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[旧佐賀市][金立校区]は55件登録されています。
旧佐賀市 金立校区
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徳永のあめ(あめがた)
現在、徳永あめの製造販売をされている店が2店舗あり、滋養、強壮、産前産後などの体に優しい食品として多くの人に喜ばれている。 病気見舞いの品として、また、妊産婦さんが食べると母乳の出がよくなると言われる、素朴な健康食品である。 そのほか、最近は少なくなった佐賀の郷土料理である「鮒の昆布巻き」には、徳永あめ(あめがた)が使われ、おいしさを引き立てる役割を担っている。
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金立町の千布薬師丸兩大字を中心としたる成富兵庫の治水工事
この治水工事は何処までも佐賀藩の城下町及び藩穀倉地帯を守り、且つは良田を作るために行われた工事であることを先ず念頭に置いてこの工事の趾を見るべきであろう。 大体この治水工事の行わる以前は市の上を水門とする。所謂平尾川はなく福島川、徳永川(巨勢川)も川久保川(今出川)も夫々思い思いに低い所を撰んで南へ南へと流れていたもので、梅雨時の洪水と共に南部の平野水田地帯は河水の「はんらん」に荒され悩されていたものである。 福島川も今のコースをそのままに、はたちの土居あたりから南進していたか、或は福島の地形から見てこの川は福島の西北の地蔵堂のあたりから、低地を縫うて四丁堀のあたりに流れて南進していたらしいし、金立川も白金土井あたりからわざわざ東にまわる等のうかつなことをせず、少くとも樋の口の墓地の下あたりから低地を選んで金立支所のあたりを通り中村森の下方面に流れて南進(又は金立川は道祖神松の西側の水田地帯を流れていたと思われる節もあるし、或は今の金立本村の中の坊屋敷の辺から西進し北島吉田氏の東側を流れ西に曲り宮瀬行鎮守三味原に出て東千布に出ていたかも知れない) 正現山に源を持つ野田川(?)は今のコースから沖田方面に流れていたろう。 川久保川も今の徳永川等にまわって来ないで篠木野の北部あたりから南流し、村徳永薬師丸方面に流れ例の「投げ石」等は其の川の中にあったものと思われる。 こうした地形、水系を観察研究して成富兵庫が佐賀藩大事の治水工事を起したものであろう。 この工事の眼目の第一は洪水大水の際城下町及び穀倉地帯の水害水難を救うこと、荒地地帯の兵庫方面を耕地と化することの2点であったと思考される。而して此の工事がこの2大眼目を満足する条件の下に考案されているようである。 三本松、二俣の線でせき止めた諸川の水では平常兵庫方面を灌漑するには足らず、水源の豊富な川上川の水を取入れる要のあるを知り市の江水門を作り市の江川を作ったろう。 ところが洪水時は諸川の水がこの土堤防のため水量を増して堤防決潰の虞れも十分にあり、巨勢川ばかりでは十二分にこれを呑み下す能力もないし、又其の沿岸の堤防の決潰のおそれがあるので、この水勢を緩和するために考案されたのが千布沖田である。其の為に徳永川の洪水時は逆流して沖田に入ることも工夫されている。 更にこの沖田のみに水を溜め水勢の緩和を計るだけでは不安であるため四丁沖田への逆流、水溜地の設置、更に福島で合流する2つの川水を福島の水田地に水を入れて水勢の緩和を計り、徳永川の合流地(金立川、久保泉川共他の川)では17から下の大門地域に2段構えの緩和地帯を設けていて実に巧妙其ものの治水工事で確かに兵庫の腕のさえを十分に具現していると言うべきであろう。然し其の結果犠牲となった地域は藩の方針として地租割等十分に考慮されてあった。 ところが現在のように米の供出や固定資産税や所得税等の算出が他地方なみに考えられたり、又国家的見地からお互に増産が叫ばれるようになれば、従来の施設では犠牲地帯が何時迄もこのままであることは不合理と思われる。お互いに近代科学力を取り入れ近代科学的施設を計測し、この犠牲を取りのけ誰も彼もが一様に喜ぶよう、増産に進むよう、幸福な生活を進むよう実行に移され、実現される日の一日も早からんことを望む切なるものがある。それは小さくは金立町のため、次は佐賀市発展のためでこれが国家の進展に寄与することになろうと思うものである。 水害犠牲地の開発これは金立町一大課題であろう。薬師丸の下九郎の全部、五丁、和泉野の大部分上九郎水田の一部、これも兵庫方面の水害を緩和するため一時水を貯える施設をしてあることも、前同様十二分の近代施設を工夫する要があるのほ前同様である。
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逆井手
