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[旧佐賀市][ 跡地]は64件登録されています。
旧佐賀市 跡地
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岡田三郎助の誕生地
岡田三郎助の誕生地は、佐賀市八幡小路にある。
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大井手土地改良区跡
嘉瀬川の水利は、大井手・東芦刈・西芦刈などに分かれ複雑である。 昭和41年に水利が一本化され佐賀土地改良区となり、その後昭和57年まで多布施川・青木橋近くに事業所があった。
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くすかぜ広場・旧佐賀市庁舎跡
明治22年(1889)、市制・町村制施行により佐賀市が誕生した。大正11年(1922)10月神野村を合併。昭和29年(1954)3月、西与賀、嘉瀬、高木瀬、巨勢、兵庫、同年10月には、北川副、本庄、鍋島、金立、久保泉の計10ヵ村を合併。翌年4月神埼郡蓮池町を分町し、合併した。 庁舎は、旧弘道館跡地や旧勧興小学校跡地を経て昭和4年、この地に建設された。 その後、昭和50年に移転するまで隣接する県庁や商工会議所とともに行政区の一角を形成した。 ※くすかぜ広場は、令和4年5月14日に「ARKS(アルクス)」という愛称でリニューアルオープンした。
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江頭城趾
戦国の昔、佐賀の豪族今川伊予守胤秋は、小城の千葉家と寛正、文正、応仁の頃争っていた。そして胤秋の家臣江頭摂津守の城が鍋島村江頭の大西にあった。応仁元年(1467)6月千葉介教胤を討つため小城境に出陣し、今川にて決戦し、大将今川胤秋はじめ、家人江頭摂津守、同又太郎など佐嘉の重なる武将はみな討死した。のち居城は龍造寺の手に帰し、今では跡形もない。胤秋は法名を日今と号し、東新庄日音寺に葬られた。同寺は今はないが、胤秋の母日音女の建立したもので、日音は千葉胤基の息女に当たる。
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栗棘山円珠寺跡
金立町には禅寺が少ないが、この寺は禅寺・黄檗宗のお寺で、大きなお寺であったといわれている。 小堂と墓である石塔、桂巌禅師の墓がある。 葉隠を口述した山本常朝隠棲地・朝陽軒の南約500mあたりで、桂巌禅師の晩年の地である。 桂巌禅師は佐賀藩2代藩主鍋島光茂、3代藩主鍋島綱茂の崇敬が厚かったことが「綱茂公御年譜」に記されている。 葉隠の語り手である、山本常朝の生きた時代と重なる。
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大星隈
大星隈とは現今の西隈一帯の名称で当地は往古は古墳時代に古墳群を形成し、徳川時代には神社とか菴とか何屋敷とかが散在していて、精神文化の一角を受持って来たものと言うことが出来ると思われる。葉隠論語の完成期は此の地の大星菴に篭る山本常朝先生と権現原に住む田代期酔先生の努力によるものと思われる。
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坪ノ上城
