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[旧佐賀市][ 碑]は49件登録されています。
旧佐賀市 碑
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鑑真和上記念碑
聖武天皇の招きにより、唐の国揚州より遣唐使船に乗って日本に向った鑑真は、5回の渡航失敗にもめげず、6回目の渡航にて漸く成功し、天平勝宝5年(753年)薩摩の坊ノ津にたどりつき、そこから東支那海を北上し、嘉瀬の嘉瀬津の港に上陸し大宰府を経て平城京に到着したとされている。その鑑真和上の上陸記念碑は嘉瀬町の森林公園内に平成2年に建立された。また、その碑の横に井上靖氏自筆の「和上讃仰碑」並びに朱塗りの遣唐使船をかたどったモニュメントが建てられており、その横には揚州市より贈られた瓊花(けいか)が植樹されている。
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道標
長瀬町から長崎街道をそれて諫早渡海場へ通ずる分岐点に位置している。 この道しるべが設けられた年代は明らかでないがその様式からみて江戸時代中期以降と推定されている。 江戸時代の街道は、そのほとんどが改変され一里塚や道標が姿を消してしまった今日、原位置に残存している道しるべは往時の交通資料として注目すべき価値を有している。
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雲菴道人帰田詩碑
天賜園より移されたもので、8代藩主直與の帰田の詩10首を刻んである。鐫字人筒井新吾。嘉永2年(1849)春2月浄書、3月22日天賜園に建つと誌してある。
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頌徳碑
公爵徳川家達の題字。裏面に永田暉明撰の真與公頌徳文あり、明治44年の肥筑大演習の際に、正四位を追贈され、その書画筆跡が天覧に浴したことを伝えている。
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戊辰出征記念碑
表の上部に横書きで忠武碑とあり、正三位勲二等男爵船越衛(東北游撃軍参謀長なりし人)撰になる碑文を刻し、裏に「鍋島子爵、出征者或遺族、一般賛同人」と刻してある。明治37年5月建立。碑の前に左右に2本の石の円柱があり、向って右のものには出征者氏名を、向って左のものには賛同者氏名を刻し永くその芳名を伝えている。
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忠魂碑
かつては日露戦役忠魂碑として建立されていたが、戦後その台石をそのままに、当時の鍋島直紹県知事の題字を刻した碑を立て、日清戦争から太平洋戦争に至る蓮池町出身戦没者の氏名を刻した石塔を配して、今も春秋に慰霊祭を行っている。
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雲叟公歌碑
昭和7年2月22日、廟行鎮の戦闘で我が身を肉弾として鉄条網と共に粉砕した、江下、北川、作江の3人は軍神爆弾三勇士として当時の国民を奮いたたせたが、その一人江下武二伍長は蓮池町(古賀)の出身であった。昭和9年2月22日、江下伍長顕彰会によって蓮池公園に十字鍬を杖に、廟行鎮の空をにらんだ江下伍長の銅像が建設された。終戦によって銅像は米軍を顧慮して取払われ(※1)、後に礎石のみが空しくそびえていた。その跡を如何にするかで色々と考えられたが、昭和33年にその礎石を利用して歌碑を作ることになり、蓮池中興の英主雲叟(8代直與)公の歌碑が4月6日建立された。 「のどかなる 春のすがたを 力なき 柳の糸に 見する朝風 雲叟」 (江下伍長の銅像は、三田川自衛隊の記念館に、現存している。)(※2) ※1佐賀市史第四巻p834によれば「戦局が悪化すると(中略)蓮池公園に建立したばかりの上海事変における「肉弾三勇士」の一人江下伍長の銅像も回収された」とあり、戦時中に供出されている。明確な供出年月日について、『佐賀県警察史下巻』(佐賀県警察史編さん委員会編、佐賀県警察本部刊行、1977年)によれば、昭和19年5月22日となっており、昭和19年5月22日付佐賀新聞2面記事には「銅像出陣」と題して、「二十二日午前十時から伍長の銅像前で当時ゆかりの深かった人々や町内会各種団体参列して盛大な壮行式を挙行する」とあり、この日に供出されたとして間違いない。 ※2正しくは陸上自衛隊の目達原駐屯地で、銅像の原型となった石膏像が広報資料館に展示されている。
