オオササギ) 誉田天皇 (ホンダ) 気長足姫天皇 (オキノナガタラシヒメ)とある。 大鷦鷯天皇は仁徳天皇、誉田天皇は応神天皇、気長足姫天皇は神功皇后のことである。 八幡様という神様がどんな神様であるかについては諸説があるが、一説には、伝説に伝わる三韓征伐に武威を顕わされた仲哀天皇(足仲彦尊 タラシナカツヒコ)、その皇后の神功皇后(気長足姫)、その子応神天皇(誉田別尊)の三神であるといわれている。 なお佐賀県神社誌要には八幡神社の御祭神は 仲哀天皇 菅原道真 仁徳天皇 応神天皇 天鹿兒矢命 天照皇大神 神功皇后 源為朝 「無格社合祀に依り菅原道真外四柱の祭神を追加す」、と誌されている。すなわち由緒記にある三柱の御祭神の外に四柱が追加されたのである。 明治41年9月に、佐賀県訓令で小社の合祀令が公布された。氏子の少ない小さな神社は維持管理も行届かず、神社の威徳もおろそかにされるので、そのような小社は統合し、神明の威徳を発揚し、経営を容易ならしめ、神社の維持を永久に確立させるためのものであった。神社誌要に八幡社の祭神に菅原道真外四柱の祭神を追加すとあるのはこのことであって、地元にあった皇太神宮や天満宮、為朝廟を合祀したのである。 八幡社には地元東高木地区の外に、大字東高木、大字高木の各地区に多くの末社があった。これらの末社も、この合祀令によって八幡社に統合されて、当時これを寄せ宮といっていた。ところが寄せ宮した後に、地区のあちこちに流行病や、災害などが発生したので、氏子である地区民も寄せ宮がいけなかったというので、寄せ宮された各地区の天満宮などはすべて元の所に遷座されることになった。 これと同様に東高木地区にあったもので寄せ宮された四柱のお宮も元の所に遷座されているものと解せられるから、現在の八幡社御祭神は由緒記にあるとおりの三柱である筈である。 肥前古跡縁起巻の上に 八幡神社の祭神が、本地阿彌陀如来也とあるのは、すこぶる不可思議であるが、神仏混淆時代の記述であるかと考えられ、やむを得ない表し方であろう。
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太郎坊社
拜殿東側に在り、祭神火具土の神 太郎坊は次郎坊、愛宕坊等所謂八天狗の中の一神で元来火の神である。民間の信仰として難病その他の危難を救う神とされている。太郎坊社は55聯隊ができる頃、現大島神官の祖父の時代太郎坊講を仕立て建立されたものである。今でも参拝者多く、東京、北海道在住の人の供進があっている稲荷社。八幡社境内の西北隅に在り、椎の森稲荷ともいう。元椎の木の大木数本があった所から名づけられたものである。その東には、55聯隊兵営の中に在ったものといわれる由緒不明の灯台型の祠塔がある。 境内東北隅には不動橋附近にあった不動明王を祀った石塔数基と、大乗妙典千部塔及某禅尼の墓一基がある。 この墓碑には 「為因派浄縁禅尼 享保16辛亥天8月初2日 萬里憎建之」 とある。 境内には、楠、その他椋、椎、欅、椿などの大木がうっそうとし、正法寺陽福寺等の森と共に野鳥の安息場所となっているが、その中けやきは、昭和2年御大典記念に植えられたものである。 当神社の祭典日は 例 祭 春4月5日 秋11月15日 小 祭 1月1日 8月1日 12月1日 となっており、嘉永3年(1850)と昭和28年(1953)とにはそれぞれ700年祭、800年祭が執行されていて、棟梁に下記の通りの記録がある。 一,天元地妙 国家安全 嘉永三歳 大島主殿 八幡宮七百年御祭 三元妙壇 御 清 祓 神楽執行社頭康栄氏子繁昌處 神変鎭護 五穀豊饒 戌 11月吉日 謹修行之 大島土佐正 同 大助 中島頼母正 天地心御柱明阴一本 野口長門正 欽修行之 江副但馬正 副島石見正 天元地妙 国家安全昭和28年祭祖 高木越前守 藤原貞永 高木八幡宮八百年大祭 三元妙壇 御 清 祓 神楽執行社頭康栄氏子繁栄 神変鎭護 五穀豊饒 4月5日 大島宣光謹修行之 江副 家治 司祭池田虎三 岡 作市 天地心御柱月日一本 大島 宣光 欽修行之 西寄善太郎 西原 勇 高木末蔵謹書 毎年行われるお祭の中、盛んににぎわったのは、8月1日の祇園と11月15日の秋祭であった。 祇園祭には境内に舞台がかけられ、芝居、佐賀仁和加、浪花節(祭文語り)などでにぎわい、門前一帯には沢山のおこし、あめゆ、氷、わた菓子などの店が出ていた。秋の祭はいわゆるお供日で、この日は特に浮立が奉納された。
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長瀬天満宮
今から1000年以上前、後一條院の時代、京都の康清法師なるもの諸国巡遊の際寛仁元年(1017)2月14日当地長岡に一泊し、霊夢を見、勅命によって、このところに天満宮を建立し、康清及其の子孫神職として奉仕した。そして神領40町歩と定められ、同時にこの地を長瀬と改称した。 下って後柏原院は勅願社たるの故をもって、御真筆一巻を寄進せられ、又永正12年(1515)藤原常家、胤眞の両名宝殿の造営を行った。後に藩主鍋島勝茂公も社殿の修造を加えた。 末社は若宮社を初め内侍天神、天満宮、富士権現など14社ある。この中若宮社は今の西長瀬、八龍大明神は岸川村にある、藤之太輔はフジンタニという地名が残っていて笹藪の中に小さな石祠が残っている。梨本天神は地区のずっと南の方にあったそうだし天神ノ木という地名が残っているのも、この由緒に基くものである。 康清法師は瑞夢を見てから、長岡之瀬戸を長瀬と改称し、数拾ヶ町を知行とし、その内40町を神領と定めた。 この康清というのは元来65代花山院の御宇山城国源朝臣三位左近太輔康高という者の子である。花山院御退位御出家し給いし後、彼も天台山にて康清法師となった。その九代目が康一法師である。 この頃鎌倉より堺亦次郎源眞正というのが当国の代官となって延慶年中(1308)に西下して来て、神領を改め、康一法師の婿となり、初めて、惣之市というのを定めた。後に至って、苗林坊、宮司坊などが社役を勤めた。 康一法師は天台宗の妻帯僧であって、その先祖がこの神社の由来を知っており、先祖の康清の領地を長瀬というのは、彼がこの地を長瀬と改称しこの土地40町全部が康清の知行所であったからである。又彼は北野天満宮の開基であり、後又当社の開基となったから、今は当社を二ノ宮とも申し奉るのである。 さてまた彼堺氏は相州鎌倉北条相模守貞時公の旗本であったがこの時から当国の者となり、後になって龍造寺家の家中となり代々当社の神主となることになった。 代々の天皇と当社の神主との関連、堺又次郎の系統は由緒書の通りである。 社内に建立されている布巻観音は元来、筑前国布巻之原という所にあったものを豊後の大伴一族の者が当国肥前北山まで持って来て谷河に打ちこんだ。それが当地の川筋に流れついたのを堺駿河守宗吉という人が、これを取り上げて当社にあがめ建立したものである。 勅筆の御縁起が御宝殿にある。これはこの社が勅願社であるから御柏原院の時御親筆一巻御寄進あり、又この御宝殿の棟木に御造立は永正12年(1515)とある。