検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 神社]は94件登録されています。
旧佐賀市 神社
-
小児(しょうに)天満宮
この祠は立川阿波守が鎌倉よりこの地に下向の折に建てられたと言われており、以前は至誠会病院の東隣にあったのをここに移されたそうです。 この祠は初め小児(おに)天神と呼んでいたが、いかめしくて差し障りが多かったので小児(しょうに)天神と改めたといわれています。この天神は、麻疹、疱瘡から守るといわれ、これらの病気流行の時は参詣者が多かったそうです。
-
巨勢神社
佐賀県史編纂資料『巨勢神社由緒記』に次の記載がある。 肥前州巨勢荘鎮守巨勢大明神は人皇37代孝徳天皇の御宇異族壱岐、対馬の二島を犯すに依り巨勢大連征伐の勅を蒙り下向せり。御退治の後猶西津守護となり慢々たる広野を開き此所に跡を垂れ給うにより巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉る(下略) 巨勢神社所蔵の『巨勢神社由緒記』、佐賀県神職会発行の『佐賀県神社誌要』にも同意のことが記されている。 『旧藩主各神社調』巻末記載によれば 鎮西肥前州巨勢庄鎮守宗廟巨勢老松大明神、本地不動明王なり。鎮守の由来を尋ね奉るに源頼朝公諸国の地頭職を兼ね給いし後、後鳥羽院の御宇建久5年武蔵国7党の内児玉党の宗子にて参河守俊治筑紫肥陽の地を領して、此の地に下向あり。(中略)故国の氏神老松大明神を瓦町に勧請し、五百余町の宗廟と仰ぎ、あわせて淀姫大明神・乙宮の二社を崇め、二社の本地観音菩薩・毘沙門天の二尊像を一堂に安置し奉らる。(中略)その後花園天皇の御宇延慶年中立川阿波守・同舎弟伊豆守・嫡男讃岐守・次男若狭守・鎌倉今泉村より当国に下向あり…とある。 天保10年円満院より実相院への書状の中には、 当社の宗廟と申し奉るは大化元年異国より大軍九州へ寄せ来り候節巨勢大連朝臣といいし人討鎮として勅命を蒙り此地に下向ありて不日に討鎮給い永く此地に留り神と跡を垂れ給う。只今の宝殿は即ち朝臣垂迹の所に付、白雉年中巨勢大明神当庄の崇廟と奉仰、また此地を巨勢の里となす。その後、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、此地に下向ありてその生国武蔵国の氏神老松大明神と、当国一の宮・淀姫杜・乙宮の三社を宗廟巨勢大明神の宝殿に新に勧請して四社の明神と尊崇し千余町の宗廟と奉仰せり、とある。 『円満院由来記』には 当庄に宗廟神崇に成りし事は白雉年間より、およそ五百四十余年後に、参河守俊治といいし人肥陽の地を領し、建久5年此地に下向ありて牟田という里に居城を築き、住居して故国武蔵の氏神老松大明神を瓦町宗廟本社に勧請し、ならびに淀姫社・天満宮・乙宮の三社を一殿に崇めらる。故に四社の明神と奉申。また古郷巨勢野になぞらえて此地を初めて巨勢と号す。(中略)右俊治の家はおよそ百十余年を経て絶えけるにや、後に相州鎌倉より立川阿波守といいし人、一族4人延慶年中此地に下向ありて、館を築き今泉と号せられ、瓦町の四社は巨勢の崇廟たるにより、今泉(巨勢川西岸一帯の総称)の中四本松一の角に遷されたり…とある。 創建の由来および祭神については前述のように一定していないが、祭神は巨勢大連・老松大明神・淀姫命・乙姫命、さらに菅原道真などを合祀されたものと考えられる。 このように変遷をしているが参河守の一族、立川氏の与党に尊崇され、巨勢郷唯一の鎮守神であったことは否定し難い事実といえよう。 境内に松尾神社・三輪神社・稲荷神社の三社がある。
-
修理田神社(熊野権現)
