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[旧佐賀市][鍋島校区]は122件登録されています。
旧佐賀市 鍋島校区
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竜樹菩薩
むかし有明海が鍋島の辺まで入江になっていたころ、海中から五色の光芒が立ちのぼるのを見て漁民たちが引きあげてみたら、巨大な木彫りの仏像であったので、驚いて現在の処にうつし祀ったという。なお、この仏像が余りに大きく容易にあがらなかったので、漁民たちが集まって笛をふき鐘をたたいて、一斉にかけ声をかけて引きあげた。この時のはやし踊りが蛎久浮立のおこりと言われている。またこの仏が竜樹菩薩像だと教えてくれたのは弘法大師だという。
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右近刑部少輔墓
天永年間(1110~1113)菅原道真の子孫右近民部太夫良遠が肥前に下向し、蛎久天満宮の社職を命ぜられ、其子満遠は対馬守に任ぜられ蛎久の地頭となり、その後数代を経て刑部少輔の代となって鍋島直茂に重く用いられ知行五十石を領し慶長年間(1596~1615)佐賀城下建設にあたり建設頭人を命ぜられた。刑部はその時中元寺新右衛門其他の有力者と計り、十数年間あらゆる辛酸をなめ艱苦に堪え、遂に蛎久、岸川、植木の町家を佐賀に移転し、八戸町、六座町から白山町、呉服町、東は高木町、慶長町に至る佐賀城下を造りあげた。そして自分も町人となり伊勢町に旅人宿を経営し、傍ら内密に目付役を仰せ付けられた。なお慶長年間(1596~1615)朝鮮出兵に直茂副将として出征の際には、刑部は病気のため従軍できず嗣子生良が御用を拝受した。生良の生の字は直茂の前名信生の一字を戴いたものである。刑部は佐賀城下建設の功業をとげ元和元年(1615)7月没し、その墓は蛎久の栖竜院にある。
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蛎久天満宮
後冷泉天皇の天喜2年(1054)太宰府天満宮から御分霊を勧請し、奉祀して文教の祖神、誠の神として氏子発展の産土神として村民の崇敬を集め今日に至っている。 なお天満宮は太宰府天満宮、水田天満宮と共に鎮西三大天満宮といわれていたが、元亀元年(1570)大友の乱で焼失してしまい、元亀4年(1573)に龍造寺隆信が社殿を造営し龍造寺代々の信仰があつく、また鍋島氏となってからも初代勝茂、二代光茂、三代綱茂などの信仰が深く、神殿、拝殿、付属建物も造営された。 天喜2年本社創建にあたっては、菅家の子孫中願寺、岩松両氏が社職に任ぜられた。当時は17ヶ所の末社を有し、神領は二百余町に及び、権勢は地方に冠たるものがあった。 そして同社に祀った神像は水鑑の一軸で、道真公生存中池水に影を映して自ら写したものであった。なお本社は明治4年村社に列せられ、明治中頃までは春秋2回の祭典(3月25日、11月25日)には門前、東西に休憩所を設け、一の鳥居までは両側に売店や見世物小屋が並び、参詣人織るように多く盛況であったという。
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新庄八幡神社
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、比賣大神、春日大明神の五柱を奉祀してある。また安徳天皇養和元年(1181)には宇佐八幡宮の分霊を勧請したから、五社八幡宮とも言った。古く文応、弘長の頃最明寺時頼巡回の際当地で不慮の病いにかかり重体となり当社に祈願をこめた。不思議にも忽ち平癒したので神殿を再興された。降って天正の頃龍造寺氏も信仰が厚かったが、弘治、永禄の頃大友軍が佐賀に侵入し社殿は焼却された。次に鍋島直茂も厚く信仰し、元亀元年(1570)の今山夜襲戦にも近くの勝楽寺にて旗竿準備の上、本社に奉拝して勝利を祈願し、本社の梵鐘を陣鐘に使用し大勝利を得たので一層信仰が深くなり、又、文禄の役でも直茂出陣にあたり今山戦に倣って社参祈願し、凱旋後慶長4年(1599)1月18日本願成就のため梅崎一党をして御能を奉納した。其後代々の藩主も例大祭には名代を社参せしめ、御賽物奉納の上、神事御能を厳かに執行したが、これは明治3年廃止された。