又この棟木に、今上皇帝聖躬萬歳とあり、又大檀越、藤原朝臣常家同胤眞代官家光是ハ堺氏河内守でありこの外社役等書き記してある。 境内には幾多の石祠や小宇がある。まず太鼓橋までの間に、西南隅より自然石々塔、嘉永六年(1853)丑12月吉辰とある菩薩像、最近に建てられたと思われる小宇には、地蔵尊、弘法大師、不動明王が祀ってある。 小さな弁財天と観世音の石祠もある。観世音の祠には、嘉永二己酉(1849)4月吉辰福地与助建之ときざまれている。 太鼓橋を渡って拝殿に向って左には、三基の小石祠がある。「天満宮」とあるものには、明和二乙酉(1765)11月25日施主原八十次郎元喬、大坪長兵衛備武、前山彦七とあって、明和2年といえば鳥居のできた年と同年代のものである。 東側には現人さんといわれる大きな自然石の石塔がある。思うにこれは方々で見られる大乗妙典一部一石の塔と思われる。村の迎徳市氏の話によれば、下には法華経が埋められていて、昔から夏の祗園祭の余興にかけ舞台を作るとき、もしこの現人さんに材木でも引きかけるときっとその晩は大雨にたたられたと伝えられている。なお神殿の東北隅には正一位稲荷大明神が祀ってある。 この天満宮にもこのようにあちこちの寄せ宮、神仏習合の現象が見られる。布巻観音はその最も大きなものの一つである。 御神前の奉納物としては、ごく古い小形の狛犬一対がある。台石も何もない素朴なこの狛犬の製作年代等一切不明であるが、県内でも珍らしい石造物であって東高木八幡社にも同様のものがある。次に堂々たる上向と下向の阿呍の石像獅子がある。これは明治31年(1898)11月光行寿七氏より奉納されている。尚右側に春日燈籠一基が建っている。これには奉寄進石灯炉天満宮御宝前、寛文十庚戌歳(1670)5月10日 江里 金太○○吉軌と刻まれているが、鳥居の建立された時代よりも100年あまりも前のものであることは注目に値する。 天満宮社殿の歴史は、最初の御造営が永正10年(1513)であって、その後元和5年(1619)鍋島勝茂公により補修されていることは由緒記によって明らかであるが、それから幾多の変遷があったであろう。ごく最近昭和26年に至って、修繕工事が行われている。そのときの工事世話人、杉町太郎氏の祝詞の中に、元禄13年(1700)改築、天保13年(1842)4月、葦にふき替え、明治43年、時の区長糸山清一郎氏のとき、屋根の差替修繕をしたとある。それが腐朽甚しきに至ったので、区民一同及び篤志家の賛成を得て、更に改修を行うことになった。西長瀬金崎助作氏、長瀬前山為次両氏の工事請負によって、同年7月25日、完成したのである。工事世話係は迎徳市、杉町太郎、千住喜代治、宮原欣次郎、千住輝治の五氏であった。工事費総額 112,000円(これには観音堂屋根葺替1,000円を含む)を要した。財源は境内の松、杉、雑木の売却代、92,000円、その他は篤志寄附浄財である。寄附者名簿は杉町太郎氏書の掲額がある。拝殿並に神殿は約15坪位、すこぶる豪壮である。 拝殿の格天井には、見事な絵馬96枚が、揚げられている。ほとんど長瀬地区の人の奉献である。光行次郎、石井力三郎などの名前も見える。画家三松という人の画いたのが多いが三松は田原家の人ではあるまいか、天満宮由緒記を書かれたと伝えられる鶴清気先生も画がうまかった。鶴先生は田原家出身であるから、画家の家柄であるとうなづける。 又、三十六歌仙の板額34枚もあげられている。崇敬者の尊い敬神の現れがいつまでも、なくならないように維持されんことを望む。 長瀬天満宮に関連して西長瀬、法常寺所蔵記録に次の通りのものがある。 法常寺支配地 一、佐嘉郡長瀬村 天神敷地 壱畝 本帳除 若宮敷地 拾歩 〃 天満宮敷地 壱反九畝十八歩 長瀬本分ニアリ 右祭礼 11月25日 一、同郡同村 古川天神敷地 十六歩 本帳除 養父社敷地 四歩 〃 藤之大輔敷地 八歩 〃
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坪ノ上天満宮
昔は曲渕天満宮と称していた。享和3年(1803)村の鎮守として地区の東北隅(鬼門)に創立された。周囲は杉の森にかこまれ、裏には一本の松の大木が天にそびえていた。風のない日でもその下に行くと松風の音がしていた。この天満宮が現在の所に移転されたのは、大正の初め頃であった。天満宮のあった一帯は今も天神という地名で呼ばれている。曲渕の名は、前に鎮座されていた所の地名で、脊振山の三瀬峠を北に越えてすぐ下の地区である。そこに住んでいた秀島氏などが坪ノ上に転居して来た時に奉じて来たものであるから曲渕天満宮といわれていたという。 この天満宮も昭和11年5月に社殿が新築され、元の社殿は現在、永渕三津雄氏宅の一部に移築されている。 この時の建設委員は永渕惣三、八田市三郎、福地新四郎、古賀平一、赤司伝三郎、小林六郎各氏であった。建築浄財の寄付芳名塔は翌年1月の建立となっている。 鳥居の銘には 右柱 天下太平 国家安寧 五穀豊穣 萬民快楽 宮司 於保山眞乗坊長眞 青 木 庄 市 郎 木 原 弥 兵 衛 木原喜右ヱ門 松本松右ヱ門 木 原 善 十 三 浦 伴 兵 衛 久 保 完 三 郎 原 武 右ヱ 門 木 原 文 蔵 秀 島 武 十 野中佐五右ヱ門 中 島 六 平 青木三郎兵衛 中 島 喜 兵 ヱ 中 島 郡 平 古 川 佐 兵ヱ 左柱 奉造立大日本国鎮西之前州佐嘉郡坪上邑萃表一柱 維時享和三癸亥天日吉祥 氏子中改○○ 石工人敬白 と刻されている。 又眞言宗由緒に、嘉瀬荘宝樹山大權現社、徳書院の末寺である徳永村眞乗院の抱えとして、熊野大權現、同郡坪上村と書いてある。これは寛政3年(1791)亥6月の届書であるから、その頃の熊野大權現はどこにあったであろうか。現在坪ノ上天満宮境内の西寄りに比較的大きい石のほこらがあるが、あるいはこれがその大權現であって、寄宮をしてここに移したものと思われる。この外に、境内西寄りには地蔵尊、笠石らしき石造仏、六地蔵、観音石仏、流嫡社、庚申塔、追薦塔などが並んでいる。地蔵尊には三界万霊、文政2年(1819)10月吉日、庚申塔には、庚申尊天、文政2年12月吉日の彫刻がある。特に珍らしいのは、ここの六地蔵である。普通の六地蔵と異なって、六地蔵さんの上段の方に、尚六体のお地蔵様らしいものが刻まれている。この形態の六地蔵は町内では見当らない。又かすかに「干時永正十五寅(1518)」の文字が読み取られるから約460年も前のものである。 又境内には、観世音菩薩、薬師如来を祀った小宇がある。約一坪弱の小さいものであるが、大正15年、女連中によって再建たことになっている。毎年7月17日には、女の子ども達が豆祇園をしてお祭をするという。
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平尾天満宮