今から約400年前、ここに龍造寺氏の出城(館)が置かれた。現在幟持、青木両氏宅のある地域一帯がひょうたん型の堀割に囲まれていたので、この地帯がそれらしいと思われる。この一帯は北部を北屋敷、南部を南屋敷と呼ばれている。又、正保4年(1647)及び元禄14年(1701)に作られている肥前国絵図には坪ノ上二七二石とはっきり地区名が表示されている。 このように、坪の上は相当古い時代から、上佐賀の要衝として存在していたらしい。 明治初年廃藩置県後市町村制が実施される明治22年までの戸長制度時代、県庁の出先機関として坪ノ上に事務取扱所があった。橋富氏の少年時代、前述の北屋敷に、極めて大きな家があったそうであるから、その建物が坪上扱所であろうと思われる。明治9年の西川文書の中にも各戸長から坪ノ上扱所御中とした公文書が2、3通見受けられる。又平尾大塚八郎氏宅には、祖父大塚和平氏宛の公租納金の請取書が保有されている。これは明治10年6月12日ないし明治11年3月11日の日付のある六通の請取書であって、それにははっきりと坪ノ上区務所と明記されており、長崎県四十大区七小区区務所印の公印が押捺されている。 大正の初め頃までは、村の衛生施設として、村立避病院があった。地区の北部、市ノ江川堤防の南側である。今は跡形もないが、「避病院にやられるぞ」と、皆こわがったものだ。 天明4年(1784)の佐賀藩の、上佐賀下郷坪上村の絵地図によれば、今の天満宮の外に、安知木(追手木)の東、古河二角という所には、もう一社の天神社があった。この社は相当大きく描かれているが、今はどうなっているか。現坪上天満宮の境内に嫡流社という石祠があるが、あるいはこれかも知れない。 又現公民分館の北あたりに郷倉があった。天明の飢きんの折、秀島氏の先粗が庄屋をしていて、難民救護のたき出しをしたが、それも間に合わないで多数の死人を出したそうである。そのたき出しもこの郷倉から穀物を出したことであろう。又この絵図には、観音屋敷、曲渕墓地等も描かれている。人家はこの観音屋敷付近に6戸、郷倉付近に15戸、浄満寺は常満寺として表されている。
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歩兵第55聯隊
明治41年10月より大正14年5月まで、佐賀には陸軍歩兵第55聯隊が配置されていた。 今の国道263号線をはさみ東に兵舎、西に練兵場があった。その面積実に40町歩、東高木、八丁畷、下高木にまたがっていた。兵舎の敷地は現在の日の出1丁目の公務員宿舎、旭ヶ丘、市立若葉保育所、警察学校、国立病院のある所、練兵場は県営総合グラウンド、農林省農業土木試験場佐賀支場のある所である。 土木試験場の敷地内には、国道に面し、55聯隊記念塔がある。 「この記念塔は、主として55聯隊に在営した将兵に依って昭和29年に結成された55会の手によって、建設されたものである。ちなみに会長は元陸軍大尉、旧制佐賀高等学校教官であった、神野町在住の副島英彦氏である。」 さて、55聯隊の歴史を顧みると、聯隊の誕生は実に明治38年にさかのぼる。明治37、8年我が国は当時としては国の存亡をかけて大敵ロシヤと戦った。国を挙げて総動員の秋、明治38年4月17日、宇都宮第14師団、第28旅団の下に歩兵第55聯隊が編成された。初代聯隊長は東郷八郎左ヱ門、6月13日軍旗授与、じ来次のような軍歴を経過した。 歴代師、旅團長、聯隊長 師團長 旅團長 聯隊長 第一代 土屋 光春 児玉 軍太 東郷八郎左ヱ門 明38・4・17就職 第二代 鮫島 重雄 今村 信敬 倉田 新七 明42・11・30 第三代 本村 有恒 堀内文次郎 渡辺小太郎 明45・1・19 大2・1・4死亡 第四代 大迫 尚道 武藤 信義 長堀均之助 大2・1・15 第五代 神尾 光臣 山田良三郎 古賀 義勇 大5・8・6 第六代 柴 勝三郎 坂本政右ヱ門 大9・7・20 第七代 高山 公道 渡辺 寿 佐々木久雄 大11・8・15 第八代 金谷 範三 大村 純英 須田 実 大12・8・6 第九代 中村四郎太 広瀬 猛 五五聯隊は、大正14年からは、歩兵第四八聯隊の第3大隊が駐屯するに過ぎないことになった。然し第3大隊が久留米に移駐するに伴い、高射砲第4聯隊が設置されるようになった。佐賀県人会報という雑誌の、昭和10年10月号には同年7月30日に、このことが官報で発表されたと述べており、当時の古川県知事の喜びの談話が載せられている。高射砲第4聯隊のその後の経過は不明であるが、昭和18年4月、広島から電信第2聯隊が移駐して来て、部隊名は67部隊といい、部隊長は池田増雄大佐であった、(これは野口勘三郎翁記念碑落成式招待の来賓名簿で明らかである)、それが194補充部隊と変り、終戦当時まで続いた。