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観音寺
鍋島家の旧御館森には天満宮及び観音寺を観請されていたが、年月が経つにつれ旧跡地は荒れ果て草木が茂り、周囲農民の耕作にも支障があると申し出があったので、藩祖直茂は祖先発祥の地を荘厳にするため、西側の地を拓き観音寺を移転し鍋島家菩提寺とした。これは天文21年(1552)高伝寺建立まで続いた。なお経秀一家は代々あつく仏教に帰依し、天下泰平、萬民和楽の祈とうを続け、天明2年(1782)8代藩主松平肥前守治茂の代に本堂を再建し、田畠三町八反永代寄付し、寛政5年(1793)(※1)には観音堂改修のため三百両を寄進した。本堂には鍋島家初期の藩主過去帳及び位牌が安置してある。 鍋島伊勢守経秀 鍋島三郎兵衛経尚及内室 鍋島教頼及内室 鍋島治部大輔清直及内室 鍋島治部少輔栄実 鍋島平右衛門清久 鍋島駿河守清房 鍋島加賀守直茂 鍋島信濃守勝茂 (※2) ※1『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399〜400)によれば、寛政元年(1793年)5月。 ※2『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399~400)によれば、鍋島伊勢守経秀公、鍋島三郎兵衛尉経尚公・室、教頼公・室、鍋島治部太輔清直公・室の御石塔・御位牌とあり、他の位牌については記録がない。鍋島治部少輔栄実については、どういった人物なのかは不明。
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蓮成寺
江戸時代初期の頃、三日月村居住領主杉町備中守が仏門に帰依して、一宇をたて後鍋島町木角に移転して今日に至った。記録によれば、2代藩主光茂の妹が備中守の内室であった関係で、延宝3年(1675)8月光茂は両者の為に堂宇を改築し、境内を拡張して田畑を寄進し寺格を改めた。同寺の門前には一万部塔、二万部塔の経碑がある。読誦者は知正院日専上人である。 なお桓武天皇の皇子葛原親王の遠孫、千葉介常胤が江藤新平家の先祖である。この常胤のとき源頼朝から九州探題を命ぜられたが、小城郡晴気に赴任し、のちに鍋島村木角に住み、蓮成寺には祖先より14代までの墓地がある。江藤新平は佐賀戦争の主魁として土佐甲の浦で捕えられ、明治7年4月13日佐賀城内で処刑された。3日後江藤の遺体は首と共に親友相良宗蔵が貰いさげを受け、竹で胴をつなぎ蓮成寺に移した。古老の談によれば、彼の遺徳を偲び参詣人が続き、南の堀端から賽銭をなげたのが毎日叺に入れる程多額であったという。警察では何と思ったか、参詣人を追い払ったので人々はその横暴に憤慨していたそうである。
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勝楽寺
真言宗に属し、本尊は阿弥陀如来で聖徳太子の御作と称せられ、しかも勝楽という名が吉詳なりとして、武家の間で特に尊崇されていた。往昔日本武尊、熊襲征伐の時祈願をこめられ、また弘安4年(1281)蒙古襲来の時も当寺で祈願をこめ、境内の竹を切って軍用に供し、降って元亀元年、大友軍来襲の際も勇将鍋島直茂出陣の途次当寺に立ち寄り、竹を伐って旗竿を作り武運を祈願し今山戦に大勝利を得た。直茂凱旋後、首途の時奮って協力従軍した新庄、江頭の住民等に恩賞を与え、当寺には屋敷四反、田地六反を寄進した。ちなみに今山戦にて敵大将大友親貞の首級をあげた成松刑部大輔の使用した真槍が、当寺の寺宝として保存されていたが、惜しい事に何時しか所在不明になっている。更に直茂朝鮮出陣の際も、当寺の竹を軍用として用いたが、その旗竿の向こう処何れも大勝利をおさめた。こうして鍋島家代々の馬印の旗竿、着物竿等総て当寺から上納することになっていた。
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阿弥陀如来
阿弥陀如来は極楽浄土の思想が普及することによって、最も広く信仰された仏である。鍋島本村観音寺には蓮華座上の等身大立像の阿弥陀如来がある。
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勝福寺
