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[三瀬村][ 寺]は9件登録されています。
三瀬村 寺
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常楽山 延覚寺
三瀬にあって最も早く浄土真宗の寺として認められているのは延覚寺である。 慶長元年(1596)2月僧教西(『延覚寺文書』では教清となっている)開基、三代永賢の代慶長16年(1611)5月16日に本願寺より木仏(本尊阿弥陀如来)が下され、永賢坊と坊号を拝受している。「金蔵寺正智」 の自筆副状が現存しているのに4代純誓代、寛永12年(1635)10月5日、坊号を願い替えて「延覚寺」となし山号を藤原山と称している。(山号は明治時代頃に常楽山になったと言われている) 幕藩体制の中で次第に本末関係が強化されて行く模様が過去帳の中にきざまれていて(僧の階位)現在地(大字三瀬字原の谷四230番地)へ移転する頃(天保初期)、京都堀川受左衛門作の社寺籠の銘、天保10年巳亥(1893)からみるとき、このかごが求められたのは多分に「願正寺中末寺」としての整えをするためではなかったかと思われる。何時設けられたのか不明だが境内地の中に鍋島内庫所が明治初年(廃藩置県後)まで放置されていた。 天保銘の半鐘には「藤原山願正寺掛所」と刻まれていて、延覚寺が別称「北山願正寺」と呼ばれていたことが理解される。 天保差出しの『一向宗由緒』によれば、「高源院の位牌」を安置している。寺紋は鍋島杏葉で12代は願正寺からの養子「六位」(官名がそのまま自名としてつかわれている)である。千栗の領主山城家から嫁して来たり、16代樹心には蓮池鍋島家から輿入れをしている。 鍋島直茂は本願寺への恩返しとして願正寺を建立したが、勝茂以後は幕府の元和の社寺法度にはじまる宗教の統制をうまく利用しながら、尚進んだ形の治民の方策として、おもな社寺との親緑関係を結ぶことによって、自然の中にそれを考えていたのではないかと思われる。延覚寺はそのよき例ではなかろうか。『一向宗由緒』及び十世慈門自筆文書と過去帳によれば延覚寺の系譜は下の如し。 一、神埼郡下藤原山、 願正寺中末寺 延覚寺 号 藤原山(現常楽山) 法官 国絹袈裟 御持仏并高源院様御位牌、先祖より安置仕来候。 滅罪門徒 238戸 開基 教西(慈門自筆では教清) 第 2世 玄海 第 3世 永賢(木仏、坊号御免) 第 4世 純誓 第 5世 純徹 第 6世 純應 第 7世 純説 第 8世 純結 第 9世 純慶 第10世 慈門 第11世 恵聊 第12世 六位 第13世 真道 第14世 顕麗 第15世 僧詮 第16世 樹心 第17世 正真 第18世 徹雷 尚、延覚寺には「原計」氏夫妻によって昭和49年11月吉日梵鐘(135貫)が寄進されている。 寄進趣意銘下の如し。 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 佛道無上誓願成 中鶴具座に生る、幼少より偽縁深き育てを受く、17才にして海軍に志願、第二次世界大戦に従軍、戦後自衛官として任を果しつつ今日に至り、退官を間近に望む他郷にあって故郷を偲ぶ時、今われ健在なるは仏・祖・神明の冥加と社会の恩恵によることを、諸々の恩を報ぜんがために有縁・無縁の霊を追悼し郷土生誕の地が梵鐘の音に和して、仏道の繁盛と共に恒久に平和であらんことを祈念し併せて父母深厚の恩を謝す。
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松尾山 善正寺
元脊振山天台宗配下の寺で福寿寺と称していた。一時曹洞宗に属していたが真宗寺院としては延覚寺につぐもので、慶長17年(1612年)正竜によって開基真宗へ転宗し善正寺と寺号を改め、山号を方城山から松尾山としている。山門は室町期のものと思われるし保存すべきものである。福壽寺当時のものであろう。一向宗由緒と延覚寺文書によると、 神埼郡下杠村 号松尾山 善正寺 法官 国絹袈装 開基 正竜 第2世 了西 第3世 了讃 第4世 了善 第5世 慶雲 第6世 慶山 第7世 紅雲 第8世 雲海 第9世 了諦 第10世 鳳瑞 第11世 唯應 第12世 観説 第13世 雲海 第14世 唯空 第15世 唯空 第16世 唯説 第17世 誓鎧 第18世 知康 第19世 康夫
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梅谷山 円光寺