最後の聯隊長は大田千太郎大佐であった。 これより先、昭和12年支那事変ぼつ発するや、佐賀を中心に柳川兵團が編成され、なお又佐賀市郡中心に藤山部隊が置かれた。大正14年以来宮中に奉還されていた軍旗が、その藤山部隊の軍旗として下賜された。有名な杭州湾上陸に、勇名を馳せ後各地に転戦、広東作戦、バイヤス湾上陸コタバル上陸等、幾多の作戦に参加した後、光輝ある五五聯隊の軍旗も幾万の将兵と共に最後はビルマ戦線において玉砕したと伝えられる。 さて昭和20年終戦と同時に、陸軍省は廃止され、兵営も大蔵省所管となった。終戦直後軍政が施かれ一時米軍が進駐していた。軍政部の高級将校達は、市内の民間の高級住宅を接収し、兵員は此の兵舎に駐屯したのである。その間米軍の不法行為、脱走兵の悪戯などもちょいちょいあったそうである。米軍撤収後は、海外引揚者の県営の集団住宅に供せられ、協楽園と名づけられた。 高木瀬村においても、元被服庫跡を授産場に充て高木瀬中学校を敷地内に建設した。協楽園駐在所、協楽園小学校も出来た。その他県の警察学校、農林省土木試験場、通産省石炭事務所、佐賀市消防署高木瀬出張所なども出来、練兵場は県の農業試験場となり、後総合運動場、射的場は金立開拓団として解放され、衛戌病院は国立佐賀病院となった。 ※記念塔は2019年にSAGAサンライズパーク整備事業のため、総合体育館西駐車場へ移設している。
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旧練兵場及び土取
日露戦争直後、陸軍兵舎、練兵場及びその造成盛土用地として、当時「高木茄」の特産地としても有名な優良農地を含む約40町歩(40ha)のうち、下高木地区が、土取場と共に最も広く強制買収され、民家数戸が村外、県外へ転出した。 また、土取場となった南寄り地域に「大神宮さん」と通称言われた所の石祠4~5祠も近隣民地に移転を余儀なくされ、うち2基は現存する。 ① 「天照皇大神」・・・・・・・・・・・・・小川春恵氏宅の庭に (安政四年巳十月 庄屋利助、村役幸吉) ② 俗称、お三夜さん「月読尊(月夜見命)」・・市丸賢太氏宅の庭に (明治4年末6月吉日、野口為助、永田惣助、野方丈七、久保伊興) 軍、民境地にあった川にかかる橋は、練兵場橋、土取跡にも土取橋(陸運事務所南東)、蓮堀橋に名前が残る。昭和に入り、日支事変の昭和12年までは、5月に軍旗祭といって一般にも兵営練兵場が開放され、入場でき当日は、日峯さん祭りと並ぶ盛会と、佐賀の名物行事だった。 昭和20年8月5日夜、(広島原爆投下の約10時間前)米軍の佐賀空襲で現練兵場橋東、約100mで被弾兵隊数人死亡、橋南約50mにあった軍、土木作業員、飯場が全焼。 昭和20年秋、占領軍駐留は、数年後に撤退したため、県農業試験場(昭和40年代前半、川副町へ移転)となり、毎年10月の農事参観デーは、名物行事となっている。 土取跡の池沼は、南北が蓮堀に、中間の約2町歩が県淡水魚試験場となり、毎年11月の「ホイホシ」(堀干し)は有名。(草魚、ドイツ鯉、雷魚はここより拡散)
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八戸城址
古来より八戸村の住民には、ここには昔、城があったと伝えられてきたが、今ではあまりに発展し、変わりすぎているのでその面影は感じられない。 しかしながら地元住民にいまだに伝えられている城堀(じょうぼり)、館の内(たてのうち)、出口(でぐち)等の地名呼称の場所及び、今に残る掘割や古図面等から推察するに八戸氏菩提寺龍雲寺を含めた八戸村(本村)と呼ばれていた。現在の新栄西、新栄東にまたがる、一部であると思われる。
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御船屋敷跡
