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[旧佐賀市][ 寺]は139件登録されています。
旧佐賀市 寺
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本行寺(日蓮宗)
1510年(永正年間)頃、龍造寺胤家が開いた佐賀市最大の日蓮宗寺院です。 墓地には、治水事業の功労者、成富兵庫茂安と明治の元勳江藤新平の墓があります。 寺宝の毘沙門天立像は、佐賀市の重要文化財です。
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天祐寺(曹洞宗)
龍造寺氏最後の主、駿河守高房の菩提を弔うため、1615年(元和元年)佐賀藩藩祖、鍋島直茂が建立した寺です。 藩政時代には、曹洞宗八ヶ寺の一つで、藩主といえども門前下乗の格式が与えられていました。また、佐賀城の支城として建立されただけに、寺内の規模も広大でした。明治4年、龍造寺、鍋島両家に縁故のある各寺の墓碑一切が高伝寺に集められたとき、高房の墓碑も移されました。昭和初年、改築整理されましたが、なお由緒ある寺としての風格をそなえています。 墓所には、今山大友陣の殊勲者の百武志摩守の塔や、佐賀が生んだ大学者で鍋島治茂公の侍講をつとめた石井鶴山の墓や田中儀右衛門の墓があります。
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西念寺(浄土宗)
1590年(天正18年)創建の浄土宗寺院です。開山は惣誉上人で、もと武士階級の菩提寺であったということです。 幕末に閑叟公の側近として、長崎での対外交渉、兵器買い付けなどに活躍した伊東次兵衛の墓と碑があります。
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泰教寺(日蓮宗)
開山は、日潤上人で、開基は有名な鋳物師、谷口清左衛門尉長光によって、佐賀藩における鎭西本山松尾山光勝寺の佐賀布教所として開かれました。 寛永年間には谷口清左衛門が佐賀城の鯱を鋳造し、1698年(元禄10年)には、谷口安左衛門が春日村の玉林寺に、肥前一の大梵鐘を鋳造しました。八戸の地蔵尊なども谷口一門の作でした。それらの技術が、この地に佐賀藩の洋式鋳砲をつくらせるきっかけとなったのです。谷口両家の歴代の墓は泰教寺にあります。 明治16年、子孫の谷口清八がこの地につくった谷口鉄工場は、西日本の大手工場の一つで、福岡市東公園にある、日蓮の銅像などもこの工場で作られましたが、昭和初年の金融恐慌で工場は倒産しました。
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専修寺(浄土真宗本願寺派)
1594年(文禄3年)菊池肥後守が開基し、開山は、願心と伝わっています。現本堂は、1883年(明治16年)当時の商人、伊丹文右衛門が改築寄進しています。当寺には、伊丹一族の墓と「精煉方」で活躍した鋳砲技術者、中村奇輔の墓があります。 ※『佐賀県近世史料第十編三巻』p124によれば、開山は宗基、第二世が願心とあり。
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龍雲寺(曹洞宗)
開山は、大用宗俊。1532年(天文元年)龍造寺家重が村中龍造寺家和の養子となった於保胤宗(後の八戸氏)の妻などを弔うために建立したということです。 「葉隠」の口述者、山本常朝は、1570年(元亀元年)に、龍造寺氏との争いで戦傷死した八戸宗暘の子孫です。常朝は、1719年(享保4年)に61歳で没しました。墓地には「旭山常朝菴主」と彫られた墓とその一族の墓があります。 常朝の墓の背後にある顕彰碑は、葉隠研究家の中村郁一が建立したものです。 また、ここには儒学研究の資料となる「多久安輝の墓誌」(佐賀市重要文化財)があります。 龍雲寺一帯は、室町時代八戸一帯に勢力を誇っていた豪族於保氏(のち八戸氏と改める)の居館跡である。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』のp8「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」の解題によれば、「龍雲寺はもと済家宗水上派に属す慶聚寺といい、天文元年(1532)大用和尚中興地で、八戸の地に移り、慶聚山龍雲寺と改める。開基は悦心妙慶大姉(功(剛)忠公姫)、開山を大用の先師奇伯和尚(長州太寧寺)とし、二世中興大用和尚とする。天文十六年まで住持を務める。」とあり。
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地蔵院(曹洞宗)