黒子(福島)川が平尾川と合流する点から数百mさか上った所に逆井手と称する井堰がある。現在の分は明治の頃金立町が金立村時代の名村長横尾孫作氏が時の村会を動かし石造りに改築したものだが、往年からこの頃までは年に1回友貞、久富の農民が井手作りをやって来たもので、平尾川や徳永川の水量が増し黒子川に逆流せんとする頃合いを見て土俵を積んで水を止め、減水した場合は土俵を次第にとりのけていたとのこと。又この井堰から徳永川を逆流し上九郎水田に水を引くようになっている。
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沖田の浸水
沖田はなぜ浸水するのかと言うと彼の福島川は立派な堤防が続いているが下流、淵頭近くの沖田南部で堤防の影が消えている。之はここから大水の際は福島川の用水は勿論、平尾川の水、徳永川、巨勢川の川水迄が逆流して沖田に流れ込む工夫がされてあるので沖田は忽ち下の方から順次に海の様になる。これは、成富兵庫の水利工事以来の遊水池犠牲地となっている。どうしてこんな犠牲地を設けたかを古老の言に聞けば佐賀の大殿様の城下町佐賀ン町を水禍から守る為の一大妙策を殿様の御威勢にかけて建設した為で彼の沖田の南端に西から東に流れる所謂平尾川の南側の堤防は仲々念の入った堅固な物でめったに決潰せぬよう作り上げてあり、旧藩時代は大雨洪水毎に係の侍達を先頭に高木瀬以南の農民が懸命にこの堤防を守り抜いたとの事、こうして沖田の犠牲地は計画的運命的に出来た物である【こんな訳で旧藩時代は米も思う様に収穫出来ないので租税(上米)は特別に安く課せられていたが今は其の加減はない】 こんな無茶な事をされて昔は泣く子と地頭には勝てぬと泣き寝入りしたが、自由民主主義の今日になって今尚不可杭カの宿命として諦めて居ることは、福島川を上流同様下流でも堤防を築き、巨勢川に直結して沖田に溢れる水も逆流する水も入れぬようにして、立派な耕地に改良することである。
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道祖神松
道祖神社は金立町字金立(松原)の南金立川の西岸に(国民保険直営所の南より大野原方面に通ずる道路の南側に見ゆる)立つ姿美しき老松のことである。往時肥前を横断し筑前を横断し遠く中央政府のある京都奈良に通する道路の守り神として道路の諸々に祀られてある道祖神を祀った場所に植えられ(又は植え替えられた)松と思わる。 此処には道祖神を祀る祠があった筈と思われる。私の幼少の頃の思い出(此松の程近くに元は小学校があったので此処らにはよく遊んだし、又大正2年から4年間はこの母校に教鞭を取ったことがある)によると、この松樹の根元に1つの自然石が立っていて、この石に文字か絵見たいなものを書いてあったのがおぼろに浮んで来る。 当時までは史実史蹟方面に趣味を持っていて郷土史の研究も少しづつやってはいたが、この方面まで研究して心を留めていなかったことを残念に思われてならない。近年になってから古老に聴いて見ると其処にあった石は川の石橋建設の際川岸深く沈められた様だとのこと、それは何処の川岸かも勿論知らないと、残念なことをしたものだと思われてならない。 兎に角此地は往時の人々が道を守り道を司る道祖神を祀り崇めていたささやかながら1つの神域であったろうことには間違いなかろう。 一説に道祖神松に伝わる巷間の昔語りによると、昔この道路(車道)を通って旅する気品のある(或る家柄の正しい)兄妹があった。ところがこの兄妹がここらあたりにさしかかったとき(昔時はこの道路(車道)の通ずるあたりは松林などの続いた人里離れた淋しい所であった)青春の燃ゆる兄妹これも人の子で思春の悩みを持っていて、兄妹の垣根をこえてはならない事をわきまえ抑えに抑えて来たものであったのが、この淋しい人里離れのこの場が誘い出したのか、妹からその苦悩を訴え兄にこれを満足させて貰うよう迫った。兄は強くこれを戒めたが妹が又も強く熱情をこめて再度要求したので兄も人の子、思春の情高まりおさえる由もなく遂にその情熱のまにまに人倫の大道を破って終った。 ところがそのあと冷静にかえった2人は非常に悩み苦しみ。兄は妹にその誘惑を責め妹の死を決するを見て遂に妹の命を縮めて終い、その骸をこの道祖神のほとりにほうむった。その松に祈りを捧げると男子の陰部の病が治るといって昔はこの老松に七五三縄を張り、夜間人目をしのんで祈っていたとの話である。 このような話は真疑の程はわからないが、道祖神と男子の陰具とがこんがらがって妙な話や妙な事柄があることは世の中に幾らもあることで、愚考すると道祖神を道祖神と言うことから男子の陰具を「さや」と言っていたことから、何時の世か或るこじつけ、或は結付けに興味を持つ人のものしたものから始まったもので、水商売の人がさやを祀る妙な所に持っていったものではあるまいか。……兎に角時を改め研究の要があるものと思わる。
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らんとう山