権現堂部落(東分下)の東端に熊野権現があり土地の人は権現さんという。祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊、素盞鳴尊という。 古びた石門の刻字は、慶応3年(1867)のものである。(原文は漢文体) 熊野権現は神也。例(ためし)には大明神と称すべし。権現と称するは蓋し釈氏の加うる所なり。中世以還流俗相沿い更に之を知るなし。高平郷の東に一曲地あり。居民二十余家能く力田す。(中略)その地松林に接す。老樹植り森は小山の如し。故に千本山と号す。山中に小祠あり、熊野の神を奉安して歳時これを祀る。因りて亦その曲を名づけて権現堂という。(以下略) また、田原磐門などの由緒提出書によれば天正7年(1579)田原伊勢守尚明が千本松と申す所に熊野権現社を勧請したものとあるから、千本松の森も400年前からあって、権現堂という名も熊野権現にちなんだものと考えられる。 古老の話によれば、千本松は千本山ともいわれ、明治初年までは広さ6反歩に及ぶ大薮で、松、樟など生い茂って、昼なお暗く大人でも淋しがる程だった。その林の中に権現社が鎮座していて、この千本山の周辺は野狐や蛇がたくさんいたと言う。明治20年に開墾されて現在の姿になり開墾された水田4反は村の共有として、神社費、部落費にあてられたが現在は個人有となっている。当時の開墾記念碑が現在境内にある。
-
保喰神社
保喰神社は赤い鳥居が示すように稲荷社と同じである。明治の記録には稲荷社となっている。記録では境内は42坪氏子224人と記されている。 神社入り口の鳥居には「肥前州佐嘉郡東西村高平山 蔵福坊良政貞亮四年」と刻まれている。これは明治初めまで蔵福坊隣りの権現社のものだそうである。 明治初めまで蔵福坊に田原盤門氏が住んでいて田原氏の祖先田原伊勢守尚明は、大友宗麟の家臣であったが、宗麟に諫言して怒りにふれ浪人になり龍造寺に仕え東西に領地をもらい住んだそうである。長男は修験者となり蔵福坊と称したそうである。
-
八田の社寺
船着場附近に昔は祠堂が多かった。住吉神社、観音堂、薬師堂、若宮、阿弥陀堂等が一本釘付近にあった。今は野墓が残るのみである。 「住吉神社」は大阪住吉に鎮座する、津国一の宮の三神と神功皇后が祭神であり、古来航海守護神として広く崇敬され諸所の漁港等にその分神が奉祀された。八田区では御神体(神鏡)を廻り持ちで、住吉祭りが現在も続いている。
-
梅林庵義祭同盟と梅林庵
文化、文政のころ、弘道館の教官に枝吉種彰(南濠)(1789〜1859)がいた。 文武両道に秀で国学、古典研究に励んだ。その長子が枝吉経種(神陽)であり、次子枝吉二郎は副島家の養子となり、これが後の副島種臣である。 南濠は古典研究、史学研究にもとづき「日本一君論」を主張し尊王論を唱えた。 長子神陽は、文政5年(1822)5月24日に生れ、文久3年(1863)8月14日に没した。 天保11年に弘道館に学び、父の「日本一君論」を継承し、同13年21歳のとき、江戸の昌平黌に遊学し、のち嘉永元年(1848)拡張になった弘道館に帰り、草場佩川、武富圮南(いなん)、大園梅屋、古賀素堂等とともに教官となった。 ここで父南濠から受け継いだ尊王論を唱道して多くの弟子を得た。 弘道館史学派と呼ばれた人々の中には江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣、島義勇、中野方蔵らがいた。 嘉永3年5月神陽のもとにこれら史学派の書生たちが集まり、義祭同盟を結んだのである。 嘉永3年5月25日佐賀郡西河内村の梅林庵に楠木正成父子の桜井の駅訣別像を安置し、これを祀る同盟であった。 この木像は寛文3年(1663)年深江平兵衛信渓(シンケイ)が京都の仏師法橋宗南に依頼して完成し、佐賀郡北原村(大和町)の永明寺に祀り、のち文化13年(1816)高傳寺の楼上に放置されていたものを発見、修復したと伝えられているもので、安政元年(1854)同木像は白山町八幡宮地内に安置された。
-
本庄神社
