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[旧佐賀市][ 祭り]は50件登録されています。
旧佐賀市 祭り
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疱瘡神祭り
正里区東入口に祀られている二十三夜さんは、昔、天照皇大神宮塔と共に、英彦山権現(三隅田)の境内にあり、疱瘡神として有名であった。
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大楠公600年祭
昭和10年5月25日に大楠公600年祭が行われた。 多くの旗やノボリがお祝いに、飾られている。
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楠公神社例祭
毎年5月25日に楠神社にて「楠公神社例祭」が開催される。 5月25日は、楠木正成の命日。 祝詞のあと吟詠「大楠公」や「櫻井の訣別」の歌の斉唱などがあり、その後、社務所にて直会がある。
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ゆめこいえびす大祭
毎年、12月10日は「ゆめこいえびす」様の大祭で地元の人々が参拝する。 特に、年末ジャンボ宝くじが当たるように祈願してそれを頒布する時は、大勢の人達が列をなしてゆめを求める。 ゆめこいえびすは、中央本町の佐賀信用金庫西側の通り入口にある。
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道祖神祭
3月・12月の第2日曜日に、江頭地区の東土井・荒巻では年2回、各家順番で神社参拝後、当番の家でお祭りをする。
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権現祭
江頭地区西八田では12月25日に3つの地蔵さん祭りがあり、藁で的を作って弓を射る行事があっていたが、現在は行われていない。
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村祭り
むらまつりは、旧新村(開成2〜6丁目)には二つ有って、一つは供日といって藩政時代の新庄郷の氏神さんの新庄神社のお祭りで、11月3日に行われる。 旧新村の祭りとは新村の権現さんの祭りで、新村独自のもので、新村の起源頃から始められていたように思われる。 藩政時代は戸数も少なく、12月15日に新村の住民全部が1箇所に集まり行われていた。 この祭りの実施要領は大正時代は、祭り田と言われる水田を輪番に耕作して其の収入で、本ツーゥ寄りツーゥの名前の2戸で実施されていた。しかし、昭和になり戸数が増えて1ヶ所では対応が出来なくなったので、南組が堤熊次氏の土地を購入して祭田とし、沖田組には中島猪六氏が自分の所有の土地を弁財天祭を行うという条件で寄付し、昭和50年頃までは組毎に当番の人が祭田を耕作してその収益で祭りを実施していた。祭り田が住宅供給公社の宅地造成地区内に在ったので、売却して其の売却代金を基金として12月15日に実施して居たが、近年は村民も勤め人が多くなり、現在は、12月15日に近い日曜日に実施されている。 当時は竹輪1本に肴の切り身1切れの質素な料理であったが本当に楽しいお祭であった。 その後、祭りの伝統を北組(きたんわい)が引き継ぎ「ツウ」と言う伝統の記録書類で現在も記録されている。 その書類が煤け、破損が酷かったので整理した際、はっきりした記録が判明し、嘉永年間(1854〜1860)の頃からの記述があり、この村祭りが大分古くから行われていたことが分かる。 1年を通じて権現さんを中心に色々と村民の触れ合いの行事が行なわれており、今振り返って見ると懐かしさが一杯である。
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西佐賀団地の夏祭り
西佐賀団地で育った子ども達が成長し大人になり家庭を持ったときに、「自分達は西佐賀団地で育ったが、緑も多い団地で大人たちも仲がよく、団地内で祭りを行なったり神輿を担いだりしたことは、楽しい思い出である。」と言ってくれるように、昭和60年から実施して、平成21年で24回を数えている。その間、祭りを中止しようとの意見も出たが、それを乗り越え、子ども達が西佐賀団地の夏祭りを楽しみにしているため、平成22年以降は子ども達だけの祭りに切り替え継続して開催して、今後とも西佐賀団地内の融和をはかって行きたい。
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江頭ふるさと祭り
