川久保焼 窯跡

  1. 遺跡・跡地
  2. 跡地
  3. 検索結果
  4. 川久保焼 窯跡

川久保焼 窯跡

■所在地佐賀市久保泉町
■年代近世
■登録ID2931

 川久保の両県道交差点を東へ1粁、左手の小高い山を皿山という。西が千葉胤正の屋形山、東が古墳のある大塚山で、中央の皿山の北斜面の密柑畑の中に『川久保焼窯跡』の標柱が見える。
 傍らに3m角の窯壁が見え、下にも二段位ある登り窯である。窯の底部は作物があって見られないが、付近から半磁器の皿や碗それに窯の中で使うトチン、変形不合格品の破片が転がっている。
 灰色地や褐色地に上薬=釉がかかったもの・かからないもの、灰色釉・飴色釉・ヒビ焼風・赤絵のあるものなどが見受けられるが、作は悪くない。
 大塚山北端・屋形山東斜面にも窯の遺構がある。
 この窯は、元禄の初め1690年頃、神代6代邑主直長(鍋島勝茂の十男)が、韓人陶工に築かせたと伝えるが、朝鮮侵攻から100年経っているので、末えい=子孫だろうか。また、ここで長くは焼いていないようなのは、製磁に向かない土だったのか、或は大川内へ移動させられたのか。いずれにしても散逸する前に早く本調査を期待する。
 西原お茶屋跡から、お茶屋火災直後、焼物の鋳込型数種が発見された
(川原末四郎氏提供)。また近くから薄青磁の香炉や菊形の皿が出土した。窯跡は探せなかったがこの近くに窯が築かれていた、と伝える。
 名付けて『御茶屋焼』又は『お庭焼』と呼ぶ。神代15代邑主直宝が、明治の初期焼いたという。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.50〜51