大字長瀬2510番地、即ち平尾地区の東南端にあり、平尾天満宮は今よりおよそ五百数十年前に越前地方より封ぜられ、一万石を領する平尾の殿様によって建立せられたと伝えられる。又一説には現在の巨勢町平尾天満宮の分神ともいわれる。これは当時この辺一帯が湿地帯であり、その開懇のため巨勢町平尾の人が移住して来たのでその氏神を祭ったのではないかとも考えられる、それでは天満宮の創建はいつ頃であったろうか。参道正面の鳥居には、「天満宮」の額があり、 右柱に 肥前州佐賀県平尾欽造立 天満大自在天神宮萃表伏乞 一天平昂四海大清災禍来爾萬姓安榮 立石四郎右衛門 服巻覚兵衛 左柱に 旹享保第五龍集庚子杪夏吉慶辰 松本次郎左ヱ門 立石兵左衛門 當村士女 同村講衆 敬言 役士 槇市郎左衛門 土 井 茂 介 と記入してあるから、今から255年前のものである。天満宮であるから祭神はもちろん菅原道眞公である。 この天満宮は25年毎に大祭が行なわれて来た。毎年の祭事期日は旧暦8月25日であったが、大正の初め頃から陽暦9月25日に変更された。そしてこの祭事には必ず奉納相撲が催されることとなっている。旧幕府時代は非常に盛大に行われ、土俵も3つも作られたという。昔は相撲を催すことはなかなか難しい規則があって容易に許されなかったが、ここの相撲だけは特別に許されたということである。かつてある代官は相撲開催の届をとがめたところ、かえって藩公鍋島様から罰せられたという。江戸、大阪の相撲が佐賀地方で興行した時でも、平尾の者だと名乗っただけで大木戸をあけて通してくれたそうである。この相撲には、遠く福岡、長崎、熊本方面からも力士が集って来た。しかし賞品は餅だけであった。このため平尾の餅相撲としてかえって有名になったのである。この日は地区あげて大にぎわいでごちそうにはどじょうじるがつきものであって、親類縁者ばかりでなくよそ者でも上りこんでごちそうにあづかっていたと伝えられる。この相撲も時代の変遷によって、次第にすたれ終戦前後は消防組の人が相撲を取るぐらいになってしまい、現今はやっと子ども相撲が催される程度である。 明治大正の頃は、小学校の児童全員が参拝し、小餅をもらうのが何よりの楽しみであった。祭の時には、いろいろな出店があったが、このお祭にはよくこまが売り出されて子どものこま遊びが始まるのはこのお祭がすんでからの季節であった。 天満宮敷地はおよそ600坪もあろうか、4周に喬木そびえ、参道入口に猿田彦大神がある。 拝殿前には天満神社一千二十五年祭典記念として石造狛犬一対、石像神馬一頭が奉納されている。これらは昭和2年10月当村寄付として奉納され、区長武久米吉外19人の発起人によって浄財が集められた由で、主として平尾区の氏子並びに同地出身の区外成功者の応募者の氏名が刻まれている。天満神社一千二十五年祭というのは、 平尾天満宮の一千二十五年祭でなく、祭神道眞公の没年が延喜3年(903)であるから、祭神の一千二十五年祭のことである。従って天満宮の建立年月日はこれからは推定されない。又明治28年8月建設の燈ろう一対も氏子より寄進されており、大正2年6月25日には服巻作一郎氏よりのぼりざお石一対が奉納されている。 境内西側には、小堂宇二基がある。北の一宇には観音小路講中、南のお堂には大正7年9月、徳島ツイ、武久カツ、西岡チカらの名前が刻まれた石碑がある。南の方の一宇には例の木起しの地蔵が安置され、又昭和39年3月吉日、功徳主八田吉次と刻まれた観音像及び五輪塔の一部らしいもの二個がある。北側の堂宇には狛犬らしい獣面の臥像に乗った半伽の女人像一体、菩薩像二体、観音像一体がある。 この観音像の背面には 明治32年7月24日再建 長谷部友雪 徳島喜作 西川種近 中島多三郎 中村徳一郎 塚本嘉一郎 菖蒲久七 水町龍七 と彫刻してある。この観音様は仲代にあった観音様と思われる。明治末期頃まで未だ井戸水が飲料水として利用されない時代には、仲代地区は平尾道路の突き当り市ノ江川の土堤下に清冽な清水のわく井戸があって、それを飲料水として利用していた。三本松方面からも飲料水として水汲みに来ていた。その井戸のどう穴のようになっていた所に観音様が祀ってあった。この水を利用しないようになったために、この観音様も天満宮境内に移されたものと思われる。又拜殿西側奥まった所に弁財天の小堂がある。これは大正13年7月平尾青年によって再建立されたものである。 又こけむした巨大な、自然石が半分土に埋れていて、僅に表に「日」を表した円形と南無阿弥陀佛の刻字が読みとられる。これは他の神社にも見られるように、法華経一部一石の塔大乗妙典経塔のようなものであろう。 なお、天満宮より西約100mの市道側には通称三日月さんと呼ばれている、もう一つの自然石があるが、この石の表面には「月」の形が刻まれている。日、月の形が刻まれているこの二つの自然石には何等かの深い関連があるのではないかと想像される。しかし古老の話によれば三日月さんは佐賀戦争の時の戦死者を祀ったものともいわれている。
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養父社
創建されたのは下高木の守り神としてであり、祭典は8月4日の夏祭りや12月7日の秋祭りで、高木八幡神社の神官により祝詞奏上が行われている。 昭和51年11月には、佐賀市都市計画道路の植木・東高木線の新設拡幅工事に伴い約200m西南の現在地に遷座された。 養父社、通称「おやふささん」で夏祭りの当日(8月4日)で、戦前は付随する建物で旅芸人による演芸会が、戦後は青年団による演芸会が催され、時には映写会も開かれ、娯楽の少ない時代であったために、町区民の大きな楽しみで人気があった。 しかし、昭和30年代には取りやめになっている。
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小里五社権現
西小里の西方にあり、祭神や起源は明らかではないが、伝説によれば大昔北条時頼が小里村に滞在しており、後川上の大願寺で亡くなった。大願寺、小里の村人は各々社を造ってその霊を慰めることにした。これが五社権現であるという。大願寺の社が本社であり、小里の社が末社という関係にあったらしい。大願寺の本社の屋根の葺き替えには小里の人達が出動することになっていた。この奉仕作業は昔からずっと続けられてきたようであるが、小里の氏子も数軒と少なかったので、今から約80年くらい前を最後に打ち切られ、以来絶えている。祭田は3畝程あり、以前は9月18日を祭りの日とし、どじょう祭りとして有名であったが、今は11月の勤労感謝の日にお祭りをしている。 ここの権現さんは、子孫繁昌のお守りとして崇められ、そのためお祭りには決まって芋や豆が出されている。 境内には聖観音1体及び地蔵菩薩2体が祀ってある。この聖観音は明治23年旧10月18日奉献され、施主は台石が固定されたセメントに埋もれて判明しないが、江里口、真嶋、木下の姓が見える。このお堂は、昭和5年9月吉日木下儀六氏より奉献されている。
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仲田代天満宮