平成元年10月に若宮社に祀ってあった石祠蔵を現在の江頭公民分館の敷地に移し、木製の鳥居や御堂を建立して、仁徳天皇三女神をお祀りしている。 毎年8月上旬に子ども達の病気平癒、健康を祈って祈願祭を行い、午前中に「子ども神輿」が町内を練り歩くため、力水をかけ元気づけ、楽しんでいる。 神輿は、江頭公民分館 ⇒ 西八田(若宮社) ⇒ 東土井(道祖神社) ⇒ 大西(観音) ⇒ 大渡 (観音)⇒ 江頭公民分館 の順路で練り歩く。 夜は、生産組合、婦人部、子ども会でバザーの出店や、舞台を飾りつけカラオケ大会や踊りのご披露などがあり、商品を用意して江頭ふるさと祭りを実施していた。 しかし、平成5年8月からは、「開成ふるさと祭り」が開催されるようになり、「江頭ふるさと祭り」を午前中に行い、午後4時頃から「開成ふるさと祭り」に参加している。 祭りは、町区民や校区民にとって、親睦融和をはかる上で欠かすことができない重要な行事として、現在も開催している。
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子ども祭り
子ども祭りは、開成5自治会(開成二〜六丁目)の地区内で、新村川沿いに、地蔵さん2ヶ所、弁財天さん、権現神社、観音さんの5つが祀られている。 平成元年までは、旧新村子ども会の豆祇園として、毎年8月1日に2台の神輿が町内をねり歩き、夜は子ども達による豆祇園が実施されていた。 その後、平成2年住居表示が実施され、旧新村地区は5町区に分割されたため、どのように継承するべきか、自治会・子ども会で話し合いを行い、子ども会主催による5町区(開成二丁目〜六丁目)それぞれで、昼は「神輿」、夜は「豆祇園」として現在も継続をしている。
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平尾天満宮奉納相撲(もちすもう)
平尾天満宮の祭りの中で、毎年10月25日又は、25日に近い日曜日に奉納されている。当日は、午前中に神事が、午後に奉納相撲が行われ、土俵作りのほか境内に御幣を飾り、新米で餅つきが行われ、餅相撲であるため、参加者に餅が振舞われる。準備はすべて平尾自治会で行われる。 最近は参加者が少なく、小学生が中心で行われているが、戦前は高木瀬以外からも多くの参加者があり賑わっていたが、現在は参加者が減少し、女性にも参加してもらっている。
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川神さん祭り
5月になり、水田の準備が始まり、川の水かさが増すと、子どもの水難除けのための川神さん祭が各戸で行なわれた。藁で円坐を造り、魚や馬鈴薯、豆腐等の御馳走をそれに乗せて川に流し、子どものこの年の無事を祈ってもらった。そして川副町南里の八幡宮(ひゃーらんさん)へ参詣(さんけい)するのが習わしであった。
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七夕祭り
今も続いているが、大正時代も行なっていた。朝早く起きて丸盆と、「ドンブリ」を持って、田圃に行き稲葉に宿る露を盆ですくってはドンブリにためて、その露で、墨をすり、5色の色紙をたんざくに切った紙に、七夕、天の川や名前等を書いてこよりでササの枝にくくりつけて軒先に立てて、七夕さんに願をした。
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千灯籠祭
千灯籠祭も夏休み中の子どもの楽しい行事であった。武藤の公民館の前の石仏さんの祭りをするために、地区はもとより、他地区まで、千灯籠、千灯籠と言って豆やお賛銭をもらって廻り、母達にもらった豆をたいてもらった。もらった金で、お供えのお菓子を買ってきてそれを供え、1日中それを食べて遊んだ。後ではこのような金をもらって廻る行事は中止させられた。
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山津地区の祭り
(1) 祇園祭 釈迦の教えに帰依する祭り行事として行われている。 大人・子どもが集まり、地区特有の行事であり、お経に始まり、終了後子ども達にはお菓子が配られる。(以前はご飯が出されていた) 昔、若い人(男女)が田植え後小城町の清水に行き滝に打たれ、今年の田植えに感謝すると共に農作物の豊作を祈った。農民のお米に対する祈願が表されている祭りでもあった。 (2) 若宮祭 京都八坂神社に始まり全国に広がっている祭りである。「給孤独園」仏教の教えとして行われ、疫病を追い払う、つまり厄払いの行事である。大人も子どももあらゆる病気から守ることが目的で、小さい社で大きな魚を煮て子ども一人ひとりに、ハシで食べさせていた。 (3) お稲荷さんまつり 唐津の鏡山に神社があり、7月にお参りに行き、1月は唐津からお参りに来られる。お稲荷さんなので、男女(特に女性の願い)の神様であると考えられる。お供えに「オックウさん(三角の円錐に握ったおにぎり)」が供えられている。日本で一番多く祀られている神様である。 (4) 天神さんまつり 12月に行われていた祭りで、若宮祭りと同じような祭りで、今は行われていない。
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牛島町の二十三夜尊まつり