地蔵院の朱塗りの山門をくぐると、地蔵院本堂前に1732年(享保17年)に建立された見事な地蔵菩薩が建っています。享保17年の飢饉で多くの餓死者がでたと伝えられており、その霊を慰めるために建てられたとみられます。 疲れた足を止め、合掌すると、何やら安らぎを感じるのは昔の旅人ばかりではないようです。
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長安寺(浄土真宗本願寺派)
1578年(天正6年)浄因法師が開基したと伝わっています。ここには刀匠橋本新左衛門忠吉(肥前忠吉)の2代目から9代目までの墓があります。初代忠吉は現高木瀬町長瀬で生まれ、代々刀鍛冶を営み、佐賀藩主の御用職抱工となりました。3代までが代表作として高く評価されています。
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清心院
永正年代(1510年前後)龍造寺豊前守胤家が居館とした。後年、西の館に移って、ここはその子の斎亮に譲った。斎亮は、深く仏を信じ、豊前の国彦山権現に参籠修行し、遂に僧となり、清心院と称することになった。やがて、居館を寺としたので法号をそのまま院号とした。 慶長年間、佐賀城構築のときから、この寺が城の東北隅にあるので、鬼門鎮護の道場とし、西北隅の天祐寺とともに、佐賀城の出城の役目をしていた。現在でも清心院の周囲には堀が残っていて、当時の要衝の地であったことを偲ぶことができる。
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願正寺
関ケ原の戦いに鍋島勝茂は西軍の豊臣方に加わり、伏見城を攻め下し伊勢の阿濃津城を攻めている間に、東軍の徳川方が勝利し西軍は敗北した。このため鍋島勝茂はたちまち進退に窮してしまった。このとき、小城出身の金持院元佶長老と、西本願寺の准如上人が、中にたち斡旋につとめたので、鍋島家も危機を脱することができた。これによって鍋島家では元佶長老のため小城に三岳寺を、西本願寺のためには、佐賀に願正寺を建立して報うることにした。願正寺には鍋島家から四百石の寺領を与え、また三岳寺にはその門前を寺領となしたので、今でも寺の一帯を門前と云っている。後に南禅寺の住職にもなった。佐賀藩領にはドミニコ会やイエズス会のキリスト教会があったが、その導入の際には、仏僧との対立で大変険悪な状態であったが、多くの反対のなかで元佶長老はこれを快諾したので、これを聞いた人は驚嘆し、なかなか信じることができなかったと云われている。願正寺は、鍋島家のためによく勤めた。寛永2年洪水のため千栗堤防が2ヶ所決壊したときは、国内の門徒を集め、その一手だけで天建寺前の660米を修復した。費用も門徒で負担したのでこれを御馳走土井と云うようになった。また、天明年間には、杵島干拓の潮止め工事に人夫を延べ3万6千人を出し完成を助けた。愛宕神社前の川を『新堀川』又は『真宗堀』と呼んでいるが、これは願正寺建立後、鍋島家が領内の真宗僧侶門徒はすべて西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、首謀者は許されたがその罪を償うために掘らされた堀である。明治16年初の佐賀県臨時県会が願正寺で開かれ、明治19年まで同寺で県会が開かれたこともあった。願正寺の鐘が佐賀城本丸の時太鼓とならんで、佐賀城下の時鐘として用いられたのは、元禄9年(1696)からで佐賀城本丸の時太鼓は、藩役人の出勤時刻を知らせていたが、願正寺の時鐘は佐賀城下の市民一般に時刻を報じていた。この願正寺の鐘にヒビが生じたので、造り替える金もなかったので、春日村の『玉林寺』の梵鐘を譲り受け高寺付近から時の鐘を鳴らし、昭和3年4月に廃止した。願正寺鐘楼は全体的に屋根造りは重厚で美しい線形をしており、鐘楼としては伊勢町の真覚寺が佐賀市の文化財に指定されているが、これに勝るとも劣らないものである。
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殿さま御成りの間(願正寺書院)
現呉服元町の願正寺には、藩主の御成間と伝えられる書院が残されている。本堂の東側、庫裏との間に南面して建つ。屋根は、切妻造桟瓦葺、梁間は2間半で、南側に1間幅の下屋庇を降ろし、側まわり柱上には舟肘木を載せる。間取りは、西側に十畳の座敷、その東側に二十畳の次の間を並べ、南側にそれぞれ1間幅の入側線を付け、境は竹の節欄間を載せた杉戸で仕切られる。座敷は1間幅の付書院に、天袋、崩型の違棚を備え、床框は漆塗り、床構えの造作に優れる。床柱、長押は面皮付の杉村で、次の間東側にも杉戸を入れる。部屋境には上下に壁を挟んで筋欄間を入れる。 豊増龍太家(八幡小路)の造作と比較すると、柱幅、内法高、柱間、天井高など、数値的には近似をみるが、使用材料や装飾に差が見いだせ、藩主の御成間にふさわしい格式を示している。元禄15年(1702)建立の本堂があり、また本堂前の石灯籠は宝永5年(1708)の刻銘を持つので、この間に庫裏を含めて建立されたと推定され、様式から判断しても元禄から宝永頃の書院として間違いない。 佐賀城下に残された最良の書院遺構として、建築年代、建築的質、建築の由緒から見ても第一級の価値を有する。