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句碑
公園の先得亭の西南江湖畔にある。 「一声の 江に横たふや 郭公 ばせを翁」 とあり、一説に松尾芭蕉とも言うが、真偽の程、建立その他詳かでない。しかしこの句碑あたりの初夏のたたずまいは、まさにこの句そのものであった。もと中地にあったものを、ここに移したとも言われる。
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長徳寺の芭蕉塚
昔天明、寛政の頃に無漏庵菊亮という俳人がおり、本名は副島作次右衛門といって、芭蕉門下五十年に及んで修行してその名を全国に響かして、佐賀の俳句の世界では中興の祖と呼ばれていたが、寛政5年3月、芭蕉の百回忌に際してこれを記念し、かつ、冥福を祈念して東佐賀町の長徳寺に、高さ1.93メートルの自然石の表面に次の句を刻み建立した。 『馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり』(この句は、小夜の中山(静岡県金谷駅の北の一名所で東海道の一難所)で詠んだ句)の真筆を埋め、その上に碑を建立したもので当時肥前の俳人悉く集まり、盛大に供養を営んだといわれている。松尾芭蕉は、伊勢の津で有名な伊賀上野赤坂町に生まれ、幼名を金作といい、後に宗房と名のり、通称を甚七郎または、藤七郎、忠右衛門(忠左衛門)といった。弱年のときから、上野にいた藤堂家の若君良忠(よしただ)の近習に選ばれたが、良忠は、大変学問が好きで俳諧も北村季吟に学び、蝉吟(せんぎん)と号していたので、芭蕉もその感化を受けるようになった。 寛文2年(1662)19歳の12月29日が立春であったので『春や来し年や行けん小晦日』の句を残したが、これが芭蕉の句として知られているもっとも古いものである。 『野ざらし』の旅から帰った翌年の春、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句を得て、芭蕉独自の詩世界が開けたのである。芭蕉のもっとも大きな旅行は、元禄2年(1689)46歳のときの陸奥、出羽、より北陸の旅であった。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす、古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず』こういう書き出しで始まる『奥の細道』は、芭蕉の紀行文のなかでもっとも優れたものである。幾度か文を改め、句を作り替え、ねりにねって完成したのは5年後の元禄7年のことであった。元禄7年5月には九州への旅を思い立って、芭蕉の子ども次郎兵衛をともなって江戸を出、故郷へたちよって大阪へ入ったのは9月9日であったがそこで病気になり、10月12日の夕刻に51歳でなくなった。辞世の句は、その8日に詠んだ『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』である。佐賀県内には、唐津市、伊万里市、佐賀市等に芭蕉の句碑があり、蓮池公園には、『一声の江に横たふやほととぎす』の句碑がある。
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忠魂碑
日清戦争以後、護国の華と散った本町出身の将兵の忠魂を祀ったもので、昭和8年4月起工し11月落成式とともに厳粛な招魂祭が挙行された。総工費2.000円で、忠魂碑の文字は本県出身、真崎甚三郎大将の揮毫である。その後毎年4月1日を祭日としたが、昭和22年2月、村会の決議によって忠魂碑も奉安殿と同時にとり壊された。 その後再建されたが、町民の自発的意志によって、毎秋慰霊祭を挙行している。忠魂碑合祀の霊位は215柱である。
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萩原玄太郎君表彰碑
