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[旧佐賀市][高木瀬校区]は59件登録されています。
旧佐賀市 高木瀬校区
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歩兵第55聯隊
明治41年10月より大正14年5月まで、佐賀には陸軍歩兵第55聯隊が配置されていた。 今の国道263号線をはさみ東に兵舎、西に練兵場があった。その面積実に40町歩、東高木、八丁畷、下高木にまたがっていた。兵舎の敷地は現在の日の出1丁目の公務員宿舎、旭ヶ丘、市立若葉保育所、警察学校、国立病院のある所、練兵場は県営総合グラウンド、農林省農業土木試験場佐賀支場のある所である。 土木試験場の敷地内には、国道に面し、55聯隊記念塔がある。 「この記念塔は、主として55聯隊に在営した将兵に依って昭和29年に結成された55会の手によって、建設されたものである。ちなみに会長は元陸軍大尉、旧制佐賀高等学校教官であった、神野町在住の副島英彦氏である。」 さて、55聯隊の歴史を顧みると、聯隊の誕生は実に明治38年にさかのぼる。明治37、8年我が国は当時としては国の存亡をかけて大敵ロシヤと戦った。国を挙げて総動員の秋、明治38年4月17日、宇都宮第14師団、第28旅団の下に歩兵第55聯隊が編成された。初代聯隊長は東郷八郎左ヱ門、6月13日軍旗授与、じ来次のような軍歴を経過した。 歴代師、旅團長、聯隊長 師團長 旅團長 聯隊長 第一代 土屋 光春 児玉 軍太 東郷八郎左ヱ門 明38・4・17就職 第二代 鮫島 重雄 今村 信敬 倉田 新七 明42・11・30 第三代 本村 有恒 堀内文次郎 渡辺小太郎 明45・1・19 大2・1・4死亡 第四代 大迫 尚道 武藤 信義 長堀均之助 大2・1・15 第五代 神尾 光臣 山田良三郎 古賀 義勇 大5・8・6 第六代 柴 勝三郎 坂本政右ヱ門 大9・7・20 第七代 高山 公道 渡辺 寿 佐々木久雄 大11・8・15 第八代 金谷 範三 大村 純英 須田 実 大12・8・6 第九代 中村四郎太 広瀬 猛 五五聯隊は、大正14年からは、歩兵第四八聯隊の第3大隊が駐屯するに過ぎないことになった。然し第3大隊が久留米に移駐するに伴い、高射砲第4聯隊が設置されるようになった。佐賀県人会報という雑誌の、昭和10年10月号には同年7月30日に、このことが官報で発表されたと述べており、当時の古川県知事の喜びの談話が載せられている。高射砲第4聯隊のその後の経過は不明であるが、昭和18年4月、広島から電信第2聯隊が移駐して来て、部隊名は67部隊といい、部隊長は池田増雄大佐であった、(これは野口勘三郎翁記念碑落成式招待の来賓名簿で明らかである)、それが194補充部隊と変り、終戦当時まで続いた。最後の聯隊長は大田千太郎大佐であった。 これより先、昭和12年支那事変ぼつ発するや、佐賀を中心に柳川兵團が編成され、なお又佐賀市郡中心に藤山部隊が置かれた。大正14年以来宮中に奉還されていた軍旗が、その藤山部隊の軍旗として下賜された。有名な杭州湾上陸に、勇名を馳せ後各地に転戦、広東作戦、バイヤス湾上陸コタバル上陸等、幾多の作戦に参加した後、光輝ある五五聯隊の軍旗も幾万の将兵と共に最後はビルマ戦線において玉砕したと伝えられる。 さて昭和20年終戦と同時に、陸軍省は廃止され、兵営も大蔵省所管となった。終戦直後軍政が施かれ一時米軍が進駐していた。軍政部の高級将校達は、市内の民間の高級住宅を接収し、兵員は此の兵舎に駐屯したのである。その間米軍の不法行為、脱走兵の悪戯などもちょいちょいあったそうである。米軍撤収後は、海外引揚者の県営の集団住宅に供せられ、協楽園と名づけられた。 高木瀬村においても、元被服庫跡を授産場に充て高木瀬中学校を敷地内に建設した。協楽園駐在所、協楽園小学校も出来た。その他県の警察学校、農林省土木試験場、通産省石炭事務所、佐賀市消防署高木瀬出張所なども出来、練兵場は県の農業試験場となり、後総合運動場、射的場は金立開拓団として解放され、衛戌病院は国立佐賀病院となった。 ※記念塔は2019年にSAGAサンライズパーク整備事業のため、総合体育館西駐車場へ移設している。
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高木八幡宮御神刀
(宝剣の銘文) 奉納高木八幡宮 享保三年戊戌天九月吉祥日 敬白 肥前国 遠江守藤原兼廣 兼広(廣)は初代が大和大掾で、二代が遠江守。2代兼広は、寛永20年(1643)生まれ。 没年不詳。元禄11年(1698)に遠江守となった。 初代忠吉(鍋島家お抱えの刀鍛冶)の異母弟である広貞の曾孫にあたる。
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雅楽(おんがく)
昭和7年高木瀬町坪の上、淨満寺住職の指導を受けて、始められ現在に至っている。地元では、「おんがく」といわれており、毎年、地域の敬老会で演奏されているが、そのほか葬儀のほか出演依頼があるが、可能な限り引き受けている。 構成は、カッコ、タイユ、テキ、ヒチリキ、ショウ、カネの6人であるが、団員は13名で、後継者の指導も行われている。
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平尾天満宮奉納相撲(もちすもう)
平尾天満宮の祭りの中で、毎年10月25日又は、25日に近い日曜日に奉納されている。当日は、午前中に神事が、午後に奉納相撲が行われ、土俵作りのほか境内に御幣を飾り、新米で餅つきが行われ、餅相撲であるため、参加者に餅が振舞われる。準備はすべて平尾自治会で行われる。 最近は参加者が少なく、小学生が中心で行われているが、戦前は高木瀬以外からも多くの参加者があり賑わっていたが、現在は参加者が減少し、女性にも参加してもらっている。
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佐賀導水事業