勝福寺は山号を東光山と称し、天正2年(1574)に陽山俊虎大和尚により開山された。宗旨は曹洞宗で、永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)が大本山となっている。 また、本寺は佐賀市八戸の龍雲寺で、開基大和尚も龍雲寺の4世と伝聞されている。ご本尊は東方瑠璃光薬師如来が安置されており、壇信徒の深い信仰の対象となっている。 近世の歴史の中では、昭和8年に江里地区にあった東光寺の小堂並びに墓地・墓石を勝福寺内に移転されたと記されている。 大正時代から昭和30年代には歴代住職と壇信徒が一如となり、竹林の開墾や本堂の建立などを行い現在に至っている。当寺は、静かな田園集落の信心の拠所として、「約430年に渡る法燈」と「ご先祖様の遺徳」を壇信徒が大切に守り続けてきた場所といえる。
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福満禅寺
福満禅寺は、1600年頃から存在しているが、創建は不明である。当山の開山和尚は流室禅師大和尚(1672年、寛文12年没)である。本山は、京都の大本山南禅寺で、臨済宗南禅寺派の末寺にあたる。現在は13代目で、江戸時代は森田学校(寺子屋)として開校され、現在の鍋島小学校の前身となっている。ご本尊は、薬師如来で、薬や病気の神様である。
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地尊院
本山は南禅寺(臨済宗)で、当院の由来は天正時代(1573〜1592)龍造寺隆信公家臣の原口・江副両家によって設立された。原口氏から13ha、江副氏から10haの水田を周辺の百姓が小作としてその禄高をこの寺に奉納した。今でも江副氏の子孫は400年以上の歴史のある地尊院を守り続けている。現在住職は、経済的理由等から不在で、鍋島町江頭地区の長寿庵の住職が兼務されている。
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光福寺
浄土宗史に永正年間(1504〜1521)飯沼弘経寺等3代曜譽酉冏上人が肥前国に帰郷の際、四ヶ寺建立し、その中に高福寺(現存せず)の寺名があり、県立図書館所蔵の浄土宗寺院由緒には神野の潮音寺の末寺として高福寺の名が記されている。鍋島村誌には、創立年月日として、永正四年四月十五日とあるが、おそらく曜譽酉冏上人永正四年正月十五日寂となっているので、当てたものと推定される。 高福寺が光福寺になった年代は全く不明である。高福寺の所在地は鍋島村植木堀内となっており、現在の光福寺と同一である。昭和13年5月18日教学週報社(岩野眞雄)発行の浄土宗寺院名鑑には光福寺は記載されており、寺格等級も平僧二等となっている。 現在の光福寺は平成18年3月に新しく建設された。
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勝軍稲荷神社
神社の創立については、現存している記録から確かな由来はわからないが、「敷地山権現社由緒並びに抱宮差出し帳」の記録から推測すると、鎌倉後期の頃(今から700年ほど前)に建立されたものと思われる。 祭神は、豊受比売神(とゆけひめのかみ)勝軍稲荷大明神、英彦山権現、観世音、鬼子母神。「勝軍」の名にあやかって、戦争の激しかった時代には、各地から武運長久を祈って参拝者も多かったという。 なお、戦国時代、今山の戦(1570-大友軍と鍋島軍が大和の今山で戦う)の際に、鍋島軍が鍋島村森田の勝楽寺、勝軍稲荷神社、新庄八幡神社に戦勝祈願の後今山戦で大友軍を打破ったと伝えられている。
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乙護法神社
建立は定かでないが、先年450年祭をされたことから推測すると、1550年代龍造寺隆信の時代ではないかと思われる。 祭神は猿田彦とされている。 地元森田では、春秋の祭りの他、3月には百手祭(ももてまつり)が今も行われている。百手祭りとは、的射りともいい、自家竹製の弓矢で的を射って、作物の豊凶等を占う行事である。鍋島町内では他に岸川地区で行われている。
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法常寺