明治14年(1881)長崎県庁差出のものによれば、「元吉野山の麓字寺谷に在り、永禄中、神代勝利此の寺に寓す、開基不詳、寛永中神代某を僧となし、了伝と号す。寺を今の地に移し、称して開基となす。」 とある。正しく寺谷に寺趾あり、この地はもと脊振山天台宗の末寺、梅渓寺であった。中途他の諸寺と同じく禅宗曹洞派に属していたのであるが、浄土真宗西本寺派・神埼町の枝ケ里真光寺の配下にあったのであろう。鍋島文庫『一向宗由緒』にはその末寺として差し出されている。『延覚寺文書』では、開基は龍永となっていて了伝は2世である。 梅谷山 円光寺 西本願寺末寺 住職代々 開基 龍永 第2世 了伝 第3世 玄道 第4世 順海 第5世 養恩 第6世 恵恩 第7世 恵槃 第8世 恵純 第9世 了天 第10世 誓鎧 第11世 龍海 第12世 顕正 第13世 至道 尚十三世たるべき顕道は戦死をされている。 同寺喚鐘には左の通りに記してある。 梅谷山 円光寺鐘銘並序 夫梅谷山圓光精舎、松平丹後守光茂公之家臣、深江長青居士専為薦公之嫡女法名緑樹院良嶽寿辰大姉之冥福処草創也。 屡正星霜棟宇将撓勢難久仍是故投衣資悉改創諸堂歉銅鐘未備而令予従要門募諸人新鋳銅鐘因為之銘曰。 鋳成洪器 高掛梵空 暁天吼月 晩来喚風 声離哩鋳 偏満大空 聞者発信 礪反聞切 聞性明処 宜證圓通 是慈至宝 永伝無窮 元緑十三年龍集康辰十月吉旦 肥州神埼郡梅谷山円光寺 九世現住当寺沙門了天敬記 化主梅門鑑寺惣檀那中助化上藤原山中
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法身山 養行寺
昭和25年北山ダムの建設にともない福岡市博多区博多駅南3丁目18−28へ移転した。『同寺由緒』によれば 杠山字丸田村宇土に在り、古は法淋山養行寺と称す。開山を守谷禅師を以って祖とす。守谷禅師事、人皇5代清和天皇6世孫新羅三郎源義光を祖とす。義光3世孫武田冠者信義17世孫甲斐国大守武田晴信入道信玄、その子義信、信親(龍芳)、勝頼、織田氏の為に天正10年(1582)3月天目山之戦に敗れ、いまだ幼かりし守谷次右ヱ門長信は難をさけて比叡山現々庵靈空上人の袖下に入り仏道を修業し、父祖の靈を弔いしが自力小乗の悟り難きを知り、諸国を行脚、肥後国延壽寺の名僧月寛の門に入り大乗の奥儀を極め、杠氏の所縁を求め杠山に仏浄の地を見立て、宇土に法淋山養行寺を建立し(後法身山と改号)衆生を済度す。姓守谷を森谷と改む。開山当時は台宗なりしが(曹洞宗・清久庵ではないかとも推定)関ケ原戦後真宗に改む。とある。 『一向宗由緒』によれば開山は了琢となっているが「長崎県庁差出」では万治2年正善開基としていてくいちがいが見られる。『一向宗由緒』より以前とみられる『延覚寺文書』 では開基を正善とし2世を善従、3世を了琢と記している。 『一向宗由緒』は公書であるから正しいとみるべきであるが、この違いは開基はやはり正善とみ、了琢を開山としているところから、この時真宗に改め山号を法身山としたのであろうと思われる。 上のようなことで一向宗の届出を開山了琢、2代了海としたのではないか。以下『延覚寺文書』により住持代々を記すと 開基正善 2世善従 3世了琢(開山改真宗) 4世了海 5世香月 6世泰山 7世達道 8世琢円 となっていて、無住の時代もあったようである。
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長楽山 伝照寺
万治3年(1660)11月、開基を道円となす寺であるが、元は諸寺と同じく天台宗の末寺で前身を瑞応寺(中園在)といった。一時曹洞宗玉林寺末寺と改宗していたが禅寺として壊廃し、万治に至って浄土真宗として復興され山号を長水山後長楽山とし伝照寺と称している。 雑仏の項で掲載している「薬師堂」の薬師三尊仏(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)はこの瑞応寺の本尊ではなかったかと思われるのである。少なくとも禅家のものではなく台宗由縁のものではと推考される、その容姿はすばらしい。 伝照寺住持代々下の如し 開基道円 2世宗鎮 3世誓伝 4世受教 5世慈文(自門) 6世貞山 7世是応 以上一向宗由緒 代々住職あるも、子育て、縁結びで有名な昭和の仙崖(雅号)13世の寺がこの伝照寺で書画彫刻を好みつつ85歳で昭和51年入寂した。
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日本国山 法華経寺
昭和46年11月26日、勝縁の地と定め、寺を設立、身延派、開山初代は力久学正で衆生利益にはげんでいる。
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観音堂
一、本尊 観世音菩薩 一、堂宇 2間に1間半 一、由緒不詳なれど、信者間に死亡者が出た時、7日の御布施を1回だけではあるが出資する習俗が残されている。
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幸福庵
一、本尊 薬師如来 釋迦如来坐像 聖観世音 道零大師像 一、由緒 脊振山台宗末寺にして薙野式部一党の菩提所ではなかったかといわれていて、一時は禅家の支配下にあったがいつの間にか住僧なく荒れはてている。
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妙日庵
詰の瀬にあったが寺趾について知る人はない。今日釈迦堂と呼ばれている石仏2体のある場所ではないかといわれている。台宗末寺であったがみるかげもない。1体の石仏は釈迦の立像、もう1体は地蔵菩薩の坐像であるが首なし、時々かけられる子供の「よだれすけ」が無精に淋しい。 或いは観音堂(年時不詳・本尊観世音)が妙日庵ではなかったかという人もあって定かでない。