佐賀導水事業で特に重要な役割を果たすのは、洪水調整の役割を果たすことであり、高木瀬町平尾や小里地区の地権者も含まれていた。 巨勢川調整池は、金立町友貞220万㎥の調整池を設置して、嘉瀬川に毎秒30㎥を、また、巨勢川には毎秒70㎥を強制排水する施設である。 ・ 事業計画の推進は、昭和40年後期から地元説明が始まった。 ・ 昭和49年に、国、県、市と共同で「沖田地区営農改善排水対策協議会」が、設立された。 ・ その後、付近の地下水位調査、一筆調査など一連の事業や調査に地元の了解が得られ、平成元年から用地買収交渉が始まった。 ・ この工事は、建設省(当時)の直轄工事として進められた。 ※ 旧佐賀市は、洪水が発生しやすい地形であり、平均標高がほぼ3mで北に脊振の山並み、南に有明海を抱いている。 北の脊振山系は、ほとんど花崗岩系で保水力が乏しく、雨水はすばやく旧佐賀市内方向に流れ出す。また、南の有明海は、干満の差が日本一でほぼ6mもあり世界でも5指に入る高潮の海だから、満潮時には海水が旧佐賀市内の方に逆流する。だから、旧佐賀市内を流れる主要河川には防潮水門を設置し、北方面から流入する排水を導水事業で、嘉瀬川に30㎥、巨勢川に70㎥を北の方でカットするための事業である。
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為朝の池
高木八幡宮の門前に小さな池がある。鎮西八郎為朝が九州下向の折、高木八幡宮前に陣を移動していた頃、五月雨が降り続く中、この池に蛙が数多く鳴いていた。為朝が「穴姦し鳴くな(アア ヤカマシ ナクナ)」と一声放つと、蛙は忽ち鳴きやんだとあり、是より為朝古来民施池と呼ぶようになった。 また、八幡宮西の方数十mの所に為朝を祀った為朝廟という社もあったという。これを無格合祀により八幡社と合祀した。現在、八幡宮神殿の東北に古びた石祠が残っている。 この為朝の池には花が植えられ、立花家観音と共に地区の人たちで大切に保存されている。
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高木の大楠(クスノキ)
高木八幡宮境内の楠木で、樹齢は400年以上である。 高さ22m、幹周り5.6m、枝張り22.5mで、平成17年4月21日付け、登録番号0127290番で佐賀県知事から「佐賀県名木・古木」に登録されたことが通知されている。
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高木のムクノキ
高木八幡宮境内のムクノキで、樹齢は450年以上である。 高さ15m、幹周り3.5m、枝張り15.0mで、平成17年4月21日付け、登録番号0191059番で佐賀県知事から「佐賀県名木・古木」に登録されたことが通知されている。
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高木氏
東高木の通称郷倉という所に、「高木城の跡」という標識が建っている。鎮西屈指の豪族として盛えた、高木氏の居城の跡である。 高木氏は藤原累代の豪族であって、大織冠鎌足の正統、中関白藤原道隆公の後裔といわれる。公の子文家及びその子文時何れも、中納言太宰師であった。文時の子文貞は右近衛中将、その子季貞は太宰の大貳であった。このように代々太宰府の官吏であり、又肥前国龍造寺の地頭職となった藤原季家という者もあった。要するに、太宰府の役人であった藤原一家の者が、この地方に土着、勢力を張り附近を支配するようになったのが、高木氏の起りである。 佐賀郡誌にも、清和天皇の頃より、国司は遙任の風を馴致し、介、椽等の府吏地方に勢力を得るに至った。本郡にもまた府吏より家を起して一方に雄飛する豪族を出した。その主なるものは北方に高木氏あり。と書いてある。 季貞の子、貞永というのが越前守と称し平家残党追討のため、この地に下向して高木の地に居館を構え、その長子宗貞の時から、所の名を取って高木氏と号するに至った。 鎮西志に貞永に三子あり。長を宗貞と日ふ、肥前に在り、高木氏を始む。其の虞を以って氏號と為し、兼ねて河上社の宮司職を掌る云々とある。 藤原季家が肥前龍造寺の地頭職に補せられたのは、文治2年(1186)9月27日とあるから800年近くも前のことである。 このように貞永の時代から高木に居城を構え、その守り神として高木八幡宮を創建し、武威を四方に拡大した。 高木宗貞は肥前守と称し代々国府執行の職にあり、在廳国司の謂にして、於保郷を知行す。ともあるから、高木地方のみならず、川上の於保地方にも領地を持っていたのである。また宗貞は、河上社の宮司をも兼ねていたのであるから、上佐賀一帯が高木の支配下にあったということができる。そして草野、北野、上妻、於保、益田、八戸、笠寺、長瀬、富崎、龍造寺等の家系として、発展して行ったのである。 越前守貞永が、八幡社を創建したことについては、別稿八幡社のところで詳述のとおりである。 又鎮西志に「正嘉元年(1257)北條時頼、薙髪して道崇と號し、肥前国佐嘉郡北原河上社に至る。祭祠の日か、詣りて神前に参り、高木氏の社参に遇ふ。高木氏は上佐賀、諸縣の若干地を領地して勢の有る者也。本地は甘南備峰、居館は高木邑、特に當社の宮司職たり。騎卒多勢、列々詣づ焉、修業する者社邊を徘徊す。或は之を迫ひ、或は之を將ゐ、其の場に引きずり、卒を以って遂に之を退く。其の所為太だ無礼也。亦且つ高木氏の駕する所の鷲泥、衣袍に及ぶ。道崇蜘○して本所に還る。夫れ高木氏は、上佐賀の所領を削られ、其の地を以って、国分忠俊を封ず。今朽井鑰尼(鍵山)と稱する。云云とあり。 思うに、北条時頼が姿を変えて地方行政を視察するため諸国行脚をした折、このように高木氏の郎党共が、高慢無礼の所行があり時頼の装束まで、汚泥をつけてしまった。その非礼の責任のため、後々上佐賀の所領を削れたのであろう。そこで、鎮西志には、室町以後、此の氏、何によりてか、南北朝以後大いに衰へ、永享6年(1434)、嘉吉元年(1441)などに僅かに見ゆ、但し天文(1530-)の末年に、高木能登守鑑房、同胤秀等あり。東西高木と稱して猶存せしが鑑房、龍造寺隆信に誅戮せられ、全く亡ぶ云云とある。 高木氏は、太宰少貳の系統であったから、文永、弘安所謂元寇の役の時にも、少貳氏の指揮下に在って国難に当った。高木一族の高木伯耆守六郎家宗、国分弥次郎季高、於保四郎種宗等は大いに戰功をたてた。 鎌倉幕府が滅びてからは、朝廷側の菊池氏と戦ったが中央の形勢が非となるや態度をかえて北條を攻めて探題を自害せしめた。後醍醐天皇の皇子尊良親王下向の際はまた反朝廷側につき高木伯耆太郎という武將もこの方に味方した。南朝北朝の覇權爭いの時代、いつも少貳氏との旧縁で、北朝の將軍方に属していた。征西將軍懐良親王が九州に、出征されたときも高木氏は反宮方であって、勤王方の菊池氏と戦っている。 