昭和9年、上野中熊野大権現社境内に建立された。東京在住の法学博士、弁護士萩原玄太郎は、郷土愛に燃え出生地を思い報恩感謝の念を忘れず、田地2反3畝余、住宅土蔵つき一棟、屋敷8畝を寄贈した。さらに熊野権現社の造営には金1.500円を寄進したので、その徳を表彰して記念碑を建てた。
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納富嘉一翁夫婦の表彰碑
翁の令息納富重雄、野口松一兄弟は共に最高学府を卒業して社会的に重要な地位に就き、その功績も顕著であったが、故郷を忘れず、伝来の家、屋敷のすべてを出生地である野中分草原地区に贈った。また田地を寄付して、青年会場を新築し、観音堂を建立するなど大いに郷里の福利増進に寄与した。地区住民は感激して記念碑を建て、納富家の繁栄を祈ると共に永くその徳を伝えることにした。
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出征記念碑
日露、日独戦争などに出征した方々の勲功を永久に伝えるため、大正4年御大典記念事業の一つとして、藤木地区住民によって建設された。天満宮祭と同時に、地区住民は懇ろに招魂祭を執行している。
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岡太郎君の表彰碑
地区の公共費用に使用するようにと、所有田地の一部を寄贈された。その芳志を永く伝えるため、昭和9年4月建立された。 堀立の東部、県道柴野線側にあったが、平成8年3月圃場整備事業のため新県道予定地岡達也氏敷地へ移転させる。
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焼原川堰竣工記念碑
焼原川は本町東部を南北に流れる川で、その水量の増減は東部諸地区農民には死活の問題である。 伊賀屋壮年組はかねての基金を提供すると共に、関係地主の寄付を集め、焼原橋付近にコンクリート堰を築造し、用排水の調節を計ることにした。大正13年3月竣工したので、これを記念して碑を建てた。
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竹下以善君の表彰碑
東渕、渕頭の橋のほとりに立っている壮大な記念碑がある。表面の大文字は故内務大臣、大浦兼武の揮毫で、裏面の表彰文は当時の佐賀県知事、関清英の撰である。 竹下以善は東渕の生まれで、明治9年以来30有余年間、公共事業に誠を尽くし、学校の設立、道路の改修などに率先尽力した。選ばれて県会議員となり、県政に偉大な貢献をした。兵庫村長中野子徳太郎を委員長に久保泉、金立、春日、高木瀬の各村長を建設委員とし、前記各村助役、本村木塚卯七、鶴忠三などを常務委員として、広く有志の寄付を求め、大正5年8月盛大な落成除幕式を挙行した。所要経費は800余円で、石工は金立の桑島鶴松である。
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八田忠一君の表彰碑
昭和4年3月の建立で、八田忠一の信仰者一同によって寄贈された。その碑文によると、八田忠一は明治13年3月15日この地で出生した。性質温良で慈愛心に富み、身なりを飾らず、信仰心が深かった。 20歳の頃から日月星辰を拝んで国恩に報い庶民の安全と幸福を祈願して20数年来1日もこれを怠らなかった。初めて神通力を得て、その後は病人あれば、これを慰め全治の方法を教え、悩み苦しむ者があれば、安心して家業に励むように善導した。その効き目を喜び、その徳を慕って参詣する人も数知れず大権現と尊称した。
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至誠光千住秀作の記念碑
