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[旧佐賀市][嘉瀬校区]は117件登録されています。
旧佐賀市 嘉瀬校区
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八天神社参り(八天さん参り)
火災鎮防、安産の神として崇敬を集めている八天神社は、嬉野市塩田町山口にある。いつ頃から参るようになったかは詳らかでないが、部落の火災安全を祈願するため、2月に部落の代表が参詣した習わしが今に受け継がれている。往時は、徒歩でお参りしたり、船を利用したりしていたという。火災鎮防のお守札を各戸分頂いて配布している。有重と北島で実施されている。
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川の神祭(5月上旬)
「河童祭り」とか「川祭り」とも言われ、藁や小縄で円座を作り、それを川や堀に浮かべ、1本の竹で支えたり、川に流したりした。円座の上には野菜、果物、御供飯(ごっくうさん)を供えたり、または白紙に茄子、胡瓜、南瓜等の野菜の絵を書いたものを張りつけた。この行事は、川や堀などに落ち込まないようにという祈りである。
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三夜待と六夜待
三夜待の神は、女の神だから男がまつり、六夜待の神は、男の神だから女が祀った。「三夜待」は毎月23日を中心に開かれた。嘉瀬では、江戸中期以降に、刻像塔が多く建てられている。文字は、二十三夜・勢至(せいし)菩薩・月読尊・二十三夜尊などである。月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、月の出を拝む講のことを「サンヤマチ」と言った。石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて、よもやま話に花を咲かせた。 「六夜待」は主婦たちが、毎月26日の夜に集まった親睦会のことである。 23日、26日ともに、月齢の暦の日付けであった。今でも行われているところが多い。
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彼岸ごもりと遍路
彼岸とは春分と秋分の日を中心として、その前後各3日間合わせて1週間をさし、つまり迷いの此の岸(現実)から悟りの彼の岸(理想の涅槃の世界)に至ることである。この彼岸中は「彼岸ごもり」といって部落のお宮のお堂に一家の主婦たちが集まり先祖を偲び感謝することをした。またこの期間中に全国的には四国88箇所の霊場巡りが行われた。しかし、佐賀から四国までは遠距離であるため、佐賀市郡一帯では弘法大師を祀ってあるお寺など88ヶ所を定め、巡路宿泊地を定めて行脚をしていた。 嘉瀬では有重の徳善院が一番札所、扇町の苗運寺が二番札所となっていた。遍路の列は法螺(ほら)貝を吹きながら嘉瀬のお寺や神社等の札所を巡り、集落の主婦たちの接待をうけた。しかし、この遍路の行事もあまり行われなくなって、平成15年秋の彼岸をもって嘉瀬からはなくなった。
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観音講
もともと法華経の観世音菩薩を信仰する者の行う宗教的行事であって、昭和初期までは婦女子の親睦をはかる行事として年にて1〜2回行われていた。しかし、近年ではほとんど行われないようになったが、今でも毎月17日には迎町(大字荻野)では行われている。
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灌仏会 (花祭り)
釈迦が誕生した時、天から龍が下ってきて水を灌ぎかけて釈迦を洗い清めたという故事に因み、4月8日の釈迦の誕生日に、高さ十糎程の釈迦の像に甘茶水を灌ぎかける行事である。釈迦の像は甘茶水を入れた鋼製の鉢の中に安置してあり、鉢は花を飾りつけた厨子の中に置いてあるので「花祭り」ともいう。昔は朝廷の行事として行われていたが、現在は寺院等で行われる年中行事の一つである。甘茶は貰って家に持ち帰り、これを飲んだり家の周囲にふりかけたりすることもある。
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村祀り
数軒の農家が共同で神を祀る風習である。神に附随して田圃(祀り田、めんだ)があり、1年毎に交替して耕作する。祀り田を耕作する家(ほんつう)は、1年間神を祀り12月1日には、祀りに加わっている家の家族全員が「ほんつう」の家に集って飲食を共にし神への感謝を捧げお互いの親睦を深める。朝はなます、竹輪、澄し汁に赤飯と香のもの。昼の食事は無くて夜は、決った献立の御馳走が用意される。大人には神酒が振舞われ歌が出ることもある。ひと通り飲食が済めば来年度の「ほんつう」を決めるために籤引きをし、今年の「ほんつう」から翌年の「ほんつう」につう渡しの盃事があってお開きとなる。 この行事は、ほとんどの部落で行われていたが、農地改革のあおりを受けて消滅したところが多い。