天文22年(1553)龍造寺隆信と鑑兼(隆信の妻の兄)との同族の争のときには、高木城の高木鑑房同胤秀は鑑兼の方に加担した。高木胤秀は西高木城主といわれている。高木の系統である八戸宗暘も鑑兼の方についたが、宗暘の妻は隆信の妹であったから八戸氏とは和議が成り立った。 天文23年(1554)3月、隆信は高木城主・高木能登守鑑房を討つべく兵を進めた。元来高木と龍造寺は同系であり共に少貳氏に属していて、今まで相争うことはなかった両家に角逐が起ったのはこれが初めである。鑑房は隆信の軍を三溝に迎え、防戦したが戦利あらず、去って杵島郡佐留志の前田氏を頼って落ちのびた。 近世に至って、東高木家より、佐賀戦争や西南の役に参加した、高木豹三郎の名がある。その子誠一郎・高木背水は明治10年生れ昭和18年に没したが、洋画家として名を残した。明治天皇の御肖像を初め、多くの名画を残した。明治天皇の御肖像は、背水師の原画に基づくものが多い。背水画伯のことについては高木背水伝や、佐賀史談昭和48年7月号に詳しい。西高木家からの系統は明治の初期東京控訴院検事長であった、高木秀臣、東大国際法の教授であった法学博士高木八尺氏などがある。 高木城跡、八幡社、正法寺門前等にある由緒碑は、昭和16年11月この高木背水氏と高木良次氏が建てられたものである。 高木城はどんな規模で又その広褒はどうであったろうか、記録等何一つ見当らない。又東西の高木に分れていたものの、その城跡、居館の跡も定かでない。郷倉から少し離れた田圃の中に、一つの丘陵があったが、四周から削られて今はほんの数坪ばかりの土塁があるが、ここには熊野大明神が祀られている。こんな所や、東高木、上高木、下高木、寄人の地域に、館、馬場先、櫓の下、前櫓、西櫓、守垣、垣元、門之内等の地名が残っているから、そんな所が高木城の跡であろう。又館橋から東流する、今は県営水路となっている小川の北側は、横堤といって竹林が生い茂っていた。この竹薮は高木城を隠す役目をしていたという。この点から考えても高木城はさほど大きくない、平城或は館であったことが判る。
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肥前忠吉
肥前鍛冶の中心人物は名匠忠吉である。忠吉家は初代忠吉より11代、初代門人正広家は15代、慶長より明治にかけて、約300年以上連綿として続いている。初代忠吉の門人には、正広、広則、広貞、吉房、吉國、吉広、忠清、行広、忠國等の名工が輩出している。 初代忠吉は姓を橋本、名を新左ヱ門と言い。遠く先祖を尋ねれば、太宰少貳の一族である。忠吉は元亀3年(1572)天下麻のように乱れた時、肥前国長瀬に生る。祖父盛弘、父道弘、龍造寺隆信に仕えて、共に天正12年3月(1584)隆信公島原の役に、薩軍と戦った時、公と共に戦死した。 この時忠吉は弱冠13才であった。13才にして主家は敗れ、父祖を同時に失った、世にも不幸の少年は己むなく武士を捨て、一族の刀匠に就て鍛刀の術を学んだ。学ぶこと13年刻苦精励の効空しからず、はるかに師を凌駕するようになったが、なお忠苦その意に満たず、25才の時、笈を負うて、京に上り、当時新刀鍛冶の祖といわれた名匠埋忠明寿に師事し、専心研究3年にして秘伝を伝授されたという、天性又非凡であったというべきであろう。 忠吉は元和元年(1615)再度上京し同10年2月18日武蔵大椽に任ぜられ、以後名を忠広と改めた。寛永9年壬申(1632)8月15日病を以て没した享年61才(鷹木隆城氏著作に依る県人会報昭10、7月号) 子孫は分家筋に当る河内大椽正広の後裔に当る橋本正敏氏が佐賀市長瀬町に橋本宗人氏が高木瀬町城北団地に居られる。 ちなみに、昭和50年1月22日附佐賀新聞に依れば、初代忠吉は、京の埋忠明寿の門に入る前に、加藤清正のお抱え鍛治であった熊本県玉名市伊倉の田貫善兵衛に弟子入していたことを証明する古文書が橋本正敏氏宅から発見されたということである。
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佐賀戦争に参加した高木瀬の人
明治7年(甲戌)の佐賀戦争については、江藤新平伝その他沢山の著書もあり、戦争後100年目に当った昭和49年には、テレビ、ラジオにも取り上げられ、殉難者の100年記念特別慰霊祭も行われ、江藤新平記念碑の建立計画も発表された。 当時の佐賀にとっては、佐賀戦争はどこも、ひっくり返るような一大騒動であったろうと思われる。直接戦闘に参加しなくても人夫にとられたり、直接間接生命財産の不安にさらされたことであろう。 高木瀬の人で、佐賀戦争に参加した人々は果して何人であったろうか。今までに判明している人々は次のとおりである。 佐賀戦争に参加した高木瀬人 長瀬 石井貞興 櫛山叙臣 高木貞光 寄人 石井周蔵 東高木 池田清兵衛 垣内房諧 高木村十四番地 横尾俊一 下高木 久富梅之允 板谷雄平 古賀廉造 上高木 江副新吉 原口寿七 平尾 西川種近 松原町 高木豹三郎(高木城主高木家の子孫) 地区不詳 市川本章
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石井貞興
石井貞興は天保11年3月生、佐嘉藩士櫛山彌左衛門の長男、幼名竹之助、後、本家石井忠克の嗣と爲り、石井貞興と稱す。少壮、枝吉神陽、石井松堂に就て經學を修め、且つ意を武技に留め槍術馬術は彼が得意とする所なりと云。戊辰之役、奥羽征討軍に従軍と記録あれば、家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、奥羽二十餘藩聯盟の佐幕軍と戦ひし事ならむ。明治3年冬佐嘉藩少参事に任ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令の施行に伴ひ、改めて佐賀縣權典事に任ぜられ、幾何も無く佐嘉縣大屬に任ぜらる。廢藩置縣後、新に任命せられて赴任せる知事、参事、縣内の事情に晦く、実績擧ぐる能はず、然れば縣政百般の運営は皆石井氏の司る所にして、陰然佐賀縣の実權を掌握せる由。明治7年2月、風雲急を告ぐるや、征韓黨の帷幕に参じ、首謀江藤新平を輔け畫策する所尠からず。殊に彈薬の供給、兵糧の確保等軍需物資の運轉に萬全を期せし、其功偏に氏の手腕によるものなくんばあらず。戰敗れて薩摩に奔る。薩の梟勇桐野利秋、非運を憐んで之を庇護す。丁丑之變に際曾、貞興、慨然、知己の恩に報ぜんと欲し桐野利秋に随ふ。此を以て薩軍奇兵隊總監軍に擧げられ、各所に轉戰大いに官軍を撃破せるも、後半に至って戰況利有らず、遂に日向に退き長井村の重圍を突破して、深夜可愛嶽の天嶮を越ゆるに際し、貞輿過って深壑に陥り意識を失ふ。官軍の兵来りて之を捕ふ。9月5日長崎に送られ、10月26日、元麑島縣令大山綱良等と共に斬に處せらる。享年35なり。