仲田代天満宮の由来 仲田代天満宮は元、森蔵天神と言い、霊元天皇(貞享2年/1685)徳川綱吉将軍、鍋島光茂の時代に創立され上渕地区の東部にあったものを仲田代の当地に移されたものです。祭神は菅原道真公です。森蔵天神には当時農閑期にお晦日(籠)等行われていました。明治41年無格社合併の県の方針によって、一旦は東高木八幡神社に合併され其の後元の村々に帰座し、大正4年百武嘉一、百武政一両氏の土地提供により現在地に建物も新築されましたが昭和20年8月5日夜大東亜戦争の空襲に逢い鳥居もろ共に倒壊しましたが其の後公民館として改築利用現在に至っています。鳥居には左の銘がありました。 肥前佐嘉西渕村天満宮萃表銘 萃表雙立 千年鶴 伴松梅 社頭求鎮 万戸民 饒麥稲伏惟国家久栄 郷邑長保 大檀那 鍋島山城守直紹 願主 貞享二年乙丑十一月二十五日 以上 昭和五十八年九月吉日
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若宮八幡社
小里と坪の上の境の田圃の中には、若宮八幡社という祠があった。熱病の神様として信仰を集め、人々は、豆腐を供えて祈願をしていたが、後段々と廃れてきたので、長く高木瀬小学校の校医をしておられた池田俊溢氏がこれを遺憾とし、大正10年頃自分の屋敷内に移され、今も池田氏の庭に安置され丁重に祀られている。 天明七年(1787)二月吉祥日の刻がある。 小里本村より、二又へ行く分かれ道には太神宮と猿田彦大神の石碑がある。猿田彦大神には明治22年12月19日、小里分施主、木下茂吉、羽立弥八と記してある。 道路改修などにより以前の場所とは少し変わっているが、今も小里本村の安全を守る神様として大事に祀られている。若宮八幡宮と2体の石碑は、小里五社権現の秋祭り(勤労感謝の日)と一緒にしめ縄を張りお祀りをしている。
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鏑流社
天明六年(1786)の上高木の絵地図には、養父社として示されている。東高木八幡社の末社であって、同社に残っているもう1つの記録によれば、祭神は天鹿供矢命となっている。創建の年代など一切不明であるが、社殿は昭和16年に改修されている。敷地はおよそ300坪はあろうかと思われ、位置は上高木宿の裏手にある。 拝殿正面の欄間には、十二日脚重ねの紋が彫刻されている。神殿の丸瓦にも十二日脚の紋が打ち込まれている。この点から推量すれば、この神社は高木城主、高木家から勧請されて建立された神社ではないかと思う。 敷地内には上高木公民館があり、平成20年9月に改築された。
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辻天満宮
辻天満宮は領主鍋島山城守直紹公の創立で、明治初年迄は青銅ぶきの立派な神社であり、祭祀田も天神面田、権現面田としてそれぞれ1反歩当、つけられていたというが、当時の記録がないため詳しいことは一切不明である。 山城守は西渕にも天満宮を創っており、その鳥居の銘に貞亨二年乙丑(1685)十一月二十五日とあるから、辻天満宮もその頃の創立ではあるまいか。 辻天満宮は50数年前までは道路の北にあって南面していた。町区の中央にあって拝殿約6坪、敷地約150坪くらいあると思われる。創建時代は不明であるが、昭和24年に改修された記録がある。
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立花家観音
穂積氏忍山宿禰の娘で、日本武尊の妻であった乙橘媛が祀られている。1坪くらいの小さな墓がある。屋根の麦藁の葺き替えは村人が行ってきたが、麦藁の入手が難しくなったので、瓦葺きに作り変えられた。 ご神体の観音像は明治時代にお堂を建てた時に入手したものと云われている。(観音像は寛永年間造られたものとされている)昔から必ずご加護のある有難い観音様として地域の人々には親しまれている。いつから始まったか定かではないが、毎年1月18日は観音講として6歳から14歳くらいの女の子が1軒の家に集まり、まぜご飯でおにぎりを作って観音様にあげ、食事をすることが楽しみであった。また、8月18日は豆祇園といって、各家庭から頂いたお金で豆と砂糖を買い年長者の家で煮てもらい、観音様の前にバンコを置いて、お参りに来てくれた大人の人にお玉1杯の煮豆とお茶でもてなした。 毎月18日はこの観音様のお祭が今でも行われている。
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布巻観音
長瀬天満宮境内には、布巻観音さんという観音さんを祀った観音堂がある。 観音堂は間口、奥行共に2間、高さ3間の正方形のお堂で立派な木材で建築され、屋根裏の垂木は二重の流れとなっている。屋根の材料は芦であるが、今はトタンで覆われている。静かな天満宮の裏手にどっしりと建っているお堂を眺めていると飛鳥、大和路の古寺を訪れた感じになる。昔はよほど遠い所からもお参りがあったものと見えて、堂内の壁には熊本県、福岡県の人の落書も見られる。 布巻観音については色々の伝説がある。長瀬天満宮由緒記にあるように、筑前の国布巻の原にあった観音様を大友の一族が北山まで持ち来り、後これを龍造寺の家中駿河守宗吉法名正伯という人がここに移した。布巻の原から移されたものであるから布巻観音という説と、もう一つは神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる伝説である。それによると、神埼郡脊振村鳥羽院は元絹巻の里といった。この絹巻の里及びそこにあった絹巻観音についての伝説に関しては郷土史家栗原荒野氏が昭和5年10月22日以降毎日新聞婦人欄に肥前女人風土記 絹巻の里として稿を寄せられている。すなわち、神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。絹巻の里この女らしい地名のおこりは何か、いわれがあるにちがいない。そのいわれはこうである。 昔脊振の山里に父と娘と2人住いの貧しい家があった。父は間もなく後妻を迎えたが、それは娘にとってはつらい継母であった。しかし邪険な継母にしいたげられて泣かぬ日はない小娘の心にも一つの慰みはあった。それは観世音の名号を唱えることであった。継母は娘が朝廷に献上する織物が織れないといって娘を折かんし、絹織物の巻板を娘の背に結びつけてとうとう追い出してしまった。 とっぷりと暮れた荒野の原を泣く泣くさまよっているうちに、娘は松のしげみの間に一つの燈火を見つけてその家の中に入った。中には一人の美しい女がいて機を織っていた。娘はその美しい女の人から織物の織り方を教って父の元に帰って来た。後で父娘でその美しい女の人にお礼をいわねばと思って尋ねて行くと、その人の家は跡かたもなく消え失せていて、そこには織り上った白絹の布が積み重ねられ、上には背負って来た絹巻の板が置いてあった。さては観音様のお導きであったかと、又娘は山と積まれた白絹の前に観音の名号を唱え手を合せて拝んだ。家に帰ると、今度は継母が居たたまれなくなって家を出ようとしたが、娘は、お母様の邪険も、わたしたちのためには善智識でございました。これも皆観音様の御利益でございます。となだめて取りなしたので、継母もひどく感じ入って邪険の心が直り、親子三人が睦しく裕福に暮すようになった。それからこの里に観世音を祀り、継母が結びつけた絹巻を後光にしつらえて、絹巻観音と崇め、ここを絹巻の里ととなへた。 