千住秀作氏は靖国道総帥者下田一太郎氏の御訓を受け嗣ぎ昭和6年より信仰の道に入られ仲く御訓の真理を悟りひたすらに信仰のみちに没頭。一時は仕事も忘れ夢中に成られし事もしばしばなり。氏が信仰を始められて数年後医学博士より胃癌と診断を下された事有りたるが氏は顔色一つ変えず自宅にもどり断食坐禅水行とあらゆる難行苦行を重ねてついに薬一服も飲まず斯く難病を克服せられたり。夫れ以後は病気で困った人は誰彼を問わず信仰の真理を訓し御加持を授け病気を全快させその当時は千住病院とまで人にいわれたほどなり。又数年前より整骨手術まで致され専門医より速やかに全快致せり。斯様にして助かりし人実に数えきれず。又氏は全快しても金品の返礼は固く断られすべての欲得を放れ人のため世のため無報酬の御奉仕。氏は病気の全快することを本人よりも悦ばれ全く凡夫を捨てられし姿こそ正しく生神と神子一同始め氏の御訓を受けし者等しく崇め奉る所以なり。又氏は総て神通力に依り神霊の言葉ほとばしり信仰の誠を説訓されるときは我々神子も不思議さ神の慈悲の有り難さに感涙する事しばしばなり。此所に至り氏の業績を顕すために神子一同総意の本に記念碑を建立して氏の功績を永久に賛へ奉る者也。 以上は氏の功績のほんの一部にすぎない。 しらぎくのみおしえさがすしせいこう。 敬白謹書 碑文 至誠光千住秀作の記念碑 昭和三十五年三月二十一日建之 佐賀先輩者神子一同 発起人 西 亀太郎
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下渕のネバル(粘る)
昔、秦の徐福が不老不死の霊薬を求めて、わが国へ来朝したと伝えられる。新北村の浮盃津から芦や萱の茂みをかきわけて、金立山へ向って進む途中、下渕で粘る悪路に難渋し、歩みを止めたというので、ここをネバルという。数十年前、古賀伝七翁が1基の石碑を建て、これを記念した。今この記念碑は古賀宅の屋敷内にある。 その西方100m余の地点を千洗(洗足)というが、それは徐福が足を洗った所だという。
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灌漑記念碑
東分下の耕地は、巨勢地区でも土地の高い所で、踏み車で水田に水を汲み上げており、当時、毎日水田に灌水して維持していくのは並大抵の苦労ではなかったのです。踏み車を2段、3段と連ねての水入れ、朝は3時、4時から蚊に刺されながら、小学生までも動員しての車踏みが毎日、毎年繰り返されました。そのため多くの人手と労苦は大変なものでした。そこで大正10年に東分耕地整理組合を作り機械灌漑施設を取り入れる事業を始めました。しかし日本で初めての事業で困難がつきまといました。最初は5馬力のディーゼルエンジンを据えて実施しましたが、この発動機が不調で失敗しました。次に小型発動機を船に積んで行う舟形揚水機を真崎鉄工所が開発して実施しましたが、船の運行が不自由の上、機械に不慣れで失敗しました。そして翌年真崎鉄工所が2馬力の電力モーターによる揚水機を開発し、電力の導入など問題は山積みしましたが、モーターと揚水機は真崎鉄工所が受け持ち大正12年に完成しました。この機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、東分下のこの事業は日本の先駆者となり、その記念碑が建っています。碑文は当時の県知事の作です。
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郡境石
修理田一本松一の角340番地、佐賀郡と神埼郡との境界の石で高さ5尺4寸(約170cm)幅6寸5分(20cm)の四角の形をした石柱で264号線の旧道路横に建っている。
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売茶翁と顕彰碑
東巨勢、龍津寺の名僧であった月海禅師は、姓は柴山、名は元昭で売茶翁または高遊外と号し、日本煎茶道の祖としてその道の人から仰がれている。 売茶翁は延宝3年(1675)佐賀市蓮池町西名の道えん(巨勢町東巨勢との境で諸富豆腐のすぐ東付近)で柴山杢之進の三男として生まれ幼名を菊泉と言いました。翁は11歳のとき龍津寺の化霖和尚の門に入りました。龍津寺は黄檗宗万福寺独湛の弟子化霖の開山です。翁は出家の翌年化霖に連れられて万福寺で独湛から年少で才幹に富んでいると誉められたそうです。その後、少年月海は、禅僧として激しい修行に励みました。22歳の時胃を患ったが治らないのは修行が足りないためだとして、病が治らないのに雲水に身を託し修行の旅に出ました。仙台の月耕和尚や近江の湛道和尚など各地の名僧などに学び、後、佐賀の雷山で断食苦行などして龍津寺に帰りました。こうして龍津寺で14年化霖に仕えましたが、その間禅僧としての修行だけでなく広く学問に力を入れ、禅と学問に優れた僧として成長しました。