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[富士町][ その他]は12件登録されています。
富士町 その他
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古湯温泉
古湯温泉は、佐賀駅の北方20㎞、標高200mの山峡にあって、昭和41年(1966)7月、厚生省から、国民保養温泉地の指定を受けている。 泉歴も古く、洋画家の青木繁やアララギ派の総師として、日本歌壇の最高峰といわれた歌人の斎藤茂吉(長崎医専教授、現長崎大学医学部)ら諸先生の曽遊の地として知られている。温泉の泉質は、炭酸ナトリウム、ラジューム、マグネシューム、エマナチオン等を主な成分とする単純泉で鉱味をおび無色透明無臭無味で、全国的にもすぐれた温泉として折紙をつけられている。 秦の始皇帝の命で不老長寿の霊薬を求めて、有明海の寺井津浮盃に上陸した徐福は、金立山にたどりつき、北山の翁として、浮世を忘れて暮らしていた。ある日、湯の神が現れ、翁にむかって、「この山中の西北のあたりに黄金の霊が湯となって湧きだすところがある。必ず行ってその源をうがち、これを広めて多くの人を救われよ」と告げて消え去った。やがて、翁は、山道を踏みこえ谷川のほとりにたどり着き、縁の苔むす岩の間から湯がわきだしているのに行きあたった。翁はこれこそ神のお引き合わせと大いに喜び、ささやかな庵をたて「湯守り」となった。以来、幾多の荒廃、再興を繰り返しながら古湯権現山の実相法師らにより守られてきたが、元禄の大地震で城山が崩れて、温泉は塞がってしまった。その後、88年をへた寛政3年(1791)の春、古湯村の稲口三右衛門が小田の水道に鶴が脛を浴して数日の間に、傷が治り飛びさったのをみて、不思議に思い指をひたしてみたところ、少し温かったので、クワで辺りを掘ったところ、古い松の角材がでてきた。この松材は、往時、浴室を修理した木材で、とりさった後から湯が湧きだした。そこで、稲口三右衛門は清存法師と相はかり、村人と協力して浴室を再興した。この温泉を鶴の湯といい、のちに鶴霊温泉と称した。 川上実相院の英竜僧正が創掘した温泉が、英竜泉で、現在、古湯温泉センターにある扁額「英竜泉」は、同僧正の真筆であり、センター前の薬師如来も同僧正の勧請である。 古湯権現山には、徐福を湯の神として祀る木像が、また鶴霊温泉、英竜泉の湯元にも、それぞれ再興した人の像を湯の神として祀っている。
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熊の川温泉
この温泉は、佐賀市から16kmの北方に在って地の利を得ている点条件がよい。 中国の政務院副総理、中国科学院長など歴任した郭沫若先生が、かつて大正12年(1923)に九大医学部を卒業し、その翌年の大正13年(1924)、妻子4人を連れて滞在されていたことで有名である。この湯の泉源、泉質、適応症など、古湯温泉と同型で著しい差異は見られない。ここより4km北方の古湯温泉とともに、昭和41年7月厚生省より、「古湯、熊の川温泉郷」として、国民保養温泉として指定を受けた。 大同元年(806)に弘法大師が唐から帰国して、全国行脚の途中、弘仁7年(816)にこの地を訪れ、足の折れた鵆が田の中に入ったり、出たりを繰りかえしているいるうちに足が治って飛び去っていたのを見て温泉を発見したと言われている。その謂れが寿屋旅館の玄関に飾ってある。(明治17年に花房郁太郎という人が「隈川温泉」という題目で書いている。)その後、洪水で水没したが、延宝時代(1673〜1680)、時の大庄屋山口金左衛門が埋没した温泉を再興したと言われている。 当時から、皮膚病や毒除きに効果があるといわれ広く利用されてきた。初代佐賀藩主鍋島勝茂が家老に宛てた書状に、病のため熊の川温泉で湯治することを書き送ったものがあって、戦国末期からすでに名の知れた温泉であったことがわかる。 