本庄妙見山淀姫大明神の本地は十一面観世音で第29代欽明天皇の勅願で欽明天皇25年(564)9月28日の夜、末次村の正直者丹次郎と言う農夫が薪取作業中、突然大地が震動して、2本の霊木が生じて、五色の雲、金色の光がさして何処からともなく妙なる音楽が聞こえて、雲の中より気高い垂髫(スイチョウ)の一人の童子が出現して「我は是淀姫の神霊也」と申されて、色々不可思議な霊験を示された。領主の小寺左衛門大夫安利は丹次郎より霊験奇談を聞き、この丹次郎を連れ、上洛して欽明天皇に奏聞した。天皇は叡感ななめならず(天皇が感嘆すること)畏くも綸旨を下し賜い、なお霊場を建立された。その後小寺は神託に乗じ自ら神主となり、女房を命婦(官位ある女房)とし、同じく座主場を慶正寺と号し、毎年9月27日より28日まで、神事祭礼を掌ることとなったとある。 その後永正9年(1512)2月に鍋島清久(直茂公の祖父)が再興し、天文2年(1533)にその子清房が建立した。その後慶長17年(1612)8月直茂が神殿を新たに造営した。承応2年(1653)に至り、光茂(2代藩主)が更に造営した。 社殿宏壮にして、境内は甚だ広く、本殿より下の宮間の馬場の如きも5間幅(約9m)にして、幾多の大樹鬱蒼としていたが、今はその面影を残していない。 明治4年(1871)12月郷社に列せられる。祭神は豊玉姫命であり、仁徳天皇、日本武尊、天照皇大神、日子神、伊奘諾那岐神、龍王神、猿田彦神の七柱の神は、無格社合祀により追加をなした。また、明治40年(1907)近郊の雑社二十八社を集め合祀し、多くの石造物が本殿裏に移されている。 與賀郷の産土神社として、末次その他は與賀神社より分離し(明治4年/1871)本庄神社となり、毎年11月28日をもって祭日と定め(現在は10月)氏子区順番にて浮立、相撲、手踊等で賑わいをなしていた。 明治40年2月15日神饌幣帛料供進定 当時の氏子戸数 817戸
-
妙見社
西寺小路南の国道208号沿いに、妙見社がある。 妙見菩薩を奉祀する祭神は国土を擁護し災を消し敵を退け、福寿を増す仏とされ、日蓮宗では特にこの妙見菩薩を信仰する。また妙見菩薩は北斗七星の本地で、北辰尊星妙見大菩薩とも称され、北極星を仏格化した諸星の王であって、一切の事物の善悪を記録する国土の守護神であるといわれている。中世においては、武将の中にも、千葉氏、山名氏、大内氏など深く妙見菩薩を崇敬した。 県内では妙見菩薩の石像は未発見といわれ、文字塔のみが知られている。 社殿内の妙見菩薩像は、信者の増田栄次郎氏が大正初期に製作したものである。 氏子の寺小路、溝口区住民の信仰厚く、昔から旅立ちには奥殿の小石をお守に持参し、旅行の安全を祈願して、また帰郷すれば小石を倍にして返し、無事に帰ったお礼をなす風習があった。 妙見社では年2回の祭りが続けられている。 1月(現在は第2日曜日)に大般若供養をなす。8月の豆祗園は子ども達の主催である。前日子ども達が区内の家々に1斗ショウケ(竹かご)を持って廻り、農家からは蚕豆(トーマメ)を、非農家からは金銭を奉加してもらい、蚕豆を煮て日暮れと共に子ども達の手から煮豆を参詣人に分けてやった。また青年団主催の浪曲等で、当日は賑わいをみせたが、今は子ども達の豆祗園のみが残っている。 ※「祗」の右側の表記は、「氏」が正しい。
-
王子神社(若王子権現)
昔は鬼丸の宝琳院南、古江湖川の中の島に祠堂はあったが、現在は瑞応寺境内の東に移し祀ってある。 祠堂の前の明神鳥居の柱銘には、「佐嘉郡大井樋村医王山瑞応寺敬白。奉寄進御宝前氏子中天明三癸卯年(1783)二月吉祥日。」額束に「王子神社」と刻んである。 王子権現の由緒に関しては、色々話が残っている。その内の一つ『若王子権現縁起』による徐福祭神説を原文により紹介する。 「列山伝ニ曰く徐福字若房秦ノ始皇ノ時ノ道士ニシテ篤学ノ誉高キ、神仙ナリ。