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石井周蔵
石井氏世々佐嘉藩士、周藏、天保12年を以て生る。少壯弘道館に學び規定の科程(小學、大學、論語、孟子、中庸、詩經、書經、易經、禮記、春秋)を卒ゆ。最も新陰流兵法に錬達せりと云。其系譜分明ならざれ共、藩の指南番吉村幸太夫(柳生直門)に就て學びしに非ざる歟。戊辰の役に従軍、事情行動皆石井貞興に於けると同じ。明治4年7月廢藩置縣の施行に伴ひ、佐嘉藩は佐賀縣と改まるや、佐賀縣五大區の副戸長となり、専ら民政に盡力しつつありしが、岩村高俊、新に佐賀縣權令に任ぜらるるや、熊本鎭臺兵300餘名を具して、佐嘉城を占據し、佐賀縣士族討伐に着手せり。周藏之を見て大いに怒り、直ちに戸長石井源三と謀り壯士300名を召集し、武装隊伍を編成し、征韓黨の亞者(首謀の次位)西義質を訪れ參戦の希望を陳ぶ。義質大いに喜び一等斥候を委囑す。周藏、勇躍その率ゆる所の300名を指揮し朝日山に馳せ、征西官軍總司令官陸軍少將野津鎭雄麾下の軍、大阪鎭臺歩砲兵1400餘名を轟木安良川に邀撃し大いに之を破る。爾来各所の戰闘に善戰健闘せるも武運に恵まれず、遂に敗れて官軍に捕はる。官軍の將、周藏の強剛なりしを知り、その罪重しと宣言し懲役5年に處す。出嶽後は望を現世に棄て、風月を友とし讀書に光陰を消す。時々出で、佐賀中學校の青少年に剣術を指導す。明治末年易簀。その長男、大正末期小城中學校教頭石井時太郎(昭和22年歿)、次男、大正中期佐賀中學校長千住武次郎(昭和30年頃歿)。
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櫛山叙臣
佐嘉藩士櫛山彌左衛門の二子なり。弘化元年生。兄貞興出で、石井家を嗣ぎしを以て櫛山家を嗣ぐ、爲人、剛武勇悍而頗る赳々武夫の俤あり。壯年選ばれて崎鎭防衛常額之外、香焼島屯戌壯士隊に編入せられ、鎭西海防の任に當る。戊辰の役に際しては、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に屬し、大番頭鍋島孫六郎の隊に編入せられ、東北の野に轉戰して功あり。凱旋の後、佐嘉藩軍務掛り、國學寮監等歴任。明治4年東京に出で専ら佛式陸軍操練の研究に勵む。明治6年佐賀に歸り、征韓論に注意、形勢を観望しつつ、ありしが明治7年2月佐賀戦争に際曾、敍臣、憤然戈を執って起つ、輙ち征韓黨の領袖、小隊長として各所の戰闘に激戰敢闘せるも遂に一敗地に塗れ、南海に奔竄、高知中村にて縛に就く。懲役3年の刑に處せられしも、後減刑せられ明治9年赦されて出獄。以来、人物全く一變、剽悍の性影を潜め、温厚篤実、地方の教育に専念し、世人に師表と仰がれ、衆庶の敬慕する所なりしが、明治43年病みて歿す。亨年67歳。
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久富梅之允
佐嘉藩士山内某の2子、弘化2年の生なり。後、久富三之允の養嗣子となり、久富梅之允と稱す。幼にして弘道館に學び、略々經史に通じ、又兵學に達す。戊辰之役、命を受け家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、各所に轉戰功有り。凱旋後藩軍の一隊長なりしが、梅之允容貌凄愴にして其性、剽悍、人の畏怖する所。明治4年、公用にて馬関海峡を渡るに際し、同舟の旅人と爭ひ、怒って一刀の下に之を斬殺せる科により永蟄居を命ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令施行以来、漫然世相の變遷を望觀。明治7年2月、佐賀戦争に曾す、席を蹴って起ち、征韓黨一等斥候を委屬せらるゝや、憂國黨の曾軸村山長榮の軍を援く、2月22日出動、官軍陸軍少佐佐久間左馬太の率ゆる能本鎭臺を和泉(江見の西)に邀撃す。この日佐賀軍の攻撃は凄絶を極めしが、就中、久富梅之允の奮戰は敵味方共に瞠若舌を惓けりと云。三養基郡誌、佐賀戰爭の記事に日く(注 官軍の兵力 約1000人 佐賀軍の兵力も約1000人 にて兵力は互角) 《佐賀軍の主力は征韓、憂國両儻の將兵、之に鶴田有本、陣内利武の率ゆる蓮池の兵、之に合し、善戰健闘大いに力む。就中、驍勇絶倫と稱せられし久富梅之允、この日、征韓黨の將として馬を戰場に驅り、太刀を揮って叱咤奮闘するの状、勇威凛烈、官軍の將兵、避易して近づく能はざりしと云。官軍大いに敗れ、筑後川を徒渉し住吉に退却す。》 とあるも亦以而梅之允の猛勇察知し得べし。後各所に奮戰せるも、大勢非にして境原の大激戰に敗るゝや、高木瀬の自邸に歸り、佛前に禮し、養父三之允と死別の盃を交はし、三之允の介錯にて從容腹を屠って死す。享年 30歳。
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古賀廉造
安政6年の生れにはあらずやと思ふ。明治7年佐賀戰爭に際しては、16歳以下の少年武士を以て編成せられし、少年隊に入隊し、憂國黨の司令、大塚左源太の指揮下に各所に轉戰。田手川の激戰には、左源太、壮烈なる戰死を遂ぐる迄終始その叱咤の聲を耳にせりと、親しく余に話されし事あり。戰後、年少の故を以て罪を免ぜらる。以来、司法省法律學校卒業、大審院検事、法學博士の學位を得。内務省警保局長として、全國の警察を統轄指揮するに當って、その彈壓、辛辣を極めしは有名なり。貴族院議員に勅選せらる。拓殖局長官を最後に、總ての官公職を辭し、千葉縣御宿に陰棲。昭和9年の秋、飄然、萬部島招魂場を訪れ、記念碑參拝の後、鯱の門に至り、城壁、石壘を指示して、往年接戰奮闘の状を語られしが、今日回顧すれば実に貴重なる実戰談なりしなり。 昭和19年房総の漁村、草庵に、溘焉として逝く、87歳。 昭和癸丑初秋 西陲残叟記 ※古賀廉造の生年は安政5年(1858)、没年は昭和17年(1942)で享年85歳であることを追記する。
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香月経五郎
