佐賀の南蛮寺(キリスト教会)

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佐賀の南蛮寺(キリスト教会)

■所在地佐賀市
■年代近世
■登録ID469

 慶長年間の城下絵図の中に、材木町の北方、長徳寺と堀をへだてて、柳町の東部一帯に東西47間、南北43間の広大な面積に南蛮寺が記載されてはいるが、今はその面影を偲ぶ何物も見当たらない。慶長11年(1606)にドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が佐賀の領地内で教会を建てる許可を、佐賀の大名勝茂に申し出た。このとき、領内に教会を建てることを許したが、その前にガッコウと呼ばれる有名な僧と相談しなければならないと言った。 このガッコウと呼ばれた人物は、当時徳川家康の顧問で、鍋島家へも大きな影響力を持っていた小城の円光寺生まれの元佶和尚であった。この僧の協力で教会を設立することができたが、この元佶和尚の寛大な態度にデ・メーナ神父も非常に驚くとともに感謝したといわれている。当時仏教とキリスト教の対立が激しい時代だけにこのような形で教会設立の許可がなされた例は、佐賀以外に日本のどこにもなかったことであるといわれた。 デ・メーナ神父は早速慶長12年(1607)に鹿島の浜町に教会と修道院を建てた。また翌年鹿島に別の教会を建設した。柳町には、慶長13年(1608)に建てられた。 またドミニコ会の神父たちが浜町に教会を建てた頃、イエズス会の神父たちは嬉野町の不動山に教会を建設した。このほか白石町の須古にも建てられた。ところで佐賀の大名は、キリシタンに対し、好意はもっていたが、徳川家康が慶長17年(1612)に、第1回のキリシタン禁教令を出し、つづいて慶長19年(1614)に出されたものは、今までにない厳しいものであったし、その後秀忠、また特に家光はますます徹底的に力を入れた。 幕府の度重ねての禁教の命に従い、佐賀で教会の神父を追放したのは、慶長18年(1613)10月であったので佐賀での布教活動は、僅かに5年間であった。 佐賀の南蛮寺教会の姿を今に見ることはできないが、神戸市立美術館所蔵で、狩野永徳の弟宗秀の筆になる扇型の洛中洛外図に書かれているものを見て想像するしかないのである。

出典:ふるさと循誘(P.63)