火災や洪水の被害にあいながら明治12年(1879)に村有となり、その年旧11月より明治14年旧3月まで熊の川温泉の改築が行われ、力役として次の地区が協力した。熊川、湯原、柚木、内野、下熊川、永渕、合の瀬、大野原。 明治13年8月旧17日より30日間歌舞伎が実施された。 昭和24年(1949年)の大水害まで、河川敷には露天風呂があり、また、温泉のこぼれ湯では、地区の人達の洗濯場となって賑わっていたそうである。 平成4年に第二泉源が発掘され「鵆熊泉」と名づけられ、旅館はすべてこの「鵆熊泉」を利用している。熊の川温泉はラドン(ラジウム)含有量は九州一という放射能泉で、肌はツルツルになるし、いろいろな疾患に効果が大である。昭和36年、大火災発生。昭和41年7月国民保養地に指定される。平成10年4月には,富士町と湯の原地区との第3セクター方式の「鵆の湯」がオープンし、地区も大いに賑わい、現在に至っている。
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二一世紀県民の森
二一世紀県民の森は、北山湖畔に、佐賀県政百年記念事業として、11年の歳月と42億7500万円を投じ、平成3年(1991)3月完成した。脊振・北山県立自然公園の恵まれた自然環境を活かし、人間が自然にふれあう憩の場である。利用面積200ha、うち県有林50ha、富士町有林2ha、民有林147haである。 主なる施設として、展示ホール、学習館、研修施設の森林学習館をはじめ学習展示林、野鳥の森、世界の森、ふれあいの森、えびね園、水辺植物園などの学習施設がある。 1周6km、3ヶ所のステーションに200台の自転車があるサイクリング施設、多目的広場(ソフト1面)、運動広場(テニス3面)、冒険の森、フィールドアスレチック、草スキー場、ネットコンビネーション、ジェットローラースライダー、ゆらゆら橋、キャンプ場、木工芸センターの訓練施設、それに記念広場、展望台、遊歩道、手こぎ・足ふみボートなどの施設が整備されている。 総合案内センター「ほおの木」は総合案内、特産品の食堂売店、喫茶など利用者の便宜を図るとともに、県民の森全体の管理をしている。 地元の富士町、三瀬村、農協、森林組合で第三セクター「北山湖地域振興公社」を設立し、県民の森全体の管理運営、それに北山少年自然の家の食堂部、北山湖の遊覧船の運営など利用者の利便を図っている。
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雄渕・雌渕公園
雄渕・雌渕公園は、熊の川温泉と古湯温泉の中間地点に在り、明治の晩年までは、北山の木材流しや筏流しで最大の難所と恐れられていた。 たまたま大きな木材が右岸雄渕の洞窟に突込めば、再び浮上しない程深渕と言われている。水面下の洞窟には、誰も入った者はなく、様々の伝説や逸話を残し、今なお神秘のベールに包まれたままである。 川上川の鮎もこれより上流へは上ることができないので、その下流の集落を「鮎の瀬」と呼んでいる。 明治32年(1898)、長崎県波佐見金山会社の鮎の瀬発電所(現雄渕トンネル南架橋下)が建設され、「水から火が出る、世にも珍しい。」と見学者が詰めかけ、発電所と共にこの地の名声が更に広まった。 また、中国の医師で文学者郭沫若も、熊の川温泉滞在中に、この地を訪れたので、これ記念し昭和57年10月、この地に建立した「郭沫若先生記念碑」は、淡々と音立てて落ちる雄渕の滝、悠々と流れる雌渕を静かに見守っているかのようである。因みに碑文は、中日友好協会初代会長の廖承志先生の手によって書かれている。記念碑北方約100mの地点に架けた鳴瀬橋は、昭和59年(1984年)完成した斜張橋で、真紅に燃えるような色彩は緑の自然の中で一際目立ち、蒼い深渕と調和美を誇っている。 なお、国道323号線雄渕トンネル下方約100mの地点に、弘法大師ゆかりの地、「御手洗の滝」がある。
