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[大和町][ その他]は8件登録されています。
大和町 その他
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大般若経 六百巻(玉林寺)
正平25年(1370)より建徳3年(1372)にわたり写経されたもので、沙門比丘令虎が肥後国山鹿郡南庄目野山満光寺で写経している。それがどうして玉林寺に伝えられたか詳かでない。菊池一族の戦勝祈願のためのものではないかとも想像されるが、とにかく六百巻にわたり写経されたものは年代的にも珍らしく貴重な文化財である。
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蓮の蔓陀羅(実相院)
育児観世音と弘法大師を織り出した二面の作品である。これは佐賀県が生んだ世界的偉人大隈重信の母堂三井子刀自が、蓮の糸をつむぎ(中に絹糸を混ぜている)織り出した刀自信仰の結晶とも言えるもので、88歳とあるから高齢でありながらよくもこれだけの作品を仕上げたものである。実に美事な珍らしい作品である。
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一字一蓮の法華経 八巻(実相院)
経文の一字ごとに蓮台の模様を描き込んだ珍らしい物である。寛政12年(1800)庚申4月22日、千葉忠助の写経になったもので、実に繊細美麗な筆蹟である。この経巻を4月10日からのお経会中、講堂中央の御輿の中に納める。
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山門額(実相院)
古くから仁王門に掲げられていた「神通密寺」の額は従来堀川天皇の勅額と称され(佐賀郡誌)ていたが額の裏面に 「後陽成院一の宮仁和寺御室一品覚深大王御真翰 寛永二年 尊純賜之」 の刻銘と 「二王尊額共明治三十六年復修」 の文字が朱書されている。覚深大王は後陽成天皇の皇子で仁和寺(実相院本山)の御門跡(皇室の子弟がなった住持)である。 以上のことから考察すれば、寛永2年(1625)に賜った額を当時の山門に掲げていたが、正保元年(1644)に仁王門が創建されてから移し掲げたとみるべきではなかろうか。
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大友公園
赤坂山の中央登り口から約1㎞上ると、元亀元年(1570)佐賀勢に敗れた大友八郎親貞の墓碑がある。この墓は元戦死した場所にあったものを移転し、更に今山陣跡の記念碑を建立して、つつじ等を植え公園としている。周囲は皆蜜柑園であるが、佐賀平野を一望に納め有明海や雲仙を望む風光絶佳の場所である。
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巨石パーク
巨石群で、10mをはるかに上回る石は、肥前国一の宮として栄えた与止日女神社の御神体とも考えられている。 神秘的な古代のロマンを感じさせる巨石は、幾千年の年を経た今も、市民を見守るかのように静かにたたずんでいる。 自然の生み出した巨石をテーマにした新しいテーマパークである。 公園を散策しながら、次のような様々な石を見ることができる。 神頭石 道祖神石、御船石、兜石、龍の石、造化大明神、イナリ石、誕生石、屏風石、烏帽子石、御座石、天神石、雄神石、天の岩門、神籠石、蛙石、たもと石
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かまん神さん(かまど神)-荒神と庚申
かまど神として各家庭では荒神さんを祭っている。荒神は三宝荒神の略で不浄を嫌い、屋敷内の聖地である「かまど」に住むという。かまどの一部の柱に神棚を設け花や線香をあげたり朝はお茶やご飯等もあげる。正月にはかまどをかたどった特殊な形の餅をあげる。かまど神を祭るのは、浄土真宗以外の家で年末に盲僧が荒神祓いにやってくる。また12月24日には子供たちが「荒神さん相撲」をとって家々を回る所もある。(年中行事)荒神は相撲が好きだということらしい。 荒神には今一つ「庚申」というのがある。この庚申は村で建てられており各家庭には見られない。これは中世末期から近世中期にかけて建立されたものという。明治以後に建立されたのは祭神を猿田彦命としたものが多いが、その本体は様々で青面金剛菩薩とするのが一般である。これは干支の庚申に当たる日の禁忌行事を中心とする信仰で、起源は中国の道教にあるとされている。しかし、日本では本来の道教的なものでなく、福の神の性格を持っているようである。
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兵庫石
成富兵庫茂安は、永禄3年(1560)に、現在の佐賀市鍋島町増田で生まれました。佐賀藩の武士として活躍し、35才頃から土木技術を学び、水利事業にたずさわっています。 成富兵庫茂安は嘉瀬川から佐賀城に水を引くための水利事業にも取り組みました。その石井樋を構築する際に、大和町の都渡城原の山に登り、大きな石の上から川の位置や分岐する場所を決めたと伝えられており、その大きな石を兵庫石と呼んでいる。