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「大和町」「遺跡・史跡・跡地」「遺跡・史跡」は16件登録されています。

  • 国分尼寺

    現国分僧寺前の十字路より西へ約300m、大昌寺跡という所がある。これが国分尼寺跡と考えられている。春日小学校東側の道を今もなお大昌寺馬場と呼んでいるが、その道の北端に当たる所に正覚寺の石門の建った家がある。ここが尼寺南入口と見られ、この地域に1坪(1町2反)余の寺域を考える事は妥当と思われる。国分僧寺のように4坪(4町8反)の広さはなかったようである。正式の名前は法華滅罪之寺といって尼僧約 10人が住んでい...

  • 石井樋

    石井樋は、嘉瀬川から多布施川へ水を分ける取水施設で、治水の神様といわれた成富兵庫茂安の指導により、元和年間(1615~1624)に造られたとされる。取り入れられた水は佐賀城下の生活用水や農業用水として使われ、石井樋には、土砂の混じった川の水を象の鼻、天狗の鼻など石で作られた施設を組み合わせて土砂を沈め、きれいな水にする工夫がされたり、流域の水害を防ぐはたらきも持ちあわせている。 しかし、昭和35年(1960)...

  • 久留間遺跡

    出土品=石器類、土器類、種子類等 この遺跡は「久留間カミ塚遺跡」という。「カミ塚」というのは、弥生式土器のカメなどがたくさん出たことから土地の人が「カメ塚」を「カミ塚」に転化しただろうといわれている。 大和町で学術的発掘調査をされた最初の遺跡である。昭和24年(1949)ジュディス台風によって、東平川の堤防が決壊しようとしたので、それを補強しようとして、耕作地から土を掘り起こした時、多数の土器が出土し...

  • 前隈山古墳

    山頂に築造され、封土上には葺石が見られ、内部主体は竪穴式石室といわれるがはっきりしない。

  • 水上古墳

    現在密柑畑になってその姿はないが、丘陵の先端に築かれ、前方部と後円部に石室がそれぞれあって、西側に羨道が設けられていた。封土上には葦石や円筒埴輪があり、土師器や須恵器の破片が散布していた。

  • 男女神社西古墳

    丘陵の屋根に築かれたもので、町内では最も小さいものである。内部主体や副葬品は明らかでなく、葺石や埴輪も発見されていない。

  • 風楽寺古墳

    池上地区の東の水田中にあり、現在は共同墓地になっている。

  • 森の上古墳

    野口礫石の敷山神社跡の南にあり、昭和18年(1943)に発見された。封土ははっきりしないが、箱式石棺が約1.2mの高さに盛られた18m平方の畠の中から発見された。石棺は南北の方向に置かれ、長さ2m、幅54㎝、高さ50㎝で、中に枕石が南と北に置かれている。北枕には男性と見られる大形人骨と、琴柱形(琴の絃を支える琴柱に似た形)石製品及び竹櫛8、南枕には女性と見られる小形人骨と国内製の素縁帯変形文鏡と竹櫛8が発見され、そ...

  • 高畠古墳

    大正11年(1922)に発見されたが今はなくなっている。封土の径約20m、高さ約2.4mの円墳で、内部主体は小口積みの竪穴式石室である。主軸の方向はほぼ東西で、その中に長さ1.8m、幅75㎝、深さ84㎝ぐらいの箱式石棺があった。石棺の内部には両方とも東枕にした男女の仰臥伸展葬(おおむいて足を伸ばした)の形で合葬されており男が北側、女が南側であった。副葬品としては鹿角製刀装の直刀、石突5、登龍形剣、蕨手刀、刀子、鉄鏃5...

  • 小隈古墳

    小隈山古墳の西南約80mの所にあって、地区の人は「マル山」と呼んでいた。昭和33年(1958)土取り工事中に発見され、調査されたもので今はない。封土の径18m、高さは北2.7m、南2mで、封土上には葺石が認められた。内部主体は封土のほぼ中央に4基の箱式石棺が不規則に置かれていたが、2基はすでに破壊されていた。石棺はいずれも2−3枚の板石を立てて側壁とし、前後は1枚の石をそれぞれ立てて囲み、上を数枚の板石でおおっている...

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