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ゴミホイ(ゴミアゲ)
村の中を縦横に走る堀は、上水道が完備するまでは、炊事、洗濯、風呂などの日常生活を支え、稲作の潅漑用水を供給する極めて重要な役目を担っていた。堀の水を清浄に保ち堀の水を流れやすくするためには、堀の底に貯った泥土をあげる作業が欠かせなかった。泥土をあげて堀の深さを保つ作業をゴミホイと呼んで、冬の農閑期に村のクヤク(公役)として行われることが多かった。ゴミホイは堀を深くして、防火用の溜め水の場にしていた。 泥土をあげる田にモミガラを敷く。堀を区切って水を落とし、堀の両岸にミチギ(足場)を組む。ミチギの上に4、5人ずつ乗って向き合い、ゴミオケにつけた親綱と子綱を引き、呼吸を合わせて桶を操作し泥土を汲み上げるのである。堀の中では、カスイで泥土をかき集めて汲み上げやすくする。すべて呼吸を合わせ、反動を利用しての操作である。 この共同作業とは別に個人でゴミホイをすることもあった。堀の底にのめりこまぬように、4、5本の竹を藁縄で編んだスクラを置き、その上に乗って、カンピョウエ(柄の長さ1.4mほどの木製匙状の道具)で泥土を田圃へ、ほうり上げる作業である。いずれも力のいる重労働であった。あげられた泥土は放置して1ヶ月もすると、大きくひび割れする。これを小さく砕いて田圃の肥料とした。ゴミホイは後にモーターを利用した機械でするようになったが、やがてゴミホイも今では全く見られない。
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新町の八朔祭り(風神さん)
新町は標高0mと言う干拓地で、立村以来累次の風水害に悩まされ困苦欠乏に堪え辛酸の苦痛を味い、古老の伝説や新町皇太神宮碑文によれば、明和4年(1764)並天保の飢饉等の惨状が今に語り伝えられている。 その一節に「逆浪天漲 農作物皆無 餓死流民 道迷病蔓延」等の悲記がある。 毎年襲い来る台風やお盆潮、八朔潮と言う異状潮位から、海岸堤防を守るために古くから村を挙げて警戒に当っていた。 有明海の満潮時が夜半に及ぶ時等、消防団が台風と闘いながら第一線堤防の巡察と警戒にあたる苦労は言語に絶するものがあった。殊に堤防外住宅(15、6戸)は毎年高潮浸水に悩まされ、その度に消防団、自治会等の出動が行われた。 昭和初期頃より干拓築堤に石垣並にコンクリート工法が採用され、又高潮には防潮堤が採用され、堤防決潰等昔日の物語となった。 従ってオランダ工法等飛躍的な進展に伴い部落の風神さん祭りもすたれ、毎年9月25日天満宮の馬場の相撲大会も自然消滅の形態となった。
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櫨(はぜ)の実採り歌
享保2年(1735)頃、北島武大夫が佐賀平野に櫨(はぜ)を植えてから佐賀平野は木蠟の本場として、明治初年まで米に次いで高い生産量を誇った。嘉瀬川の堤防などでも真っ赤に色付いた秋の紅葉は見事なものであった。冬になると寒風に曝されながら一杯に実った櫨の実採りが行われていた。その時歌われたのが櫨の実採り歌である。 「冬の寒い日に、木登りまでして食わなきゃ食えないか。情けない。今日の仕事はさむくて捗らず、食うにゃ冷たい目に合う。情けなし。」
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嘉瀬浮立の始まり
秋の彼岸が過ぎて10月に入ると、日暮れから浮立稽古の鐘や太鼓の音が聞こえ始め、鎮守の神のお祭り(おくんち)の近いのを知る。おくんちと浮立の結びつきは200年ほど前にさかのぼる。鍋島藩第八代藩主治茂の頃、天然痘(疱瘡)が大流行したので、治茂は難病回避と五穀豊穣を願って祈祷を命じ、神社に浮立を奉納させたのが始まりといわれている。
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お地蔵さん祭 (豆祇園)
集落内の8ヶ所に地蔵さんが有り、毎年7月24日夜お地蔵さん祭(通称:豆祇園)を現在も行っている。祭りの準備は家廻りの当番で行い、日暮後、近所の人が集まる。事前の準備(1)お地蔵さんに赤い布で胸当を作り、当日に着せる。(2)笹竹を地蔵さん廻りに立て、小さい提灯を下げる。(3)飲物、菓子、花火、豆(豆菓子か煮豆)を準備する、日が暮れると近所の大人・子供が集まり当番が接待する。