この物語は、今から260年ばかり前にできた。肥前古跡縁起にも書かれ、長瀬村の天神の本地となったとある。 又昔誰かが絹巻観世音の巻板を盗んで行ったが、川上川の官人橋を通る時、あまりに重いので川の中に捨てた。すると川下の長瀬に一躰の観世音像が流れついた。人々が拾いあげて見ると、像には布を巻いてあったので布巻観音ととなえて祀ったが、その時から鳥羽院の観世音は姿を消されてしまったという。 伝説としては以上の通りであるが、史実に近いものと思われるものに、龍造寺家系の記録及び鳥羽院にある教信寺というお寺の由緒記などから判断すると次の通りである。 昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、鳥羽上皇のために菩提を弔った。 これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。 季慶程の天皇に仕える豪族の武士であるからには、布巻観音のような世にもまれな優れた十一面観音を都から招致し得たことと思われる。栗原氏の記事の載っている新聞にある写真の通り、頭上に十一面観世音を配し、手には蓮華の花を持ち給う姿である。特異な点は、光背の腰のあたりの背面に織物の巻板が真横に添えられていることであって、これが伝説の物語りと一致するのである。 季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。 ところが季慶の孫の季益というのが後に長瀬村に居を構えるに至ったために、教信寺にあった観音様もお移し申上げたと思われる。教信寺由緒記の末尾に、「彼の山は里遠くして、人の通いも稀なりとて、後にこの観音を守り奉り、長瀬村の本地ぞと崇め奉りけり」 とある。 鳥羽院に伝わる伝説、教信寺の由緒記毎日新聞の記録等は鳥羽院出身で、多布施町在住の永渕輔夫氏の所蔵物、助言によるものであることを附記しておく。 この観音様は、機織りの神様、又縁結びの神様として遠近の信仰を集めて有名であった。通称ノノマキさんといっていた。機織の神様であるので、御像の光背には腰のあたりに、真横に筬の形をした彫刻がある。観音様は大正3年(1914)に補修彩色された。 光背の裏に 大正3年10月2日 長瀬村本村中 世話人 中小路 女中 観世音様彩色 彿師 神埼町3丁目 村上広市 糸山清一郎 森永乙次郎 当時代元老 杉町七三郎 宮原彌一郎 田原 鈴蔵 横尾幸一郎 という記録がある。 しかし、数100年前、おそらくは名だたる都の仏師によって作られた尊像であり、お姿も高貴、優美であったがためにか、昭和37年に、心なき輩のために盗難の厄に遭い、今どこにおわしますか行方は判らない。故里の地を離れ給うた、御仏の心はいかばかりであろう。まことに惜しいことをしたものであって、当時の長瀬の御婦人達ははだし詣りの御願をかけて探されたそうであるが未だに行方が判らない。ただ、台座と光背だけが淋しく残っている。でも今は千住喜代治氏より御身代りの白磁の観音像が奉納されている。 西長瀬法常寺の古書には大和町玉林寺の末寺の中に、佐嘉郡長瀬村布巻寺と記載されてあるのもあるが、これは玉林寺の住職によって観音様の供養が行われていたためであろうと考えられる。
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若宮八幡神社
―校区内では、一番大きな神社― 若宮神社由来記として、神社境内の案内板には、次のように表示されている。 若宮神社は慶長16年(1611)高木八幡社より分社されております。(八幡社無格神社御由調査書) 八幡社のご神体は、応神天皇が主神で、母の神功皇后(祖母)と仁徳天皇(孫)となっています。孫である仁徳天皇をご祭神としています八幡社の御子を祀る宮、すなわち『若宮社』と言われる由縁であります。 鳥居については、右柱には『千時天明五歳九月吉日、大日本鎮西肥前州佐賀郡高木新村、若宮社一宇○奉献立石○○眞心』とあり、左柱には『安○○○之大明神武○長久民安楽為五穀成就如意満足』と刻られています。 天明5歳「年」(1785)それまでの若宮社は、現在地で鳥居もなく、多分茅葺屋根で、ご神体が吹きさらしの状態ではなかったかと推定されます。 神殿の建設は明治25年(1892)大建築され、本格的な絵馬堂付の堂々たる社殿の完成を見たのです。お宮勧誘から鳥居完成まで170年、ご神殿完成まで107年、私達のご先祖は『天下泰平、無病息災』を願い、300年に渡って、高木新村と言う新しい開拓の地区に住み、貧しく少ない人々の微々たる浄財を集め、長い間建設資金を積み立てて来られたのでしょう。その間に、祭田まで開墾して、お祭りの費用に当てられたものと推定されます。先祖の気持ちが今日まで伝えられてきました。 新しい参道に小さな石祠があります(梨本天神)。これは元陸軍第55連隊の練兵場が出来た時、移転したもので、これには、享保4年(1719)とあります。鳥居より66年も古く、この宮も八幡社の末社として、高木新村天満宮として挙げられています。天満宮は“菅原道真”を祀りしていますが、雷神でもあります。 また、同じ参道に『猿田彦大明神』の碑が建立されていますが、日本神話『天孫降臨』の中で、天照大神の命を受けて、高千穂の峰に天降(あまくだり)りしたさいの先頭に立って道案内をした神様で『道の神様』として今でも人々の厚い信仰を受けています。「猿田彦大神」の碑は全国各地で見受けられます。 平成13年10月吉日 平成13年の若宮八幡神社の建替えとご神体の解明については、永渕博見氏の手記「若宮神社創立のあらまし」から記載している(抜粋) 平成13年本殿が、地区民の努力で立替えが行われ、木造の新しい本殿が出来上がった。 その立替作業中に、旧神殿深く安置されていたご神体の解明作業が行われ、ご神体は粗面の白っぽい 花崗岩で“縦100cm・横50cm・重さ300kg”の自然石に文字を刻んでいるのが判りました。 中央に大文字で『奉勧請若宮大明神』とあります。左側には『當村 堤弥右衛門尉・谷口十左衛門尉』とあり、これはご神体を拓本して専門家に読んでもらいました。 以前、高木瀬町史が編集されるとき、『ご神体』を詳しく調査されずにおりましたので、若宮神社の起源は不明とされていました。
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高木八幡下の宮
日の出1丁目3番に「高木八幡下の宮」観音堂がある。 ここには「天照大神宮」と「観音像」が祀られており、「天照大神宮」の右側に「八幡大菩薩」、左側に「春日大明神」と刻まれており、これには両方とも「寛政十年正月吉日・施主村中」(1798)の文字が見える。 この社は、高木瀬村社であった「高木八幡神社の下の宮」と言われていることから、江戸時代末期以前すでにこの地域が誕生していることがわかる。 この堂の改築は村内の有志によって昭和29年頃から積み立てが始められ、昭和39年頃に竣工している。 これには八丁畷地区は勿論、東高木からも多くの基金が寄せられている。 現在近くの居住者で毎年11月末の日曜日に、地区の助成を受けて祭りが行われている。
