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「大和町」「人物」「人物」は10件登録されています。

  • 成富兵庫茂安の功績

    封建社会の基盤は農業であったので、幕府を始めとして大名も武士も農業を大切にし、水利事業等には特に力を注ぎ、今日までその恩恵を受けているものも沢山ある。その1つに石井樋がある。佐賀藩では成富兵庫茂安が中心となって治水土木の事業を完成した。茂安は永禄3年(1560)に鍋島町増田に生まれ、幼名を千代師丸又は新九郎と言い、のち信安、中ごろ十右衛門といった。茂安が11歳の時、大友勢8万といわれる大軍がわずか数1000...

  • 深江信溪

     佐賀藩士深江信溪は元和6年(1620)神埼に生まれ、名を安玄、通称平兵衛杢助、入道して信溪と号した。鍋島清久の長男清泰の曽孫に当たる初代三反田代官茂利の二男で、長男宗英は2代三反田代官を継ぎ、信溪は後に深江氏の養子となった。

  • 石田一鼎と下田

     一鼎は名を宣之と言い通称安左衛門と称した。平氏の流れを汲む家柄で、三浦為久が木曽義仲征討に加わって戦功を立て、壱岐国石田郡石田邑を領して石田次郎又は壱岐判官といったのが石田氏を名乗った初めである。為久の子孫為奉が肥前国松浦に移り住み、その子孫為宣は龍造寺隆信の殊遇を受け、後に佐賀の多布施に住んだ。一鼎は寛永6年(1629)ここで生まれた。  幼名を兵三郎と称し、学問が好きで15、6歳のころ仏教・儒教の...

  • 山本常朝と大小隈

     常朝は佐賀藩士山本神右衛門重澄70歳の時の子で、万治2年(1659)6月11日佐賀城下片田江横小路に生まれた。9歳で2代藩主光茂の御側付小僧となり、延宝7年(1679)元服して権之允と改称し、その後御書物役に進んだ。20歳のころから仏道に志し、当時佐賀藩第一の碩学石田一鼎を下田の閑居に訪れて薫陶を受け、更に松瀬の華蔵庵で湛然和尚の教えを受けた。元禄13年(1700)5月光茂が死んだのでその寵遇に感動していた常朝は追腹...

  • 安住勘助と芦刈水道

     安住勘助は「道古」という名で知られ、今でも土地の人は「どうこさん」といっている。小城藩士でその先祖は安住石見守秀能といい、秀能の妻の於レンは鍋島直茂の姉に当たる人である。勘助の父清右衛門は小城藩祖元茂に仕え、佐保川島郷池上村に住んでいて、田36町に禄高60石をもらっていた。  勘助は小城2代藩主直能の時、芦刈方面数千石分が水利に乏しく耕作に困っている様子を見て、何とかして川上川の水を引き入れようと...

  • 横尾紫洋(志士)

     尼寺の春日小学校西側長谷寺に横尾紫洋の墓があり、  「横尾紫洋先生之墓、先生名は道符字は孟篆姓横尾氏號紫洋通称文輔、享保十九年季甲寅十月十日生、天明四年甲辰十月二十一日卒、春穐五十有一」  と彫ってある。紫洋は川久保にいた神代氏の家臣で、通称を文輔と呼び、磊落で気節に富んだ勤王家であった。幼少のころ、春日山高城寺の住職について読書の道を学び、後に長門の国の瀧鶴台の門に入って勉学し、立派な儒者と...

  • 今泉蟹守(歌人)

     梅のやま 月たちのぼれ 河上の やなせに落つる 鮎の数見む この歌は佐賀が生んだ歌人今泉蟹守が川上峡をよんだもので傑作の一つである。 蟹守は文政元年(1818)に佐賀市与賀町に生まれ、名を則才、通称を隼太後に御蒼生と改めた。 又鞆の屋、黎樹園、朏隣居等の別号があり、和漢の学に通じ、歌道には特に秀で佐賀における歌仙と称せられた。蟹守は勤王の志が厚く「勤王百首」を詠んで、その燃ゆるがごとき精神を歌に托し...

  • 永山貞武(国学者)

     名は貞武、一名は普、字は徳夫通称を十兵衛と称し、後に寛助と改め宇亭又は二水と号した。幼少のころより藩学で勉強したが、その努力振りは他に比べる者がなかったといわれている。22歳の時に肥後の国に行き、辛島塩井の塾に入って5年間勉学に努力し、立派な学者になって佐賀へ帰ってきた。それから間もなく「国学指南」に任ぜられ、文政12年(1829)には外小姓兼侍講に任ぜられたがその時28歳であった。その後閑叟公が藩主と...

  • 大木喬任と山屋敷

     大和町大字久池井字春日の浦田に山屋敷という所がある。明治維新の大功労者大木喬任が少壮のころ公務の余暇あるごとにここに来て静かに勉学したと言われている。当時の家屋は8畳2間で、1間は南方に一段高く突出ており、奥に6畳1間と物置があり、玄関わきに炊事場があるという間取りであった。周囲は竹やぶになっていて、ここから眺めると佐賀市はもとより有明海方面から遠く多良の山々も望むことができるという絶景の地である...

  • 古川松根

     春日御墓所は正面に閑叟公と直大公の墓が並び、その後方に小さな同形の墓があり、これには「古川與一松根之墓 明治四年辛未正月二十一日卒」と刻み込まれている。その背面には辞世と横書きされた下に、   君ひとり のこしまつりて ふる里へ かへる心の あらばこそあらめ   今はとて いそぐや終の旅衣 たちおくるべき わが身ならねば とあり、この主を思う純忠の心がうかがえる。 松根はこの句を残して殉死したの...

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