佐賀戦争と共に忘れてならないのは、極楽寺にその墓がある香月経五郎のことである。 香月は佐賀戦争に亞者(参謀格)として参加し江藤と共に処刑された。 香月は嘉永2年(1849)早津江に生れ、藩校弘道館に入り非凡の秀才ぶりを発揮し、明治2年21才のとき東大の前身たる大学南校に入ったが、翌明治3年文部省の第一回海外留学生としてアメリカ、イギリスで勉強した。この留学も江藤の推薦によるものといわれた。 明治4年、岩倉具視一行の遣外使節団がアメリカに向け出発した。佐賀藩主鍋島直大侯も同行したが香月が直大侯の案内役に当り、イギリスに渡り、直大侯と香月の2人は主從共共オックスフォード大学で勉強した。 香月の専攻は経済学であったが、大学南校の同窓やその指導を受けた人々には、後の東大教授、法学博士田尻稲次郎、枢密顧問官男爵目賀田種太郎、同伯爵伊東巳代次などがあったから、若し命を保っていたなら、わが国の重要な人物になっていた人であろう。 墓は極楽寺本堂の正面にあった。老坊守さんのお話によれば、先代坊守さんから、香月さんの死骸は首と胴を青竹でつないでここに埋めてあるといわれていたそうである。 極楽寺には経五郎氏の甥の陸軍大佐 香月三郎氏の墓もあったが、納骨堂の新築と共に何れも他の場所へ移され、墓石のみが淋しく残っているのは、烈士のために痛恨の極みである。
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蜷打の戦
永和3年(天授3年)(1377)南朝方の忠臣菊池武朝は鋭意肥後の統治に努め、筑後をも従えて肥前に来たり、北朝方の探題、今川了俊を攻めた。了俊はこれを聞いて2月金立山の南麓千布、蜷打に陣して待機した。 九州治乱記巻之四には、「永和3年(1377)丁己二月了俊入道蜷打千布に陣を取り、云々」とある。 蜷打の古戦場については、金立地区の大野泰司氏が昭和31年に金立町の郷土史資料を編纂されているが、その中に、九州治乱記、大日本史、事蹟通幸、菊池武朝申状、葉室親善の申状等を引用しておられる。 それによると菊池武朝は一挙に今川氏を討滅ぼさんものと将士を励まして戦ったけれども、了俊には大内氏の応援もあり、遂に菊池氏の敗戦となった。今川了俊はこの戦勝を契機として勢力をばん回したという。さて蜷打の地名は、金立・春日・久保泉の小字名、田字名には発見されない。ところで高木瀬・兵庫両町にまたがり上渕、下渕、東渕、西渕という地区がある。あるいは蜷打の打が渕と転化したものでないかと思われる。又逆に渕が打と転化したとも考えられる。金立町の千布と、これらの渕地区は、江湖続きであったとも推定できる。平尾川・福島川・市の江川・巨勢川など錯そうし、この附近は昔から遊水地帯で水棲動物、たにしやふなが沢山いたので蜷渕といっていたのがぶちがうちとなり、遂には蜷打と表現されるようになったとも推定される。 千布、念彿橋、徳永川の両側友貞、二又、上渕等に板碑の供養塔が多く見られ、二又には念佛寺という寺もあったという。蜷打の戦で南朝方の植田宮、菊池武義、武安等戦死したとの記録もあり、上渕の彿地蔵にはアラヒトさんとして祀られている神像は衣冠束帯をつけているので、或はこの植田宮を祀ったとも思われる。何れにしても蜷打の戦として、千布、渕一帯に多数の戦死者があったことは想像に難くない。
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土一揆合戦
応仁3年(1469)の夏国府(小城)の地頭職千葉教胤は大村日向守家親を攻めようとして、藤津郡に至り、暴風雨の為軍船が沈没し、不慮の死をとげた。千葉家の嫡流が断絶しようとしたので、同じ氏の右京大夫胤紹の次男胤朝を後継と定めたが、その時の千葉家の執権に岩部播磨守常楽と中村弾正少弼胤明の2人があったが、2人は遂に勢力争いをするようになり、主胤朝は中村のざん言を容れ、岩部を追放することになった。岩部は太宰府の少貳政資にこうて援軍を頼んだ。政資のあっ旋で一時小康を保っていたが、岩部は府中(春日尼寺)に居て、佐賀北郷の土民をぶ育するのに力を注いでいた。 文明元年(1469)9月9日千葉介胤朝は岩部を討つために、仁戸田近江守を大将として府中に差向けた。 然し岩部の恩顧をこうむっていた土民共は、かねての恩に報いるはこの時とばかり郷民、山伏、百姓共、10000余人集り来って、2、3回鬨の声をあげるや、山川そのために震動する程であったという。この勢いに警き仁戸田は思いがけない敵の大勢と思い込んで國府に逃げ帰った。 然しながら、中村は様々のかん計をめぐらして、岩部に加担した土民共をなづけて岩部を府中から追出すことに成功した。岩部は手下の者を連れて一時高木村に居を構えた。岩部は胤朝の舎弟で出家の身となっている妙法院というのをにわかに還俗させて、千葉次郎胤将と名のらせて再び太宰少貳の加勢をこい主家に仇を執しようとした。政資は家人の朝日丹後守、窪甲斐守、武藤左近、江上肥前守等の将兵を差向けて岩部に加勢した。中村はこれを聞いて、一死を覚悟し、11月14日軍兵を引き連れて岩部の陣する高木村に押寄せた。土地の百姓などは正法寺の鐘を打ち鳴らし、雲霞の如くに集り来たり、遂に中村を真ん中に押し囲み所々に火を放って散々に戦った。中村は戦利あらずと見て、水上山に退いたが岩部は勝に乗じて追いかけ、山田、大願寺のあたりで中村を討果した。 岩部はなおも大将胤将を擁して国府に押寄せ城下の町、村里を焼払ったが、主に弓を引いた報いか、最後は岩部一族30人太宰府よりの加勢の者400余人ことごとく討たれて、大将胤将は遂に金立の方へ主従僅かの人数となって落ちて行った。国府軍は勝に乗じ、府中を取りかこみ、火をかけたので由緒ある国分寺の大伽藍、大昌寺(聖武天皇の御願、行基菩薩の建立)善光寺、宝積寺、北禅寺など皆兵火にかかって炎上したという。この乱を土一揆合戦という。
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天満宮御神力