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熊川城
上熊川の合瀬、標高346mの山頂にあり、神代勝利が築いたとされている。山内への関門を扼する要衝である。弘治4年(1558)神代勝利が龍造寺と戦ったときの本陣である。
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タメミ
集落の祭りのおりにタメミ(試見)、オタメなどという占いが行われる。地中に埋めた瓶の中に酒やシトギ、セッカンなどを入れて蓋をしておき、1年後に開けて、酒の量や濁り具合などで来年(今年)の豊凶などを占う。1年間の作物の出来不出来は深刻な問題である。それに関連した天候や災害などを瓶の中の状態で占う。 酒の量が少ないと干ばつになる、虫が多ければ虫の被害があるのではなかろうかなどと占う。 現在、行われている集落は、下無津呂北川・金比羅社、大串西の谷・権現社、大串・早馬大明神、栗並・豊前坊、下小副川・九郎社、大野原・妙見社、日池・子安神社などである。東畑瀬では泉神で山口姓の人たちにより行われていた。
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夫婦石
栗並の宮の馬場、子安神社の川下にあるふたつの巨大な石を夫婦石と呼んでいる。ひとつは楕円形、もうひとつは上の方がもぎとられたように平たくて角ばっている。いつのころから夫婦石というようになったのかは、明らかでないが、肩をすりあわせて寄り沿うような恰好で並んでいることから、誰いうともなくそう呼びだしたのであろう。 大岩の近くには、カエルの置物も配され、平成2年より夫婦石祭りが行われていた。 別に袂石ともなまず石ともいうが、それにまつわる言い伝えがある。 むかし。権現さまがふたつの大きな石を両方のたもとに入れて、大なまずに乗って川をのぼってこられた。さしもの、大なまずでも石の重さに耐えかねてここまでくると動けなくなってしまった。権現さまは可哀相におもわれて、たもとの大石をここに降ろされた。石の下は魚だまりになっていて、たくさんの魚がいるが、地元では神さまの崇りがあるといって魚を捕ることは忌まれた。
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車石
鎌原に鎮座する鎌王神社の祭神は女神で、男女連れ立って参りに行くと焼き餅を焼くという。苣木の向かいにある山の中腹に高さ4mほどの巨大な石がある。車石といい、鎌王神社の祭神がこの石に乗って降りてきたと伝えられている。現在、一部が欠けているが、もとは車輪のように円形をしていたという。車石は、出ている部分で約3mの円形の御影石で、今は大きく欠けている。 毎年11月30日は未婚の青年が出雲大社に行かれた神が帰って来られるのを待って拝殿で一晩中起きて酒を飲んだり夜食をする。そこで神定められた女性との結婚が可能となるといわれている。
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天山鳥獣保護区
(平成5年10月29日、佐賀県告示第621号) 佐賀市富士町と唐津市厳木町、小城市小城町との境界地区には保護地区が設定されている。また、富士町と隣接する唐津市七山村には、樫原鳥獣保護区(平成5年10月31日 佐賀県告示第594号)があり、貴重な動植物が保護されている。 脊振北山県立自然公園(昭和50年12月12日指定、佐賀県告示第713号) 脊振北山県立自然公園の範囲は東は基山町から西は七山村にかけて、富士町も含めて、7,967haの地域である。脊振山地の尾根にあたる東の基山から西の浮岳まで、約40kmに及ぶ山岳地帯と北山湖とその周辺の二地域で構成されている。 九州自然歩道は、東海自然歩道に次ぐわが国2番目の長距離歩道で、環境庁の提唱で九州各県が共同で整備をすすめている事業である。