宗寿菴跡の後ろの小高い台地を「らんとう山」というのが龍造寺の残党(龍造寺より言えば忠臣) と、鍋島藩士との間に乱闘が展開され、其の屍を其の麓に葬った所が所謂猫塚であろうと思われ「らんとう」は乱闘の場から出た名称らしい。
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源蔵松
伝説によれば、秦の徐福は孝霊天皇代、一族数百名をつれ渡来し、有明海の浮盃津に上陸し北行したが、到る処に蘆が茂り湿地が多く布を敷いて進み、今の千布まで進んだとき千反の布を使ったので、千布というようになったという。今千布の北外れに源蔵松と呼ぶ松が生えている。たびたびの災害で植え替えられ今は小さい松であるが、ここは徐福一行が案内役を探し求めたとき野良仕事をしていた百姓源蔵を発見したところといわれている。
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薬師の森
所在する大字薬師丸付近は、昔は江湖が深く入り込んでいて、帆をかけた船がここらまで自由に上下していた。あるとき船中に薬師如来を祀った薬師丸という船が、この森の東北にあたる「はぎや」と呼ばれるところで沈没してしまった。その後、この船の薬師如来を移して祀ったのが薬師の森と言い伝えられている。
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島義勇
1822.9.12~1874.4.13(文政5~明治7)。政治家。佐賀城下精小路(現在、佐賀市与賀町精小路)佐賀藩士島市郎右衛門有師の第一子として生まれ、9歳で藩校弘道館に入学した。23歳で卒業して諸国に遊学、とくに、水戸の藤田東湖と親しく交わった。26歳で弘道館目付、藩主閑叟公の外小姓となった。35歳のとき、閑叟公の命により北海道、樺太の探検を行なった。1858年(安政5)長崎港外香焼島守備隊長となり、1864年(元治元)御船方から観光丸(幕府所有の預かり船)船長、1868年(明治元)2月、軍艦奉行となった。同年5月、朝命で陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となり、関東の総野(下総、上野=現在の栃木県今市市付近)で転戦し7月、下総・上野鎮撫軍監から江戸鎮将府会計局判事、民政掛徴士、鎮台府判事、会計局判事などを歴任した。1869年(明治2)7月蝦夷開拓使首席判官となり札幌の開拓を決定。朝廷より従四位を贈られ、大学少監、秋田県権令などを歴任した。1874年(明治7)2月、不平士族を抑えるようにとの三条実美の内命を受けて離京西下したが、佐賀の役が起こると憂国党を率いて、政府軍と戦った。乱後、4月13日、江藤新平とともに除族のうえ梟首された。53歳。1916年(大正5)4月、従四位復位追贈。北海道開拓の恩人として、札幌市に銅像が建設されている。 ※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。
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山本常朝
万治2年(1659)生まれの佐賀藩士で、「葉隠」の口述者。通称神右衛門。童名不携。市十郎、権之丞とも名乗った。佐賀藩士山本神右衛門重澄が70歳の時、その末子として出生。重澄は中野神右衛門清明の3男で山本助兵衛宗春の養子となり、山本家を継いだ。幼少の頃の常朝は、20歳以上は生きながらえることはできないだろうといわれるほどの虚弱な体格の持ち主だった。 しかし、臨終の病苦に耐えて呻き声を出さなかったほどの剛の者の父重澄は7歳の常朝に武者草鞋をはかせて小城市三日月町の勝妙寺までも墓参に赴かせるほどのスパルタ教育を行なった。常朝は9歳で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側小僧になり、次いで小々姓、成人後は御傍役、御書物役となり、光茂に近侍した。その間、儒教、仏教の造詣深く、当藩第1の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之の薫陶を受けた。一鼎は、そのころ松梅村下田(佐賀市大和町下田)に閑居していた。また、同村松瀬の華蔵庵にいた禅僧湛然にも師事した。元禄13年(1700)藩主光茂が没すると、常朝は出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠棲した。佐賀藩士田代又左衛門陣基がその庵を訪ね、宝永7年(1710)から7年間をかけて、常朝の談話を筆録したのが、「葉隠」の中核となった。常朝の法名は旭山常朝、墓は、佐賀市八戸の龍雲寺にある。
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金立に生きる徐福の伝説