大永年中(1521~1527)のことであるが、社内左の老松の脇に樗(おうち)の大木があり、根元は三丈程で末の方は三本の股がある。此の股の下の中程に洞があって、この内に龍の様なものが住んでいて、時々外に出るので、村人も恐れてお詣りする人もなくなった。 そこで惣之市(神主ヵ)の役目をしているのが宮に参詣し、悪龍退散の祈念をしたところ、神の御受納があり、三日の内に不思議にも天地一度に震動し、雷が三本の股の中に落ちかかった。 この三本の枝が三方に飛んで、一本は高木村大路に、一本は当村の東天神ノ木という所に、又一本は西長瀬村に落ちた。この枝で太鼓の胴を作ったのがあるが、おおかた一抱之半程もあるのである。これで右の悪龍も影も形もなくなったが、雷が落ちかかった跡は老松の木の片側をかきほがしているし、又五重の塔の宝珠をつかみ割って、今もその跡がある。 又、神力の広大なることについては、 永禄8年(1565)、豊後の大友宗麟はデウィス宗を広めるため、大友吉広を当国に指しつかわし、北山より侵入して、東・西・南・佐嘉郡の寺社・民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。 さてそのとき当所北長瀬の内の南道曲(ぐるり)にて合戦があり、佐嘉勢は城内大手門に退却した。この時城中においても、和戦の論議二つに分れ、宗麟へ降参すべしという者もあったけれども、鍋島直茂公断固これに反対し、城中心を一つにし、賊徒いかに大勢なりといえども、これを踏みつぶせ、深謀勇戦したならば、勝利は期して待たれようと御命令あり。この命令を堺駿河守並びに橋本右京助両人が城中に近侍していて、ともに承りたりという。 その合戦のとき、当社を大友吉広の本陣と定め、佐嘉城を攻めとらんと、その兵勢雲霞の如くであった。ある時先陣を多布施口に派遣した。一方鍋島方では大手口の固めには飛騨守直茂公、白山口の固めには納富常陸守が当った。両陣が未だ一戦を交えないとき、吉広、当社の御神体を紅梅の木の下に取出し、自分自身が神殿に入ろうとして一足踏み入れんとするとき、忽(たちま)ちアット仰天打ち倒れたのを、拝殿に居た近侍の者抱き起したるところ、吉広が云ふには、 神殿に入るのはけがらわし、神のすみかを汚したる故これを誅罰する、 と自ら神移りして御神託と云いながら、そのまま又打臥してしまった。 それで一同拝殿に退いたけれども、吉広は尚人事不省となったがために、近侍の者もこれはてっきり御神罰である。速に社頭から立去ろう。さりながら、陣払とて軍をまとめて立去るときは、何物も焼払うのが軍の掟である。但し、この度は吉広の命を相助け下さるならば、陣払は致しますまいと、誓ったところ、吉広俄に眼をあけ、陣払するならせよ、好きなようにせい、と御神答のままに答えて、又もとのように人事不省におちいった。その外近侍外様の数人も、身ぶるい、立ちすくみするような天罰を被ったので、近辺の藤之太輔の森に引き退いたが、後吉広は終に神埼において死んで終った。 大将吉広はこのように神罰によって相果てたので、多布施口、白山口まで進んでいた敵勢も神埼をさして退却した。 吉広が未だ死なない以前に、寿命安穏のため神埼から当社へ鎧一両、鑓一本寄進しようとして佐賀まで使者を遣したるところ、この使者が古き鎧、鑓に取替え奉納したという。ところがこの使者も佐賀にて死んだという。吉広が社内をあらしたる神罰不思議なる次第を第一に見届たのは神代家家来、古川佐渡、堺新左(※右)衛門である。右両人の者は偶然の事情によって、よくよくこれを見届けた事である。 大友八郎晴英(※親貞)それより3年目に、伯父のかたき取りとて、今山に来襲したが、却って首を成松遠江守(信勝)に取られた。右吉広はこの八郎の為には母方の伯父であったが、その哀れなる最後も天神の御神罰の末であると伝えられている。 右の様ないわれを勝茂公聞し召され、元和5年(1619)社殿御修造の棟割書がある。又再造奉祝文には「大檀那鍋島信濃守藤原朝臣勝茂 惣奉行鍋島主馬焏藤原茂照 小森角右衛門 大工岡本三右衛門」此の外社役が書き記してある。 ※写真は長瀬天満宮
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長瀬天満宮の苗琳坊
当社座主は苗琳坊、開山は堺主斗頭二男康一法師の孫である。初の天台宗の僧となり、苗琳坊を建立しその座主となり数代は清僧で相勤めていたが、後になって妻帯僧となって三代程続いていたが、神前の勤めを、疎そかにした故に、神罰を被り、寺地の在家となったが慶長元年(1596)に苗琳坊も絶えて終った。元は天台宗であったが近代は真言宗となっていた。 この由緒記のことについては、専門家でないとよく判らないと思うが、往時神仏混淆の時代があり、神社は多く寺院の支配を受けていてこれを抱え宮といっていた。冒頭の祭神の如きも、天照皇太神が大日不動、天満天神が地蔵文殊、福午大明神は弁財天毘沙門となっている。従ってこの天満宮も苗琳坊の下に所属し、坊の住職が神主を兼ねていたと思われる。苗琳坊廃絶の後は、西長瀬の法常寺が長瀬天満宮と若宮神社を抱え宮としていたという記録もある。 最末尾の宮司坊以下の記述は何とも判断し難い。宮司坊というのは苗琳坊と同じように末社関係の坊であったかも知れない。今は社役を離れているが筋目正しい続き柄であるから何れ時節到来の節は、社役に就かぬばならないということであろうかと想像される。 尚右の永禄年中の戦については鎮西要略及肥陽軍記に次の様な記述がある。 鎮西要略云。 永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之 肥陽軍記云。 永禄12年大友勢佐嘉城を囲み攻め城北は長瀬三溝まで取詰めたり。4月6日城中より百武志摩守の手の者三溝長瀬へ突出で一戦に及びけれども利あらず帰城す。
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布巻観音
長瀬天満宮境内には、布巻観音さんという観音さんを祀った観音堂がある。 観音堂は間口、奥行共に2間、高さ3間の正方形のお堂で立派な木材で建築され、屋根裏の垂木は二重の流れとなっている。屋根の材料は芦であるが、今はトタンで覆われている。静かな天満宮の裏手にどっしりと建っているお堂を眺めていると飛鳥、大和路の古寺を訪れた感じになる。昔はよほど遠い所からもお参りがあったものと見えて、堂内の壁には熊本県、福岡県の人の落書も見られる。 布巻観音については色々の伝説がある。長瀬天満宮由緒記にあるように、筑前の国布巻の原にあった観音様を大友の一族が北山まで持ち来り、後これを龍造寺の家中駿河守宗吉法名正伯という人がここに移した。布巻の原から移されたものであるから布巻観音という説と、もう一つは神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる伝説である。それによると、神埼郡脊振村鳥羽院は元絹巻の里といった。