島義勇

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■所在地佐賀市与賀町精
■登録ID2584

  文政5年(1822)〜明治7年(1874)
 佐賀藩士島市郎右衛門の子として佐賀城下精小路(現在清和高校運動場)に生まれる。通称団右衛門、字は國華、樂齊と号した。島家は代々鍋島家に仕える禄高切米25石の家柄であった。8歳で藩校弘道館に入学。弘道館で勉強しながら、一方で従兄の枝吉神陽から皇漢学を学び、卒業後諸国を遊学したとき、水戸の藤田東湖からも教えを受けている。
 嘉永3年(1850)義祭同盟が楠公父子像前で結成、発会式に出席した。安政3年(1856)藩主鍋島直正の命により、蝦夷、樺太を2年間にわたり巡視、明治2年(1869)蝦夷開拓使首席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。のち侍従・秋田県権令となったが、政府の中央専制主義に反対し、官を辞めた。
 征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて反政府運動を起こし、江藤新平の征韓党とともに明治7年(1874)2月佐賀の役を起こした。しかし敗れて江藤新平とともに処刑された。53歳であった。
 島義勇の功績は、その偉大な北海道開拓の精神と共に、今なお北海道の人々に語りつがれている。札幌市庁舎には、島義勇の銅像、札幌の円山公園には、北海道開拓の父として「島判官紀功碑」が建てられている。墓は、佐賀市金立町の来迎寺にある。

※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。
※写真は佐賀城公園の島義勇之像

出典:日新読本p.179

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