多布施反射炉跡 | さがの歴史・文化お宝帳

多布施反射炉跡

所在地 佐賀市伊勢町
登録ID 451

出典資料から記載

 佐賀市伊勢町㈱ミゾタ北側敷地一帯を言う。嘉永6年(1853)6月、米艦が浦賀に来航し通商を迫ったので、徳川幕府では大いにおどろき、日本の国防について種々評議の上幕府の阿部閣老より、同年9月3日に佐賀鍋島藩に命令書が下された。その内容は、鉄製36ポンドカノン(大砲)25門、24ポンドカノン(大砲)25門、及びそれを乗せる車台50台を注文したものである。
 そこで佐賀藩では長瀬町の築地(ついぢ)の反射炉だけでは狭くてとうてい間に合わぬため、さらに多布施川畔に大規模な反射炉を築き、鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた。
 何分大きな大砲なので何度も失敗を重ねてやっと安政2年大砲25門を鋳成した。ただちに大坂奉行の廻した順成丸、妙法丸の2隻(せき)に16門を積載して輸送したが途中7月23日紀州灘で暴風雨に遭い順成丸は沈没し妙法丸と乗組員とは勝浦に漂着した。
 そこで積み残りの大砲と、その後出来上がった大砲を江戸幕府より廻された昌平丸に積んで輸送し、品川台場に据付けた。佐賀人として誇るべきことであろう。
出典:日新読本(P.216)

出典資料から記載

【多布施反射炉跡】
 嘉永6年(1853)に着工された多布施反射炉は、築地反射炉(1850)に続いて佐賀藩で2番目に構築された反射炉である。主に、ペリー来航後に築造された品川台場に据えるために幕府が注文した鉄製大砲の鋳造を行なった大正15年(1925)にも発掘が行なわれ、反射炉の基礎の一部が確認されたという記録があり、その場所は株式会社ミゾタ敷地の北側とされている。平成22年1月に行なわれた発掘調査では、この大正期の発掘跡を確認するとともに、東西に二つ並んでいたとされる多布施反射炉本体の西側基礎と、鋳型を据えるための鋳坪を確認し、この場所に多布施反射炉が存在したことが明らかとなった。

出典:文化振興課前田達男氏提供

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