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[旧佐賀市][西与賀校区]は119件登録されています。
旧佐賀市 西与賀校区
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てぼ
てぼというのは、ビクのことで、獲物を入れる竹製の容器である。大きな獲物のない干潟魚撈で欠くことのできないものは、中に入り混んだ泥土を出し易いように底は格小目の小孔があいている。 ムツゴロウ、ワラスボ、ハゼ、貝類等を入れるテボには、普通蓋はないが、カッチャムツ等を入れるものには、身と同じように竹へゴで編んだ凹みのある蓋を用いる。 てぼの特殊なものは、ガンツケガニを入れるカニてぼである。カニがはい上がらないように竹へゴを縦にのみ並べ、胴部を3か所余り紐で組んで形を整え、胴部に僅かばかり膨らみのある特殊な構造である。
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板鍬
ムツゴロウ、ワラスボ、ハゼ、アゲマキ、ガンツケガニ等を捕える場合に用いる特殊の鍬である。目的の棲息孔を発見すると、この鍬で泥土を掘りおこしながら棲息孔をおっていって獲物を手取りにするものである。 この板鍬の一種に、柄だけ木製で他に薄い鉄板で作られているものがある。これは普通の板鍬と同じようにムツゴロウ等を掘りとる時に用いられる他、ジイ貝をあげる時に用いられた。
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うなぎかき
うなぎの棲息地は、勘によって判断され、その場所につくと、両手でうなぎかきの柄を握りしめ、舟端に立ち、体側の前方から後方にかけて急速に泥土をかきあげる。うなぎは刃の先端についているするどい鈎にかかって引きあげる。
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むつかけ
棲息孔から出て、干潟の上にいるムツゴロウを釣りあげて捕える方法で、最も熟練を要する特殊な技法である。 つり竿は、径3cm内外で、長さ3m50cm余りの真っ直ぐな竹竿で、その細くなった竹竿の先端に長さ3m余りの麻糸を結びつけてある。その糸の先には、長さ9cm余りの細長い鉄棒が結びつけているが、その鉄棒の先端には長さ6cmの鋭い鈎が6本取り付けてある。 押板でムツゴロウが干潟上に匐遊(ふくゆう)しているのに気付かれないように静かに近づき、6m内外離れている所から竿の先に付いている鈎がムツゴロウの10cm程の先に落ちるように投げる。鈎が地面に落ちると同時に、素早く竿を手前に引き上げ、ムツゴロウを鈎にひっかけてつり上げる。 ムツゴロウは人の姿を見ると、すばやく孔に逃げるし、また、投げた鈎が手前に落ちたり、干潟の泥土に喰いこんだりすると釣れないので、非常に熟練を要する名人芸である。普通6か月位地上で練習するとか、1年間これのみ練習するとかいわれて、この技術を体得している人は少ない。
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いかり
かしの木で作ったもので、粗製ではあるが、頑丈に作ってある。 製作年代は明治の初め頃で大正年代まで使用したといわれている。
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ねじぼう
潮がまだ引かない時や、潮が引ききらない少し深めの所にいるうみたけを捕獲する道具であって、このねじぼうは、歩行者の用いるものと船の上から用いるものと2種類がある。丸太の先端に近いところに両端を少し折り曲げた鉄材を取り付けた簡単な構造である。 歩行者用のものは長さ1mほど、把手の長さ60cm、鉄材の長さ40cmで船から用いるのは歩行困難な深い場所を中心とするもので、把手の両端を握って、泥土中にめり込ませ、両手を回転した後に引き上げる。鉄材に、うみたけがくっついてくるので、それを取り上げる。 うみたけは、二枚貝であって、貝殻を下にして、上の方に長く肉身とを切断して引き上げるのであるから、熟練しないとうまくいかないという。
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あか
舟にたまった水を外に汲み出す用具。
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がんづめ