徐福が始皇帝の命を受けて海上の神仙島に不老不死の霊草を捜しに出かけた話は中国最初の正史「史記」に明記するところで紀元前3世紀(200)頃の出来事である。 孝霊天皇の72年秦の始皇帝方士徐福をして東海に入り不老不死の薬を求めさせた。徐福は男女数千人を率いて日本にきて止った。徐福の一行は海路有明海に入り一度は竹崎に上陸したがその後沖の島を通って三重津に渡りつき金立山に向かったといわれている。 金立山に入ってからは、弁財天の加護と里人の援助によって、不老不死の霊草をさがし出すことが出来た。しかし、徐福は何故か故国に帰る望みを捨てて永くこの地にとどまって里人に親しまれ、一生を終わった。生前の善事が里人の追慕するところとなって、今日まで金立大権現と尊崇されているといわれている。
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正現稲荷神社の由来
○座禅石(正現嶽の森社の西側にあり) 時あたかも戦国争乱の世、群雄割拠して勢力を争い、皇室の御衰微を顧みる者なきとき、京都の人勝務聖人という憂国の士、僧侶の身を以って尊王論を鼓吹し広く全国を行脚して、これが徹底に努めたが上人が肥前に来るや足をこの山に留め、大岩の上に一身を挺して懸命に目的達成の祈願をこめて座禅をくんで修行した。ところが地位ない身で自分の一心の叶はないのを歎いて七生報国を念じて身を有明海に投じて自決した。 隅々佐賀36万石鍋島直茂公に御曹子がなく当社を始め各神社に御祈願中であったが、彼の上人の水定と共に鍋島勝茂公が御誕生になったので、嶽の森稲荷の申し子とて藩主の信仰厚くなり鍋島家では当神社を奥の院として、奉祀し下宮としてその出生地鍋島村新庄に将軍稲荷にを勧請して厚く祀ったとのこと。
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朝日茶屋及人形茶屋
字金立に今も残る二つの茶屋の名前、これは彼の正現稲荷神社の御隆昌であった頃参詣人の通行の要所に当り、一つは朝日(東向)に向う朝日茶屋として栄え、一つは稲荷人形等を売る因縁深い茶屋として栄えていたとの事だが、社運の衰微と共に廃れたもので屋号だけは今も尚残っている。
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神代家と金立のかかわり
①神代対馬守宗元公の肥前落ち 豊後の大友親治は、度々筑後に進入し筑後の国を平定し支配していた。久留米城主に一族の高橋宗山をおき、文明12年蒲池宗雪、安武鑑政等も大友の支配下に入っていた。 筑前の大内義隆は、大友が豊後国に帰陣するすきをついて筑後に兵を進めたが、筑後の兵の結束がかたく、野望は果せなかった。 その後筑後は平穏であったが、文亀3年(1504年)ごろより蒲池氏・西牟田氏等は八女郡の福島氏を滅し、吾が配下にしようと企てていた。 永正6年7月(1509年)神代対馬守勝元公は、嫡子宗元と共に、自領神代村で平穏な生活を送っていたが、縁籍の福島兵部大夫から、急援を要請され一族郎党500余騎をひきいて、かけつけたが、福島城はすでに敵に囲まれ、城外にて蒲池・西牟田軍と戦った。 しかし、戦い利あらずして、勝元公は討死、一族の大半を失い、神代甚五衛門は勝元公の弟にあたるが、生きのびて宗元公を守り、神代家再興のため筑後の国をおちのびようと、筑後川を渡り、主従身を変へ肥前の国へおちのびた。 神代宗元公は、50代にわたり筑後三井郡を領地としていたが、この戦いで領地をすてねばならなくなった。 自害をしようとする宗元公をいさめ、肥前国松浦の岸岳城主波多三河守に援助を受けるため旅をつづけた。 波多三河守は、足利尊氏が太宰府在住の折、神代道元公と共に尊氏守護を命ぜられた間柄であった。 ところで一行は神代宗元公 嫡子利之公 親代甚五衛門 同審元同兵庫頭 同新太郎 同蔵之助 国分和泉守 山口周防守 古川入道真清 恒松 溝田 城島 八坂 真島 溝岡 その他郎党27名であったといわれる。 官道を田手にとり城原をすぎるまでは、隊列をつくらずバラバラに歩き、百姓・町人の姿で川久保和泉町まできた。 とき早くも西山に没しようとするところ、一天にわかにかきくもり雷雨となったので、村里をさがして走りに走り、千布の里の地蔵堂に雨やどりをした。 そのとき、馬上の武将らしき者が、2~30人の供をつれて地蔵堂の前を通りかかった。 大将らしき者は風体いかにも野人か百姓風に見えたが、眼光するどく伴をつれての雨やどりであやしい者どもと思い姓名を問いただした。 神代宗元を中にして雨やどりをしていた一行の中から、甚五衛門が、静かに馬のそばに進み出て、「元筑後の住人神代対馬守勝元公ゆかりの者で、この度筑後国柳川城・西牟田城主に打負され、松浦岸岳城主波多三河守をたより浪々している」とかくさず申し出た。 馬上の武士は、馬よりおりて宗元公のそばまで進み、それがしは、この地の地頭陣内大和守と申す者です。ここでは身体に悪い、吾が館にきて休まれるとよい、お茶等進ぜましょうと、やさしく申された。宗元公は喜び一行は安どし、陣内氏の後に従った。 