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願正寺本堂・初の県議会会填
願正寺は慶長5年(1600)の創建であるが、現在の本堂は元禄15年(1702)の建立で、3代佐賀藩主・鍋島綱茂が大檀越となり、親類同格の多久家・多久茂文が廰主となって、当寺第6世慶海を願主として竣工した。 佐賀藩内の真宗の中心寺院として建てられた、13問四面の、九州でも有数の大きい木造建築である。歴史的に見てもほかに類をみない年輪と機能の集積を重ねた貴重な建物である。 天井裏の骨格はいろいろな種類の木材が組み合わされており、お殿様の御声がかりで藩内各地から木材が集められたようである。 また、本堂内陣と外陣の巨大な丸柱と天井の格子板はすべてケヤキ作りであり、今日では外材以外では復元不可能といわれる貴重なものである。 なお、この本堂では本来の参詣者用だけでなく、たとえば明治16年8月、初の佐賀県議会が開かれ、19年1月の臨時県議会まで通算7回の議会開催に使用されたと思われる。 当時はまだ、大勢の集会ができる大きな建物がなく、産業関係など、さまざまな会合や催しに願正寺などの城下の本堂が使用された。
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国請寺跡
高僧行基菩薩の足跡は、九州各地に散在するが、聖武天皇の天平10年(738)筑紫国巡歴の途中、若宮村牟田の地に立ち寄った。この地を一国一寺の大伽藍の地と定め、自ら本尊観世音菩薩を彫刻してこれを祀り、天台宗国請寺を創建した。 しかし、中世頃から住僧がしばしば転住して、寺院は次第にさびれ、観音堂だけとなった。元和2年(1616)佐賀藩主鍋島勝茂は僧快舜に命じ、この寺院の再興を図らせたので、その後は代々住職も居付き、明治維新頃まで、牟田在住の鍋島安芸守の祈祷寺として管理されていたが、明治17年(1884)頃廃寺となった。 今は昔の面影はなく、境内も全く田んぼと化した。わずかに四周の堀と歩測100歩余りの参道があるが、境内はおよそ1町歩あったと記録に残っている。田んぼの中央に残っている墓地と火葬場跡付近が、本堂の跡ではなかろうかと言われている。
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下分方面の寺院跡
千住の経島寺が兵庫町に現存する最古の寺院であるが、下分には千住から牟田寄にかけて、寺院跡と称するものが多く残っている。光明寺跡、阿弥陀寺跡、伽藍跡、それから少し離れて本明寺跡、有通寺跡などがそれである。どれも牟田寄地区にある。またその間に、点々として井田観音、井田屋敷、弥吾屋敷、弥吾橋などの跡が続いている。しかもこの地方から古代土器、オグラと称する砥石、石造りの厨子などが発掘された。これらのことから察すれば、牟田寄方面は昔(奈良朝前後)堂宇、伽藍が立ち並び人家もかなり集まっていたものと思われる。 平重盛が千住の霊地を選んで経島寺を建てたというが、当時、同地方は仏教の聖地として世間に聞こえた所であった。光仁天皇の宝亀7年(776)、佐賀郡の大領(郡司)正七位上・佐嘉公児公が安居会を設け、戒明法師(大安寺住職、大徳の僧、筑紫国府の大国師であった。)を招請し、信者たちに八十華厳経を講義させ、大いに仏教を奨励したとあるが、本郡の仏教がなかなか盛んで、下分あたりはその一中心地ではなかったろうかと考えられる。
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経島寺
曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 由緒 高倉天皇時代(1177頃)小松内大臣、平重盛建立。開山僧は不明であるが、天正6年(1578)千住伊賀守が四国の僧、湛蔵司を請じ住持とした。寺内に重盛の位牌があるが、1枚石で総高1尺6寸、表面に「当寺開基小松府殿贈一品内大臣左相浄蓮大居士」裏面に「治承三年己亥八月朔薨、元禄十丁丑八月朔日鍋島内記藤原朝臣茂英敬奉安置之」と刻んである。墓所内に千住伊賀守の墓、及び姉川の城主として有名であった姉川弾正惟安の石碑がある。 第1世中興開山無着妙融大和尚以下11世を経て、忍海徳山大和尚(古賀徳山)は堂宇を再建し内容も充実、再中興の実績をあげた。徳山師は永平寺の高僧森田悟由禅師に従い、全国をまわり布教され、特選宗会議員に推挙された。昭和6年10月、69歳で入寂された。当山13世中沢明男大和尚は昭和49年3月入寂。