そのころ長崎で中国人の煎茶趣味を知りこれも習得し、茶の湯も習得したようです。 化霖の死後、弟弟子の大潮を呼び寺を譲り、京都に上り、念願の売茶の道に入りました。その時56歳でした。 当時、京都では、売茶や煎茶も流行し始めていましたが、翁は東福寺近くの道の傍らや相国寺や三十三間堂の門前などで茶席には「茶代は黄金より半文銭まではくれしだい、ただのみも勝手、ただよりは負け申さず」と書いたといいます。 翁の名利に頓着しない性分がこの中にあらわれています。 当時の僧が権門に出入りし僧の地位を求め、お布施を求める姿に反発し功名や富貴を度外視して、茶を売って飢えを防げばよいとして、春は花、秋は紅葉を求め、茶道具を担って客を待ち、すばらしい話をする姿に文人墨客も集まり、その名は遠く広がり、おう茶を受けねば、文化人といわれぬというくらい評判になりました。 後に京都の岡崎で茶道具を焼いて門を閉じ89歳で亡くなりました。 人々は煎茶の祖として尊敬し、宇治の黄檗宗本山万福寺に売茶堂が建てられ、翁の木像がまつってあり、龍津寺跡に煎茶の森本氏や檀徒の中島氏などにより売茶翁顕彰の碑が建てられています。
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本庄小学校忠魂碑
本庄小学校校庭の南に2基の石碑が建っている。昔は東に建っていたが、戦後現在地に移転された。 表面「忠魂碑」と東郷平八郎元帥の書によるものが刻まれている。 本碑建設発起人は 本庄村長 三好 勝一 本庄小学校長 香月 清次 ほか当時の各区の代表が名を連ねている。 「本庄村関係戦没者」 戊辰之役戦没者 野口 孫太夫 霊 西南戦争戦没者 川谷 次吉 霊 ほか210余柱の英霊顕彰の碑である。 本庄町では、毎年5月の第2日曜に、本庄町民による、慰霊祭が現在も執行されている。 忠魂碑の裏面の碑文は下記の通りである。 「上ニ費スベキコトハ、節義ナリ、以テ國ニ殉ジ以テ公ニ奉ズ 我ガ國燦然トシテ八紘ニ輝ク良ニ故アルナリ、惟ツテ皇國幾タビカ、大兵ヲ動カシテ、膺懲ノ義戦ヲ行ルヤ本村ノ勇士命ヲ鴻毛ノ軽キニ比シ躍シテ邦家ノ難ニ赴キ奮戦激闘克ク其面目ヲ発揮セリ、士人ノ榮譽何物カ之ニ如カン、茲ニ同志挙テ忠魂碑ヲ建テ英霊ヲ不窮ニ慰メ、勲績ヲ永勃(永劫か)ニ伝へントス洵ニ近代ノ美挙卜謂フベシ。庶義ノ後進子弟アル者ハ克ク先進ノ偉績ヲ追懐シ以テ益國家擁護ノ赤誠ヲ致サムコト」 大正十一年三月 従六位勲六等 千住 武次郎 謹撰
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中野實翁頌徳碑
忠魂碑の右に同形の石碑が建っていた。これが中野實翁の頌徳碑である。 同碑文下記の通りである。 「起身於乏○作○富非発憤努力者則不能也。富抛資於公共非趨義竭誠者、則不能也。有能成之者、中野實君之也。君安政元年生于本荘村上飯盛、明治十年熊本鎮台徴丁壮、君応徴入営、能府軍紀勉其職、以養志氣矣。任満而帰也。志商業到琉球視糖○○○○購砂粕○和船数隻鬻之于大阪。又自往為菓商得巨利。君殖貨漸多營業愈盛、而其名亦顕于阪地代全國周業者多有所、而果策特抱濟故園志用力於此亦大矣。大正五六年産業振興于佐賀著六七君(殆か)無于投資以助之各會社創立速成者、君之力與居多也。而明治三十年以後身爲各地株式会社十餘所重役、蓋由致力於産業乎。平欧洲戦後都鄙到處教育費増加、而経常費動輙不給。况於臨時費乎。如我本荘村小學校舎朽廃○○改造。君○欲独力新築之通其意。於当路村長大喜不遷時之營之問數月、而于竣矣。其賞金五萬圓皆出於君之十可知君盡心。于公共事業用力于故園也。村民徳之建碑以使君功績照永遠云爾」 大正十一年三月 本荘村長 三好 勝一 誌之 (校庭の一隅なるこの石碑、その遺徳を語りつぐことこそ私達の務めである) 碑は平成16年9月の台風により倒壊し、台座のみ残っている。
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中野實翁誕生地
