斎藤茂吉

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斎藤茂吉

■所在地佐賀市富士町
■登録ID2839

歌人 
 日本歌壇の重鎮でアララギ派の総帥一歌人斎藤茂吉(当時長崎医学専門学校教授)が、古湯温泉に滞在していたのは、大正9年(1920)9月11日から10月3日までの約3週間であった。茂吉の日記に
 「8月30日に友と二人で、佐賀県唐津市の海岸に転地療養していた。9月11日の朝、唐津を去り、1人になって、南山村古湯温泉に来た。ここへ来てから痰がだんだん減って、血の色がつかなくなった。2、3日してからはじめて「あらたま」の草稿の入っている風呂敷を広げて心しづかに少しづつ歌を整理して行った。9月30日には編輯を終えた。山中のこの浴場も僅かの間にひっそりとして行き、流れる如き月光が峽間を照らしたら、細く冷たい雨が終日降ったりした。むらがり立っていた曼珠沙華も凋んで、赭く金づいた栗が僕のいる部屋の前にも落ちたりした。山の祠の公孫樹の下には、いつしか黄色に熟した銀杏が落ちはじめて、毎朝それを拾うのを楽みにしていると、ある朝「ギナンヒロフコトナラヌ持主稲口熊蔵」という木の札が公孫樹にぶらさがっていたりした。10月3日に、すべてに感謝したき心持ちで古湯を立った」と記してある。
  うつせみの病やしなふ寂しさは
       川上川のみなもとどころ  茂吉
 この短歌は、昭和37年10月3日、川上川河畔に建立した歌碑である。当時、茂吉は、長崎医専(現長崎大学医学部)の精神病学の教授で、当時流行していたスペイン風邪が悪化して静養中の折、長崎市から唐津市へそして古湯に転地療養していた頃のことである。
 茂吉は大正9年9月11日から10月3日まで約3週間古湯に滞在し、古湯での作歌38首を残している。歌碑に刻んだ作品はその中の一首である。
 原文は原稿用紙に筆で書いてあり、それを写真に撮り引き伸ばして自然石に彫刻したもので、10月3日の除幕式には東京から輝子夫人も古賀残星も出席してくださった。
 茂吉は山形県に生まれ、東京大学医学部を卒業、歌誌「アララギ」を主宰し、多くの歌集を出版している同派の最高峰であった。

出典:富士町史下p.241〜p.246