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光圓寺
本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 後陽成天皇の頃、仏道に帰依して入道した直茂の一族である鍋島伊賀守道虎は、法名を生三と号して、堀立区外野の東端に館を建て、ここに居住していたが、慶長5年(1600)に一寺を建立した。 天保4年(1833)8代雪村住職の時に、現在の堂宇を再建し、更に昭和3年俊隆師の代に大改築をして、面目を一新した。当寺は創建以来聞慶寺と称したが、明治維新の始め、地方庁の寺院名簿に光円寺となっていたので、その通りに改称された。
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正見寺
真宗本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正2年(1574)建立。開山は皆念和尚、現住職は傍見譲了師である。
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福寿山無量寺
曹洞宗 本尊 千手観世音菩薩 由緒 天正12年(1585)3月、中牟田七郎衛門は隆信に従って島原の役で戦死した。その子中牟田喜左衛門は、父の菩提を弔うために、かねて尊信した珠鎮和尚を迎えて開山とし一寺を建立した。しかし明治36年火災に遭い、堂宇を始め一切を焼失した。 当寺は中牟田家の開基で、その末裔故海軍中将子爵中牟田倉之助の発願で同年末、現在の堂宇が再建された。落成記念碑は本堂前東側にある。
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光輝山 敬法院
曹洞宗 本尊 釈迦如来 由緒 不詳。現住不在で前住は4世、東延成師であった。
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東渕山 恩林寺
曹洞宗 本尊 地蔵菩薩 由緒 創立は不明であるが、およそ200年前という。多数の寺領があったが、現在は民家の手に移り、恩林寺田の名が残っている。春日の玉林寺の末寺である。 本尊の地蔵菩薩は、地区住民の尊信厚く日々参詣者が多かった。しかし本尊の御開帳は許されなかったそうで、罹病者がある場合はお籠りして祈願すれば必ず治るとのことであった。
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福聚山 寿徳寺
曹洞宗 本尊 観世音菩薩 由緒 鍋島直茂に祈祷を申し付けられた国分寺住職勢岩和尚は、毎月佐賀城を訪れたが、遠路のことで藤木村に中宿して休息するのが常であった。 この勢岩和尚が、天正6年(1578)遷化されると、「自分の命代りになった」といって直茂はたいへん感激し、関平兵衛、勝屋勘右衛門の両人に命じ、藤木村に寿徳寺を建立させ、勢岩和尚の弟子在室和尚を開山とした。本堂庫裡とも明治26年(1893)の大暴風で倒壊したが、大正7年(1918)、先住17世原口啓一師によって再建された。
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万徳寺
真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正年間(1580)頃、源左衛門尉正国という武士が発心して、一山を創始し万徳寺を建立した。始め真言宗であったが元禄8年(1695)真宗に改めた。初代住職は善幽和尚で、現住職は12世杜田善雄師である。
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妙常寺
日蓮宗 本尊 護国大本尊(元冠の役の時、宗祖日蓮上人が身延山中で書いた大日本衛護大曼荼羅) この大曼荼羅に西尊、四士、文殊、普賢、四天、二明、宗祖日蓮上人が梵字で表示されている。 由緒 現在妙常寺に合併されたが、その隣に元中年間(1380)頃、相良肥後守の発願によって建立された渕川山本照寺があった。開基は肥後守の嫡男日乗上人である。渕川城主、空閑参河守も本寺の檀家であったので、内室日恩大姉(龍造寺家兼の息女で直茂の養女、天文5年(1536)逝去)の墓も同寺にあり、位牌も安置されている。このような関係で御茶湯田1反4畝の外に田地1町3反7畝の寺領も得ていた。 その後隆信御代に当寺住持14世日秀僧へ祈禱を命じられ、また直茂夫婦より関が原の戦勝祈禱、勝茂よりも大坂陣の戦勝祈禱の命があり、寺領田地4町歩を得ている。龍造寺、鍋島家の信仰が厚かったが、しだいに寺運衰え、隣寺妙常寺に合併された。 妙常寺は後柏原天皇の永正年中(1510)頃小城地方の豪雄、千葉介胤繁が建立した寺で、寺領2町を有し、龍造寺、鍋島両家の尊信も厚かった。100年前、寺家究調の際、寺領没収の災難にあったが、住職順法院が納富治部太夫の兄であったことから屋敷若干を下付された。当時は旧藩時代、日蓮宗12か寺の一つとして色衣聖人の寺格で優遇されたが、幕末の廃仏毀釈の大変革によって退廃した。しかし当山中興27代日孝上人(大正9年8月遷化)続いて28代真木孝淋上人などの不断の精進による布教、伝道の結果、遂に昭和元年、2万数千円の巨額の寄進を得て、現本堂の大改築が成就した。
