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[旧佐賀市][ えびす像]は44件登録されています。
旧佐賀市 えびす像
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鯛えびす
飲食店がひしめく東魚町の中を流れる裏十間川にその名も「恵比須橋」がかかっている。 その橋のたもとに座するのがこの「鯛えびす」である。 この像は、実は横を流れる川底から見つかったものを地元の町内会の人達が再興し、丁重に祀っている。昭和30年頃までは「かっぽう組合」が主になって御祭りを行いそれに参加する子供達は、その日は学校を早退ができるほど賑わっていた。 同じ東魚町にある「ゆめこいえびす」の原型となったもう一体の像もこの川底から出てきたものである。
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そっくりえびす
呉服元町の旧南里本店南側の狭い路地に立っているキリっとした目、ふくよかな頬のえびす様。故・南里重次郎三代目社長の顔をかたどって作られたものである。 寄進者は、奥様のトモ子さんで昭和41年10月23日に入魂式が行なわれた。 参列者は、えびす様の顔が社長さん当人にそっくりだと語った。ご夫婦ともいつもニコニコされ柔和な方だった。
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にこにこ福笑い恵比須
(所在)佐賀玉屋「ふるさと館」 南西 (愛称)にこにこ福笑い恵比須 一般的な半跏えびす像である。比較的新しい。 与賀神社には土地開発などでもとの場所に置いておくことのできなくなったえびす像をあつめてあるが、そこから勧請した。勧請以前のことは不明。 えびす像による町おこしや商売繁盛といった願いもあるが、このえびす像が祀られている交差点は交通事故が多いため、交通安全の意味もあるということである。 2007年8月27日は、塩と榊(枯れていた)があがっていた。10月6日の再調査時も同様だった(なお、榊は枯れてはいなかった)。ちょうど取材の時(朝10時ごろ)、ふるさと館の方が榊の水を替えていた。 このえびすは、神道の形式で祀っているように思う。
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よかふく恵比須
(所在)中の小路 佐賀玉屋 新館2階テラス 北西 (愛称)よかふく恵比須 一般的な半跏えびす像。烏帽子のところに宝珠がある。また、前に賽銭箱が設置してある。また、しめ縄がかかっている。花瓶に「御神前」の文字がある 玉屋の方にお話をうかがった。この像は、久保田にある以前の社長宅にあったもので、去年家を直す時にこちらに移したそうだ。 毎日ではないが、水と塩、榊をあげているそうだ。 2007年8月27日は、水と榊があがっていた。花はあがっていなかった。 ①「花があがっていない」「榊をあげる」「しめ縄がかかっている」「塩をあげる」など神棚に似ている ②賽銭箱がある ③花瓶の「御神前」の文字 の3点から、神道の形式で祀っているように思う。
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引っ越し恵比須
白山2丁目にある通称「引っ越し恵比須」 以前は他の場所にあったが、そこの方が引っ越しをする際にこちらに譲ったそうだ。引っ越しをしたお店だけでなく元あった場所に新しく入ったお店も繁盛しており、引っ越し先の白山商店街でも観光スポットができて喜んでいるとのことで、引っ越しの時にどうですか、と言っているとのことだった。
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寺町恵比須
唐人2丁目にある通称「寺町恵比須」 初代の東京医学校校長だった相良知安の墓所の向かいにある像。この像が学問にきくかもしれないという噂を広めているそうだ。
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唐人町の恵比須さん
唐人町の恵比須さん。
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東魚町恵比須
恵比須橋のたもとにある恵比須さん。 昭和30年代の初めまでは、近所の人達のお祭りで大いに賑わったそうである。 当日は、この町区の子供達は学校も早引きを許され、お手伝いに出ていた。
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下高木・恵比寿像(秀島氏宅)
この恵比寿像は、現国道263号線と、市道・旧高木宿道の一部が並行して交わっている道路沿いにある秀島氏宅の敷地の東北角に、道路側(東方)を向いて安置されている。 秀島氏の父が、昭和39年個人用として現在地に建立されたもので、高さ約50cmと小柄の恵比寿像にもかかわらず、道路に面していることや、恵比寿像の表情が豊かで、ふくよかなこと等から、すっかり地域になじむ存在となり、周辺住人の方や、通行人の方々が静かに合掌・参拝されたり、10円硬貨等をお供えする人もおられるという。 所有者の秀島氏の話によれば、「この恵比寿像は、昭和38年に自宅が火災に逢ったことから、厄払いと運気が立つようにと願い、昭和39年に母が建立したもので、毎朝、恵比寿さんに頭から清水をかけてのお清め、献花等のまつりごとを行っている。」と言われている。
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恵比寿像(牛島氏宅)