この絹巻の里及びそこにあった絹巻観音についての伝説に関しては郷土史家栗原荒野氏が昭和5年10月22日以降毎日新聞婦人欄に肥前女人風土記 絹巻の里として稿を寄せられている。すなわち、神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。絹巻の里この女らしい地名のおこりは何か、いわれがあるにちがいない。そのいわれはこうである。 昔脊振の山里に父と娘と2人住いの貧しい家があった。父は間もなく後妻を迎えたが、それは娘にとってはつらい継母であった。しかし邪険な継母にしいたげられて泣かぬ日はない小娘の心にも一つの慰みはあった。それは観世音の名号を唱えることであった。継母は娘が朝廷に献上する織物が織れないといって娘を折かんし、絹織物の巻板を娘の背に結びつけてとうとう追い出してしまった。 とっぷりと暮れた荒野の原を泣く泣くさまよっているうちに、娘は松のしげみの間に一つの燈火を見つけてその家の中に入った。中には一人の美しい女がいて機を織っていた。娘はその美しい女の人から織物の織り方を教って父の元に帰って来た。後で父娘でその美しい女の人にお礼をいわねばと思って尋ねて行くと、その人の家は跡かたもなく消え失せていて、そこには織り上った白絹の布が積み重ねられ、上には背負って来た絹巻の板が置いてあった。さては観音様のお導きであったかと、又娘は山と積まれた白絹の前に観音の名号を唱え手を合せて拝んだ。家に帰ると、今度は継母が居たたまれなくなって家を出ようとしたが、娘は、お母様の邪険も、わたしたちのためには善智識でございました。これも皆観音様の御利益でございます。となだめて取りなしたので、継母もひどく感じ入って邪険の心が直り、親子三人が睦しく裕福に暮すようになった。それからこの里に観世音を祀り、継母が結びつけた絹巻を後光にしつらえて、絹巻観音と崇め、ここを絹巻の里ととなへた。 この物語は、今から260年ばかり前にできた。肥前古跡縁起にも書かれ、長瀬村の天神の本地となったとある。 又昔誰かが絹巻観世音の巻板を盗んで行ったが、川上川の官人橋を通る時、あまりに重いので川の中に捨てた。すると川下の長瀬に一躰の観世音像が流れついた。人々が拾いあげて見ると、像には布を巻いてあったので布巻観音ととなえて祀ったが、その時から鳥羽院の観世音は姿を消されてしまったという。 伝説としては以上の通りであるが、史実に近いものと思われるものに、龍造寺家系の記録及び鳥羽院にある教信寺というお寺の由緒記などから判断すると次の通りである。 昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、鳥羽上皇のために菩提を弔った。 これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。 季慶程の天皇に仕える豪族の武士であるからには、布巻観音のような世にもまれな優れた十一面観音を都から招致し得たことと思われる。栗原氏の記事の載っている新聞にある写真の通り、頭上に十一面観世音を配し、手には蓮華の花を持ち給う姿である。特異な点は、光背の腰のあたりの背面に織物の巻板が真横に添えられていることであって、これが伝説の物語りと一致するのである。 季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。 ところが季慶の孫の季益というのが後に長瀬村に居を構えるに至ったために、教信寺にあった観音様もお移し申上げたと思われる。教信寺由緒記の末尾に、「彼の山は里遠くして、人の通いも稀なりとて、後にこの観音を守り奉り、長瀬村の本地ぞと崇め奉りけり」 とある。 鳥羽院に伝わる伝説、教信寺の由緒記毎日新聞の記録等は鳥羽院出身で、多布施町在住の永渕輔夫氏の所蔵物、助言によるものであることを附記しておく。 この観音様は、機織りの神様、又縁結びの神様として遠近の信仰を集めて有名であった。通称ノノマキさんといっていた。機織の神様であるので、御像の光背には腰のあたりに、真横に筬の形をした彫刻がある。観音様は大正3年(1914)に補修彩色された。 光背の裏に 大正3年10月2日 長瀬村本村中 世話人 中小路 女中 観世音様彩色 彿師 神埼町3丁目 村上広市 糸山清一郎 森永乙次郎 当時代元老 杉町七三郎 宮原彌一郎 田原 鈴蔵 横尾幸一郎 という記録がある。 しかし、数100年前、おそらくは名だたる都の仏師によって作られた尊像であり、お姿も高貴、優美であったがためにか、昭和37年に、心なき輩のために盗難の厄に遭い、今どこにおわしますか行方は判らない。故里の地を離れ給うた、御仏の心はいかばかりであろう。まことに惜しいことをしたものであって、当時の長瀬の御婦人達ははだし詣りの御願をかけて探されたそうであるが未だに行方が判らない。ただ、台座と光背だけが淋しく残っている。でも今は千住喜代治氏より御身代りの白磁の観音像が奉納されている。 西長瀬法常寺の古書には大和町玉林寺の末寺の中に、佐嘉郡長瀬村布巻寺と記載されてあるのもあるが、これは玉林寺の住職によって観音様の供養が行われていたためであろうと考えられる。
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歩兵第55連隊跡地と昭和天皇のご巡幸
歩兵第五十五連隊跡地については次のとおりである。 第五十五連隊の兵舎には終戦の年の10月6日から進駐軍が駐屯していたが、撤収後、佐賀県では戦後外地よりの引揚者、戦災者で住宅に困った人の住宅対策として旧兵舎を改造して充てられた。協楽園と命名し、昭和22年5月7日から人々を収容した。 協楽園に関しては、時勢が安定してくるにつれ、他へ転出したり、村営住宅や市営住宅が建設されてきて、入居者は徐々に減少し、廃止された。協楽園小学校は、昭和38年に高木瀬小学校に統合され、高木瀬中学校は城北中学校として高木瀬西3丁目の現在地に移転した。協楽園の跡地には佐賀県総合体育館や佐賀市文化会館が建設され現在に至っている。 なお、協楽園があった頃、全国をご巡幸中の昭和天皇が昭和24年5月22日・23日にご来県され、協楽園と市立若葉保育所をご訪問されている。その折、昭和天皇がお手植えされた赤松の記念樹は、残念なことに平成20年枯死したそうである。
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龍堀の話