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浮立
・荻野には乙護神社があり、字荻野と野田東原が氏子で秋の収穫祭として神社に浮立を奉納している。(供日)・昭和50年代までは10月21日に奉納していたが、稲の収穫日、子供の参加等で現在は10月の体育の日となっている。・昭和30年代までは青年団で浮立をしていたが、以降若者が少なくなり、子供が参加して現在に至る。・戦中、戦後は出征者の家、戦死者の家を廻っていたが、現在は地域の役員宅を廻っている。野田、東原が浮立をしないので、荻野が毎年行う。
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大祭(おお祭り)
・毎年12月15日に、神社で大祭りの儀があり氏子の3つの地域で集まり(東社中、中社中、西社中)その日を農休日とし、当番の家に住人全員が、朝と夕方に集まり、赤飯、竹輪、野菜漬で食事をし、大人は酒を飲んで楽しむ日 ・終戦後は浪花節等の芸人を呼んで過ごした
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春祭り (戦没者慰霊祭)
神社の春の大祭と慰霊祭後、夜お宮に舞台掛けして芸人を呼び、2日間楽しんでいた。(主催:青年団)
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風祭り
毎年、田植後台風の被害に合わないよう、氏子が参拝していた。参拝した人には、胡瓜のナマスが振る舞われていた
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お籠り
神社に各自弁当を持ち寄って食事をとる(夜)
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もぐら打
毎年1月14日は、子供クラブの行事として、もぐら打の行事が現在も続いている。前日の13日かそれ以前に老人クラブと子供達で竹と稲わらで、もぐらを作る。14日の夕方より、子供クラブで集落内の各家庭を廻り「14日のもぐら打ちや、孰れ孰れ柿の木」と歌って竹、稲わらで作ったもぐらを、土に打ちつける行事。
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瓦焼き
圃場作土の下にある粘土を材料にして屋根瓦を焼いていた。燃料は石炭で、燃え残りをガラとよんで、タドンなどをつくっていた。
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シチメンソウ
嘉瀬町では嘉瀬川河口と本庄江河口に生育しているが、ウラギクやヨシ、ヒロハマツナなどと混生していることが多い。 昭和62年5月に昭和天皇が全国植樹祭に行幸された折、東与賀大授搦地先のシチメンソウを御覧になってから、急に脚光を浴びるようになった。アカザ科の塩性植物で葉をかめば、塩分を含んでいることがわかる。葉は棍棒状で横断面が円形。若い時から部分的に淡紅紫色や淡緑色をしており、秋になると全株が鮮かに紅葉して美しい。12月になると種子を落として枯れる。有明海北部の河口や干拓地先で、満水の時に冠水し干潮に潟地になるようなところに群落をつくっている。 全国的に生育地が限られていて環境省の絶滅危惧Ⅱ類種に指定されており、佐賀県でも絶滅危惧Ⅱ類種に指定され保護の対象となっている。
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ヒロハマツナ
嘉瀬町では嘉瀬川と本庄江湖の河口付近にシチメンソウと混生していることが多い。 シチメンソウに似ているが、葉の上面が平らで長さ3.5cm、幅が3mmぐらいあるので区別できる。アカザ科で、日本固有の塩性植物である。有明海北部沿岸に生育し、本庄江湖では1km上流まで分布している。土木工事などで全国的に減少傾向にあり、環境省の絶滅危惧Ⅱ類、佐賀県の絶滅危惧Ⅱ類種に指定され、シチメンソウと共に貴重な植物である。
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イセウキヤガラ
嘉瀬町では本庄江湖河口干潟に生育するカヤツリグサ科の植物。根茎は細く地中をはい、先端に塊茎をつくる。地上の茎や葉の横断面は三角形で細長く、高さは80cmほどになる。全国的に稀な植物で、佐賀県では有明海北部の河口干潟にだけ群落をつくって生育し、最近浚渫作業などで減少する傾向にある。佐賀県では準絶滅危惧種に指定し保護につとめている。
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アサザ