常ニ島嶋海辺ニ遊行跋渉養神ヲタヅネ、施薬施療万人ヲ利生シ、枯黒ノ難病ヲ治ス、尚風向帰航ヲ扶ク、神仙生涯ノ偉業実ニ大ナリ、而モ自五百年ノ長寿ヲ保ツト曰フ、本邦ニ來朝セラレルヤ有明海ニ入リ、筑後川嘉瀬川ノ河口付近ニ上陸、現在浮盃本庄間位侍数百人ト供ニ金立山ニ登ル。若王子権現社モ亦上陸乘船居住等垂迹地ニシテ、碇島左右ニ在り、其江頭ヲ望ム。社名村名ニ若ノ一字ヲ冠スル深ク旨アリ。爾來久シク、後人ノ指標追慕敬仰スル所、遂ニ文明中大宰少貳教頼、地頭龍造寺康家ヲシテ之ヲ修造セシム。同時ニ若村ヲ大井樋村卜改称ス。代々国主又之ヲナラフ。特ニ隆信公願書ヲ当社ニ納メ、翌日合戦大ニ利運ヲ得、袋、末次二村ヲ報賽シ社殿ヲ造営ス。是公ノ勝始ナリ 以下略 末尾〜蓮華寺旧跡、瑞應寺、若王子権現社ハ三位一体ナリ」
-
袋天満宮
祭神は菅原道真公で、天正4年(1576)龍造寺山城守藤原隆信が天地長久領土安全祈願のため、創設せられた神社である。 当時の代官は志波藤介で、宮住は、酒袋新太郎、酒袋新七郎と由緒書に記載されている。 慶長年間(1600頃)に、鍋島直茂公が社殿を再建し、以来歴代藩主が崇敬した。 明治12年に村社に無格社より昇格する。 当時の氏子戸数70余戸であった。
-
中島神社
中島区には天満宮、辨財天、宝満宮がそれぞれ氏神として祀られていた。 天満宮は野々天神さんと言い亀川氏宅東北にあったが、大水害により、大正12年に千々岩惣次郎氏宅東に移転した。 辨財天社は溝内六次氏宅裏に祀られていたのである。 宝満神社は筑前の竃門(ソウモン)山宝満宮の分霊を奉じ、社殿を享和元年(1801)11月18日建立した。祭神は、息長足姫命、玉依姫命、与田別命の三神である。 昭和5年7月に三社を合祀し、中島神社と改める。 境内には多くの寄せ石仏があるが、「疫神齋」は本庄町内に唯一で珍らしい。当時特に恐れられた「疱瘡」の流行に対する厄病神送りが、この石祠を中心に笛や太鼓で、にぎやかに行なわれたことであろう。 住民と厄病神信仰の風習は疫神祭を御霊会(ゴリョウエ)と呼んで古くからあった。 小祠に疱瘡神を祀りこめ、供物をそなえ拝み、瘡(カサ)をとってくれるよう盛大な神祭りを行った。 この祭りは、あくまで厄神を慰撫することに主要な目的があった。疱瘡は高熱を発し、病人は熱のため、奇妙な言葉を口走る。熱が去ると今度は醜怪な瘡が噴き出てくる。流行すると乳幼児ほどかかりやすいこともあり、医学が発達していない段階では、麻疹(ハシカ)とともに幼児は必ずかかる病気の一つと思われ、とくにその病状から、特別の霊がのり移り、不思議な現象を示すと信じられていた。 一般に厄病神送りの風習は村に伝染病が入ってくると、御幣を入れた藁の神輿を作り、病人の家をまわる。家の中に入り、家の厄病神をこの神輿にのり移らせようと、身ぶり手ぶりで病人の体内から厄病神を引き抜くふりをする。その御輿を笛や太鼓で、にぎやかに村境まで送り返し焼き払った。また御札や御幣はすべて赤色を使った。 農耕儀礼のなかの虫送りと厄病神送りの風習も同じようなものであった。
-
満穴天満宮
寛文10年(1670)3月8日建立の肥前鳥居が社前にある。奈良時代に始まる「神仏習合」(神の信仰と仏教信仰とを融合調和すること)のため、西光寺の僧が、宮司の務めを果していた。
-
藩祖がひれ伏した鹿子天満宮
鹿子天満宮は、龍造寺隆信の祖父家純が太宰府天満宮の分霊を請い受けて祀りました。祭神は、菅原道真です。龍造寺隆信、鍋島直茂はじめ歴代藩主が崇め敬った神社でした。 『葉隠』に山本常朝は「佐賀藩の家老の安芸守(鍋島茂賢)が若い頃、天神の森で鳩を撃ち、それが外れたので腹を立て、当たらなかったのは天神の仕業である。憎き天神である。と二つの弾を込め宝殿を裏表に射抜いて帰り、このことを直茂に伝えた。これを聞いた直茂は「おそれおおいことを」と、即、水で身を浄め裃を着け参詣され、「ただ今、そそっかしさから過ちをおかした者、もってのほかであり、お怒りのこと、迷惑かけたと存じます。彼は、かねてからそそっかしい者で、何とぞお許しください。お詫びに参りました。」と地に平伏して、高い声でことわられた。」と鹿子天満宮での出来事を述べています。このことからも藩祖はじめ歴代藩主が崇敬したことがわかります。共に直茂の部下への思いやりと責任感が感じられます。