貝類をがんづめでかき集め、ザルに入れて、潮水の中でゆすり土砂を落としてから船に積みこむ。
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西与賀のエビス
わが国の民間信仰で、生業を守護し福利を与えてくれると考えられている神霊の一種が、エビスであるといわれている。 エビス信仰は都市の商家では商売繁昌として、漁村では豊漁の神として、農村では農神として今日でも稲荷信仰と共にエビス信仰が盛んである。 西与賀町内にはおよそ14体のエビスが所在しているがその大半が相応、今津に集中している。 この両地区は有明海に注ぐ本庄江岸に位置し、古くから漁業と水産加工業による商業の町として有明海の恩恵を受けていた。 これらのエビス像は商売繁昌と豊漁の守り神としてエビスに対する信仰の深さを物語っている。
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エビス像
今津下若宮社に祀ってあるエビス像は、安永3年(1774)と記年銘が記され町内に所在する最も古い作例の一つで尊像の背面は舟形光背を呈し半跏半肉彫像である。寄進者は当町中と記され今津下の領民によって若宮社に奉祀されたことがうかがえる。
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今津渡船場所
江戸時代の末頃から船は本庄江を自由に上下して、高橋・厘外津・今津・相応津は河港として栄えた。中でも今津は早くから開けた商人の町として、銀行・郵便局・小学校分校などが建った。渡船場は、右岸の有重と左岸の今津は高橋をまわって用を達するという不便を感じていたので設けられた。潮が満ちるとだんべい船に人と荷車をのせて岸に着け、潮が引いた後は船を固定して、船から両岸にみち板をのせて常時通していた。昭和38年に本庄江改修工事と同時に今重橋が架橋され今津渡船場が廃止された。
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味志瓦の元祖
瓦焼が繁栄を極めたのはこの地では明治以来のことで、その以前には味志家の独占場であったといわれ、このことは、味志家の系図等によって知ることができる。 これによれば、味志家は小川総右衛門と共に藩祖鍋島直茂に仕えて瓦焼を業として、一手にやっていたが、その後、小川家は安住(北川副)に御免地を賜わり、味志家は今の長瀬町の与賀神社下宮の北東一帯の御免屋敷を賜わり、味志・小川両家は名実共に瓦焼を独占した。豊臣秀吉名護屋城築城に際して瓦の納入を仰せつかり、子孫の専業を公許された。今日味志家は昭和35年頃瓦業のすべてを閉じてしまった。
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御舟小屋の跡
本庄江岸の今津下より南へ約200mの所に位置している。佐賀藩第10代藩主鍋島直正(なおまさ)の構築したもので、現在野中蒲鉾店の裏、堤防の下江湖端の約7反有余の水田が繋船地の跡であるが、今はそれらしき遺構をみることができない。ここに浅行とする46挺櫓立の大船をはじめ数多くの船が停泊し長崎警備に赴く佐賀藩士の用に備えていた。鍋島直正(閑叟公)が有明海に狩遊に出られる時にもこの地から乗船されたものである。 明治初年には蒸気機関を備えた日進艦も停泊していた。この日進艦は明治2年オランダにて進水し翌年の3月に長崎に着いた佐賀海軍の精鋭で、3本マストに1本煙突で全長200尺(約60m)であった。重量は1.300トンを有し、アームストロング前装旋回、砲10門の大砲を備えたものであった。明治3年の5月船将・真木安左衛門以下乗船員と共に政府へ献艦され、帝国軍艦として佐世保港へ繋留されて明治30年頃まで新兵練習艦になっている。 繋船場であったため堤防内側の約1反の地に船具の倉庫を建て、また藩士の詰所があり侍数名が監督のため駐在していたといわれている。この御舟小屋のため今津方面は御用船手を勤める者が多く雇われていた。 御舟小屋跡の建物は昭和初年頃まであったが近年取り壊されその跡には標柱が建てられている。
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江藤新平乗船の地