明治初めの廃仏毀釈で寺は壊され、その後再興されたが現存する資料はほとんどない。 しかし、昭和63年の本尊修復工事の際に仏像の体内を詳しく調査したところ、「聖寿比丘が法常寺の住持であった大永7年(1527)4月8日に、伊勢の国(三重県)の六十六部宋須が寄附を募って資金を調達し、筑後国江上庄佐々渕に住む春香という法眼位を冠する仏師に依頼し、この薬師瑠璃光如来を供養した。」と言う記録があった。 修繕の供養や彩色の供養をしたということから、製作年代はもっと前に遡ることになる。 仏像は182.8cmの立像で頭体部を通して前後2材矢引の構造で、楠の木を材料に作られ、極めて地方的な色彩を残す室町時代の作例として貴重であるとの博物館職員の見解であった。 寺の住所は「岸川」となっているが、小字の通称は「西長瀬」いう。檀家の皆様さんは「西長瀬のお寺」と呼ばれている。人工河川の多布施川を造る際に長瀬地区(現在の高木瀬地区)が分断されたため、西地区にあったお寺は鍋島地区になっている。
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光明寺
東盛庵の東方に、幕末の頃堀に囲まれたお茶屋(世尊寺)とお台場(台所)が造られ、佐賀藩10代藩主鍋島直正公の中折巡検(熔鉱炉、調練場)の折の休息所となっていた。 しかし、その後東盛庵には墓参りする人も途絶え、草が生い茂り荒地と変わってしまった。 そこで、庵故蹟一帯の譲渡について遺族の了解を得て隣接する田畑を一括買収し、新たな霊園を造ることになり、日蓮正宗世尊寺がお茶屋の地を譲り受けて建設された。 この場所では種々の出来事があり、また墓地も狭くなったため、ほかの地区に寺院の建設が必要となり、10数ヶ所の候補地から現在地(鍋島町蛎久)を選定し、平成9年7月に600坪の土地を購入して、平成10年4月に仮本堂等が増築された。 平成14年2月には墓地用地150坪を購入して、平成14年4月28日には盛大に落慶入仏式が挙行され、宗教法人、日蓮正宗光明寺として認証された。全体面積は1200坪である。 この新寺建設委員会や信者の皆さんの純心さと団結力に感銘しており、今後大聖人様の大慈・大悲の佛力・法力を世間に伝え広めて人々の安心と慶びに貢献していきたい。
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津留天満宮
昭和28年(1953)の大水害により、津留天満宮の社殿は流失したため、鳥居だけが1m位の土砂に埋まり、昭和28年の水害の面影を残していた。 そこで、津留地区民の総意によって鎮西三大天満宮と称えられる蛎久天満宮の御分霊を頂き、念願の御社が天皇陛下御在位20年の記念事業として、また区民の浄財の寄進によって、平成21年(2009)3月に成導寺八幡宮の東に建立された。 春祭や秋祭を斎行し、津留地区の繁栄を祈念している。
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角目の天神さん
230年以上前に佐賀藩が作成した、天明絵図「新庄郷植木新村」分間絵図によれば、角目の天神さんの所在地が記載されている。いつの時代から角目に天神さんが祭祀されたかは定かではない。 古老たちの話によると、明治初期の神社仏閣の整理統合がなされたときに、角目の天神さんは廃神されその使命は終わったと言われている。 しかし館は存続し、大正時代の始めの頃までは天神さんと親しみを込めて呼ばれていたという。 昭和28年の未曾有の大水害によりこの館は倒壊したため、翌29年に地区民の浄財により新しい館が建立された。天神さんとしての面影はないものの、新しい館は青年倶楽部、角目公民館と移り変わり、地区住民の心のよりどころとして新たな使命を果たしつつある。
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成富兵庫誕生地
成富兵庫茂安は、永禄3年佐賀藩士成富甲斐守信種の第二子として、鍋島村増田(益田)百石に生まれた。増田地区の東北隅嘉瀬川堤防の中腹に誕生記念碑がある。茂安は資性勇武智慮深く、17歳のとき初陣に功を立てたのを初めとし、寛永18年(1641)病没するまで75年間今山戦はじめ大小幾十度の戦に従い武勲を顕した。後半は築城(熊本、江戸、大阪、名古屋)、土木、治水、干拓、塩田に精励し、民生事業に妙技を発揮し、藩財政を豊かにし余慶を後世に残した。東は筑後川堤防から西は伊万里海岸まで、佐賀平野各地に茂安の徳をたたえる記念碑や社がある。