藩政時代は八田にも佐賀江と同じく、海運が開け賑わいを見せていたと思われる。八田宿周辺は物資の集散と、城下町への人馬の往来も多く、茶店があり、荷揚場があり、舟の出入りを監視する屋敷や武家屋敷等があって今でも御船屋敷跡、荷揚場跡、今村屋敷跡が残り、昔の面影を物語ってくれる。
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佐賀馬鉄
明治37年2月28日に、佐賀馬鉄が創立されている。10月20日に、初めて片田江から諸富間に馬鉄が走り出し、翌年には、佐賀駅まで延長された。最初は、大崎の吉原病院付近に会社が設立され、12人乗りの客車十数台と挽馬20頭が用意された。 諸富から明治橋の間を10区に分け、1区の乗車賃は、1銭5厘であった。 佐賀駅から諸富まで2里20丁(約8.2km)を、約1時間かかって往復した。 資材は、東京馬鉄が電車と入れ替えたものを譲り受けたので、車輪が擦れてよく脱線し、その上子ども達が線路に石をのせたりしていたずらをしていた。 現在は、吉原病院の所に、佐賀馬鉄の記念碑が建てられている。
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国鉄佐賀線跡
昭和の初め頃は、諸富から佐賀市までの道 (国道208号線通称諸富国道) は、舗装がされていないため、石がゴロゴロした道路であった。 馬鉄も昭和3年までは開通していたが、人が歩くだけの道となり、トラック・乗用車はまれに通り、馬車、車力とリヤカーが走っていた。 歩くことが中心であった頃に、鉄道が走ることになったのは大きな変化で、国鉄佐賀線は、昭和4年3月に着工し、10年5月25日に開通した。建設のために、大木遠吉鉄道大臣(大木喬任の第3子)の尽力があったそうだ。 国鉄佐賀線は、佐賀駅からの駅は、東佐賀、南佐賀、光法、諸富、若津、大川、柳川、三橋、百丁、終点は瀬高駅であり、これらの駅から集団就職、戦争出征等でも利用された。(北川副町内には南佐賀駅と光法駅があった) 車両は最初はガソリンカーであった。 昭和62年3月27日に廃線となり、今は桜並木の自転車道と筑後川昇開橋と佐賀線しのぶ橋が残っているだけであるが、当時、南佐賀駅から光法駅まで植樹した桜は、今や見事な桜のトンネルを作っている。県外からの見物も多く絶賛の評価を受けている。
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山本常朝誕生地
中の橋小路、水ヶ江大通り、角の野田金物店から東に入って4軒目、戦前、県立病院臼井鉄治院長が開業していた臼井病院跡地に「葉隠口述者山本常朝誕生地」の石の標柱が立っている。 山本常朝は万治2年(1659)中野神右衛門重澄の三男としてこの地に生まれた。重澄は承応3年(1654)有田代官を辞任して64歳で佐賀に戻り、この地に住んで本藩に仕え、万治元年(1658)隠居が認められたのは4年後69歳のときであった。常朝はその翌年、重澄70歳の子として生まれた。常朝は幼少の頃虚弱体質であったが、父重澄はスパルタ教育で常朝を鍛えた逸話も多い。あの気迫にみちた『葉隠』を生む原動力となった。
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鬼丸聖堂跡
佐賀藩2代藩主光茂元禄4年(1691)佐賀二の丸に設立。元禄10年(1697)3代藩主綱茂二の丸聖堂を観頤荘内に移転する。当時佐賀藩の学問の中心であった。弘化3年(1846)10代藩主直正(閑叟)聖堂は弘道館に移される。広壮な観頤荘もいつとなく廃滅し何ひとつ名ごりをとどめていない。ただ広大な庭園は観頤荘の図によって当時をしのぶのみとなり、鬼丸聖堂は講堂「天縦殿」の額や孔子をはじめとする三聖像などが現在佐賀県立博物館に保存されている。 佐賀大学が文教にゆかり深い一角を占めているのはゆかしいことである。 【由来】 佐賀藩3代藩主鍋島綱茂は17違いの異母弟、多久5代邑主国家老多久茂文とともに学問好きの殿様として知られ部屋住みのころから経書にも通じ書画にも巧みであった。