その目的は、多くの人が歩道を歩くことによりすぐれた自然環境に接し、沿線の自然・歴史・文化などに触れ、自分たちの郷土を再認識し、あわせて健全な心身の育成、自然保護思想の高揚をかかげている。九州を一周する約2,100kmのうち、佐賀県分は117.5kmで、基山から長崎県の栗の林峠の範囲で、このうち富士町関係は東から西に縦断する。 佐賀市三瀬村の北山湖畔、虹の橋から北山キャンプ場、寄合平、上小副川、大野原、須田権現山に登り、古湯温泉、宮の測、天河川、七曲峠、天山山頂を経て多久市へのコース25kmである。自然歩道の道案内は、九州統一の「かたつむり」の目印。富士町内は青年団の協力などにより、草刈などの管理がなされている。
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埋没縄文巨木群
1997年3月、雷山(標高955.4m)南斜面の林道工事現場から、長さ20m、幹周り4.5m、の巨木が出土した。国立奈良文化財研究所の三谷拓実博士によって樹種は「カヤ」と断定された。名古屋大学年代測定資料研究センター奥野充(学術博士)によって炭素14の測定の結果、5,290±110年前(縄文時代前期)に埋没した樹木とされた。11月熊須健一氏(宮崎県綾町の盤士)と当時の富士町役場林業課で、碁盤、将棋盤、衝立等の製品化契約がされた。(製品化に2~3年、日本棋院の話では、日本一古い材のカヤ盤とのこと。富士支所、県林業試験場ほか所有。)その後、1999年3月、同年7月の2次にわたり付近一帯を名古屋大学、福岡大学、長崎大学、熊本大学、佐賀大学等のプロジェクトチームより発掘調査、資料採取の結果、およそ5300年前に斜面が2回に亘り崩壊し、樹木等が埋没したことが判明。カヤノキ(イチイ科)など10種類の植物遺体、花粉、昆虫化石、当時の気候の分析が実施され、多角的に古環境が復元されることになった。なお、1999年3月の発掘調査後には一般公開を実施、約500人の見物者があったが、現在は埋め戻されている。
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富士町の阿蘇4火砕流堆積物
標高600mで発見された火山噴出物は、杉山地区の岡本清次氏によって圃場整備中に発見された。1999年8月長崎大学教育学部長岡信治教授(理学博士)の調査で約8〜9万年前に阿蘇カルデラから噴出した、阿蘇4火砕流堆積物であることが判明した。 長岡教授の調査報告書によると発見された火山噴出物は、軽石と火山灰の混合したもので不淘汰であること、ポケット状の凹地を埋めて堆積していること、高温を示す炭化木片を含むことから火砕流堆積物である。軽石が非常によく発泡し、マトリクスの火山灰がガラス質で赤橙色を示すこと、重鉱物として角閃石を特徴的に含むことから阿蘇4火砕流堆積物であると判断される。阿蘇4火砕流は、北は山口県秋吉台、南は宮崎県大淀川、東は大分市、西は長崎県大村湾、佐賀県伊万里市など半径150kmの範囲に分布が及んでいる。 富士町大字杉山の阿蘇4火砕流は、佐賀平野から脊振山をこえたことを示し、阿蘇カルデラから100kmも離れた標高600m以上の山地を乗り越えるエネルギーがあったことを示している。これまで佐賀市三瀬村周辺の400m以下で発見されている。しかし、脊振山地の500m以上でまとまって発見できたのは初めての例であろう。また、阿蘇4火砕流が九州山地を越えた例は知られているが、脊振山地を越えた証拠の報告はこれが最初である。
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かっちゃ石
太古の昔、地殻変動の折の現象であると想像されるが、大きな石3個が三段重ねとなり珍しい景観を造っており、その中には石像が安置されている。 「昔、鬼が土地の庄屋さんの頼みを聞いて、一夜のうちにこの石を運んだ。両袖に1個づつ、頭の上に1個を乗せて持って来たそうな。」という話が残っている。