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石井樋
元和元年(1615)大阪夏の陣を終え、天下平穏になってから、成富兵庫は藩主勝茂に献策して、領内の耕地開発と土木水利に専念し、千栗堤防築造、田手川(蛤水道)、城原川(横落水路)の開発、巨勢野の開拓、伊万里の塩田造成など、いずれも目をみはる様な立派な工事であるが、石井樋の構築は現代科学技術からみてもまことに合理的妙法と称えられている。用地内に「成富君水功之碑」がある。碑の題字は副島種臣の書で毎年9月18日に例祭が施行されている。
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一字一石塔
西新庄東善寺境内に一字一石の塔がある。正面には大乗妙典一字一石と刻してあり、裏面には天明八年とある。この年代には恰も諸国大飢饉で、餓死者が道に横たわるという惨状を呈した程であるが、伊東氏はこの地方の豪族として罹災者慰霊のため、また悪疫災難退治の意味で建立されたものである。
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薬師如来
わが国では仏教伝来後比較的早くから信仰され造像も行われた。鍋島町蛎久公民館にある。
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講塔
信仰を同じくする者の集団を講と呼び、江戸時代以後伊勢講、英彦山講、観音講、不動講、三夜講などが、観睦的要素、相互扶助的性格を強めて盛んになった。こうして太神宮講は伊勢大神宮を崇敬する人々によって構成された講組織であり、伊勢講とも言われる。伊勢講の人々によって建立されているのが伊勢講塔(大神宮講塔)であって、県内各地に造立されている点から、江戸時代以後伊勢講や伊勢参宮の盛行を知ることが出来る。鍋島町内には各地に大神宮塔がある。
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経典供養塔
経文を書写したり、読誦したりすることは、塔婆を建立するのと同じく功徳を得る仏教修業であり、それを後世に伝えるために建立されているのが、経典供養塔である。本町内では本村観音寺、東新庄水天宮及び森田東善寺にある。
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お稲荷さん
稲荷の民間信仰は全国的であり、本来は稲の神様のことであるが、今では災いを除き福を授ける開運の神として普通商家の信仰があつく、また一般でも祀っている所もある。稲荷のお使いを狐とする俗信のためか、お供にも油揚とか生魚とか生卵を供えるようである。 そして油揚に包んだ鮨を稲荷鮨という。
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えびす、大黒さん
福の神としてえびす神の信仰も全国的に広がっている。えびす像は左に鯛を抱え、右に釣竿を持って鯛をつりあげた姿をしており、満面笑みをたたえている。えびすは大国主命の第三子で「えびす三郎」と呼ばれた。城下町佐賀の商工業者信仰対象として絶対的な信仰圏をつくりあげている。 えびす像の多いことは、恐らく全国一にランクされるのが佐賀ではないかと言われている。これは他県では見られない信仰遺物である。農家では大黒天をまつるのが普通である。その像は頭巾をかぶり、右手に小槌、左手に背負った袋の口を握りしめ、米俵の上に立っている。農家では台所や食事室の一隅に神棚を設け大黒天像をまつり経済繁栄を祈っている。
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佐賀大学医学部