のちの5代将軍徳川綱吉の前で輪講を勤めたほどであった。多久茂文が貞享年中(1684〜1687)聖堂(後の多久聖廟)及び学校を建てようと志し、本藩の許可を願い出るとまず佐賀に建ててからということになり藩主光茂(2代)は世嗣綱茂の肝入りで元禄4年(1691)佐賀城内二の丸に小規模であったが孔子孟子ほか四君子の像を祀って聖堂を設け諸人の礼拝を許した。 【注】 経書 儒教で聖人賢人の言行や教えを書いた根本経典四書五経 儒教 孔子を祖とし仁義道徳を説き、身を修め家をととのえ天下を治めることを目的にした政治道徳の教え。中国歴代の正統思想として重んぜられ、わが国にも古くから伝来して大きな影響を与えた。
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水ヶ江城
第14代龍造寺康家が村中城を次男の家和にゆずって水ヶ江に隠居し館を設けた。更に分家筋の家兼(剛忠)にゆずった。家兼は龍造寺氏の守りを強化するために城を築く。それが水ヶ江城である。このことは大内氏・大友氏の攻撃に備えるためだったと思われる。家兼(剛忠)は戦国武将として活躍し、分家が本家村中城をしのいだという。龍造寺隆信はこの地でうまれた。
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古賀忠雄誕生地
古賀忠雄は、明治36年に佐賀市水ヶ江町105番地(現在の水ヶ江五丁目)に生まれている。 この地に、古賀忠雄誕生地の標柱が昭和61年3月31日に建てられている。 古賀忠雄は、幼少より図画、手工、習字などにすぐれ、附属小学校高等科を卒業後、佐賀県立有田工業学校図案絵画科入学。この間、日本画家腹巻丹丘に認められ、東京美術学校彫刻科彫塑部本科に入学。 在学中、第10回帝展の「仏心」を出品し初入選する。昭和14年36歳の時、第3回文展(戦後日展に改称)へ「岬の男」を出品、特選を受賞する。後に第5回文展出品「建つ大東亜」で帝国芸術院賞を受賞し確固たる地位を築く。戦後は、日展委員、審査委員、参事等を歴任、昭和42年日本芸術院会員となり日展常務理事、日本彫刻会理事長、陶彫会会長等の要職を務め多忙を極める中、深い情緒性と力強さのあいまった作品を発表し、日本彫刻界をリードした。
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佐賀米穀取引所跡
江戸時代の税の納め方は米で納めるという米納制度で、明治政府は明治6(1873)年の地租改正条例により金納制度に改められた。 そのため米穀を換金するための、米穀市場が必要となった。株式会社佐賀米穀取引所は、明治27年(1894)佐賀取引所を母体とし、佐賀市松原町に設立された。取引所の売買は、東京や大阪と同じ競り売買で行われ、米の受け渡し場所は県内各地や県外に設けられた指定倉庫とされてきた。 初めの頃は、売買も1日に2回、大阪の堂島米穀取引所の相場を見ながら行われていたが、売り上げ、出来高は順調に伸び、仲買人も年毎に増加し、業務規模も徐々に拡大され、資本金も設立時の3万円から明治34年(1901)に10万円に、さらに大正9年(1920)には30万円に増額された。 佐賀米穀取引所は、佐賀県経済の発展に大きく寄与したが、昭和14年(1939)9月、政府の米穀統制強化の結果米価が一定となり、明治以来60有余年の歴史に幕を閉じることになった。
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室園遊廓の跡