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照林寺
曹洞宗 本尊 聖観世音 由緒 不詳であるが、墓碑面に元禄、享和、享保の年号を刻んだものがあるので、相当古い歴史をもつと思われる。明治34年法地許可。
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大仙山 長興寺
曹洞宗 本尊 薬師如来 由緒 380年前、大宰少弐の末裔下村生運を開基とし、勅特賜、仏鑑大光禅師を開山とする。 本堂は、天保年間(1830〜1843)に初代下村辰右衛門によって再建された。観音堂は昭和30年解体したが、これも同人の建立によるもので、子孫繁栄の祈願をこめて総瓦ぶきのお堂に33体の観世音菩薩を安置し、両側に不動明王、自己の木像を安置した。長く集落民の集合所となり、青少年の勉強場、遊び所に使用されて荒廃が早かった。 下村辰右衛門家の田地は兵庫町内にも多く、明治末期、養子4代辰右衛門は多額納税の貴族院議員であったが不幸にして没落した。その娘婿は「次郎物語」の著書で有名な下村湖人氏である。
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東光山吉祥寺
真言宗醍醐派 本尊 不動明王 由緒 当寺は寛文年間(1661〜1672)鍋島山城守藤原直氏が鍋島家の祈願所として、豪伝大僧都を開山に迎えて創建した。直氏は子孫隆昌を願って寛文11年(1671)3月豪伝大僧都を導師として、大乗妙典1万部を写経し、さらに延宝9年(1681)9月、再び大乗妙典1万部を写経した。この写経本を境内に埋蔵し石塔を建立して供養した。 また鍋島直愈は宝暦5年(1755)5月、英弁大僧都を導師として、大乗妙典1万部の供養塔を建立した。鍋島家代々の信仰厚く、その祈願所として隆昌したが、明治初年寺録の返還を命ぜられ、寺運退廃して伽藍も消滅し、廃寺同様となった。地区住民はこれを遺憾としその再興を計った。 ※『佐賀県近世史料第十編第一巻』のp214、天明7年(1787)の寺社差出によれば、東光山吉祥寺はこの時代には天台宗で、「当寺儀、寛文元辛丑年山城殿先祖勝直(ママ)殿代、為祈願所 豪傳大僧都中興ニ而建立有之候事」とあり、豪伝大僧都は中興としている。開山は「快久法印 年号相知不申候」とあり。
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兵庫町の寺院台帳に残る寺跡
下渕、長泉寺。藤木、祐林寺、高月庵、盛秀院。東中野、善応寺。西渕、宗善寺。堀立、善定寺。
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法専寺
浄土真宗本願寺派で撫松山法専寺と称し、本尊は阿弥陀仏立像である。この寺は永禄年間池田主馬(法名善教)開基とされている。その由緒について伝えるところによれば、主馬は兵庫町牟田寄の豪族で、その昔大友勢が佐賀に乱入した時、龍造寺隆信に従い、一族百余騎を率いて軍に加わり、豊後勢を巨勢野に破り、敵将臼杵式部少輔以下多くの敵兵を破り大功を立てたという。その功績に対しての恩賞の時、考えることがあって、隆信に請うてこの寺を建てたと言われている。初代藩主勝茂の時から、南無阿弥陀仏6文字になぞらえ、御切米6石を下賜された。当時の将の鎧兜が寺に残っているそうです。
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安福寺
記録によると、大徳山と号して臨済宗東福寺派で開山は君山和尚、本尊は阿弥陀如来と伝えられている。この地の豪族であった井原氏と関係の深い寺だったとも言われている。裏に井原氏の墓が並んでいる。明治になって新しく住職が来られて浄土真宗に変わった。
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竈王院(かもういん)
竈王院の本尊は阿弥陀如来、開山は応誉上人、開基は竈王童子とされていて浄土宗である。元徳4年(1332)4月の河上神社の記録に「巨勢荘竈王院那禅坊知行免田三町」と記録されており、当時巨勢荘の荘園納品を扱っていたようである。大変古い寺のようであるが、今の浄土宗になる前は天台宗だったとのことである。天台宗は平安時代に出来たもので寺の古さが想像される。