石田一鼎

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石田一鼎

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■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2578

  寛永6年(1629)〜元禄6年(1693)
 石田平左衛門実之の嫡男として、佐賀城下多布施(現在の多布施1丁目)に生まれた。幼名兵三郎、通称神左衛門のち安左衛門と改めた。神儒仏三道に通じ、17歳にして藩主鍋島勝茂に近侍し、29歳の時2代藩主光茂のお側相談役としても仕えた。
 寛文2年(1662)一鼎34歳のとき、光茂の怒りを買い、禄を召し上げられ小城藩にお預けの身となり、西松浦郡山代郷に幽閉された。七年後許されて佐賀郡平野に帰り、のち同郡下田(大和町梅野)に閑居し、この時下田處土と号した。延宝5年(1677)剃髪して一鼎と号した。
 葉隠の口述者山本常朝が一鼎と交わりがあったのは、一鼎が、すでに50の坂を越えた下田處土と号していたころと思われる。湛然和尚と共に、山本常朝にとって人間形成の上に大きな影響を与えた。
 65歳で没した一鼎の墓は、閑居の地、下田と佐賀市与賀町の水月寺にある。水月寺は、石田家累代の菩提寺である。下田祠堂の墓には、梅山一鼎處士、水月寺の墓には、碑面仏像のかたわら「無得軒梅山一鼎願渓愚璞庵主」としるされ、どちらも妻室円室貞固大姉と法名が並び刻まれている。
 著書に「要鑑抄」「日峯公(鍋島直茂)御壁書二十一箇条註」「泰巌公(隆信)譜」などがある。

出典:日新読本p.168〜169