陣内氏はこの日住吉神社において、的の会を催していたが、雨に会い帰館する途中であり、地蔵堂はこの道筋だった。 陣内氏は、元は摂津国の住人で、住吉神宮の神官で、住吉祭神を供奉し、千布氏とともにこの地に移住してきた人である。 神代の一行は、すすめられるままに館にとどまり、夜を徹して世状を語り合い、意気投合したといわれる。 ところで、陣内氏にはひとりの娘があり、かねてから良き武士を見つけて千布の館を相続させうと考えていた。そこへはからずもふさわしい若武者を見出だし、天の授けと喜び、奥方と共に娘のむこにしたいと心にきめ、翌日宗元公がいとまごいにきてもいろいろ策をろうして引きとめた。 その間神代の家臣たちと弓矢や剣の修業にはげみ、住吉神社境内に宿を設け、住まわせた。 陣内氏は娘を宗元公に近づかせ、この娘も宗元公を愛するようになり、陣内氏は、ころを見て甚五衛門兵庫頭を呼ばれ、娘のむことしたい旨を話された。 甚五衛門は、利之殿があることを考えたが、まだ幼く宗元公とも相談され陣内氏の恩に報いるのも武士として当然かと思い、陣内氏の娘との間に、男子が生れた場合は、その一子は神代氏の嫡男とするという約定を入れて、陣内家養子となった。 利之公は、宗元公が筑後在住の折福島兵部大夫の娘と婚姻し、その間に生れたが、幼くして目を病み片目が不自由となり、神代家総領としては不適当でもあり宗元公もそれが気がかりだった。 ここで神代対馬守宗元公は陣内氏の養子となり、千布因幡守宗元として、千布の館に留ることになり、神代一族は当分の間金立に館を築き、相続人定まるまで、千布家の属臣となる。 永正8年(1511年)宗元公千布家において第一子誕生。この男の子が、後の勝利公である。 名を新次郎という。 養育係を神代審元に命じた。 永正10年第二子誕生。この子が千布家相続後千布頃幡守宗利公となる。 大永5年(1525年)新次郎15才になり、神代審元は宗元公と今後の養育について協議され、小城晴気城千葉家の家臣で、武術指南役奥常之という人が、この地方で優秀な武士であることを聞き、弟子入りを進言した。宗元公に異存なく、直に審元を小城に走らせ、新次郎の弟子入りを懇願した。奥氏はこれを承知し、その年の3月に、新次郎初めての他国への修業旅立ちとなった。 修業をはじめて2ヶ月奥氏は新次郎の優れた力量と天性の武術に驚き、末おそろしい若者と折紙をつけたといわれる。 一緒に修業をしていた江原某という若者も、遠く及ばなかったといわれている。 ある夜、江原は新次郎を起し、吾 不思議な夢を見た。とすなはち吾身みるみるうちに大きくなり、天山の山頂に腰をかけ、玄海の白波にて足を洗う、実に心清く愉快であった……と話したところ、新次郎はこれ正に吉夢なり! しかし貴公には不適当な夢であり、自分に適した夢である。その夢を吾に譲ってほしいといったとか…… 江原笑ってこの夢はわたしの見た夢で、新次郎殿がこの夢をもらっても意味のないことととりあわなかった。新次郎それでもこりずに、その夢の話は、将来大物となる兆のある夢であるから是非売ってくれとたのみ、その代価として脇差をさし出した。この熱心さに江原も折れて新次郎の気がすむように、脇差一振と交換した。 この江原という武士は、父の名を江原丹後守利重といい、武蔵国の住人で、平家一門で、千葉常胤に従い姓も平から江原に改め、小城にきて、千葉氏に奉公していたもので、その子の名を利家という 後に千葉家が龍造寺に討れ、神代勝利公を頼り、家臣となって筑前国長野(糸島郡)に館を築き、200石を知行とした。 太永9年奥 常之は、最早や新次郎に教えることもないとして、免許を与え師弟の契をといた。 ②新次郎神代家総領となる 神代家は古く応仁天皇220余年ごろ、武内宿禰是則、筑後国高良山に居住しいろいろな功績により、神功皇后より筑後国を賜り、且つ神にかわって反徒を亡したことで、「神代」の2字を賜った。 その後子孫の姓を神代として受けつぎ今日に至ると伝えられている。 他国(中国の国)に神代の姓があるが、これはコウシロと読みクマシロとは読み方を異にする。 神代家は、代々高良山一帯を所領とし、文治元年ごろ神代良元公が、熊代邑に館を築き、この地を神代村とよぶようになった。(現在の久留米市神代町) 神代家の記録はとぼしいが、1~2をあげれば ◎文永11年(1274)蒙古襲来のとき、鎌倉幕府の執権北条時宗公は、直ちに全国の武将に教書をおくり、軍兵博多に参集した。 当時神代家は35代良忠公で、直ちに参戦に応じたが、昨夜来の豪雨で、筑後川が増水し渡河不能となった。良元公は附近の住人を集め、浮橋をつくり、九州各地より参戦する将兵の渡河を容易にした。 後に北条時宗公がこのことを聞きおよび、建治元年良忠公に恩賞を賜ったという。 ◎正慶2年(1333)38代神代良基公が少弐貞経公の要請により、太宰府探題北条英時を攻め、これを追放する軍功があったとされている。 その後南朝方の菊池武俊を良基公・少弐貞経等と戦い、菊池一族を敗り、大勝をえて、康永2年足利将軍より三井郡櫛原村80町を賜り、この地一帯の地頭となった。 