浄蔭寺は元鍋島家の館であった。徳川初期には城を新しく造ることは禁止されていたので、館を寺とし、周囲に堀を巡らし、実は城郭としての役目を果たした。南北に大きな堀があり、また、東西にも堀を造ってあたかも龍が横にはっている形をしていたので、龍堀と言われていた。また、龍堀の伝説として次のようなことが伝えられていた。 昔この地に大きな龍巻が起こった。堀の水が空に吸い上げられて堀の水はからからになったが、その後には龍神の落と子の可愛らしい蛇が1匹残っていた。寺では龍神を慰むるため弁財天を祀った。この弁才天は宗像弁才天といい貞享2年(1685)の銘がある。この伝説は、羽立政雄氏が祖母から伝え聞かれた話という。 このような龍堀も、今や全て埋め立てられて、浄蔭寺南一帯はおおむね住宅地となり、龍堀の跡を想像することが出来ない。
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高木八幡ねじり浮立
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正法寺文書 三十二通
重要文化財
正法寺(しょうぼうじ)文書は、佐賀平野の中央部、現佐賀市北部の臨済宗東福寺派正法寺に伝来したもので、総数32通、時代は鎌倉時代から室町時代にわたるものである。 最も年代の古い正和(しょうわ)3年(1314)の鎮西御教書(ちんぜいみきょうしょ)は、鎮西探題北条政顕(まさあき)が寺領内に武士が乱入して乱暴なふるまいを働くことを禁じたもので、当寺を保護するための命令書である。 以後、南北朝時代・室町時代にわたり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・一色道猷(いっしきどうゆう)・征西将軍宮懐良親王(かねながしんのう)など、著名な人物が当寺に文書を与えて、祈祷を依頼し、また保護を加えている。 当寺は、もともと肥前の有力な御家人(ごけにん)高木氏歴代の菩提寺で、このため、高木氏の成長とともに寺の勢を拡大維持し、他寺に抜きん出たものと考えられる。 一か寺として、鎌倉時代から室町時代にわたる著名な差出人の文書がまとまっており、肥前の有力御家人の菩醍寺(ぼだいじ)がどのような勢力と結びついていったかが、一貫してうかがえる貴重な文書である。現在は巻子本(かんすぼん)2巻に仕立てられている。
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正法寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
正法寺は、佐賀平野のほぼ中央に所在する臨済宗東福寺派の古刹(こさつ)で、佐賀地方の代表的な武士の一家であった高木氏の菩提寺として鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて有力な寺院であった。 この写経は、もと縦26.8センチメートル、横13.0センチメートルの折帖装(おりちょうそう)であったが、風水害によって重なっていた紙と紙とが密着してしまい、紙塊(しかい)となったものが多い。書き写された時代は平安末期~鎌倉初期と推定されるものから江戸時代の補写のものまでに至っている。使われている料紙(りょうし)(文書を書くのに用いる用紙のこと)は楮(こうぞ)と雁皮(がんぴ)のまぜすきを黄蘗(おうばく)で染めたものと思われる。 中は罫高(けいだか)20.3センチメートル、罫間(けいかん)1.9センチメートルの罫線に1面7行、1行17字を典型的な写経風の整った書体で書いている。 巻末の奥書きには「大般若波羅密多経巻第二百五十一 明徳五年甲戌三月一日 天叟書」や「東大寺以正蔵院本一校了」など、書写の年代の記されているものや、東大寺記録によれば建長5年(1253)ごろまで存在したという東大寺子院の正蔵寺の本によって校正されたものなど興味深い貴重なものがある。
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高木八幡ねじり浮立
重要無形民俗文化財
「ねじり浮立は」、以前は11月15目の高木八幡宮秋祭り(お供日)に奉納されていたが、現在は11月中旬の日曜日に実施している。構成は、天衝舞・大太鼓・鉦・モリャーシ(締太鼓)・笛・お謡いなどからなり、鉦打ち・モリャーシがそれぞれ2列になって笛に合わせて「道行」で神前まで進み、神前で舞う祓え=本囃子と「エイヤー」と「まくり」が奉納される。天衝舞は大太鼓や笛に合わせて勇壮に舞う。 この浮立の呼称は、青壮年男子が掛け声とともに、上体をねじらせて鉦を打ち、モリャーシの子どもたちも鉦打ちと同様の所作をして小鼓を打つことから「ねじり浮立」と呼ばれるようになった。また、鉦打ち・モリャーシともに頭の上に「旗さし」を立て、女物の衣装・稚児衣装をまとうところは、勇壮な中にも派手さの混じった舞囃子である。 高木八幡ねじり浮立は、佐賀平野に広く分布する玄蕃一流浮立(天衝舞浮立)で、ねじり浮立という名称の特徴をよく伝えている。高木瀬地区では唯一の浮立であり、貴重である。
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石造六地蔵六観音像 一基
重要文化財
坪の上天満宮の石造六地蔵六観音像は、現地表面からの総高2メートル、屋根は緩やかな勾配をもった波形で、中台には蓮華文が刻出されていて、全体の構造は均整がよくとれていて安定感があり、尊像は優美であって工芸品としてもすぐれている。また破損は中台、尊像などの一部にわずかばかり認められるのみで、ほぼ完構に近く保存は良好である。 この石像の特色は、尊像が12体彫られていることで、下段に六道の衆生を救済するという6体の地蔵像が蓮座上に配され、上段に更に6体の観音像が蓮台上に刻まれている。この上段の観音像は、下段の地蔵尊に比べると小像であるばかりでなく、6体とも合掌印を結ぶ垂髪の同じ像容に彫られていて、個性に乏しく簡略化された表現となっている。 竿石には、 伏冀現世安穏後生善処 欽奉彫刻観音地蔵二六尊像 永正十五戌寅………十日 と刻まれていて、この石像が県内の六地蔵としては、永正15年(1518)という比較的に古い時期に属するものであることが判明する。 室町時代には地蔵信仰が最も盛んであったことは遺物の上から知ることができ、この石像は地蔵信仰とともに観音信仰も盛んであったことを明らかにする資料の一つとして特に注目に値いする。