上飯盛の南端を東西に県道相応津から諸富線の道路沿いの松の木立ちの中に、中野實翁の誕生地の記念碑が建っている。 この記念碑は大正11年(1922)3月に建立された。当時老朽化した本荘尋常高等小学校の改築問題で、財政的に貧困の極みにあった当時の本荘村に、中野實翁が、その時の金で大枚5萬円也の寄付を申し出られ、それにより講堂、校舎を新築することが出来た。本庄村民は翁の功徳を称えて、本庄小学校校庭の一隅に、中野實翁頌徳碑を建立し、また生誕地にも記念碑が建てられた。 實翁の父中野龍渕は飯盛八幡社の座主であり、明治7年(1874)に東与賀町下飯盛に八幡社を御遷座するにあたり、翁は私財をもってこれにあてる。下飯盛区民は浮立を打ってお迎えする。神社前参道には、中野實翁表彰碑が建てられている。(昭和10年(1935)5月建設東与賀村)
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胞衣塚と久納屋敷
直茂公の誕生地に胞衣塚がある。その横に日子神社が祀ってある。 胞衣塚より東南に北古賀邸があり、その屋敷の南東に久納屋敷といって2本の巨松が茂る(今は枯れて無し)付近が、直茂公誕生の際不浄物を洗った場所でその後耕作を禁止した。 なお胞衣塚畔の堤家は、先祖の堤与一左衛門貞清の室が鍋島清久の末女(円照妙圓大姉)で、この縁故によって代々御番役をつとめた。
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鍋島役場跡記念碑
明治22年の市町村制に伴って村制施行の庁舎が必要となり、大正2年に当地に建設された。昭和29年佐賀市と合併するまで、35年間、同敷地内に農会(後産業組合後農協)、養蚕組合など鍋島村の重要施設が有った。合併後は支所、出張所、連絡所などを経て、取り壊され土地は民間に払下げとなり、現在角地に記念碑が設置されている。
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野口勘三郎翁頌徳碑
高木瀬小学校運動場の西南隅に高さ4mの記念碑が建っている。 野口勘三郎翁は、明治中期より、村会議員、郡会議員、村長あるいは県会議員、県会議長を歴任し、高木瀬のみならず、佐賀県地方自治に偉大なる貢献をされた上高木出身で、功績を永久に伝えるために建立されたものである。 記念碑竿石の石材は緑泥片岩の自然石、碑面には、長瀬出身、元検事総長光行次郎の撰になる碑文が坪ノ上幟持藤作氏書をもって雄渾に刻まれている。 昭和18年5月23日、佐賀県知事を初め多数の来賓を招待し、盛大なる落成式が挙行され小学生も参列した。
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紀念碑
(序文) 永渕 幸蔵 川副 弥平 吉武 平一 右ノ三氏ハ田畑貳反歩ヲ 紀念トシテ川原屋敷住 民中ヘ贈興セラレタリ 之ヲ以テ其ノ美徳ヲ永 ク後世ニ傳ヘンガ為メ 茲ニ 三氏ノ紀念碑ヲ建 設シテ是ヲ表彰シ毎年 紀念祭ヲ施行スルコト ヲ恒例トス 建設省 川原屋敷住民中
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陸軍「第55聯隊記念塔」
昭和29年に結成された「55会」(55聯隊出身の有志の会)の手によって、昭和33年4月建立された記念碑であり、現在も建立当時の姿のままで建立後50年余を経過し、周りの樹木が大きく成長し、生い茂っている。 また、記念塔は長い年月風雨にさらされ、苔生して、石碑正面の「55聯隊の略歴」等の文字は、判読し難い状態となっている。 高木瀬町史(113~116頁)には、建立の経過等が記載されている。 記念塔の台座石正面には「55聯隊の略歴」が刻まれている。 「55聯隊」等陸軍施設の推移を高木瀬町史(96~108頁)から一部抜粋すれば、 明治41年~大正14年5月・・・「陸軍歩兵第55聯隊」配置される。 大正14年5月3日・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」 その後・・・・・・・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」が久留米へ移駐 昭和10年頃・・・・・・・・・・「高射砲第四聯隊」が設置される。(同年10月号の「佐賀 県人会報」に、当時の県知事が喜びの談話を掲載) 高射砲第四聯隊のその後の経過・・不明 昭和18年4月~終戦当時まで・・・・・・「電信第二聯隊」が移駐 ※記念塔は2019年に総合体育館西側駐車場へ移設している。