この室園遊廓のあったところは、佐賀藩唯一の河港があったところで、有明海から筑後川をさかのぼり佐賀江を通って今宿に至るもので、物資の流通と人の交流が盛んで商業が盛んなところでした。 室園遊廓には、北の方からと東西からの入り口がありますが、北と西には昔ながらの石橋がかかっていて、その欄干には遊廓の名前の屋号が刻まれていて、かつてここが遊廓として大変賑わっていた昔の面影を、彷彿として今にして思い出させる歴史の一端を残しています。 この遊廓は、明治中頃からここに集中して歓楽街ができたと云われていますが、昭和初年頃には12軒の遊廓があったとのことです。大正4年には約150人の女の人がいて年間2万8千人くらいの客で賑わったと云われています。 大正後半から昭和初年にかけて、病に罹患する青年が多くなったので、昭和3年9月1日から病気の予防取締法が実施され、多くの論議を呼びました。 また、武雄町では遊廓から集団で抜け出し、佐賀の『佐賀婦人矯風会』に保護を求め大きく問題化したこともありました。昭和31年婦人団体などを中心とした世論の力で売春防止法が成立し、昭和33年(1958) 3月までに転廃業し、公娼制度に終止符が打たれました。現在でも当時の面影を残す旧楼の建物が数軒残っています。
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蛎久府跡
蛎久は肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地であった。南方一帯は渺茫たる海を控えたが、景行天皇の27年日本武尊川上梟討伐の時、竜船此地に碇泊し、蛎殻が多かったので蛎久という様になったと伝えられている。そして沖合には沖の宮というのがあり、今も沖田の名が残っている。なお江里、江頭、江口、津留などの地名もこれに基づくらしい。其のほか町内には納徳、帆立、船比良等の場所がある。これは唐人納徳破船のあとだと言い、数年前まで水中に帆柱が見えていたと言う。 文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設され、九州一方の大都会として国内市場の中心であった。更に天喜2年(1054)太宰府神社の御分霊を勧請し、奉祀して文教の神、誠の神として、氏子発展の産土神として町民の崇敬をうけ今日に至っている。この様に久しく威勢を保ち、戸数三千を擁し、殷賑を極めた蛎久も大友、龍造寺の兵乱が相つぎ、遂に国府も移転し、僅かに百余戸の農業小集落となってしまった。
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来宮丹後守城跡
來宮というのは450年前後柏原天皇の御宇伊東丹後守の建立したものである。元来伊東氏は伊豆の国伊東から肥前に下り、西新庄西分に一城を構え、其城より鬼門に当たる地に、大永年間(1521〜1528)北山より青石多数を取り寄せ、この石を以て山を築きその頂上に一宇を創建し、一家の安穏繁栄を祈ったと伝えられている。 又、社殿の坤の方には大屋敷という広い畑があり、これが丹後守の城跡であったという。また鍋島直茂の今山夜襲戦の頃は豪族伊東兵部少輔祐俊が、当地方の住民多数をつれ勝楽寺に案内し、大いに慰撫従軍したという。伊東家の菩提寺は東善寺にある。
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蛎久市場跡
文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設された。蛎久の市は主として中国貿易を営み、日中人雑居の市であり戸数3000余に及び、殷賑を極め、絹布、宝玉豪商軒を並べ、歌舞音曲も盛んであった。当時製作販売する所の商品の特産物を坐と言い、商品の種類によって五坐、六坐などと呼び、例えば線香、煙草、秤、元結、火薬なども各一坐と言ったものである。現在市場跡として恵比須、大黒天石像がある。また昔の繁華の面影を偲ばるるものとして、西川原より東の出口鶏殿小路辺に至るまでの道は、昔のままでその道幅の広い事で想像される。
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石井樋の戸立て堰の跡
昔は嘉瀬川に戸立て堰を作り水位を上げて多布施川に水を流す為の堰の在った所で、現在は川上神社横の頭首工より別水路で多布施川に流して居るので、現在は不要に成り流水の邪魔になるので取り壊された。その後皇太子成婚記念行事として平成17年に復元された。
