クリークの思い出

クリークの思い出

■所在地北川副
■登録ID2400

化学肥料のなかった時代は、泥土は地力増進のためには貴重なものであった。各年毎に、裏作、休耕田、地力維持のための泥土揚げに力を入れていた。泥土は、「ブイ」といった荷負道具で、田圃に配られていた。
石井樋からの水が止まり「干落ち」となって泥土揚げが始まると、学校から一目散に走って帰り、勉強道具を投げだし、手網とびくを持って、泥土揚に行き、泥んこになって夢中で魚を捕った楽しい思い出が、今でも忘れられない。
そのころの田舎の蛋白源は、鶏と川魚が主なものであった。
鯉、鮒、鰻、鯰、ドンコー、ドジョー、はや、それから亀もよく捕れた。泥土揚げでとれた魚は、出役の人数で、クジを引いて分けられていた。その鮒は、串に差して焼いたものを吊るして保存しおかずにしていた。
夏には、よく鮒釣りをした。棚地で、米をといだり、食器や釜を洗うので、米粒や飯粒が落ちるので、鮒が集まり、夕方はよく釣れていた。昼には、川岸に浮いている鯉をホコで突いて取った。また竹で作ったドーケで、底に泥と米ぬかを塗って川岸に沈めて、朝と夕方上げると、よく鯉や鮒が入っていた。夏休みの一つの楽しみであった。
また、朝から夕方まで泳いだり、「ヤモ(とんぼ)合わせ」という遊びに夢中で時を忘れて、「もっと早く帰らんばー」と、度々母からしかられた。
ほかに、堀のあちこちに、アバ(足場小屋)を作り、梅雨時など、四っ手網で魚を捕った。秋から冬にかけ、投げ針にドジョーや雨蛙を餌に付けて、夕方川にかけておくと朝には鰻や鯰がよく掛かっていた。
農閑期には、新郷の原口さんたちが、川鵜を使って漁に来られ、鵜が川に放されると、鵜に追われた魚が岸近くまで逃げてくるので、それを前かきですくって捕った。
秋になると、菱の実がよく採れる。地区では、15区くらいに区分して入札が行われていた。菱の茂り具合で、50銭から1円50銭ぐらいで入札されていた。「ハンギー」に乗って菱の実を穫り、大釜で蒸して夕涼みの番台(バンコ)で、皆で食べるのは、そのころのなによりの楽しみであった。
千代田町や久保田町は、クリークが多く菱がよくとれるので、農家の嫁たちは町まで出かけて、「菱ヤンヨー」とふれ歩いて売っていた。佐賀の夏の懐しい風物詩であった。
霜がおりる頃になると川には、川蟹やハクラ(すすき)、亀などが下ってくるので、流れの早い土橋の下に、芦(よし)ずを張り、竹で編んだ「うけ」をつけて、魚をとった。
川漁は、1年中よく行われていた。菱や(うけ)の入札の金が、地区の財源になっていた。
藩政時代の灌漑は、「カッポ」と言って、木の桶に両方から縄をつけたもので水を汲み上げていた。郡代官が巡視に来て、この様子を見て余りの重労働に驚いて、「1日に2反ぐらいの水を汲めるのか」と聞いたのに対し、「1日に8反分ぐらいの水を汲み上げる」と答えている。これを見ても昔の百姓の苦労は、並大抵ではなかったことが良く判る。
安永3年(1774)「此年以来、水車始まる」という記録が残されている。水車ができて灌水能力も上がり、大分楽になったとは言え、今から思うと、やはり重労働であった。
高い田に水を揚げるのには、2段、3段とついで揚げるので、小学校の5・6年になると、水車の前乗りをさせられて、泣く思いをしたことを覚えている。しかし、田圃に鯉を養殖してあって、だんだん大きくなった鯉が、水口に集まって来るのを見るのが、せめてもの慰めであった。
大正11年頃、今のような電力による機械灌漑が始まり、労力軽減に大いに役立ち、農業経営が非常に楽になった。農業の機械化の第一歩である。電線が張り廻らされたので危ないから凧上げが中止になった。
機械灌漑によって水車を踏む必要がなくなり、上水道の普及によって、飲料水取水の必要がなくなった。そのため、川への関心がうすくなり、農薬による汚染が進むにつれて、河川の荒廃も急速に進んで来て、用排水機能がいちじるしく低下して来た。
そして、国際情勢が変わると同時に、農業を取り巻く情勢は、きわめて厳しいものがあり、農業経営の合理化のために、農業基盤整備が急がれてきた。

出典:わが郷土北川副町の歴史P83〜85