梅林庵義祭同盟と梅林庵

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梅林庵義祭同盟と梅林庵

■所在地佐賀市本庄町大字本庄71
■年代近世
■登録ID731

文化、文政のころ、弘道館の教官に枝吉種彰(南濠)(1789〜1859)がいた。
文武両道に秀で国学、古典研究に励んだ。その長子が枝吉経種(神陽)であり、次子枝吉二郎は副島家の養子となり、これが後の副島種臣である。
南濠は古典研究、史学研究にもとづき「日本一君論」を主張し尊王論を唱えた。
長子神陽は、文政5年(1822)5月24日に生れ、文久3年(1863)8月14日に没した。
天保11年に弘道館に学び、父の「日本一君論」を継承し、同13年21歳のとき、江戸の昌平黌に遊学し、のち嘉永元年(1848)拡張になった弘道館に帰り、草場佩川、武富圮南(いなん)、大園梅屋、古賀素堂等とともに教官となった。
ここで父南濠から受け継いだ尊王論を唱道して多くの弟子を得た。
弘道館史学派と呼ばれた人々の中には江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣、島義勇、中野方蔵らがいた。
嘉永3年5月神陽のもとにこれら史学派の書生たちが集まり、義祭同盟を結んだのである。
嘉永3年5月25日佐賀郡西河内村の梅林庵に楠木正成父子の桜井の駅訣別像を安置し、これを祀る同盟であった。
この木像は寛文3年(1663)年深江平兵衛信渓(シンケイ)が京都の仏師法橋宗南に依頼して完成し、佐賀郡北原村(大和町)の永明寺に祀り、のち文化13年(1816)高傳寺の楼上に放置されていたものを発見、修復したと伝えられているもので、安政元年(1854)同木像は白山町八幡宮地内に安置された。

出典:かたりべの里本荘西分P.152本荘の歴史P.47

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