-
龍造寺隆信と鹿子天満宮
天文20年(1551)豊後の大友義鎮(宗麟)並びに佐賀隣郷の豪族等と少貳家再興を企図して、佐賀城を襲撃しようとするのを知り、隆信は大勢の不利なことを悟り、一時筑後柳川の一木村に避けた。鍋島清房等もこれに従って行った。 天文21年隆信は旧領回復をはかったが、失敗した。 天文22年隆信は早田次郎左衛門等を使者として与賀郷鹿子天満宮に参って、鹿子の古賀民部の尽力によって、久米、徳久、村岡、末次、飯盛の5人の郷長と隆信帰国の事を密談し協力を得、隆信は鹿江兼明の船で7月25日に一ツ木を出発した。千歳川(筑後川)を渡り、漁夫園田次郎兵衛の水先案内で、川副郷南端の鹿江崎に上陸し、肥前侍の鹿ノ江、石井、南里、古賀等の出迎えを受け、乾堂(犬井道)へ。27日に鹿江の威徳寺に入り旗揚げをなした。 福地長門守は、与賀郷(本庄八田)船津に上陸し村岡藤七兵衛宅に、副島以下の郷長を始め数千人が集まった。 高木、八戸氏等の家臣が、海岸警護のために駐屯する。与賀郷の飯盛館(高取の内鹿子の塁とも言う)を攻めることにして鹿子龍昌院に陣し、急襲して勝利を収めた。 隆信は南里、八田口から押し進み、高木鑑房、八戸宗暘等が立籠っていた十五堀の要塞を一蹴して佐賀城に入り、更に同天文22年10月16日小田政光を蓮池城に攻めた。 時に鍋島直茂16歳の初陣であった。
-
菅原天満宮(龍昌寺の天神)
祭神は菅原道真、倉稲魂神で創始年代は詳かでない。 龍造寺、鍋島歴代藩主の崇敬が厚かった。 明治40年(1907)の宮寄せの法令により東与賀村実久村にあった鍛冶屋天満宮を寄せ宮した。そのとき石燈籠(慶応元年施主鍛冶屋村、北御門治平外13名)唐獅子系狛犬(天保12年寄進、潮音寺伊勢次外45名)等を境内に移転している。
-
上飯盛天満宮
本庄千本松(東寺小路鍋島直茂誕生地)と相対し、飯盛千本松と呼ばれる場所に、飯盛天満宮がある。祭神は菅原道真公である。この飯盛千本松は、鍋島直茂の室、陽泰院の誕生地で、寛文9年(1669)9月18日鍋島光茂(2代藩主)が、飯盛天満宮に御供料として高米3石4斗7升5合の寄進をなし、本庄千本松と同様に年々祭事を催してきたが、維新以来廃絶した。
-
正一位稲荷大明神
弘道館記念碑横にある「正一位稲荷大明神」である。正一位とは律令制下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、官人の地位を表す等級として一位から初位の位階がある。 奈良時代中期以降、この位階が人に対してでなく、神にも授位されるようになった。これは神階と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものであった、両者に直接的な関係はない。 稲荷神社については、稲荷神に対して従五位下が授けられ、その後も進階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられた。
-
龍造寺八幡宮
慶長12年(1607)、初代藩主鍋島勝茂の時に旧城内にあったものが移転された。 鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀ってある。 又、境内には「楠神社」があり、その傍らには「義祭同盟」や「非理法権天」の碑も建立されている。 「佐嘉城廻之絵図」などによれば、社殿は現在よりも南の方に位置し、その境内もかなり広かった。
-
楠神社