ミツガシワ科の多年生水草で、根茎は水底の泥中を長くはい、太く長い茎を水面に出す。葉は卵形又は円形で直径5~10cm。やや厚く縁には波形の鋸歯がある。表面は緑色で光沢があり、裏面は紫褐色。花は鮮かな黄色で5つに深く裂け、花弁の縁は糸状になっている。 六月から七月にかけて水上に抽出し、午前中に開花し午後はしぼむ。久保田町、三日月町、千代田町、鹿島市の堀や流れのゆるやかな川に群生する。佐賀市では嘉瀬町の荻野、東原、嘉瀬津、元町の堀に生育している。 全国的に少ないので、環境省の絶滅危惧Ⅱ類に指定され、佐賀県では準絶滅危惧種に挙げられている。河川改修や圃場整備により減少したが、最近では徐々に増加している。除草剤の被害も時折見かけられる。
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ドクゼリ
セリ科で水辺に生育する大形の多年生草本。地下茎は太く、竹の地下茎に似て節があり、内部には隔壁がある。地上の茎は中空で高さ60~120cm。その先端にセリの花に似た白い小さな花のあつまりを傘状に着ける。花の時期は6月から9月で遠方からでもよく目立つ。茎や葉柄を折ると黄色の汁が出る。これは、トキシンやチクトールなどの有毒成分を含むので、口に入れると神経中枢に作用し、呼吸困難となり死に至る。 佐賀県では、準絶滅危惧種に指定されている。佐賀平野南部、特に嘉瀬町、本庄町、川副町に大きな群落をつくっていたが、最近圃場整備のために急激に減少した。現在嘉瀬町では、中原や扇町の堀に僅かに見られる程度である。
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ホウライチク
筍が夏の土用頃に出るので、ドヨウタケとも言う。嘉瀬町ではオナゴタケとも呼んでいる。横にはう地下茎がないので、こんもりと茂る竹薮を形成する。日本原産ではなく、台湾、中国南部、タイ、フィリピンを原産地とする南洋竹(バンブウ)である。この竹は、火縄銃とともに中国南部から移入されたもので、鹿児島の島津義弘公が一朝有事のために家来たちの家に植えさせたのが発端である。のちに九州一円から四国南部の藩主が競って火縄銃とホウライチクを入手し分布が広められたと言われている。火縄を作るには、若い一年生のものの皮をはぎ、生のものを打ち砕いて縄をなうだけでよく、これを保存しておく。現在では防風、西陽避け、堀岸補強などの為、家の周辺に植えられている。また水鉄砲や紙鉄砲など子供の遊具を作るのに利用したり、キウリの垣や草花の支柱に利用している。筍は食べられるが、その習慣は無い。ホウライチクの竹薮は、平野部の特徴的な景観であり、圃場整備や宅地造成により近年その数が激減した。
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モウコガマズミ
スイカズラ科の高さ4mほどの落葉かん木。葉は卵形で全面に毛が多い。春先に黄白色の小さい花が多数集まって径8~13cmのかたまりをつくる。平成2年(1990)、県立森林公園に鑑真和上の上陸記念碑が竣工した折、その傍らに植えられた。鑑真和上の故郷、中国楊州市から贈られたもので、現在41株に増えている。原産地がモンゴルであるところから、和名をモウコガマズミと新しく名付けられた。中国名は瓊(けい)花(美しい花)又は八仙花で、中国では庭園木として各地に植えられている。日本では、森林公園と楊州市の姉妹都市唐津市に植えられている。
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乙護神社のクスノキ
境内の南東隅にあり、胸高直径1.25m、高さ12m。枝張りは南北19.5m、東西18mの巨木である。県の指定巨木で樹勢は極めて良好。幹にはコケ類やノキシノブが着生している。境内にはこの巨木の他に3本のクスノキが生育している。
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四面神社のクスノキ
境内には5本のクスノキが見られるが、最も大きいのは、社殿の東にある個体で、胸高直径0.9m、高さ8m。ノキシノブが着生しており樹勢旺盛。
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苗運寺のクスノキ
境内の南東隅にあって、胸高直径1.2m、高さ7m。大枝を強く剪りつめられているが生育状態は良好。ナツヅタが着生している。
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若宮神社のクスノキ
2本あるうち、社殿の東のクスノキは、胸高直径1.15m、高さ10m。社殿の北西のクスノキは、胸高直径1.35m、高さ8m。枝は剪定されているが生育状態は良好。 国道近くにもう1本あったが、道路拡幅のため平成15年に伐採された。