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[旧佐賀市][ 橋・井樋等]は123件登録されています。
旧佐賀市 橋・井樋等
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大財新橋
トヨタ自動車東に架かる橋で、大財本通りより東の大溝川の大溝橋に至る間の新道路建設に際して架橋されたものではないだろうか。昔の道路は、元水町ゴム北側から入り仏心寺の南を通り成長の家の南『中林橋』に至っていた。
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榎橋
(昭55・3)もとの橋は(昭6・7)水ヶ江二、材木二。 橋の西方、会所小路に大隈重信の生家と記念館がある。どの橋からも小路に入るには少し曲がりをつけ死角にしてある。これも佐賀城下町づくりの特徴である。橋の東北隅にお稲荷さんを祀る祠がある。中に「正一位榎森稲荷五社大明神」石造のご神体が安置され、側面に「慶応二年丙寅冬十一年吉日奉再建」(1866)の銘。昔、橋の東南に大きな榎が繁っており、社もそこにあった。榎橋から東への道路拡張で邪魔になるお稲荷さんを牛島天満宮へ返そうという町内(17班)の意見、橋近くに住む中山さんの夢に、お稲荷さんが牛島天満宮に帰りたくないと。そこで橋の北側に社を移すことにしたということである。 稲荷さんは祭りは正月、5月、7月、9月のそれぞれ8日で、材木町17班で行う。昔は夏祭りの祇園は盛大で、水上舞台ができ、町内の人だけでなく踊り手や商売人も見え、佐賀ニワカの田代熊一一座は人気があった。「じろりの六日恵比須」「榎の八日稲荷」「中の橋の十日恵比須」といって昔は材木町の各班で豪華さを競いあっていた。昔の榎橋は反橋(太鼓橋)になり、橋下を自由に船が往来できるようにしてあった。
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道祖神樋門跡
平成元年からの兵庫南部土地改良区の圃場整備で70有余年の歴史の役目が終了、水田稲作、生活用水、消防水等住民の生活に貢献をして来た。水田耕作については戸板によって水位を上昇させ灌漑の労役が軽減された。その貢献を感謝し跡地を写真のように整備して残している。堀も大きく昔は10月頃の水落の頃には鳥栖方面より列車を利用してフナ釣りの人々が早朝より見えていた。 圃場整備後は道祖神樋門の西200mの所に県営水路が出来、制水門が堅固に造られている。佐賀平野の低平地では100年周期で治水工事が行われているという大学の先生の話を聞いた事があるがどうも実際に道祖神樋門は的中しているのではと考えられる。
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分水地
伊賀屋、堀立、巨勢方面への水の配分が公平になされている。 巨勢川の地下を西から東に向ってこの所に湧き出している。 現在は柵で囲ってあり整備されているが昔は目に付きにくかった。
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巨勢川用水取り入れ樋門
藪の奥が昔の取水口、洪水の時はここが非常に危険だった。 稲作作業の前、公役で川に堰を作り取り入れ口に水を誘導していた。 現在は新しい取水門が作られている。また川の南の方に頑健な制水門も作られ公役の労は不必要となっている。 水門奥には広場があり今は公園のようになっている。昔は樋門等の工事関係者の名前を刻した石柱が立っていた。
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惣よん橋
この橋は若宮にある。龍造寺時代ここに居住していた豪傑西村惣衛門(左衛門)が架けた橋と伝えられる。 神代家記により西村惣衛門の勇猛ぶりをみると、次の通りである。永禄4年(1561)9月、龍造寺隆信は神代勝利のもとに使をやり、こんどは川上あたりで出会い、直々に槍を合せて一度に決着をつけようではないかと申し込んだ。勝利もこれに応じ、13日を期して決戦することになった。 隆信は1万余騎を従え、勝利は7千余騎を率いて熊川城を出て川上川をはさんで都渡城方面に勝利の二男周利、八戸下野などが出陣し、龍造寺方よりは隆信の弟、左馬頭周光、小川大炊助が対陣した。 淀姫神社辺には神代勝利、その子惟利が控え、龍造寺方も隆信自ら納富信景、福地信重などを率いて出陣した。戦いは川東より始まり激戦数刻の後、神代周利は戦死し、八戸下野などは重傷を負うて敗走した。 川西の神代勢もこれを見て勢をそがれて遂に退却を始め、追われた勝利は八反原で捕えられる寸前、辛じて虎口を脱した。神代方は大敗したが、この戦で神代方の陣中にあって勇名をとどろかしたのが、西村惣衛門である。 彼は川上川の西岸の一段高い所にあって攻め寄せる敵を弓矢で射かけ、射すくめ防戦したが矢種が尽きたので、大刀を振りかざし龍造寺軍に斬り込み散々暴れまわった。敵十数人を討ち取ったが、その身も深手を負い付近の民家に身をひそめ、ようやく死を免れて居村若宮にたどりついた。
