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「大和町」「建造物」「橋・井樋等」は5件登録されています。

  • 尼寺林と洪水敷

     川上川では洪水の時に、貧弱な堤防が決壊しないようにするため随所に「ノコシ」が設けられ、この「ノコシ」を越えて外側に放流されるようにして水勢を減殺するように計画されていた。「ノコシ」の底部は頑丈な石畳にしてあり、激しい水流のために決壊しないよう徹底的に補強設備を施し、上部は土俵を積み洪水の時の放流口とした。しかも乗り越した河水や土砂が付近の耕地を荒さないよう徐々に氾濫させ、水勢を減殺するように...

  • 官人橋

     明治13年(1880)7月「長崎県より河上川筋二付而之問答書」の中に「河上宿の上、桜馬場の辺より井樋口下まで河中に細長き島有之、支河の姿に見たり、成富創業の時はこの島はなかりしともいふ。都渡城宿よりこの島に仮板橋を架し(旧暦九月より五月まで之をかく)、この島より桜馬場の南詰にかけたる長短一聯の橋を勧進橋といふ。この橋も寛文のころまでは今の場所より数十間水上に、都渡城宿へ桜馬場より直ちに土橋を架したり...

  • 名護屋橋

     豊臣秀吉が征韓のため、この地を通過したのが文禄元年(1592)である。その日はあいにくの大雨で、川上川は氾濫し渡河に困難を極めた。鍋島直茂は尼寺宿で秀吉の軍をねぎらい、急いで船橋を作り秀吉の軍を渡した。以来名護屋橋と称するようになったと「普聞書」に述べている。  従来渡船場であったが、明治17年(1884)9月、その筋の許可を得て尼寺村と平野村協同の賃取橋を架設した。その時の標柱が平野側のは平野の白山妙...

  • 眼鏡橋

    寛永11年(1634)支那の僧如定が長崎在住の折り、支那式拱橋の架橋を伝えたといわれている。三反田の眼鏡橋はその工法によって出来たもので、明治27年(1894)松梅村長 野田俊吾の時代に竣工した。当時の工法としては画期的なものといえよう。この橋を渡って行くのが昔の旧道である。又、八反原の国道323号線にも眼鏡橋がある。

  • 渡瀬橋(平田橋)

    この橋は川上地区から佐賀市へ行く近道であるが、昭和初期まで渡し賃を取っていた。(昭和8年ごろ3銭)、ここに掲げた渡し賃標板は江戸末期から明治に至るころのものと思われる。(佐賀市教育委員会所蔵)

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