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若宮神社
若宮神社には、若宮八幡宮(応神天皇)を祭ってあり、旧中折地区の氏神様として、深く信仰されている。縁起については、記録がなく詳らかではないが、與賀神社の古文書によると、今から3百年以上の昔から與賀神社の末社として祀られていたようである。 古老の言い伝えによると、旧中折地区には、鍋島藩政時代に下級武士たちが居住し、武士として奉公する傍ら百姓を営んでいたようで、武神として、また、五穀豊穣の神として祀ったのが、始まりと言われている。 また、こんな言い伝えもある。明治42年頃、政府の命令で全国の神社が整理統合された際、若宮神社は掘江神社に合祀された。ところが、その年8月に赤痢が大流行したため、氏子達は若宮八幡宮のお怒りではないかと恐れた。そこで氏子代表が、元の地へ移して欲しいと交渉したところ、政府の命令だから公然と渡すわけにはいかぬ。神殿の施錠を忘れて盗難にあったことにしようと、暗黙の了解ができた。 こういう経過を経て、現在地に神社を再興した結果、猛威を振るった赤痢の大流行も小康を得たという、エピソードもある。 なお、この例祭日は、従来まで旧暦の2月1日の桃手祭、6月23日の夏祭、11月13日の霜月祭がある。桃手祭では、「的射り」といって、藁で作った雄雌二匹の山犬を竹の弓矢で射る行事があり、厄払い、家内安全、地域の発展を祈願する神事が行われていた。また、旧暦では現代社会にマッチしない面があったので、與賀神社宮司、崇拝者、氏子等の意見を聞いて、昭和63年から、桃手祭を3月1日、夏祭を7月23日、霜月祭を12月13日の新暦で実施することに変更した。 現在の桃手祭は、竹の簀の子に白紙を張って「鬼」と書いた的を立て、これを竹で作った弓矢で射る行事に、夏祭は、祇園祭とも言われ、昔は子供達も大勢参拝していたそうで、豆を炊いて接待するなどの風習があったが、今は全く廃れて、ただ神事だけを、霜月祭には、自治会役員を始め、氏子、崇拝者たちが集まって、大きな注連縄を作って、拝殿の古い注連縄と取り替え、新しい年を迎えるための行事に変わりつつある。
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五龍神社
往古当地方の豪族(一族36家)田中という長者が、広く商業を営み巨万の財を蓄え、常に大船を浮かべて各地と通商、大陸とも交易しまわったために、海上の平安を祈り龍神を信仰していた。 ある夜、霊夢によって村の西方の西河水中から危難除去の守護神の黄金色の霊石を得たから、村の西隅に一祠をたてて五龍社と称して一族の繁栄福祉を祈った。これすなわち、欽明天皇26年、西暦564年(※1)のことである。 これを聞き伝えた里人も大いに感じ、鎮守の神として崇敬するようになった。のちに與賀神社の摂社となり二の宮と称せられた。元和年間(1615~1624)藩主鍋島直茂が(※2)親しく参拝し、社殿を造営し、祭祀料並びに修復料として八戸村の田地、四町八反を奉献し、境内に松、杉、楠一千本を植栽し、続いて勝茂の代には家臣多久長門に命じて七社明神を配祀して、藩政時代には神事祭典の儀は八戸宿及び八戸村にてすこぶる盛大にとり行われた。明治6年村社に列せられた。当神社付近の水田には古代土器(素焼き)の破片が広く、また数多く散逸しており、繁栄していたであろう古代社会の様子がしのばれる。 また当社南側に小さな土祠あり、ご神体引き上げに使用した縄等を納めた所と伝えられている。(祠名に南無阿弥陀仏とある。) ※1欽明天皇26年は西暦565年 ※2『佐賀県近世史料第10編第4巻』(佐賀県立図書館、平成28年)掲載の「八戸村五竜大明神縁起記」の解題によれば、「当宮を崇敬していた鍋島直茂室(陽泰院)が元和年中に信州太守(勝茂)建立を願った。社殿修復のため八戸村で四町八段の点役米が免除された。」とあり。
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掘江神社
神野大明神ともいう。 【祭神】 祭神は、景行天皇・神功皇后が主祭神で、他に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧受請された風浪権現(住吉三神)などもあわせまつってある。社伝によれば、景行天皇の皇子小碓尊(おうすのみこと後に日本武尊)が熊襲征伐の時、肥前小津の入江にご碇泊、新たに小江を掘った所に竜造船をつなぎ、その中で熊襲征伐の軍議をはかり、この小江を掘ったところに神社を祀り、「神野の掘江大明神」と称えたという。現在の社殿は明治26年9月に改修とある。 祭礼日 3月14日 祈年祭 7月15日 夏祭大祓い 11月3日 秋季例大祭 供日 12月14日 新嘗祭 【神社の形式】 鳥居をくぐると石橋、石橋を渡ると門、その先に拝殿・神殿(本殿)と直線上に並んでいる。 この神社の配置形式は、与賀神社、本庄神社、八幡神社、蛎久天満宮等、各地に散見され、発生の時期は明確ではないが、江戸時代初頭における県内の神社配置様式と考えられる。 【思い出】 『神野小学校百周年記念誌』によれば、当時、掘江神社の参道には松並木があった。掘江神社の古い写真を見ると、本殿の右側(東側)に1本大きい松が見えるが、松並木の松は、このような大きい松であった。 今の参道入口の鳥居は、もとは現在地より少し北にあった。学校の前の道ができ上がったのは大正14年(1925)であるが、その前はどうなっていたかというと、長堀橋を渡って、田中化粧品店の前から店の北側へ通ずる細い狭い道があるが、これが浮留江橋へまっすぐにのびており、その道の南側はたんぼで、北側が今のように運動場であった。今の広い道が、長堀橋から浮留江橋へできたので、古い道と新しい道との間も運動場になった。鳥居は、参道と田中化粧品店北側の狭い道との交差点のすぐ北あたりにあった。
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鏑流神社
三溝の氏神様であり、また守護神様でもある。鏑流さん、または藪神様と呼ばれている。文武両道、五穀豊穣の神といわれ、掘江神社に合祀されていたこともあるという。お祭は8月7日。鳥居には「鏑流社」とあり、「寛政9年(1797)11月宮司覚明坊建立」と彫られている。社の所在地は元神屋敷といい、3回移転されて現在地に鎮座され、明治維新前は山伏の祈祷所、祈願所であったという。また、地領主の勧請の神社でもあったらしい。掘江神社の松中宮司によると、祭神は流鏑馬の神とのこと。鏑流神社の「鏑流」は、流鏑(馬)ともいうが、その逆字流鏑馬がなまったとか。ご神体は、腐蝕しかかった神馬上に跨り、矢を持ち巻狩のいでたちのような勇壮な姿をしている。流鏑馬とは、騎射の一種で、馬上でやつぎばやに射る練習として馳せながら鏑矢で的を射る射技。笠懸、犬追物の姉妹競技で、平安末期から鎌倉時代に武士の間に盛んに行われた。 佐賀県内の神社で今流鏑馬行事が行われているのは、稲佐神社、武雄神社、黒髪神社の3社ということであるが、三溝に伝説であっても流鏑馬につながる鏑流神社があることは、郷土の誇りである。
