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「川副町」「人物」「人物」は16件登録されています。

  • 龍造寺隆信

    (1529−1584)  鹿江の威徳寺には龍造寺隆信が使った槍、陣太鼓や肖像画があり、早津江の志賀神社には隆信が使った軍旗が古くからある。また新しく犬井道戸ヶ里先のアカシドウには隆信の石像も建った。戦国時代の英雄であった龍造寺隆信と川副町の因縁は深い。  龍造寺の先祖は藤原鎌足という。その子孫の藤原季喜が源為朝に従って九州に西下し、小津郷(現在の佐賀市)の龍造寺村に住んで龍造寺の姓を名乗った。この季喜から15...

  • 園田二郎兵衛

     犬井道の海童神社の境内西南隅に、辻演年と並んで園田二郎兵衛(むかしは薗田と書いた)の記念碑が建っている。園田二郎兵衛の記念碑は明治30年代、最初は古くから園田一族の漁師たちが住んでいた田中の西北端に建てたものを、昭和時代になって海童神社に移したものである。  園田二郎兵衛は、戦国時代の天文22年(1552)7月25日、筑後の柳川近く、一木村に蟄居中の龍造寺隆信が、再挙を企てて佐賀城を奪還しょうと、鹿江遠江守...

  • 武富太郎兵衛

     大詫間の島を初めて50町歩干拓した人が佐賀城下白山町の武屋こと、武富太郎兵衛であった。正保、慶安時代と想像されるからいまから三百二、三十年前の人だろう。むかしから有明海中には筑後川下流に潮がひくと、いろいろの「津」といった浅瀬ができたが、慶長時代に新しくできた松枝沖の「津」の所属領有について、佐賀藩と柳川の立花藩が永く争った結果、やっと正保元年(1644)、佐賀領と決定したのである。  その後、白山武...

  • 古賀精里

    (1750-1817)  「寛政の三博士」、また「寛政の三助」といわれた学者がいた。柴野栗山(彦輔)、尾藤二洲(良助)と佐賀出身の古賀精里(弥助)の3人がこれであった。古賀精里は一般に佐賀城下の精町(現在の与賀町精小路)生まれとされているが、古賀精里が寛政12年、幕府に提出した家系図によると、「寛延三年(一七五〇)庚午十月廿日、肥前国西古賀村に而出生」と書いてある。(西村謙三編著『古賀穀堂先生小伝』)  この西古賀の...

  • 弥富元右衛門

     早津江の「金善」といわれた屋号の弥富家は、古く鍋島藩政時代から200年も続いた佐賀屈指の富豪であった。『鍋島直正公伝』の第五編の「海軍費利殖と長崎貿易商の競起」の項目に次のことが書いてある。  「野中(元右衛門、烏犀圓本舗) と共に 仏国に渡航したる深川長右衛門は、外貌遲鈍なるがごときも、内に詳審機敏なる商才を具し、因て用達商弥富元右衛門に後援せられて長崎に雑貨貿易を始めたり。弥富は諸富津に拠りて...

  • 佐野常民

     (1822-1902) 佐野常民は、川副町が生んだ最も偉大な人物といってもよかろう。日本海軍の勃興期に力をつくし、また博覧会によって殖産興業の発展に寄与したり、貧窮の画家を助けては美術の振興を奨励したり、更に最大の功績としては明治10年の西南の役に博愛社をつくって敵味方の負傷者を救済して日本赤十字社の基礎を築いた。これらの功績によって佐野常民は正二位伯爵、旭日菊花大綬章の栄冠を得たのである。佐野が生まれ...

  • 八並蓼川

    (1819-1883)  八並蓼川(通称は次郎助、諱は行)は川副町出身者ではないが、藩政末期の4年間、川副上、東、下三郷と与賀二郷を支配した代官であった。佐賀藩が旧制の大庄屋を廃止して、上佐嘉、与賀、神埼、三根、養父、白石(現在の北茂安町にある)、横辺田(大町町)、皿山(有田)に代官所を新設したのは8代藩主鍋島治茂の寛政10年(1798) であったが、この2年後の寛政12年、川副三郷に与賀二郷を含めて三重に代官所を設置した。...

  • 辻演年

    (1819-1896)  川副町犬井道の海童神社境内に、園田二郎兵衛の記命碑と並んで、辻演年の記念碑が建っている。辻演年は文政2年(1819)東与賀村で佐賀藩士の家に生まれ通称を忠六といったが、川副町地先の干拓工事にも不朽の功績を残した恩人であった。郷土の歴史的人物として忘るべからざる存在だろう。辻演年は佐賀藩の搦方役人として弘化3年(1846)、犬井道地先の別段搦の干拓工事に采配を振って以来、明治21年同じく犬井道地先...

  • 石井貞興

    (1840-1874)  石井貞興は天保11年(1840)3月、佐賀郡広江村で、佐賀藩士櫛山弥左衛門の長男に生まれた。幼名が乙次、大作、長じて竹之助といった。本家石井忠克の家を継いだため石井姓を名乗り、櫛山家は次弟の叙臣が継ぐことになったのである。少年時代は枝吉神陽の塾に入ったが、後は駄賃小路にあった石井松堂の純粋社で経史を学んだ。武技の鍛練にも熱心であったが、特に槍術と馬術がうまかったという。明治維新の戊辰戦争...

  • 香月経五郎

    (1849-1874)  明治7年の佐賀戦争では、江藤新平や島義勇など優れた人材を佐賀は失ったが、特に惜しまれたのは明治初年に3年も4年も欧米に留学した新知識であり、また年も数えの27歳と26歳という、山中一郎と香月経五郎が斬罪となったことであった。このうち香月経五郎は嘉永2年(1849)当時の川副下郷早津江村1番地で、佐賀藩士香月三之允の長男に生まれた。幼少の頃は愚鈍のため、周囲のものがフーケモンといって馬鹿者扱いを...

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