江藤新平が明治7年の佐賀戦争に敗れ鹿児島に逃れようと乗船したのがこの地である。 江藤新平と本村との関係は、その青年時代厳父に伴われ西田代本行寺小路から丸目村に引越し、寺子屋を開いて父の教育を補佐したことがある。今日寺子屋の跡はみられずその後に百崎宅が建てられている。 このようなことから本村の地理に通じていて丸目を選んだのであろう。 江藤新平は戦利あらずと見えて山中一郎、香月経五郎、中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八と共に相応津に来て先ず本村清方宅で出航の準備をし、飴等簡単な食品を購入して乗船したという。現在この地には標柱が建てられている。
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御番所跡と丸目の渡し場
今津が藩船の繋留場であったことからここに番所がおかれていた。 対岸の嘉瀬新町との間を渡し船が往復し、丸目の渡し場と呼ばれていたが現在は橋が架けられている。ここから下流約50mの所に藩政時代の御番所跡があった。その建物は簡単な詰所であったといわれ、武士が常駐し、銃・槍などの武具を備え日夜船の出入り、そして人馬の往来と警備の任務についていたといわれている。
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大砲発射実験の跡
佐賀藩で大砲製造を始めてからその試射や発射演習が厘外、丸目で行われたといわれている。丸目在住の古老によると村々に響き渡った砲声を聞いた人もいるという。
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高太郎丸、小太郎丸の墓所
高太郎丸、小太郎丸と称せられる館跡は、旧西与賀小学校の南方約100mの所に位置していたといわれる。 高太郎丸、小太郎丸は永享年間(1429〜1441)にこの地を領していたといわれている兄弟である。 数年前までは周囲約50坪程度の小高い丘で畑地として利用されていたが、近年すべてが削られ水田化され遺跡らしい姿をみることはほとんどできないが、ただ当時館跡に建立されていたと思われる石祠が地区の人々により近くの広場に覆屋が建てられ合祀された。
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有明海の漁業
干潟に棲息する魚介類を捕獲する干潟漁業は、手取り漁業とも呼ぶべきもので、極めて特色のあるものである。しかし、干拓事業の進歩に伴い、干潟漁場は著しく狭くなってしまった。そのため養殖以外の干潟漁業は極度に衰微した。こうした内海漁業の不振を打開するため、ノリの養殖が行われ有明海漁業の中心となった。
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干潟漁撈と漁具
干潟は、その位置によって泥土の状態が異なっており、沿岸から離れると離れるほど一般に泥土が軟弱となり、また、南西部の太良町の沿岸のように、泥土の少ない砂石の多い所もある。干潟の中にはエゴと呼ばれている大小無数の谷があって、そこには潮汐をたたえており、干潟の中もやはり複雑な地形を呈している。 この干潟漁撈には、主として簡単な道具を用いているが、一種の手取り漁撈であって、自家消費用にあてるために出漁しているものが多い。干潟に入る時は、堤防の所で着物を着替え、必要な道具だけを持っていく、煙草やマッチなどは、濡れたり汚れたりしないように帽子の中に入れておくのが安全である。潮が満ちてくるにつれて岸に戻り、エゴの水で身体を洗って堤防の上にあがる。干潟漁撈をすると、全身泥だらけになるので、干潟漁撈をする人を方言でドツキユウサンと呼んでいるところもある。 また、干潟上の目的地に行くために、歩いていく他に、押板で干潟の上を滑っても行けるし、また、舟でエゴを下って行くことができる。一般に歩行するものは堤防近くの干潟に多く、舟を利用するものは潮際近くの干潟まで出かける者が多い。 近年、有明海はノリ養殖によりその漁法はほとんど見られなくなった。
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路傍のエビス祭り
今津上の80戸によって管理され、2月と7月に祭りが催されている。 7月20日の祭りは、エビス像の周囲に笹竹を立てて〆縄を張り、野菜、鯛1匹、清酒、菓子等供え、夕刻、神官の祝詞、役員等の玉串奉奠(ほうてん)で式を終わり、後町区の人々がお参りする。エビス像の側に、婦人たちによって煮豆が準備され、参拝者に配られる。 以前は、祭りの世話は青年団が受け持ち、各戸には献燈をつるし、エビス像付近には夜店が立ち並び舞台をたて寸劇や踊りが催されていた。