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城山中世山城址
川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、ここに何らかの施設があったのではという想像をかりたててくる。 この城址は何時、何人によって造営されたものかは不明であるが、神埼の城原地方にはこの種の、しかも大規模な中世山城址の存在が知られており、当地のそれも同時期のものと推定できる。 いずれにせよ、当地は、北は脊振東は神埼南は佐賀平野を望む交通の要衡であり、この地に何らかの「砦」的施設があってしかるべきものであろう。 東鹿路から妙楽寺へ出る道を「川久保道」と昔から云っていた。この道は、山内の三瀬・脊振はもとより、福岡・唐津への近道でもあり、川久保を通じ平野部へ通じる重要な交通路であった。 この開口部にあって、山内の様子も平野部の様子も手に取るようにわかり、三方を険しい崖で囲まれた要害は、山城として持って来いの場所である。従って古代から砦なしの城の機能があった。 この山頂の南から北へかけて、深い堀が二重にある。これを間道という。日の隈山から北の城原へかけても、この間道が遺っている。 兵を動かす為か、防禦用だったかわからない。 いつ、誰が、どの戦に使ったかも戦記には見当たらない。 或る人は、神代の砦があったとか館・曲輪があったと言うが、古代から中世までは使われても、神代が芦刈から戻ったときは、既に龍造寺・鍋島の配下となっていて、こんな要害を使わせる筈はない。神代の館は平地に設けられた筈である。 勝宿神社前の通りを「馬責馬場」というが、武家屋敷の近くの馬の調練場・合同馬管理場の外に駄馬待合所、牛馬売買所の場合も馬責馬場という。八ツ溝南の「下馬責馬場」も同様である。
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八ツ溝古戦場
神代勝利の子、長良は、永禄8年(1565)3月に父を亡くし、4月には子供2人の急逝にあい、悲嘆にくれていた。 たまたま、千布友貞の土生島青土の砦にいた4月の23日に、龍造寺隆信の長臣納富信景がやって来て、悔み述べると共に縁組の復活の話を持ち出し、隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出て帰った。 ところが、その日の夜には納富の率いる大軍が、手薄な千布砦を包囲し攻め込んで来た。長良は不意をつかれ、家臣古川佐渡守嫡子新四郎等数名でやっと囲を破って脱出し、山越えして筑前の戸坂に身を隠した。 これを「千布崩れ」という。 翌年、長良は再び山内に迎えられたが、如何にして去年の仇を晴らそうかと家臣の古川と計り、干ばつなのを幸い、納富の領地へ流れる水を八ツ溝で堰き止め、一滴も流さなかった。納富はこれに憤り、息子の納富治部大輔に屈強の兵を大勢つけ、5月9日堰崩しにやらせた。古川は兵を四手に分け、三手は川の近くの窪地に伏せさせ、中央の一手を農夫に装わせ八ツ溝近くで納富勢をおびき寄せさせた。納富は増増怒り、自ら陣頭に立って中央隊を攻め、遂に南原まで攻め込んだ。ここで伏兵の三手はときの声を挙げ攻め立てたが、敵もなかなかの強者ぞろい、反撃を繰り返したが、古川兄弟の槍には勝てず、治部大輔も討取られ他の将兵もことごとく討死した。この戦を「八ツ溝合戦」という。 これで千布の恨みも晴れ、中佐賀一帯は神代が支配するようになった。
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川久保焼 窯跡
