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[旧佐賀市][勧興校区]は149件登録されています。
旧佐賀市 勧興校区
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くすかぜ広場・旧佐賀市庁舎跡
明治22年(1889)、市制・町村制施行により佐賀市が誕生した。大正11年(1922)10月神野村を合併。昭和29年(1954)3月、西与賀、嘉瀬、高木瀬、巨勢、兵庫、同年10月には、北川副、本庄、鍋島、金立、久保泉の計10ヵ村を合併。翌年4月神埼郡蓮池町を分町し、合併した。 庁舎は、旧弘道館跡地や旧勧興小学校跡地を経て昭和4年、この地に建設された。 その後、昭和50年に移転するまで隣接する県庁や商工会議所とともに行政区の一角を形成した。 ※くすかぜ広場は、令和4年5月14日に「ARKS(アルクス)」という愛称でリニューアルオープンした。
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かっぱの結納品
「かっぱの結納品」?です。 松原川は、かっぱ一家が住んでいる(設定されている)がその中にこんなものがある。
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ポンポン井樋
佐賀の人は、親しみをこめて「ポンポン井樋」と呼ぶ。 サイフォンの原理を用いた構造の井樋で水が流入吐出する際に音をポンポンと発することからであろう。 多布施川より松原川への取水の井樋の事で、以前は常に流れが渦を巻き、子供達の格好の遊び場所であった。ここから取り入れられた流れは、今では鯉が泳ぐきれいな川となり、松原神社北を憩いの場の水系としている。
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武富常古・寿珍の墓
武富常古・寿珍(武富廉斎の両親)の墓は、佐賀市呉服元町・称念寺に建っており高さ2.5m余りの巨大なものである。 その文字は、「やげん彫り」という特殊な工法で彫られており、柔らかな文字の筆感が墓石に表現されている。
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鍋島更紗 工房跡地
佐賀更紗文書 鍋島更紗は、古く佐賀に伝わる優美な染織品である。 工房は、佐賀銀行白山支店跡(白山二丁目)付近にあった。 慶長年間、鍋島直茂の朝鮮出兵の折、伴なって来た李朝工人・九山道清が伝えたといわれている。道清は、のち九山庄左衛門と改名、藩の庇護を受け諸大名や幕府への献上品を作った。 技法は、木版ずりと型紙ずりを併用した独特のもので色染めも精巧を極めた。
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ひな祭り灯籠流し
佐賀城下おひな祭りのイベントで、松原神社周辺で「お雛様燈籠流し」が行われた。 暗い中、幻想的な景色である。
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馬鉄復活
馬鉄が復活した、昭和40年に仮装カーニバルが行われた。 佐賀商工会議所から多くの人が見物している。
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大楠公600年祭
昭和10年5月25日に大楠公600年祭が行われた。 多くの旗やノボリがお祝いに、飾られている。
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唐人町の由来
唐人町の起源は、天保13年(1842)7月、御用荒物屋・川崎勘四郎が佐嘉・鍋島藩に提出した、『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』にみることができる。 それによると、勘四郎の先祖で高麗人、李宗歓(りそうかん)が、唐人町の始祖である。 李宗歓は、高麗は吉州、竹浦の川崎(現、朝鮮民主主義人民共和国、吉州ではないかと思われるが定かではない)に生まれたと記されており、当地ではかなり知られた武人かつ文人であり、相当の地位を得ていたようだ。 宗歓一族の墓は、唐人1丁目の浄土宗鏡円寺境内に現存する。
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鬼火たき
元日の正月儀礼を「大正月」というのに対し、農漁村に古くから伝わるのが14日の「小正月」である。 その「入り」にあたって催されるものに1月7日、(14日)の「ほんげんぎょう」(又は、鬼火たき)があります。家ごとに飾られた門松、注連縄(しめなわ)は、正月に降臨した年神(としがみ)の依代(よりしろ)とされており、大正月が明ける7日にこれを燃やすことが神送りである。 また、同時に小正月入りの神迎えとみる民俗学説がある。 最後は、みんなで美味しくお餅を焼いて食べる。
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ほんげんぎょう
1月14日勧興校区の「ほんげんぎょう」がある。 場所は、毎年恒例の勧興公民館広場。 各地域を廻った子ども達が「もぐら打ち」を持って集まる。
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勧興まちの駅
「勧興まちの駅」が2005年12月10日(土)開催された。 今回は、昨年に引き続き「第二回・男たちのカレー味自慢大会」。
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塚原旗店
昭和3年・佐賀市中町(白山一丁目)の塚原旗店があった。 当時、まだ高級品で珍しかった自転車で配達をされていた。昭和になって白山で初めて、ネオン看板ができた。塚原旗店の日の丸がそうである。このネオンは、八幡神社からもはっきり見えたそうである。
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多布施川・棚路(タナジ)
以前は、多布施川のいたる所に棚路(タナジ)があったが、上下水道の普及とともにその風景もめっきり少なくなった。
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楠公神社例祭
毎年5月25日に楠神社にて「楠公神社例祭」が開催される。 5月25日は、楠木正成の命日。 祝詞のあと吟詠「大楠公」や「櫻井の訣別」の歌の斉唱などがあり、その後、社務所にて直会がある。
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勧興尋常小学校
佐藤尚武著「回顧八十年」より 『明治21年、私は父が佐賀県警察部部長として佐賀へ赴任したのに伴い、勧興尋常小学校へ入学した。幼い子供で初めて佐賀の学校に入って私はたぶんに佐賀人の気風に染まったことと思う。全校生徒で洋服を着ていたのは私と兄の二人きりであったがために非常に人々の注意を引いた。』