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きひょうえ橋(喜兵衛橋)
兵庫小の北東、巨勢川(市道若宮西中野線)に架かる橋。 きひょうえ橋の由来は、その昔若宮の豪農八田喜兵衛氏が自作田を農耕のために、巨勢川の東より西側へ橋を架けたのが初めで、その後八田平太郎氏の発起で騎兵隊の協力で石の橋が架けられました。 平成になって巨勢川の改修工事に伴い現在の太鼓橋となり水難防止の立派な橋となりました。
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周防殿橋
周防殿とは、鍋島周防守清虎のことで、藩祖・鍋島直茂の従兄弟である。本庄町溝口に屋敷(館)を構え、ここに居住していた。後に子・道虎(生三)が、父の屋敷に建立した寺が静元寺である。屋敷に通じる橋を鍋島周防守清虎の周防守をとって「周防殿橋」と呼んだ。地元の人は「すっとんとんばし」と呼んでいる。
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法無乱橋
昭和34年(1962)3月、佐賀球場が完成した。この機に小野哲一市長が「法無乱」と揮毫、石板に刻み、球場正面に掲げた。市長は、「法、無くんば乱れる」と読み、野球のホームランにあやかり、野球人、スポーツマンら多くの人々に教訓として示した。昭和37年(1962)、球場西に都市計画道路新設に伴い、萵苣木川に橋が架けられた。この橋の名称を、教訓として示された「法無乱」に因んで、時の宮田虎雄市長が「法無乱橋」と命名した。
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萵苣木橋
大正12年(1923)、県道工事に伴い萵苣木川に架けられた橋。川の土手に萵苣木が植わっていたことから萵苣木川と呼び、これに架けられた橋を萵苣木橋とされた。地元では「ちやの木ばし」と言い、橋の親柱にもこのとおり刻まれている。
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十五縄手橋
本庄町から西与賀町に通じる県道西与賀・本庄線の佐賀大学西側水路に架かる橋が「十五縄手橋」。大正12年(1923)架橋。本庄神社あたりの小字名で若村を「じゅうご(十五)」村と呼んでいた。ここに通じる長い真直ぐの道を十五畷、縄手(方言でノーテと言った)と呼んだ。これから「十五縄手橋」と名付けられた。
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善左衛門井樋
橋ではなく、多布施川にはこうした「井樋」が数多くあり、細かな水路への水取入れ口になっている。 昔は木製でしたが、段々と鋼鉄製の巻上げ式に変わってきている。
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ポンポン井樋
佐賀の人は、親しみをこめて「ポンポン井樋」と呼ぶ。 サイフォンの原理を用いた構造の井樋で水が流入吐出する際に音をポンポンと発することからであろう。 多布施川より松原川への取水の井樋の事で、以前は常に流れが渦を巻き、子供達の格好の遊び場所であった。ここから取り入れられた流れは、今では鯉が泳ぐきれいな川となり、松原神社北を憩いの場の水系としている。
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楠公橋(なんこうばし)
「楠公橋」は、勧興公民館の南を流れる十間堀川に架かる橋でその名は楠神社にちなんでつけられたものである。 明治3年の架設で社寺を除くと公道に架かる橋では、市内では最古のものであろう。 この橋が架かった三年後の明治6年に、楠神社から西に伸びる道が「楠公通り」と命名された。 又、ハローワークに通じる処にも「楠公橋」があるがこちらは昭和42年とだいぶ後に架けられたものである。
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御幸橋(みゆきばし)
唐人町土橋横から県庁通りに入る場所に架かる橋。 明治35年、明治天皇統監の陸軍大演習が熊本地方で行われた。その帰途、天皇陛下を佐賀にお立ち寄り下さるよう大隈重信を通して運動したが成らず、ご名代として小松宮彰仁殿下がお越しになられた。 殿下は、その年の11月に佐賀駅到着の後、竣工したてのこの橋を通られ、県庁の行在所に入られた。殿下がお通りになるため「御幸橋」と名づけられたものである。 当時の「親柱」が龍造寺八幡宮の社務所東に保存してある。
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聖堂橋 れんさい橋
愛敬島4号水賂の十間堀川への注ぎ口に架かる橋。 その名は、大財村にあった「大財聖堂」にちなんでいる。 元禄5年(1692)、儒学者武富廉斎は、私財を投じ邸内に広さ約千四百坪の聖堂を完成させた。 武富廉斎は、享保3年(1718)正月26日没、享年82歳であった。 墓は始め聖堂内の一角にあったが宅地整理の為、呉服元町の称念寺に移された。 また、聖堂跡地の少し北側に廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」もある。
