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「川副町」「民俗・芸能・習俗」「行事」は31件登録されています。

  • 芋名月

     8月15日夜は芋名月といって、男子13歳の者の運試しを行い、当夜の明曇雨によって一生の吉凶を占った。(『沿革誌』)

  • 豆名月

     9月15日夜は豆名月といって、女子15歳の者は当夜の明曇雨によって一生の運試しをし、一生の吉凶を占った。また、女子は薬袋を縫うことが恒例であった。(『沿革誌』)

  • アンコウ籠り

     広江のアンコウ網漁は、島原や朝鮮半島付近にまで出かけ、エビやタチを捕る漁で、アンコウ仲間が30軒程あった。8月の盆すぎから11月上旬にかけてが漁期で、1つの漁期に10日間程出漁し、漁を終えると1週間程のカラマを利用して帰港し、出船の前の晩にお宮にこもった。また、女性はアンコウ漁で出ているときには、大漁と安全を願ってお宮でおこもりをしていた。

  • ゲンシキまつり

     広江にはゲンシキ網漁をする者もいた。ゲンシキ網漁は、ホーキ網を使い、車エビ・白エビなどエビ専門の漁であった。  9月頃にゲンシキ仲間(40隻程あった)で広場に小屋を作り、家からタタミ1枚をかついで集まり飲食した。祭りの準備は、モトカタ(元方)を「バンチョウワタシ(番長渡し)」で決めておいて、そのモトカタが中心となった。

  • ウウマツリ

     氏神の秋祭りは、浮立が奉納される。ほとんどの神社が祭田をもち、その祭田の収穫によって運営される。  犬井道地区では、「マツイメン (祭り免)」 という田があって15人程で耕作し、その収穫の一部を神社にあげ、残りで当番の家に集まって飲食をし、浮立を申し受けた。もとは、一搦の配当の残りの一部をマツメインとして神社にあげていたという。  広江は4組に分かれるが、各組7畝程の祭田をもち、漁師の組では農家に耕...

  • お日待ち

     伊勢講仲間で催すのがほとんどのようである。地区により若干異なるが、餅米を1升ずつ持ち寄って餅をつき、10月14日の夜には当番の家で精進料理などで飲食し夜を徹した。  翌15日の早朝に、日の出がよく見える場所に鏡餅、酒、魚等の供物を並べ、日の出を拝んだ。

  • 大黒祭り

     「子大黒さん」などともいわれ、12月の子の日に、大黒柱やナカエ(茶の間)の神棚にあげている大黒像をおろし、ほこりを払って座敷に飾る。昭和初期頃まで盛んに催されていたようであるが、その内客は次のようである。 ○「子の日のぼた餅」を作る。この日は「大黒さんが計算を間違うといけないので、金は一銭も出さない」といい、床の間の前に大黒をおろし、算盤・股大根・煮物・頭付きの魚を添える。(米納津) ○カブ大根・二股...

  • 権現講

     肥前の英彦山権現に対する信仰は厚く、江戸時代に鍋島氏が建造寄進したものには、上宮・中宮・下宮の神社をはじめ、銅鳥居などがあって、上宮の拝殿は佐賀の方に向かって立っているともいわれる。このため一般庶民の英彦山参拝の習慣はヒコサンミャーイ(英彦山詣り)として、佐賀平野の各地に根強く残っている。春先の農閑期を利用し講仲間の代表2、3名が、吉井・田主丸・甘木付近と小石原に宿泊し、英彦山では知り合いの坊に...

  • 庚申講

     60年あるいは60日ごとにめぐりくる庚申の夜には、三尸(さんし)の虫が睡眠中の身体から脱け出て天に昇り、天帝にその人の罪過を告げるから生命を奪われるという庚申信仰は、もと道教の説であった。したがってこの夜は、庚申講・庚申待などを組織し、夜を徹して語りあい酒食の宴を催す風があった。一般には室町時代に普及し、本県においても江戸時代になると各地に講が結成されたことが、各地に建立されている庚申塔によって...

  • 八天講

     塩田町の唐泉山八天社を信仰する講集団である。八天社は火の神・火伏せの神として厚く信仰され、護符等をうけて荒神に供えたり荒神柱に張りつける家は多い。  また、唐泉山の姿が独特な富士山型をなすため古くから海上交通の目印となり、有明海沿岸漁家や半農半漁民にとって海上守護神とみられたようである。このような八天信仰は一部では講を成立させ、船津・広江・早津江など有明海に面する漁村などを中心に八天講が結成さ...