神代勝元公までは、櫛原村 神代村 高良山一帯の地頭職をつとめた。 新次郎は一人前の剣術者として、各地の道場を巡歴し、武芸百般に通じるようになり、弟子入りするものもでてくることで、養育係の審元は、このことを千布の館で宗元公に報告し、千布家の武芸指南をさせるべきだとして、金立村(町)に道場を開いた。 新次郎が18才となったとき、宗元公は神代総領を定めようと、子の利之公や神代甚五衛門・兵庫頭・神太郎等をよび協議された。 利之公は宗元公の意を拝して、自分は不具の身であるから神代家総領は、新次郎が適任であると、自ら身を引いた。宗元公はじめ一族に異議をとなえる者はなく、佳き日を選び住吉神社において相続の儀式がとりおこなわれた。 儀式当日は、千布家並びに神代一族が住吉神社に集まり、神楽を奏じ、献幣し、利之公は新次郎の次に座り儀式をすまされた。 とき享禄2年(1529)5月51代神代家総領の誕生である。 名を刑部少輔勝利と改めた。
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西の原さん伝説(西原観世音菩薩)
昔、多久藩主の娘『おりん姫』というのがおられたが、家来と許されない恋仲となり妊娠したため、藩主は面目上これを見かねて家来に言いつけて処分することにした。その際父の藩主は娘の命を縮めることは心苦しいので、無言の内に意を含めたつもりで刀の鞘に「より」を結びつけて(ある説では高麗人参を結びつけ)家来に渡した(こっそり助けてやれとの意を含めて)。ところが家来は藩主の謎が解けず、ひたすらに主命大事と主君の娘を打ち首にしてしまい、後になって初めて主君の意中が分かり、その責を負って瑞光寺に隠棲し、『おりん姫』を祀ったといわれている。今でも瑞光寺では毎月19日に檀徒や集落方で観音講などがおこなわれ、またお産の神・安産の神として信仰する人も多く、お参りに来る方が絶えない。
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銚子塚
史跡
脊振山系南麓から南へ1キロメートルほど下ったゆるやかな微高地上、標高15メートル付近に位置する前方後円墳である。前方部を西に向け、全長98メートル、後円部径58メートル、高さ8メートル、前方部幅32メートル、高さ4.6メートルである。墳形は前期古墳に特徴的な柄鏡(えかがみ)形で、後円部と前方部の比高差も大きい。前方部は戦中戦後の開墾と土取りで段状に削られ、斜面部は石垣となっているが、墳丘の遺存度は良好である。後円部が3段に、前方部が2段に築成され、後円部には花崗岩質の葺(ふき)石が多数認められる。周濠は幅11.5メートル~28メートルと広く、墳丘に沿って巡っており、中期古墳に多い楯形(たてがた)周濠に先行する形態である。内部主体は竪穴(たてあな)式石室と推定されるが、実態は明らかでない。現在、墳頂に忠魂碑が建てられているが、大きな盗掘の跡などは認められず、内部主体、副葬品等の遺存状況は良好であると思われる。 本墳を特徴づける出土遺物に土師器(はじき)の二重口縁壼6個体以上がある。これらは開墾中に偶然出土したもので、その出土位置は南側くびれ部の2段目テラス付近と推定される。いずれも丹(に)塗りが施され、胴下半部が長くのびて、底部には焼成前の穿孔(せんこう)が認められるなど 形態は壼形埴輪(はにわ)に極めて近い。 本墳はその墳形と出土遺物から4世紀末ころに築かれたものと推定され、古墳時代前期の佐賀平野における政治権力の存在を知ることができるとともに古墳文化の伝播(でんぱ)と成立を考える上で重要な意義をもっている。
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西隈古墳
史跡
脊振山系南麓の緩やかな台地上、標高30メートル付近に位置する径約30メートル、高さ約4メートルの円墳である。墳丘は周囲を宅地や畑により削られているが、わりと残りは良く、2段に築成されている。墳丘上からは形象埴輪(けいしょうはにわ)・円筒(えんとう)埴輪の破片が採集されており、また葺石(ふきいし)帯の存在も確認されている。 本墳の内部主体は初期横穴(よこあな)式石室で、内部に横口式の家形(いえがた)石棺1基を納めている。玄室(げんしつ)は長さ3.3メートル、幅1.5メートル、高さ17メートルで、周壁は基底部に腰石を裾え、その上にやや偏平な塊石を平積みしている。玄関の外側には長さ2.8メートル、幅1.1~1.4メートルの前庭側壁が続く。使用石材はいずれも花崗岩で、玄室内には赤色顔料(せきしょくがんりょう)が塗られている。 玄室内の石棺は阿蘇山系の凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、玄室主軸方向に設置されている。長さ2メートル、幅1.1メートル、高さ1.3メートルで、4枚の板石を組み合わせており、底石はない。玄関側小口面には一方にかたよって横口部が設けられている。棺の蓋(ふた)はカマボコ形に近い寄棟(よせむね)で、両長側辺に各2個の環状縄掛突起がある。棺身及び棺蓋の玄門側小口面にはコンパス痕を残す円文及び連続三角文を線刻し、図文以外の部分に赤色顔料を塗っている。本墳は以前に盗掘にあっており、挂甲片(けいこうへん)、鉄鏃(てつぞく)等の遺物がわずかに出土したのみであるが、石室・石棺の構造より5世紀末ごろの築造と推定され、環有明文化圏における石棺系装飾古墳の代表例として重要な位置を占めるものである。