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明十三(あけとみ)橋
橋の親柱にかすかに「明十三橋」と刻んである。 明治13年、架設時の佐賀郡長武富良橘の命名による。 佐賀白山の豪商、武富家は明人十三官を祖としその一族は、白山町や勢屯(せいだまる)町、大財村に居住した。 「大財聖堂」を建立した武富廉斎は、中国の明時代内乱を避けて室町末期の日本に亡命した十三官の曾孫である。
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善左衛門橋(ぜんじゃあばし)
善左衛門橋(ぜんじゃあばし)(明治33年6月) 護国神社境内の北西隅に隣接して、多布施川に架かる長さ8メートルの石橋。明治式の低い欄干。現在も橋桁の上に渡した橋板の石組が露れている。以前は土橋で洪水の度毎に流された。住民が石橋への架け替えを藩に願い出たが許されず、伊勢町に住む宇野善左衛門が見かねて私財を以って架橋することを条件に藩の許可を得た。彼は橋づくりの専門、橋の土台に直径約40センチの松の丸太を井の字に組み、その真中に石柱の橋脚を立てた。明和元年(1764)7月10日に竣工し、渡り初めの費用も一切、善左衛門が出したと言われている。
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西峯院橋の親柱
「西峰院西橋」を渡ると次に橋がかかっていてその傍らに、「西峯院橋」という親柱が倒れている。その為、地図を見ると、この橋が「西峰院橋」という表記がある。 本来の「西峰院橋」は、紡績通りに架かる橋であったが道路拡張工事の為、この親柱だけがこの場所に移転されたものである。 現在、紡績通りの「西峰院橋」にはきちんとした表示がない。
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大島橋
成章中学校の北門西に架かる橋。 親柱の造りは、同年代(1950年)の六反田橋に似ている。
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二本松橋
唐人神社西側にある橋で架設は、昭和10年とかなり古い橋。 昭和9年には、成章中学校の「校南橋」なども建設されていて全体的な造りも同じような感じ。
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かわず橋
「かわずばし」とおもしろい名前で小さな橋ですが、しっかりと親柱がある。 架設も昭和31年と50年近く経つ古い橋。
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太平橋
どんどんどんの森東の天神通りに架かる橋。
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琵琶橋
愛敬町・国相寺南にかかる橋である。 水路や堀に囲まれたこの付近の地形が「琵琶」の形をしていたと言われる。 残念ながら、親柱の文字は消えかかっている。
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みかえり橋
同じく夕日町水路にかかる「みかえり橋」である。 ここより少し、東の大財通り四つ角にこんもり雑木が茂っている所がかつて、処刑場跡であった事に由来する名といわれている。
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極楽橋
愛敬町の夕日町水路にかかる、その名も「極楽橋」。
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護國神社・太鼓橋
佐賀縣護國神社の境内に渡る太鼓橋である。 以前はこの橋の下で泳ぐ子ども達も大勢いたが、いまでは少し下流の川遊び場が設けられ一般開放されている。
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三角(みすみ)橋
昭和35年(1950)架橋。 「開運橋」の次に多布施川にかかる橋である。 多布施川水系が、ここから二手に裏十間川と大覚寺水路に分かれる。 この地点で水路が三角になるためにこう呼ばれたもの思われる。 コンクリート構造の親柱は、「六反田橋」に似ている。 架設年代も近く、当時の設計も類似しているのであろう。
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くすのさかえ橋
県庁前の北堀を一気に渡る「くすのさかえ橋」。 建設の為に、お堀の大楠が移植された。
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東魚町橋
裏十間川にかかる昭和11年架設の古い橋である。 藩政時代、魚屋はここ東魚町と西魚町以外は禁制であった。