現在牛島町にある二十三夜尊は、構口東の江見線と旧34号線の分岐点で、副島自転車店のところに祀っていたが、道路を作るとき邪魔になるので何処かに移転しなくてはとの話が出て、いろいろ協議の結果牛島町がその候補地に挙げられることになった。牛島町の町民が協議を重ねていたところ、当時町内(思案橋のところ)で酒造業をしていた人で後に貴族院議員になったり、また佐賀馬鉄(馬車鉄道)の誘致で活躍されたり、循誘小学校の前身で柳町校舎といわれたときの学校敷地を寄付されたりした、下村辰右衛門さんが『二十三夜尊を祀った町には火災が起こらない』との話をされたので、これを契機として移転の話が決まった。移転先は、今の構口西堤防の松林を切り開いてそこに祀ることになった。そのとき、祠の石造りに安置することになり、下村さんが寄付されて明治26年7月23日に移転落成した。爾来、初代自治会長森喜太郎、2代目角町、3代目小宮、4代目吉村、5代目馬場卯一、6代目香月と二十三夜尊まつりを受け継いできた。まつりの様子は、町内に舞台を作り、花火を打ち上げ、景品の抽選会や金魚すくいなど夜は10時頃まで大変賑わった。また、午前10時には僧侶を迎えて、お祀りしていた。お蔭様でこれまで牛島町には一度も火災が発生せず大変感謝している。
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横目橋そばのエビス祭り
横目(ジロリ)橋のたもとに、元禄3年(1690)の造立になるという、佐賀市内最古の双体エビス像が銅ぶきのお堂に祀られている。ふつう夫婦エビスといわれ、ひとつの石に2体ほられているのは珍しいということである。 いつか班長さんからエビスの氏子として、お祭りの当番が廻ってくることを知らされた。そしてその1回目が意外にはやくやってきたのである。当番は1年間でお祭りは夏冬2回、夏祭りは神事のあとで御供物の餅、お菓子などを氏子に配る。冬はツウ渡しといって神事の後ごちそうを作り、次の当番の人をお招きしツウを渡す。お祭りの日は、現在では1月20日前後の都合のよい時にしているが、昔は平日でも決まった日に行なわれていた。氏子は減少し、40年前は24軒であったが現在は16軒である。お祭りには1軒より500円の抜銭をする。昭和40年代には100円であったが次第に高くなり、58年から現在まで500円の徴収である。物価の値上がりでこれだけではまかなえないが氏子や有志の方のご芳志もあって500円にすえ置きである。前日に掃除草とりをしお供えの買物をして準備をする。米1キロ紅白の餅、塩魚、野菜、酒(アカカベより献上)菓子などである。当日は天満宮の宮司さんに神事をお願いしている。昔はツウ渡しのごちそうも手づくりであったが、今は折詰をとり自分たちではお吸物をつくるぐらいであるが、食事を一緒にすれば親しくなり、固い絆ができるようで、この街に住んでよかったとしみじみ思える。昔は、横目のエビス祭りといえば大じかけに舞台がかかり、鳴り物入りで賑わっていたと云う。昔から、この川におぼれる人も無く事故ひとつ無いことを聞けば、商売繁盛のみでなくエビスのご加護とも、素直に思える。年々風化し摩滅して、顔の表情もみえないエビスの前に立つ時、時の流れを感じる。お堂は、大正15年6月の改築で西の宮改築寄附者人名塔には30円から3円の氏子の名がしるされているが、人名は薄れてはっきりしない。もう一つその横に四角い人名塔がある。これは改築前のはじめの建立者のものと思われるがはっきりしない。
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村祭
村社のお祭りは青年団主催で、お宮の境内に仮舞台を設け、佐賀からニワカ役者などを頼んできて、一晩か二晩芝居を催した。町内有志、成功者、区長議員さんなどに案内を出し、その「はな」で芝居の経費はまかなわれた。これも人手、経費などの都合で次第に縮小して二晩が一晩となり、芝居は映画となり、それも今では殆ど見られない。
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百手祭り
○上森田(新村)では、八龍社で3月1日に恒例のお祭りをしている。 ももて祭りといって、以前は悪魔悪病退治のため、弓矢をつくり鬼と書いた的を射ったという。今は、矢だけ11軒分つくり神に供え、祭った後、各家に持ち帰っている。 また、各家が順番に毎日かかさず、ごっくうさん(炊きあがりの飯を握ったもの)を供えて奉拝している。 ○中森田でも、乙護法神社で上森田と同じように、ももて祭りが行われている。 いまも的に鬼という字をまん中に、そのまわり三方にも鬼という字を書き、それを矢で射って悪病や悪魔を退散させることが、五穀豊穣の祈願をかねて行われている。 ももては「的射り」のことで「厄神祭り」とも言われる。 ○岸川地区も、森田地区と同じように、ももて祭りが行われている。
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地蔵祭り
11月に地蔵まつりを行っている。 永禄12年、大友宗麟は兵六万を率いて佐嘉城を取り囲み攻め入ろうとした。直茂公は三百余騎を率いて多布施口から進み、植木方面で戦った。この時、多くの敵味方が戦死されたのでその霊を植木地区のお地蔵さんに祀ってある。 子どもが祗園祭をし、お菓子を配っている。