川久保の両県道交差点を東へ1粁、左手の小高い山を皿山という。西が千葉胤正の屋形山、東が古墳のある大塚山で、中央の皿山の北斜面の密柑畑の中に『川久保焼窯跡』の標柱が見える。 傍らに3m角の窯壁が見え、下にも二段位ある登り窯である。窯の底部は作物があって見られないが、付近から半磁器の皿や碗それに窯の中で使うトチン、変形不合格品の破片が転がっている。 灰色地や褐色地に上薬=釉がかかったもの・かからないもの、灰色釉・飴色釉・ヒビ焼風・赤絵のあるものなどが見受けられるが、作は悪くない。 大塚山北端・屋形山東斜面にも窯の遺構がある。 この窯は、元禄の初め1690年頃、神代6代邑主直長(鍋島勝茂の十男)が、韓人陶工に築かせたと伝えるが、朝鮮侵攻から100年経っているので、末えい=子孫だろうか。また、ここで長くは焼いていないようなのは、製磁に向かない土だったのか、或は大川内へ移動させられたのか。いずれにしても散逸する前に早く本調査を期待する。 西原お茶屋跡から、お茶屋火災直後、焼物の鋳込型数種が発見された (川原末四郎氏提供)。また近くから薄青磁の香炉や菊形の皿が出土した。窯跡は探せなかったがこの近くに窯が築かれていた、と伝える。 名付けて『御茶屋焼』又は『お庭焼』と呼ぶ。神代15代邑主直宝が、明治の初期焼いたという。
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祝部窯跡
小清兵衛西端 関行丸古墳の南に神籠石の説明板がある。これから東へ250米、突き当たった処が小清兵衛山で、南の方3米のところに窯跡があった。これが『祝部窯跡』である。道路拡幅で削り取られた。単窯で、焼成度は600度位、短時間焼いたので赤褐色のままで、もろい。 埴輪・杯・皿・坩などが焼かれたらしく、すぐ北の溝の中からその破片が見付けられた。主に祭祀用に使われているが、町内から祭祀遺構が発見されていない。質が脆いこともだが、祭祀の後で器物を壊す習俗があり、残物が見当たらない。 葬儀後、出棺時に本人の愛用した碗を門口で地にたたきつけて壊す習俗は、今も各地に遺っている。
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土師器土器窯跡
古墳時代前中期から奈良時代まで使われていた土器で、7〜800度の焼成だから幾分硬く黒灰色又は黄褐色。文様はなく素焼。皿・碗・高杯・壷などが作られた。西原古墳や金立西隈古墳から一点ずつ出土しているが、古墳後期(6世紀から7世紀前半)の住居跡からは多数出土しているので、日常生活に使われたということだ。 であれば、町内か隣町に窯がなければならない。未だ見付からないので、探索中である。白石原までも下っただろうか。
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須恵器土器窯跡
神籠池北岸・不動滝下・后浦 神籠池北、ひの口の東5m程のところに、黒ずんだ箇所が堤防からも見える。登り窯なので縦に細長い。1千度を越える焼成だから製品は硬い。 不動滝下には、癒着したもの・歪んだものが散乱するが、昭和28年、村の青年団の協力でハイキングコースの整備をしたその時、上分だったか西原だったか青年が、壷形土器と皿の完成品を発見した。この壷は火葬骨の蔵骨器とみられ、祐徳博物館に保管されている。なお、不動滝下は平安前期の窯とされ、数少ないものだが、壊れるにまかせ本調査をしていない。后浦は溪谷近くまで開墾され、破片のみで窯跡不明。
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お茶屋跡
川久保には、小学校北に広い地域の『屋形』がある。東の屋形は隈本山の麓古川氏方前をいう。ここは大阪在の神代良夫氏系の屋敷跡で、戦災前の系図で確認した。西の屋形は学校北のことだろうか。 勝宿社前に館があったと言う人もあるが、確証がない。 西原東の「お茶屋」には、城内の神代屋敷(今の県庁舎一帯)からたびたび直系が訪れ、或は明治前後は居館として使用されていた。『川久保別邸内に享保年間(1716〜1736)、館新営』とある。ここがお茶屋という名で「川久保さん」(神代直系)が起居したであろう。 茶室があり、館があり、お庭焼の窯跡や学舎があったであろうお茶屋は、直系や家臣の離散・代替りで屋敷は転々と人手に移り、今は顧みる人もなく、それこそ根刮ぎ土取場となって、昔の面影は全く失せた。