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「久保田町」「物語・いわれ」「地名・とおり名」は34件登録されています。

  • 町東

     交通の変化と国道改修で変わってきた  町東は、久保田町の北東で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万宿の中井樋から東の集落をいい、嘉瀬川の西にあたる。徳万宿は、江戸時代の参勤交代街道の宿場として繁栄した宿で、鍋島本藩が長崎警備にあたっていたころは往路、復路とも必ずこの宿で休憩をしていたのである。この休憩所は、現在の鶴丸邸と森山邸の間といわれている。また、この附近には半里塚が置かれてあった...

  • 町西

     以前は沢山の商店が並んでいた  町西は、町の北部で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万交差点の東から中井樋までをいう。以前は、町西・町東を合わせて徳万宿といった。鎌倉期に記録されている名田名に得万名とあり、河上神社文書(仁治2年)に「得万三丁八段」とある。徳万は、得万名の遺称であろうか。名前の由来を知る人はいないが、辞典によれば徳は得に通用するとあり、得とは求めて手に入れるの意がある。万...

  • 徳間

        徳間は、町の北東部で国道207号線沿いの町東・町西集落の北に位置する。昭和13年徳万宿北裏の禅門井樋尻改修工事中、地下4~5尺位のところから弥生時代の土器が出土している。このことから、この地域には紀元前1世紀から3世紀ごろには久保田の先祖が住んでいたと考えられる。  明治15年の佐賀県各町村字小名取調書には、徳万村の小字に徳間の記録がある。徳間は、以前は快万と一緒であったが、生産組合の関係で昭和26年...

  • 徳久

      邑主村田家の射撃場があった高土居(たかで-)  徳久は、町の東北部で嘉瀬川堤防西側に位置している。久保田町で高いところと言えば、嘉瀬川の堤防ぐらいである。古老たちは、この徳久附近を高土居(たかでー)と呼んだ。ここは、維新当時邑主村田家の射撃場のあった所である。大正時代には、この高土居から西肥板紙(現王子製紙)の敷地造成のために、砂の搬出が行われている。また昭和16~8年頃には、馬の運動場もあり...

  • 快万

      小城、武雄への分岐点で交通の要所  快万とは江戸期の村名で、嘉瀬川の西にひろがる平野部に位置し、太俣郷に属する。村の石高は「正保国絵画」「天明村々目録」では、625石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに1村と記録され、「天明郷村帳」では小村に宮ノ前・西泉がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では、徳万村の枝村と記録されている。名前の由来は、知る人はいないが、快とは「こころよい」満とは「いっ...

  • 小路

      龍造寺政家の隠居地  小路は、徳万交差点から南へ300mほど下った県道沿いに位置する。明治七年取調帳では、徳万村の枝村に元小路の記録がある。明治十一年の戸口帳によれば徳万村の内に窪田小路とあり、戸数50戸・人口239人とある。  久保田の領主は、いろいろ変遷を見るが、天正12年(1584)龍造寺隆信が島原沖田畷の戦いで戦死し、その子政家は天正18年(1590)藩政を鍋島直茂に譲り久保田の小路に隠居した。政家の二男...

  • 草木田

      庄園時代の庄家田のなごりか?  草木田は、町の北東部で国道207号線の南にあたり、嘉瀬川沿いに位置する。天明郷村帳(1783)では、徳万村の小字に草木田の記録があり、明治15年の「佐賀県各町村字小名取調書」には、徳万村の小字に草木田の記録がある。名の由来を知る人はいないが、この附近は嘉瀬川流域にあり、庄園時代に開墾された庄家田から転化して草木田となったものであろうか。庄家田とは、庄園領主の田のことで...

  • 中副

     嘉瀬川の堤防に沿った所  中副は、田の中央部より北で集落の中央を県道が通っている。この道路は、以前は曲がりが多く道幅も狭かったので、昭和12年頃道路の拡幅工事が行われている。人々は、この道路のことを往還と呼んだ。往還とは、人々が行き来する道のことである。天明3年(1783)の郷村帳に、徳万村の小字として中ソリがある。明治15年の「佐賀県各町村字小名取調書」に徳万村の小字として土井の古賀の記録がある。土...

  • 麦新ケ江

      以前は嘉瀬郷十五村内  麦新ケ江は、町の東部で嘉瀬橋より800mほど下流にあたり、嘉瀬川沿いに位置する。以前の麦新ヶ江は、佐賀郡嘉瀬郷十五西分の小字であったが、嘉瀬川の短絡により、現在は久保田に属している。かつては、麦新ヶ江の西を嘉瀬川が蛇行していた。「疏導要書」(天保5年南部長恒著)によれば、嘉瀬・久保田の土井筋に決壊の憂いあり、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出てショートカットした。麦新ケ江...

  • 新田

      古村に対して新たに開発された耕地  新田は、町のほぼ中央部に位置している。新田とは、古村に対して新たに開発された耕地。戦国期以降耕地の開発が進み、古村の耕地拡大による切添新田、持添新田、新たに村の成立をみる村立新田がある。特に江戸中期以降急激な増加をみて地名として残る例が多い。  貞享4年(1687)改の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に土井古賀村とあり、その小村に新田村が記録されている。宝暦郷村帳...

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