八ツ溝古戦場

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八ツ溝古戦場

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■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID2930

 神代勝利の子、長良は、永禄8年(1565)3月に父を亡くし、4月には子供2人の急逝にあい、悲嘆にくれていた。
 たまたま、千布友貞の土生島青土の砦にいた4月の23日に、龍造寺隆信の長臣納富信景がやって来て、悔み述べると共に縁組の復活の話を持ち出し、隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出て帰った。
 ところが、その日の夜には納富の率いる大軍が、手薄な千布砦を包囲し攻め込んで来た。長良は不意をつかれ、家臣古川佐渡守嫡子新四郎等数名でやっと囲を破って脱出し、山越えして筑前の戸坂に身を隠した。
これを「千布崩れ」という。
 翌年、長良は再び山内に迎えられたが、如何にして去年の仇を晴らそうかと家臣の古川と計り、干ばつなのを幸い、納富の領地へ流れる水を八ツ溝で堰き止め、一滴も流さなかった。納富はこれに憤り、息子の納富治部大輔に屈強の兵を大勢つけ、5月9日堰崩しにやらせた。古川は兵を四手に分け、三手は川の近くの窪地に伏せさせ、中央の一手を農夫に装わせ八ツ溝近くで納富勢をおびき寄せさせた。納富は増増怒り、自ら陣頭に立って中央隊を攻め、遂に南原まで攻め込んだ。ここで伏兵の三手はときの声を挙げ攻め立てたが、敵もなかなかの強者ぞろい、反撃を繰り返したが、古川兄弟の槍には勝てず、治部大輔も討取られ他の将兵もことごとく討死した。この戦を「八ツ溝合戦」という。
 これで千布の恨みも晴れ、中佐賀一帯は神代が支配するようになった。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.36〜37

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