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本庄江湖の渡し場
本庄江湖には上流の厘外と有重、中程の有重と今津、そして下流の新町と丸目にそれぞれ渡し場が設けられ人々の往来の便を図っていた。 渡す方法として、潮の干潮の時は川の中心に舟を固定し両岸にふみ板を渡して渡す方法、満潮の時は長い竿竹で舟をあやつって渡す方法、梅雨時期の大雨や台風等で川の水位が上昇した時は両岸に太いロープを固定し舟に乗りながらロープを両手で握って渡す方法があった。 丸目のように川幅が広く竿竹では川底に届かない所では櫓をこいで渡していた。 厘外と有重そして今津で長年渡し守りをしてきた大隈氏と江口氏にそれぞれ当時を回想しながら苦労話を聞いてみた。大隈氏によれば、厘外の渡し場は嘉瀬の有重地区と西与賀の厘外地区と4年ごとの交替で、大隈氏は昭和8年から12年まで当番であった。当時の舟賃は大人、こども共2銭で1日の売上は25円から30円程度で夫婦二人がその日暮せる生活費は十分あった。 年間を通じて特に客が多い季節として、徳善院への彼岸参りと高伝寺の春祭りだったという。 苦労話として夜中であろうと潮の干満によって渡し舟を移動させねばならなかったこと、そして大雨により急流のためロープで渡し舟を操作した時、満潮になり下流より砂利運搬船や、石灰、運搬船の通過時における渡し舟の移動等数多くの苦労とたたかって来た。外から見れば簡単な仕事と思われるかわからないが、尊い人命を預っているため、その責任は重大で神経の休む暇もなかったという。 一方有重の江口氏は昭和34年から38年にかけて渡し守りをしていた。当時の舟賃は片道20円で1日の売上は500円程度であったという。年間を通して一番客が多い季節として、有重のお不動さんの祭り、そして彼岸の時、本庄高伝寺の春祭りだったという。 苦労話としては大隈氏と共通していた。 なお丸目の渡し場については当時の人が現存していないため聞きとることができなかった。
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厘外中の年中行事
4月10日頃・金毘羅神社春祭り 10月10日頃・金毘羅神社秋祭り
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元相応の年中行事
1月・年始 2月・旧正月(大般若) 6月・川祭り 8月・祇園祭 9月・旧8月1日(八朔)・秋祭り
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高太郎の年中行事
【1月2日】新年祈願祭とお祓い式(三社宮に奉納旗揚げ) 本庄宮宮司さんにより9:30~。公民館にてお神酒披露。 【1月15日】大般若祭り(5ヶ寺住職さんにより) お供餅1重(5升)。教本で一人ひとり身体を祓いしてもらう。村の川に5か所お守り札を立てる(竹3m位に挟んで)。お供え餅を小切にしたものとお札、全戸へ配る。後、公民館にてお神酒びらきをする。 【3月春分の日】高太郎地区物故者慰霊祭(お寺にて) 1年間の新亡者、無縁仏の慰霊祭。住職さんのお経とご詠歌を奉詠する。 【4月8日】花祭り(お寺にて) 住職さんのお経とご詠歌奉詠する。お釈迦さんへ甘茶をかけ祝う。 【5月3日】川神さん、村施餓鬼会。戦没者慰霊祭。 川神さん(お供物とご馳走を舟にのせ川へ流す)。公民館にてお酒披露と手料理(40~50名)。 【7月25日】高太郎祗園祭(18:00~21:00) 三社宮、さやん神、大日さん。参拝の方にお菓子一人100円程度を3か所でやる。(おなます) 【9月7日】八朔祭り(宮司さんによる五穀豊穣) 三社宮にて。後、公民館にて手料理、宴会。 【9月15日】高太郎地区敬老会(75歳以上、60名位) 紅白餅とお弁当で祝う。講演を頼む。 【11月23日】金毘羅祭り(住職さんにて) 公民館にて宴会。 【12月30日】〆縄作り、飾り 三役と宮総代さんで。 【4月から10月の第2日曜日】農村公園清掃 村全戸で。
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厘外西の年中行事