安政3年(1856)、佐賀藩執政鍋島安房が楠公像を遷し、八幡神社の境内に尊像を祀り、「楠社大祭」を執行した。これが現在の楠神社のはじまりである。 奥の神殿には、楠正成、正行(まさつら)の父子像が御神体として祀ってある。 毎年、5月25日に例祭が行なわれ、昭和10年には大楠公六百年祭が盛大に営まれ今日に至る。 楠正成がその旗に印した文字が「非理法権天」である。この記念碑は、楠公神社のすぐ前に建っている。 非は理に勝つこと能はず 理は法に勝つこと能はず 法は権に勝つこと能はず 権は天に勝つこと能はず 天は宏大にして私無し 人生幾多の波瀾曲折あれどついに天を欺くこと能わず又、天に逆らうこと能わざることを意味する言葉である。
-
鳩森稲荷神社
元禄14年(1701)、鍋島綱茂公の心願により江戸屋敷桜田郷に鎮座されていた烏森稲荷大明神を勧請された神社である。 伝記によると綱茂公は、御嫡男がなく心痛され江戸にてかねてより信仰篤かった烏森稲荷神社に願をかけられた。その願いが神に通じて御嫡男を得られたことから佐賀の地に勧請されたことに始まる。 その後、代々の藩主も深く信仰されるところとなり、参勤交代の折には道中の安全と江戸詰めの安泰を祈願されることが慣例となった。
-
白山恵比須神社・すずらん橋
白山恵比須神社は、白山町「すずらん橋」を南へ入った路地の奥にある。建立は、昭和8年頃で白山恵比須班により、毎年の2月と8月に祭りが行なわれ、今日でも厚い信仰心に支えられている。 そのお室の中には、珍しい木彫りのエビス様と大黒様の双体像がまつられている。うろこの一枚一枚まで丹念に彫られ、見事な鯛を重そうに左手に抱きこみ、右手には竹のさおを握って満足そうにほほえんでいる。
-
唐人神社
慶長4年(1599)、鍋島直茂は李宗歓に十人扶持を給し、城北愛敬島の一部に「唐人町」の町号を付けた。これが「唐人町」の起こりであり、李宗歓は海外貿易の永代御用商の免許を得て唐人町の発展に寄与した。その後、宗歓は自宅の一角に石碑を建て故郷を偲びこれが「唐人塚」と呼ばれるようになった。この石碑が昭和30年に道路拡張の為に現在地(唐人一丁目)に移転され「唐人神社」として祀られるようになった。同43年7月には、鳥居も寄進され今日に至っている。
-
佐嘉神社
昭和8年(1933)、佐賀藩10代藩主・鍋島直正(閑叟)を祭神に、松原神社に隣接して造営された。直正の御霊は、松原神社から遷座され、社格が別格官幣社であった。昭和23年(1948)、11代藩主・直大も合祀された。境内には、カノン砲、アームストロング砲の模型が展示されている。毎年春・秋4月10日、10月10日の夜から11日、12日にかけ日峯さんとあわせてのお祭りで賑う。
-
松原神社
安永元年(1772)、佐賀藩8代藩主・鍋島治茂が、藩政改革を始める前に藩祖・直茂を祭神とする社を建立し、直茂の戒名・日峯宗智大居士から「日峯社」と称した。文化14年(1817)、直茂の祖父・清久、同室・彦鶴を合祀し、「松原神社」と改称された。その後、龍造寺隆信、政家、髙房、初代藩主・勝茂、10代藩主・直正、11代藩主・直大も合祀された。直正は昭和8年(1933)、直大は昭和23年(1948)に、佐嘉神社に祀られるようになった。神門に木造河童像が掲げられていた。毎年春・秋の4月10日、10月10日の夜から11日、12日にかけて、日峯さんと呼ばれる祭りが開催されている。
-
権現神社(権現さん)