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西宮社
【祭神】蛭子尊、大己貴尊、事代主尊 人皇第78代二条院の御代、信濃の国伊那郡の武士で、本田大和守昭雲という者が、保元、平治の乱に亡命して、肥前の国杵島郡山口の里に来て仮りの住居を構えたが、かねて崇敬する摂津の国の西の宮の霊を夢に見て、神意に従い佐賀郡川副の荘角町治部という者の邸宅をたずね、承安2年(1172)神社を建て、同年9月1日、西の宮大明神を祀って、天下泰平、国家安全を祈願した。 後になって、龍造寺家門が深く敬い、神田などを寄進した。鍋島家が領主となって、いよいよ敬い、慶長9年(1604)、社殿を改築して、規模を拡大し、寛文2年(1662)10月26日社領として、23町8畝の地米2,882石を寄進した。 このように領主を始め村民の崇敬を集めたが、明治6年村社に列せられ、大正13年10月、さらに郷社に昇格して、今日に至っている。
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日枝神社
【祭神】 祭神は、大山咋神、八王子神、大物主神、岡象女神、武甕槌神、菅原道真 桓武天皇の御代、延暦23年(804)伝教大師(最澄、天台宗開祖)求法の勅願をこうむり、朝廷から還学生という身分を与えられ、遣唐使と共に、遣唐船に乗って中国に向かって船出されたが、途中嵐に会って波浪に押し流され、一つの島にたどりつかれた。あたりを見回わされたとき、この島は諸木が繁茂し、広い土地で、まさしく五穀豊穣の霊地であると感賞され、帰朝の折ここに船を留め、民家を建てられた。ここにおいて、当国万歳・諸難救済・国土安楽の守護神として仰ぎ奉らんと、大師は、比叡山(本山延暦寺)にあって、薫香の1本をもって、自ら山王の神像と八王子の神像を刻んで木原武藤の津に安置し、江上福満寺鎮護の神として敬われたのが、日枝神社の源で、大同元年(806)であった。 その後、戦乱のため社殿が焼失したが、龍造寺剛忠公により社殿が再建され、隆信公のご母堂が深く信仰され、その後も修復が続けられた。 慶長年間(1596~1615)、鍋島直茂公(日峯様)勝茂公(初代藩主)が柳川攻めの折、当社に戦勝の祈願をこめられ、帰陣後直ぐに社殿、神門などを新しく造営され、1反余御免地、御紋付、幕、提灯(ちょうちん)などを寄進され、その後も藩主の尊敬あつく、修復時には、時を移さず修造された。 明治6年2月村社となり、明治45年1月、国から神饌(せん)幣帛料供進の指定を受けた。その後、氏子の各地区の無格社、石仏、道祖神などが、境内に合祀されている。 祭りは、儀祭2月24日、春祭4月15日、夏祭7月15日、秋祭11月23日の4回行なわれ、大御田祭が申歳に、4月15日を中心に13日間の大祭として行なわれている。 境内の西南の角に、脱腸の神様(ガランサン)と熱の神様が祀られていて、昔から参詣(さんけい)者が多く霊験あらたかな神として評判が高かった。今の台座は、全快のお礼に奉献されたものである。 その他、石造文化財として、天満宮石祠、天照大神宮、アク大神宮及び延享2年(1745)寄進の常夜燈など多く存在している。 このほか、古くから続けられているおかゆ開きの行事がある。節分の日に、おかゆを炊いて神前に供え、2月15日に下げて、かゆに生えたカビのつき具合で、米の豊凶、天候災害、火災、怪我、病気の流行などが占なわれて、参詣者も多い。
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八坂神社
【祭神】素盞嗚尊 後宇多天皇、弘安4年(1281)の勧請(かんじょう)である。その後、寛永19年(1642)、藩主鍋島勝茂が社殿を造営し、時々、与賀、川副両郷のため、五穀豊穣、悪役転除の祈願を行った。 明治6年1月、村社に列せられ、大正元年11月26日、神饌幣帛料供進の指定を受けた。 同じ境内に、粟島神社がある。女性の守護神、病気平癒、商売繁昌の神として、全国に聞えている。施薬の神「大黒天」及び諸病、諸難を救い給う「少彦名命」を祭神とし、俗に「粟島大明神」として、広く信仰を集めている。 約1,300年前、人皇20代孝徳天皇の世、大財村にいた役行者(えんのぎょうじゃ)が金剛山に参籠して、「大黒天」を感得し、霊像を刻んで、ここに祀った。また、霊夢によって、「少彦名命神住吉宮」を勧請し、これを合祀して、船乗りの守護神として、敬われた。 足利の戦いのとき、戦火で焼失したが、鍋島勝茂が、八田津の祇園宮(八坂神社)の側に造営されて今日に至った。最近では女性の参拝者が少なくなかったが、毎年母子連では、粟島社を招いて、針供養を行なっている。 なお、勝茂公夫人から奉納された雛人形が保存されている。 外に、鍋島町東新庄の埋立地にあった猿田彦の大神など30柱が、境内に合祀されている。すぐ近くの公民分館の横に、「イボ地蔵」が祀られており、イボ取りに、大豆を年の数だけ上げて、祈った後地中に埋めておくと、豆が腐ってなくなるときには、イボが治ると言うので、参詣する子ども達がある。
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与賀神社
主祭神 与止日女神(よどひめのかみ) 〔=豊玉姫命(とよたまひめのみこと)〕 海の神、神武天皇の祖母 配祀神 八幡神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫 住吉神 綿津見命(わたつみのみこと) 海の神 乙宮神 宗像三女神(むなかたさんじょしん) 海の神 印鑰神 天児屋根命(あめのこやね) 祝詞の神様 応神天皇(おうじんてんのう) 八幡大神、武門の神様 菅原道真公(すがわらみちざねこう) 学問の神様 御神徳 豊玉姫命は神武天皇の祖母、海神の娘で龍宮城のお姫様です。海の神、山の神、水の神として広く信仰され、安産の神様です。また、武門の神様、学問・祝詞の神様が祀られており、鎮護国家・安産育児・交通安全・学問武道・殖産開運などにご神威あらたかです。 與賀神社の由緒 欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立され、鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212年)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245年)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられています。 ついで、建長三年(1251年)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513年)には神階一位に進められました。 