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丸山遺跡一・二・六・七号墳石室 四基及び出土遺物 一括
重要文化財
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期の118基の支石墓をはじめとする墳墓群と、5~6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡である。遺跡そのものは、佐賀市久保泉町川久保に位置していたが長崎自動車道建設のため、昭和57年(1982)1月~58年(1983)3月にかけて移設工事が実施された。 1・2・6・7号石室は、そっくり切り取って移設されたもので、1・6・7号墳が竪穴(たてあな)式石室、2号墳が横穴式石室である。竪穴式石室で最も規模の大きい1号墳は長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さ0.76メートルである。2号墳石室は全長3.36メートル、玄室の長さ2.05メートル、幅2.02メートルの平面方形で、短い前庭側壁がつく初期横穴式石室である。玄室(げんしつ)の右側壁に沿って板石が立てられ、幅約0.6メートルの屍床(ししょう)が設けられている。出土遺物は1号墳が石室内から鉄剣2口・刀子(とうす)1点、2号墳が石室内から鉄剣3口・鉄矛(ほこ)1点・刀子1点・カン子形鉄器1点・鉄斧(てっぷ)2点・釶(やりがんな)1点・鉄鎌2点・鉄釧(くしろ)・勾玉(まがたま)7点・管玉24点・小玉499点・琴柱(ことじ)形石製品4点・砥石1点、6号墳が石室内から刀子1点を出土している。久保泉丸山遺跡古墳群の石室及び一連の出土遺物は、5~6世紀の佐賀平野の発達した古墳文化を代表する質の高さをもち、また移設された石室は野外博物館的施設として歴史教育の面からも大きな成果をあげている。
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浄円寺のイチョウ 一株
天然記念物
イチョウは中国原産の落葉高木で顕花植物の中で最も古い時代の木で、生きる化石といわれ、花粉から精子を出すので有名な木である。浄円寺のイチョウは境内にあって推定樹齢約370年、目通り4.40メートル、樹高30メートル、枝張り20メートル、根本から15メートルの高さまで幹が垂直にのびている。今日なお樹勢も旺盛で佐賀市内における、巨木として価値が高い。なお、イチョウは昭和54年(1979)4月1日に佐賀市の木として制定された。
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大小野の石楠花 一株
天然記念物
大小野(おおごの)は久保泉町から神埼市脊振町に至る途中の山麓地帯に位置する。 民家の庭先を流れる細い谷川の側に植栽されている石楠花(しゃくなげ)は、推定樹齢400年、根回り3.5メートル、樹高2.8メートル、枝張り9.1メートルで根本のところから多くの枝が分岐し、枝葉のすそは地面をはうように広がり、清流を覆った形で四百年の樹齢を保ち続けた最適な場所にあり、佐賀市近郊では珍しく大きく成長した名木のひとつである。4月の開花時期には樹勢にふさわしい淡紅色の花を一面に咲かせ、植物上も賞美に値するものである。
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乱斗山古墳群
史跡
金立山麓の金立川流域に、古墳時代の6世紀後半~7世紀前半に築造された黒土原古墳群、金立社中宮付近古墳及び乱斗山古墳群がある。これらの群集墳のほとんどは横穴式石室を内部主体とする小円墳である。他地域にも、これに類するものが存在していたが、一部を残してほとんどが消滅している。 このような状況のなか、殊に乱斗山古墳群は、壊されずにその特徴を留め、良好な状態で遺存している。現在確認できる円墳は4基である。 その特徴は、 ・巨大な石材を使用して石室を構成した巨石墳。 ・石室の巨大さに比べて封土は小さく群集墳をなす。 ・石室は、単室もののほか奥室と前室の2室を有する副室墳。 ・内部主体が整備され、外郭の封土より内部の石室構成に重点が置かれている。 などである。
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高麗人の墓碑・逆修碑