開成二丁目の権現社の創建の年は定かではないが、ご神体に安永8年(1779)創建の記録があるところから推察すれば、享保12年創建の記録がある開成三丁目のお地蔵さんより以前の享保年間初期(1716)の頃に新村の創始者達により新村の鬼門の守神として祀られたものと推察される。 昔、村内の若者たちが軍隊入営や太平洋戦争に出征する時には、村民総出で社前で盃を酌み交わし武運長久を祈り、社前より日の丸の小旗を振り軍歌を歌いながら鍋島駅まで見送りしていた。 また、凱旋、退営の場合も村民と共に社前に額づき無事の帰還を報告していた。その後戦争が激しくなり、凱旋する者もなく終戦での報告会はなくなった。 また、境内の北の堀端には直径1m以上、高さ約40mの松の大木があり、その天辺に太平洋戦争期間中、日の丸の旗が掲げられ、出征兵士の武運長久を祈って、はためいていた。 当時は、見渡す限りの水田地帯で、遠くから日の丸の旗を見ることができ、鍋島駅からの出征の時には、遠く汽車の窓から見て涙したことが思い出される。 昭和20年の終戦を期に日の丸の旗は降ろされ、また、松も昭和23年の台風と松食い虫により枯れてしまった。戦後の混乱期とはいえ何か手当てが無かったかと、悔やまれてならない。 また、各家では鬼門(家の北東)の方に家の中央さんやお稲荷さん等の石仏を厄除けに祀る風習があった。近年は昔のような信仰心も薄れ、祀ることが大変で粗末に成るので、権現社の境内が神域ということで、大松の根元辺りに預けてお祀りしてあった。また、自分の屋敷内の大きな樹木を切る時には、その樹木の代わりに小さい木を境内に献木として植えて、自分の家の切る木の霊を慰めていた。
-
日子神社(権現さん)
歴代の佐賀藩主は、豊前(福岡県田川郡)にある英彦山権現を信仰していた。藩主は英彦山権現の信仰を広げ、幕末になると佐賀藩では他領の神社や寺院への参拝を禁止したが、伊勢大神宮や英彦山参詣は例外として許された。 従って、八戸溝の人々は、英彦山や伊勢大神宮詣でをするようになり、八戸溝に氏神として「日子神社」を建立したものと思われる。「日子」と言うのは「英彦」の俗字(あて字)であり、英彦山権現のことであり、祭神「日子」は天照大御神の子、「天忍穂耳命」のことであると言われている。五穀豊穣の神であり、特に農民に信仰が厚かったようである。日子神社の当時の神殿の面影は現在見られないが、祭神の石祀の両扉には佐賀藩の家紋が刻まれている。それは、歴代の藩主が英彦山権現の信仰布教に力を入れた現われと思われる。 石祀には建立年代が明治35年となっているが、境内西側の正面鳥居の建立は、安政5年(1858)となっており、石祀銘文の年代以前の藩政時代に建てられたように思われる。境内には、古い石祀が数基あり、日子神社とのかかわりがあると思われてならない。 古老の話によると、「昭和の初めの幼い頃は、日子神社社殿のお堂の上でよく遊んだし、第55連隊のラッパ手は、雨が降ると雨宿りをしていた」と語っている。その後、老朽化に伴い、昭和61年現在の銅葺きの社殿が、浄財によって再建されている。 また、日中戦争や太平洋戦争で出征するときは、武運長久の祈願と壮行式が八戸溝町民によって行われた。
-
日子神社の正一位松ノ森稲荷神社
朱塗りの社殿と鳥居は木造建立で、石祀がないため年代、建立者は不詳である。 拝殿の中には布に包んだ神霊と白狐の像が祀られている。年代は相当古く参拝者が毎日絶えない。木造のため、昭和53年4月信者一同によって鳥居などが改築されている。 銘文 額束:正一位松ノ森稲荷大明神 稲荷神の民間信仰は全国的であり、本来は稲の神様のことである。いわゆる「稲荷」とは、「稲生(いななり)」からきたという説である。そして、穀物の神で食物を司る神のことである。その神の原点は、インドの神ダキニシンが、本地仏と信じられ、仏教を守護する善神として受け入れられた。(もとは悪神)ダキニシンが乗っているのが白狐で、日本では俗言として、狐を神秘的な霊力を有する神聖な動物と言う信仰があった。これが、稲荷と白狐の結びつきと思われる。 稲荷神の民間信仰は全国的であり、今まで災いを除き福を授ける開運の神として江戸時代の頃から今日まで個人の自宅に祀られている。 また、狐にまつわる面白い話がある。稲荷社の正殿には狐像を安置してあり、狐が大好きな油揚とか、生魚、生卵を供える風習がある。油揚に包んだ鮨を稲荷鮨とかお稲荷さんと呼んでいるのも面白い。 境内には2塔の稲荷社(森山稲荷、石森 正一位稲荷大明神 勝軍)と整形水盤が奉納されている。