恵比寿像は、牛島氏の所有地内の南東角にあり、旧高木宿道の三叉路に東を向いて、木造の祠に安置されている。 恵比寿像の場所は、高木瀬校区に入るが、この恵比寿像の南方道路(東西に走る市道)にも面しており、東西の市道が若楠校区と高木瀬校区との境界道となっている。 市道を挟んでの両地域は見通しも良く、昔から高木宿道沿線地域として深い交流があったことから、下高木地区にも長い歴史の中で親しまれてきた恵比寿像である。 所有者である牛島氏によれば、「この恵比寿像は、昔からあったもので、牛島家の先祖が建立したものである。」また、母の話によれば、「恵比寿様の裏側(座面)に、何か文字が彫ってあったと言っていた。」昔から、この場所に立っていたもので、平成18年9月に、家を移してこの場所を駐車場にしたとき、この恵比寿像を敷地内のほかの場所に移そうとしたが、「ここに根ば張っとんさーけん、動かしてはいかん。周辺の住民の方を守っておられる。」とのことで、移動を断念された。 この恵比寿像は、全体が相当風化していることから、作成年代は相当古いと思われる。
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文字エビス塔
末次家敷地東北角に安置している。 佐賀市内には430体以上の恵比須像があり、その数は恐らく日本一といわれている。その後調査が進むにつれ、数は増加し、恵比須DEまちづくりネットワークが平成21年3月に発行した「佐賀市の恵比須台帳」によれば471体に増加している。 本塔には「西宮」と刻まれた文字恵比須である。縦16cm、横19cm、高さ37cmの角柱型になっている。本来は石屋さんであった隣地の所有で、他所から入手したものらしく、立ち退くに当たり放置された物を、現所有者が祀るようになった。恵比須台帳に記載がないので、追加すべき1体である。
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佐賀のエビスさん
エビスさんは、もともと漁民の間に発生した信仰であると考えられており、今日でも漁民や漁村のエビス信仰は根強いものがある。これは、豊漁をもたらす神として、一面においては、海中より出現した神、すなわち漂着神としての信仰が濃いと云われている。中世になって、エビスは次第に商業神としての神格を強め、商家では商売繁盛を願ってエビスさんを祀るようになった。また、農村では、農神として崇拝され、田植えが終わった後に苗を三把エビスさんに供える習慣は、全国各地に見られる。農村では、10月にエビス祭りを開催しているところが多く、また、12月8日を『百姓エビス』と呼んでいるところもあるといわれる。佐賀市内では、旧城下町にエビスさんが圧倒的に多く、その数は、373体あるとの話でこれは、長崎街道の宿場町として、商家の繁栄を物語るものであろうと考えられる。周辺の農村地帯にはその数が少ないようである。このほか山村では、エビスさんを『山の神』として祀り、信仰しているところもあり、主として狩人の問に信仰が厚いようである。エビスさんの形は非常に変化に富んでいるが、右足を下ろし左足を曲げ、左脇に鯛を抱き、右手の指を曲げ、竿を執る姿が多く、また反対に、左足を下ろして右足を曲げ、右脇に鯛を抱き左手に竿を執る姿もある。変った形には、大福帳や、算盤をもった姿のものや、『釣り上げエビス』といって釣り上げたその瞬間の喜びを表現したものもある。材木1丁目の双体エビスさんは、一体が釣り、他方が釣り上げた獲物を持つという二者一具を意味する双体エビス像で、魚籠のあるのは、このエビスさんだけとのことである。台座には『寛政三年九月吉日』と彫ってあり、約200年前のもので、材木2丁目6−8のエビスさんは、元禄3年(1690)の造立で、約300年位前のもので、双体エビス像では勿論、エビス像としても市内最古のものと云われている。 ※写真は材木2丁目6−8のエビスさん
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呉服町通りの「ひぜんえびす屋」・道標・かど恵比須
佐賀市の中心街の中でも最も長い歴史を刻んできている店が、呉服元町で菓子製造販売の店舗をかまえている「ひぜんえびす屋」である。創業は安永年間(1772〜1780)というから、藩制期から街の栄枯盛衰を生き抜いてきた貴重な店である。 天保14年(1843)の当地域の古地図には「伊兵衛」と記してあるが、中溝伊兵衛のことであり、嘉永7年(1854)の竃帳には「菓子・饅頭店、中溝作平」とあり、中溝菓子店として昔から親しまれてきた。 店の建物も骨格はかなり古く、時代を感じさせる。 この店の角には昔からの石の道標が二本あり、それぞれ「こくらみち・ながさきゑ」「右おふくわんゑ」と刻されている。東の柳町方面から伸びた長崎街道がこの店までで行き止まり、そこから街道は東西に連なる往還、すなわち大通りを右に曲がってさらに元町方面に続いて行く。 道標のそばにお馴染みのかど恵比須があるが、幕末期の作らしい。胸には最高の福をもたらすという3個の宝珠が刻まれている。柔和ないい顔立ちである。
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えびす、大黒さん
福の神としてえびす神の信仰も全国的に広がっている。えびす像は左に鯛を抱え、右に釣竿を持って鯛をつりあげた姿をしており、満面笑みをたたえている。えびすは大国主命の第三子で「えびす三郎」と呼ばれた。城下町佐賀の商工業者信仰対象として絶対的な信仰圏をつくりあげている。 えびす像の多いことは、恐らく全国一にランクされるのが佐賀ではないかと言われている。これは他県では見られない信仰遺物である。農家では大黒天をまつるのが普通である。その像は頭巾をかぶり、右手に小槌、左手に背負った袋の口を握りしめ、米俵の上に立っている。農家では台所や食事室の一隅に神棚を設け大黒天像をまつり経済繁栄を祈っている。