史跡
『葉隠聞書』第三に「有田皿山は、直茂公高麗国より御帰朝の時(慶長3年-1598)宝になるべくと候て、焼物上手頭六、七人召し連れられ候。金立山に召置かれ焼物仕上り候。其の後、伊万里の内、藤河内山に罷り移り焼物仕上り候、それより日本人見習い伊万里有田山方々に罷り成り候由」とある。 この聞書の金立山は、現在の佐賀市金立町の大門で、この内容を裏付ける史跡として、2基の石碑が建立されている。 高麗帰化人の墓碑で、「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之」、右側に「道清禅定門寛永六年已巳八月日」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり、他の一基には「暁月禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。 この墓碑は、16世紀末李氏朝鮮国の陶工団によって、陶磁が焼かれていたことをうかがわせていると共に肥前磁器の源流を究明する上から貴重な墓碑である。
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金立神社上宮
史跡
金立神社は、平安時代の貞観2年(860)に従五位下を授けられたことが正史に見える由緒の古い金立神を奉祀する神社であって、鎌倉時代には社領10町歩を保有し、江戸時代には雨乞いに霊験のある神として、佐賀藩主をはじめ広く人びとに崇敬されていた神社である。 祭神は、保食神(うけもちのかみ)・罔象売女命(みずほめのみこと)・秦の徐福の3神である。 「湧出御宝石」と称される巨石や巨木などの自然物を神の依代(よりしろ)として崇敬した神社形態が整う以前の古い祭祀の名残りをとどめる県内では例の少ない信仰史上極めて価値の高い祭祀遺跡である。 また、一間社流造りの神殿や入母屋造りの拝殿は、その造立年代は新しいにしても県内では類例のない大規模の石殿として、石材工芸史上注目すべき価値を有している。
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葉隠発祥の地
史跡
現在、山林及び畑地等となっていて、葉隠の口述者山本常朝が隠棲(いんせい)した朝陽軒(ちょうようけん)(のち宗寿庵(そうじゅあん))等の遺構は残っていない。 ただその跡に「大乗妙典一千部」石塔があり、それより東方100メートルほどの所に「常朝先生垂訓碑」が建てられている。 元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒(のち宗寿庵)に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自已修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈(だいしょうくま)での口述と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが葉隠11巻である。 千部経塔は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂の夫人が亡夫追善のために法華経一千部を自読した碑で「大乗妙典一千部、元禄十四年辛巳年始繙之而至正徳二壬辰年五月十六日圓満修」と刻まれている。 「常朝先生垂訓碑」は、昭和10年(1935)10月に建設されたもので、碑面の文字は武富時敏の書で、碑文は西村謙三の撰を中島雅明が書いている。また、碑の背面には、「憂世から何里あろうか山桜」「白雲や只今花に尋ね合ひ」の句が記されている。
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絹本淡彩金立神社縁起図 一幅
重要文化財
金立神社縁起図は絹布3枚継ぎで、縦181センチメートル、横107センチメートル、軸装である。画面は上・中・下の3段に分けられ上段は金立神社上宮の景観、中段は金立神社下宮、下段は徐福上陸の場と3部から構成されている。大和絵に近い筆法であって細密に描かれ、多くの人物を配して動的に画面を展開させている。 金立神社の祭神にちなむ徐福伝説を描き、金立神社上宮の景観と信仰関係の遺跡を詳細に描写している。箱書によれば正保5年(1648)に鍋島茂笵がこの縁起図の箱を新調しているが、絵の構図や色彩等から見て、また現在金立神社下宮に移されている「蓬來島本地弁才天」の石造から考えて、この図は箱が新調された正保年間ごろの作成になるものと推定される。 一部に汚損の箇所があり、やや褐色がかっているが、神社や寺院などの縁起図としては県内所在のものとしては最もすぐれたもののひとつであり、近世絵画としてもその価値は高く評価されるものである。また、古い由緒を持った金立神社の信仰を研究する歴史的資料としての価値も高い。