【1月】 「記念碑祭」 平山栄十翁(昔当町区の庄屋)が町内苦境の時、諸事にわたり貢献され、また町区に土地を寄贈され町内発展に寄与された。その功績を称え、翁の記念碑が建立されている長勝寺において毎年行う。 「大般若会」 六百巻から抜粋された般若心経によって、家内安全および無病息災を祈祷し、全員がお祓いを受ける。 【7月】 「村籠り」 各自弁当持参で集まり、五穀豊穣、無病息災を祈願し、お神酒をいただく。 【11月】 「天神祭」 菅原道真を祀った祠にしめ縄をまき、お供え、お神酒をそなえてお参りし、学問の神様にあやかる祭。 【12月】 「しめ縄奉納」 八竜神社にしめ縄を奉納し、新年を迎える準備をする。
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権現さん祭り
平松南公民館の西に熊野大権現が祀られている。伝えによると明治14年、三重県の伊勢神社へ参宮のおり、和歌山県の熊野大権現へも参詣し、帰国後、熊野大権現を当地へも祀ったともいわれる。 同所には他に、天満宮、金毘羅大権現、大神宮合祀塔、庚申塔や石仏等が祀られている。 平松南では毎年1月第2日曜日に大権現にお供え物をし、本庄神社の宮司を迎え、子どもから大人まで集まり神事を行っている。
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若宮社祭り(祗園)
(7月) 夏祭りを祗園というのは佐賀県内を通じて一般的である。 神社の祭り事をつかさどる氏子はそれぞれ1年間を担当する。 当日は青竹を切り鳥居の笠木と柱に結びつける。柱には本庄江より刈り取った男の葦を柱を囲むように結びつける。 氏神へのお供え物は、鯛、塩、大根、人参等、祭壇に清酒を供える。 当日は午後6時本庄神社の神官が訪れ、氏子の前でお払いをして祝詞をあげる。その後地区代表による神殿に玉串奉奠し、祭典は終わる。 境内にはテントが張られ子ども達親子による豆が配られ舞台ではビンゴゲームが行われる。 かつては、大きな舞台が作られ男子青年団による佐賀にわか、即興にわか、女子青年団による舞踊や演劇が催され夜店が立ち並び賑わいをみせていた。今日では子ども達が施主となることもあって豆祗園などと呼ばれ、町区の災難のがれ、家内安全、疫病退散が主目的である。 (注)「祗」の左部分は「ネ」で表記される。
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町内氏神社三社と寺による四万六千日
(8月) 観世音菩薩、地蔵菩薩の縁日で、この日お参りすると四万六千日の間お参りしたのと同じ功徳があるという。7月10日の東京浅草寺の縁日、6月24日の愛宕祭りが全国的に有名である。 当町区では毎年8月上旬に催される。上水道が普及されていない往時には、生活用水を本庄江の川水にたよっていた。四万六千日が訪れるときが有明海の潮が「からま」といって1年中で一番水がきれいで、その時は先を争って水汲みに精を出し水甕(みずがめ)に貯めおきする。 祭りは、各々氏子が前日神社を清掃し、当日参拝に来る氏子に配る菓子を準備する。当日は、朝6時から7時の間、近在近郷の子どもを中心とした参拝者がお参りに訪れ、菓子をもらって次の神社へと急ぐ。
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百手祭
(11月) 神社の鳥居に男の青竹を切り藁を編んで鳥居に飾る。弓、矢、的を作る。氏神への供え物として鯛、大根、塩、果物、榊、神酒を神前に供える。当日は、神官が朝早く訪れ、お払いをして祝詞をあげる。境内に備え付けた直径約40cmの藁で作った丸い円座、つまり的、1m離れて鬼の字を3か所書いた竹で編んで紙を張った的にまず神官が弓矢を放つ。次に長老の順に矢を放ち命中すると氏子より歓声があがり町区の災難がのがれるという。 かつては、青年団が井戸水でみそぎをして祭りに参加したが、今日ではその姿を見ることができない。
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大神宮祭
(2月) 若宮社に合祀されている大神宮は、伊勢に鎮座する皇大神宮を尊敬する人々によって構成された講組織で、伊勢講ともいう。 伊勢に参拝するには多額の費用と長い年月を必要とする。そこで講を組織しそれによって費用を捻出し、代表として伊勢参宮をし、分神を持ち帰って祀る。大きな自然石に次のような銘が刻まれている。「天照皇太神宮 寛文11年(1671)」 大神宮の碑石に藁で編んだしめ縄を飾り鯛、塩、大根、神酒を供える。当日神官は早朝訪れ氏子にお祓いをし、町民の災難避け等の祝詞をあげる。それが終わると代表が玉串奉奠に移りその後参拝者は神酒とおなますをいただき健康と家内安全を祈る。