佐賀大学医学部は、教育・研究・診療の3つの使命を一体として推進することによって、社会の要請に応えうる良い医療人を育成し、もって医学・看護学の発展並びに地域包括医療の向上に寄与することを基本理念とし、本学部では教育の特徴として自学・自習をモットーとし、科学的論理的思考に基づいた問題立脚型学習法を導入して、広い視野からの問題解決の能力の涵養を目指している。 附属病院では、地域の中核医療機関として、患者・医師に選ばれる病院を目指し、そのために地域連携室による地域医療への貢献・救命救急センターによる救急医療の充実、高度医療技術の研究開発等を目標としている。 (沿革は主なもの) ・昭和51年10月 佐賀医科大学開学(1学科目) ・昭和53年 4月 佐賀医科大学開設(8講座・9学科目) ・昭和56年 4月 医学部附属病院設置 ・昭和59年 4月 大学院医学研究科(博士課程)設置 ・平成 5年 4月 医学部看護学科設置 ・平成15年10月 佐賀医科大学と佐賀大学が統合し、新「佐賀大学」設置 ・平成16年 4月 国立大学法人佐賀大学と改名
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嘉瀬川リバーサイドゴルフ場
嘉瀬川リバーサイドゴルフ場は、平成元年10月から創業され、嘉瀬川の清流沿いの両岸コースで左岸5ホールは南へ、右岸4ホールは北へと向かい各ホール変化に富んだコースで初心者から上級者まで楽しめるコースが設定されている。 現在の年間利用者は、25,000人程度で内県外者が10,000人程度(福岡県の人が9割以上)、東京や大阪等帰郷者の参加も多く、隣県には少ないパブリックゴルフ場としての利用者が初心者等の客に感動を与えている。 開設20年を節目として、平成20年から毎年開場記念ゴルフコンペが開催され、参加者はシニア(65歳以上)・女性・一般と3部門に分けられ、4日間で延310名の参加で4日間のうちで3日間商品を期待して参加される人もあった。 (毎月の月例会も3部門に分け、5位までの入賞者は3月末のチャンピオン大会に参加ができ花が添えられている) 夏季の熱中症対策として、平成20年11月から15台の乗用カートを購入し、利用者が多いため2〜3台の増車計画がある。また、9番ホール付近の広場が整地されてグランドゴルフやゲートボール大会等の地域行事に開放され、鍋島校区の各種団体は楽しく愉快に、健康維持・増進のために利用されている。 コース管理は水辺環境を考え、無農薬である。
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忠魂碑
鍋島町遺族会は、日露・日独戦争や満州・上海・支那事変・大東亜戦争において戦没された英霊を祭神として、大正13年10月鍋島小学校の一角に鍋島町郷友会の発起で忠魂碑が建設された。 ところが昭和16年勃発の大東亜戦争で敗戦となり占領下のもと一時倒壊のやむなきに至った。 戦後忠魂碑再建委員会が設けられ、鍋島町全域からの現金や奉賀米等の寄附により、昭和28年3月に再建された。当時の合祀者数300有余柱を祀り、遺族会は毎月開かれ献花清掃は地区当番を決めて、諸英霊のご冥福を祈り、年1回郷友会主催で合同慰霊祭が行われている。また、同碑の横に明治39年6月に鍋島村奉公会で建てられた日露役戦死者の碑も東新庄から移され忠魂碑の横に奉神されている。 昭和28年忠魂碑建設のための現金寄附は、20万2000円、奉賀米算額15万1000円で合計35万3000円である。(内、忠魂碑建設費は18万7000円)
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県営圃場整備事業鍋島地区
本地区は、佐賀市の西部に位置し、南は嘉瀬、開成校区に隣接した地域であり、国道34号線が地域南部を横断する重要な中継点となっている。圃場整備前の圃場は、区域が狭く、不整形で、クリークや水路、道路の幅員も狭く蛇行しており、大型機械による営農に支障をきたしていた。また、低平地でクリークの水位が高く維持管理に多大な労力を要することと、地下水位も高いため裏作や園芸作物導入の阻害要因となっていた。 一方では農業への就業者の減少や雇用労働者の不足と労働賃金の上昇等で農業経営は厳しい状況である。従って圃場整備を行なうことで圃場区画、農道、用悪水路の分離等を実施し、農地の汎用化と大型機械の導入が可能になったことで、地区の特性をいかした総合的な農業経営の発展を目指すことができるようになった。 ・ 工 期 : 平成8年度から15年度まで ・ 受益面積 : 73.1ha (水田67.6ha、畑5.5ha) ・ 受益戸数 : 111戸 ・ 総事業費 : 19億円