-
金刀比羅大権現社(友貞邸の南東の隅)
ご霊神は、四国の金刀比羅社の分霊を祀ってある。ご祭神は海運の守護神である。友貞一夫氏の談によれば、「父などが、八戸溝の地を離れて、海軍に出征する際の武運祈願のために建立された。」と語っておられる。 現在は、近所の人をはじめ、昔からの熱心な信者のお参りが後を絶たず、家運、家内安全の神としても崇敬されている権現社である。建立年代は大正か、昭和の初期か定かではない。また、昭和57年信者の浄財により社殿は改築されている。 銘文は、金刀比羅大権現社。
-
若宮社
地元の古老の話では、「昔流行病で多くの子どもが亡くなり、また、水死事故も相次いだことから、地域の人は現在地に神仏を祀ることにした」といわれている。 昔は、べんじゃさん(弁才天)と言っていて、河川を神格化した女神で、弁天の祠が水辺に多くあるのは河川の神であったことに由来している。 また、天神さんも祀られており、お祭は、毎年12月の第2日曜日に行われる。 その他境内には、肥前鳥居「若宮社」があり、慶應4年(1868)西八田村中とあり、当初江頭公民分館前にあったのを大正14〜15年頃に現在地に移されている。 また、石塔としては、「猿田彦太神」安政7年(1860)、「馬頭観世音菩薩」明治14年 (1881)3月吉日 、「北星妙見菩薩」明治30年(1897)3月吉祥日が設置されている。 木仏としては「妙見菩薩」があり、妙見菩薩は、国土を守護し、災いを消し、敵をしりぞけ、福寿を増す仏とされている。
-
金刀比羅神社
金立町大門の金刀比羅山の頂上近く鎮座するお宮である。金刀比羅神社は人皇第50代桓武天皇の宝亀5年(774)今の権現中原山に建立されたが其後数次の兵火に遭い、殊に大友宗麟の西征の際龍造寺との戦の際宗麟に焼かれて堂宇烏有に帰し顛末が詳かではないが古老の言と鍋島譜蔵書中に散見するものによると、天正5年元信徒連の(権現原より大島清八氏、熊山より熊山宗右衛門の2人)代表者讃岐の金刀比羅宮の御分霊を受けて再建を計り後龍造寺隆信社殿建立して豪族武将の崇拝篤くなり、文禄慶長の役には鍋島直茂出陣に際し武運長久、海上安全の祈願を成就し、元和元年願成就の為山林を寄進し、其後守護の神として神徳輝やき寛永19年島原の乱出陣と共に藩士民の崇拝加わり、享保17年鍋島宗茂公(5代藩主)若殿(宗教)大病を患い平癒祈願の結果神徳霊験高く全快せり。 宝暦2年(一説宝暦4年安置)御願成就の為熊山の地(五町余)を撰び其の中腹肥筑平野を俯する眺望絶佳の地に荘厳華麗なる社殿を建立して遷座奉祀されて今日に到ったもので、其の間藩主藩士民の崇敬者加わり明治以後は度々の戦役に神徳輝き勝負の神、武の神、海の神として遠く有明海岸の人々まで参詣者は仲々数多いものがある。 祭神は崇神天皇、大穴弁次命(大国主命)少彦名命(医薬の神)多岐津姫命(海を司る神) ○板碑 板石塔婆ともいう。鎌倉時代におこり、室町時代には形式化板状の石を用いて卒塔婆の一種として発生した供養塔である。 板碑に多い信仰は、阿弥陀如来を供養して浄土往生を祈願した。 阿弥陀如来が、観音・勢至両菩薩を脇侍として従えた阿弥陀三尊あるいは一尊をほん字で表現したものが多い。 題目をあらわしたものもつくられている。 ○ぼん字と種子 板碑をはじめほとんどの石塔に、仏教上の権威ある象徴として、ぼん字が刻まれている。ぼん字は、ぼん語を表記するために用いられた古代インドの文字であるが、中国・日本では、ぼん字のもつ呪術的威力が強調され、あらゆる仏教遺物にはん濫するまでになった。 板碑などでは、ぼん字一字をあてて一定の仏菩薩をあらわす。 その一字が限りない仏の恩恵をうけるものとみる密教観から種子とよんでいる。すべての功徳が生ずることを草木の種子にたとえていったわけである。