室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482年)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。 その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。 鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。旧社格は大正14年に列せられた県社である。 鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。 当社の参道は八丁馬場(与賀馬場)といわれ、千数百メートルの間に3基の石造りの肥前鳥居がある(国重文)。 三の鳥居は「佐賀荘正一位与止日女大明神」の銘をもち慶長8年(1603)鍋島直茂夫人藤女によって建納されたものである。八丁馬場は武家屋敷であったといわれている。社前の鳥居をくぐって、小川に架けられた石橋は慶長11年(1606)に建立されたものである(国重文)。それを渡って朱塗りの楼門(国重文)は県内で最も古く全体の様式は和様であるが部分的に唐様の手法も使用されている。 境内には大クス3本があるが拝殿の南側にあるクス(県天然記念物)が最大で樹齢1,400年と推定され、そばに青木月斗の「我に迫る三千年の楠若葉」の句碑がある。社務所に応永年間(1394〜1428)作といわれる備前刀匠の作といわれる太刀(国重文)がある。そのほか延享4〜寛延元年(1747〜1748)に至る『社頭日記』。嘉永6〜慶応3年(1853〜1867)までの『宗門改帳』10冊など藩政史料として注目すべきものがある。延宝6年(1678)2代藩主光茂夫人が永松玄偲に書かせて奉納した絹本着色与賀神社縁起図も江戸初期の与賀神社の神幸をうかがわせる資料として貴重なものである。この絵巻には社僧や女官・宮人の妻などの命婦が描かれている。城下図にも与賀神社付近の延命院、浄土寺、宮司房の神宮寺があるが、宮司房だけが廃絶しほかは現存している。
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龍造寺八幡宮下の宮
龍造寺八幡宮は、文治3年(1187)に龍造寺南次郎季家が建立した。当宮は昭和60年(1985)7月に社殿を創建し、本社に当る龍造寺八幡宮(白山鎮座)の御分霊を遷し、鎮座された。元来この地は、龍造寺八幡宮の氏子であり、遠く龍造寺の領する重要な一角に位置していた。 古くこの境内は本社の頓宮として秋祭には本社の神輿のお下りがあり、下の宮祭が斉行される。 夏祭りは、毎年7月の第4日曜日、秋祭りは11月3日、そして毎月の月並祭は18日と定めている。夏祭りは町内上げての祭りで老若男女が参加、一時は朝市、盆踊り、子ども御輿も繰り出し朝から夜9時過ぎまで賑わった。最近は、時代の移り変わりに高齢化や多忙のためか、大人の参加者が減り、子ども御輿は町内廻りを実施している。
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中の館神社
祭神 正一位 福阿弥稲大明神 神社 正一位 徳阿弥稲大明神 多久氏の祖、龍造寺和泉守長信公、多久家鎮守として祀られたもの 天満宮 祭神の東側に龍造寺天満宮が祀られている(明治34年改築)。東館内に勧請せられたもので、東館を天満屋敷ともいう。 (龍造寺剛忠公の長男家純公、水ヶ江城鎮守として)今日、倒壊の危険もあったため、平成17年12月町区民の浄財により神社南側に新しく築かれる。 多久家、神社と社地西に祭祀田として1反6歩の水田を添えて無償にて市に譲渡され、毎年の祭典は市の主催により、町民も参加して催されてきたが神社法の改正により、市が祭祀を行うことを禁じたため、廃社となるべきところを与賀神社の摂社として登録され、厄を免れる。その後は、地区有志の手により、細々とした祭(2月・8月)が行われている。
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蛎久天満宮
後冷泉天皇の天喜2年(1054)太宰府天満宮から御分霊を勧請し、奉祀して文教の祖神、誠の神として氏子発展の産土神として村民の崇敬を集め今日に至っている。 なお天満宮は太宰府天満宮、水田天満宮と共に鎮西三大天満宮といわれていたが、元亀元年(1570)大友の乱で焼失してしまい、元亀4年(1573)に龍造寺隆信が社殿を造営し龍造寺代々の信仰があつく、また鍋島氏となってからも初代勝茂、二代光茂、三代綱茂などの信仰が深く、神殿、拝殿、付属建物も造営された。 天喜2年本社創建にあたっては、菅家の子孫中願寺、岩松両氏が社職に任ぜられた。当時は17ヶ所の末社を有し、神領は二百余町に及び、権勢は地方に冠たるものがあった。 そして同社に祀った神像は水鑑の一軸で、道真公生存中池水に影を映して自ら写したものであった。なお本社は明治4年村社に列せられ、明治中頃までは春秋2回の祭典(3月25日、11月25日)には門前、東西に休憩所を設け、一の鳥居までは両側に売店や見世物小屋が並び、参詣人織るように多く盛況であったという。
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新庄八幡神社
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、比賣大神、春日大明神の五柱を奉祀してある。また安徳天皇養和元年(1181)には宇佐八幡宮の分霊を勧請したから、五社八幡宮とも言った。古く文応、弘長の頃最明寺時頼巡回の際当地で不慮の病いにかかり重体となり当社に祈願をこめた。不思議にも忽ち平癒したので神殿を再興された。降って天正の頃龍造寺氏も信仰が厚かったが、弘治、永禄の頃大友軍が佐賀に侵入し社殿は焼却された。次に鍋島直茂も厚く信仰し、元亀元年(1570)の今山夜襲戦にも近くの勝楽寺にて旗竿準備の上、本社に奉拝して勝利を祈願し、本社の梵鐘を陣鐘に使用し大勝利を得たので一層信仰が深くなり、又、文禄の役でも直茂出陣にあたり今山戦に倣って社参祈願し、凱旋後慶長4年(1599)1月18日本願成就のため梅崎一党をして御能を奉納した。其後代々の藩主も例大祭には名代を社参せしめ、御賽物奉納の上、神事御能を厳かに執行したが、これは明治3年廃止された。
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勝軍稲荷神社
神社の創立については、現存している記録から確かな由来はわからないが、「敷地山権現社由緒並びに抱宮差出し帳」の記録から推測すると、鎌倉後期の頃(今から700年ほど前)に建立されたものと思われる。 祭神は、豊受比売神(とゆけひめのかみ)勝軍稲荷大明神、英彦山権現、観世音、鬼子母神。「勝軍」の名にあやかって、戦争の激しかった時代には、各地から武運長久を祈って参拝者も多かったという。 なお、戦国時代、今山の戦(1570-大友軍と鍋島軍が大和の今山で戦う)の際に、鍋島軍が鍋島村森田の勝楽寺、勝軍稲荷神社、新庄八幡神社に戦勝祈願の後今山戦で大友軍を打破ったと伝えられている。