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「東与賀町」「建造物」「学校」は6件登録されています。

  • やっすん学校

    当時やっすん学校の在った場所は、住吉・石丸卯助の宅地がその跡である。「やっすん」という名称は、現在の山田政太郎の父親の名前であるらしく、指導者はこの住吉に居住した故野田甚三郎先生(後に興文小学校長)であった。ここに学んだ子弟達は少人数であったが、勉強に励み全員が興文小学校開校と共に入学したらしい。 石丸卯助の妻清千代は、やっすん学校の外観につき次のように説明した。 この石丸家は代々が士族で庄屋を...

  • 興文塾

    現在下飯盛公民館の北側にある江原氏宅付近で、その跡は全くない。古老の話によると、当時としては珍しい瓦ぶきの寺子屋で、塾長は富吉源太夫であった。既に故人の福岡長三郎先生や嘉村達次郎(陸軍少将)等の少年時代は、この塾で懸命に勉学したそうである。わが国の学制発布前の私塾で、東与賀村内ではこの外にも住吉や中飯盛・上町・今町・船津等の寺院にも開設されて、思い思いに少年達の勉学指導がなされていた。 それが明...

  • 教科書

    1.高等小学国史(大正13年)2.修身教科書(明治18年)3.朝鮮地理歴史(明治43年)4.新選農業書 5.増補算法指南大全(嘉永7年)6.数学3千題(明治12年)7.小学尋常科筆算書(明治20年) その他諸書有り

  • 実久(上町)分教場

    本校の興文小学校が遠距離だったために、実久(上町)分教場が、明治22年設置された。通称を「実久分校」といい、その位置は現在の上町妙福寺の西南部で社頭氏宅のすぐ南側にあった。分校の面積は約5畝歩で教室は1棟の平屋建のかわらぶきで二教室と廊下である。教室の西側に続いて質素な職員室兼小使室の付属建物があった。この分教場の門札は、当時船津の医師故久納周甫が「実久分教場」と筆太に浄書したという伝承がある。 こ...

  • 搦の寺子屋

    搦の村落にも寺子屋があった。場所は現在の田中氏宅の西隣りで、海苔の乾燥小屋、これが昔の塾であった。教師はその当時仁戸田(にえだ)勝次(享)先生で、教えを受けたのは田中惣三郎・田中和吉等である。主に漢字や片仮名の書き方を習い、慶応時代(1865〜1868)が一番盛んであったらしい。 この塾のお蔭で村落内は勿論東与賀村内の子供たちは仲間意識が強くかつ親密であった。当時八田江を挟んで搦と川向こうの広江の子ども同...

  • 興文小学校発祥の地

    東与賀小・中学校の元祖は興文小学校であるが、その発祥の地は現在江原益雄の住宅付近にあった興文塾である。同氏の談話を総合すると、その祖父の時代で建物はコの字型40坪の平屋で木材もけやきを用い、屋根は本瓦ふきの堂々たるものだったらしい。この興文塾と住吉のやっすん学校が明治21年に合併し「尋常興文小学校」として創立発足したのである。この時興文塾の建物は大部分を当時の小学校へ移転し改造築された。その一部は...

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