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義祭同盟連名帳
嘉永3年(1850)から明治13年(1880)まで結成されていた義祭同盟の参加名簿。年毎の楠公祭の参列者が一覧できる。連名帳は元来、綴られておらず、奉書折紙の様式で一枚一枚木箱に収めて、楠神社本殿に木箱ごと奉納されていたが、昭和2年(1927)2月、佐賀楠公会が連名折紙を合帳し、「義祭仝盟連名帖」と名づけた。連名帳は、昭和初期に活字化され、その冊子が本宮に現存しているが、『楠公義祭同盟』(福岡博氏監修・大園隆二郎氏校補)では、それを底本に総校訂し、これまでにない全丁写真付の翻刻を試みて、参加者全員の人名を明確にした。なお、大園隆二郎著『大隈重信』(西日本新聞社、平成17年)には、嘉永3年から安政6年(1850〜1859。年月日不詳の一丁を含む。筆跡ならびに同盟参加者の諸経歴から安政6年と推定)までの「義祭同盟連名帳の名書一覧」が付載されている。木箱の墨書の筆者は不明である。
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佐賀市立佐賀高等小学校
明治32年(1899)、勧興尋常高等小学校の高等科が成章高等小学校に併合され、「佐賀高等小学校」が発足した。 場所は、成章高等小学校があった龍造寺八幡宮一帯から北堀端へ移転した。 明治から大正にかけ幾度かの学制の変遷を経て、昭和9年8月に「佐賀市立佐賀高等小学校」の校舎が現在地(成章町)に建設された。この工事の為に、同年5月に学校の南に「校南橋」、西に「校西橋」が竣工されている。
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成章高等小学校
明治24年(1891)、佐賀市の明倫・循誘・日新の各尋常高等小学校は、併合され明倫小学校敷地内に「成章高等小学校」が開校された。 現在の佐賀市白山一丁目の龍造寺八幡宮境内に「成章校之址」の碑がある。
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ゆめこいえびす大祭
毎年、12月10日は「ゆめこいえびす」様の大祭で地元の人々が参拝する。 特に、年末ジャンボ宝くじが当たるように祈願してそれを頒布する時は、大勢の人達が列をなしてゆめを求める。 ゆめこいえびすは、中央本町の佐賀信用金庫西側の通り入口にある。
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復興通り
昭和8年にこの付近で大火があり、多くの商店や住宅が焼失した。 その後、人々の努力により復興したので「復興通り」と言うようになった。 昭和初期までは、この界隈は「夕日町」と呼ばれていた。
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せんだんの木
勧興小学校旧校舎の中庭にあった。 幹の真ん中あたりには「刀傷」の跡がある。
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旧勧興公民館(昭和39年頃)
旧勧興公民館は、風の日にはガタガタと揺れたものだった。 隣接して、消防の「火の見櫓」もあった。
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唐人町(昭和42年頃)
道路両脇にアーケードが完成した。 七夕飾りが大きく風になびき、梅雨の晴れ間の日差しが強かった事を思い出す。
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西肥日報
明治19年、当時の佐賀新聞に対抗するべく武富時敏が「肥筑日報」を創刊した。 その後、「西肥日報」へと変遷し武富時敏自身が主筆として鋭い筆を奮った。 武富時敏氏談として国の剰余金について国防費や減税について詳しい論説を述べている。 ちなみにこの現存する「西肥日報」は、勧興公民館館長宅から偶然に見つかったものである。「西肥日報」の本社は、佐賀市中ノ小路の県庁通りに面する交差点にあり、しょう洒な洋館の建物であった。 昭和40年頃まで現存したがその後解体され、現在はデパートの物産館が建っている。
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萬金丹
元禄時代に武富家四代目祐白が「萬金丹」という丸薬販売の薬店を城下の白山町にて開業した。 その後、天明3年(1783)に藩外からの売薬の移入が禁止されたので佐賀藩領全域に販路を広げた。 さらに享和2年(1802)、店を継いだ武富坦堂は、大村藩の財政再建を援助し、大村藩内でも販売許可を得ることができた。
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肥前三名物
武富廉斎は、たいへんな親孝行であった。 当時、「肥前の三名物」として「川上の大楠」「長崎の南蛮船」そして「武富廉斎の親孝行」とほめ称えられた。
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蘇鉄
大正2年12月に勧興小学校は、弘道館跡の北堀端より現在地(当時神野村平島)に移転した。 長い歴史と伝統を持つ北堀端の校舎に名残りを惜しみ先生や児童達は長い行列をつくり県庁通りを通って机や椅子、道具などを運んだ。 この移転の時、弘道館時代から長い間、皆を見守ってきた玄関前の「蘇鉄」も一緒に移された。 200年もの昔から「佐賀七賢人」らや勧興小学校の卒業生を見送った「蘇鉄」は、今も玄関前に立っている。
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武富 時敏
安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し明治16年県会議員に当選する。明治20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、明治23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。
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相良 知安
日本の医学をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した功績者である。佐賀藩医の子として生まれ、長崎・精得館などに進み、帰国後、佐賀藩主鍋島直正の侍医となる。明治2年、鍋島直正に従い上京し、医学制度改革を命じられた。その後、従来の蘭英医学を廃し、日本はドイツ医学に依ることを主張し、その必要を説いた。